2007 2/19

すずらん




 「銀の月と小さな花」 「革命前夜」に続く後の話になります。 
「最後のドレス」から続いた一連の最終話です。
それぞれ関連していますので
順を追って読むことをお奨めします。

Mapを参照してください。






 風が柔らかく頬を撫でる。木々は茂り、葉陰から見える空は青く晴れ渡っている。小さな教会の中庭は良く手入れされ、そこかしこに花が咲いている。人の手を借りず野に咲く花を守るように手が入っている。華やかさはないが素朴で暖かい庭。
 木の根元に腰を降ろし風と光の恵みを一身に受ける。こんな日を美しいと思えるようになったのも神の加護だろうか。
 さして広い庭でもないが細長く奥行きがあって子供が遊ぶにはちょうど良い。子供は生きる力を与えてくれる。どん底にあって死にたいと願う時でさえ、目に見えぬ小さな存在は、圧倒的な力で生きるように訴えかけてくる。
 木々の間に見え隠れする姿は少し見ないうちにまた大きくなった。少しの間に子供は成長する。その姿に負けまいと意を強くしながら、無邪気な姿をまた会う日までの糧とする。
 飽きることなくいつまでも一人遊びをする子供。友達は動物や小さな虫や花。何かを見つけ出し、そこから興味を見い出す術は子供なら誰でも持っているものなのだろうか。あまりに遠いことで、私はすっかり忘れてしまった。まるであの子には森の声が聞こえるようだ。
 うなじに暖かい腕が巻きついてくる。子供は何てよい匂いがするのだろう。
「お花を置いてきた」
 いつしか覚えた事が彼の日課になっている。中庭に続く裏の墓地。そこも彼の遊び場だ。
「そう。ありがとう」
 首に回る腕を解き、目の前に立たせ顔を見る。よく覚えておこう、あどけない顔も、甘い匂いも。今度会う時はまた大きくなっている。


 貴族の館を解雇された料理人がパリの外れに店を開いた。革命後、貴族に仕える多くの者が解雇され行き場を失った。だが人は自由を得て強くもなる。彼は今、庶民に貴族の味を提供している。人の良い料理人夫婦に雇ってもらえたのは幸運だった。昼の光を浴びて働ける幸せ。店は繁盛し遠くからも客は来る。


「これだよ。見て」
 彼は突き出した手を私に見せる。はにかんだ仕草は、いつも心にある人の姿を彷彿とさせる。手に握られているのはすずらんだった。
「わたしに? ありがとう」
 花を受け取り香りをかぐ。春を届ける白い花。
 あの人も森ですずらんを摘んできてくれた。そう、それこそ山のように。雑嚢から取り出した花はテーブルの上に折り重なった。ありったけの容器を集め、二人で活け、部屋を花咲く森にした。
 すずらんの匂いの中で抱かれた夜。ふと目覚めた目に映った細い月。銀の月、銀の光。忘れもしない光景。私にドレスを買ってくれる。金の指輪を買ってくれる。あの人はそう言った。私は贈り物をねだり、あの人を約束で縛りつけた。私の髪を触る手。あの人の髪も月の光と同じ銀色に輝いていた。


 ここは私が帰る故郷。そして愛する人の眠る場所。
 錯乱し、困り果て、疲れきっていた時に世話をしてくれた修道女。慈愛に満ちた人々の住む家。
 神を呪い、憎しみと嘆きで身が滅びそうな時、休ませてくれ、身体に気づかせてくれ、身の保ち方を教えてくれた。命はそれだけで素晴らしい。それは神が創りたもうたものだから… そう教えてもらった。
 住み込みで働いている料理人夫婦の家から数ヶ月おきに、ここに通っている。優しい夫妻から部屋をあてがってもらえ幸運だった。金を貯める助けになる。金が必要だった。小さくても清潔で明るい部屋に住みたい。食べる物も充分欲しい。冬には凍えないだけの薪と服も。欲があるのは一人ではないから。金はいるのにそれは遅々として貯まらない。働かなくてはならない。だが昔の仕事をやる気にはならなかった。たとえ飢え死にしたって戻る気はない。だが子供を飢えさせる事はできない。そしていつまでもこの教会に世話になるわけにもいかない。


 風に乗り高い声が呼んでいる。好奇心の塊はじっとしていない。すぐに姿が見えなくなる。私は立ち上がると裏庭に歩いていった。彼は庭の隅に座り込み、さかんに何かをしているところだった。木陰一面にすずらんが咲いている。すずらんの森がこんな所に… 私はそっと近づいた。
「何をしているの?」
 手元を覗き込む。彼は摘み取ったすずらんを手にした入れ物に入れようとしていた。きっと修道女の誰かに届けるつもりだろう。優しい子に育って良かった。そう思った時だった。頭の中で何かが光った。まるで私に何かを告げるように。何だろう。信号がどこから来るのか分からないまま、私は忙がしそうに動く小さな手を見つめた。
 彼が持っている入れ物に見覚えがあった。かつての客だった片足の男から貰ったお茶の入れ物だ。海の向こうの国から手に入れたというそれは、珍しい形と美しい色をしていた。
 それはどこへやった? 記憶をつなぎ合わせなければ… あるはずのない物がそこにある違和感。不安と焦燥が入り混じる。見過ごせない。何かそこに重要な意味がある。

 古い記憶を掘り起こす。

 あれは… 私は飲んでいない。あげてしまった。では誰に? 目の前の事情が飲み込めないまま私はさらに記憶を探った。
『良かったらどうぞ。あなたに、あげるわ。遠慮しないで。持って帰ってアランやあなたのお仲間と飲んだらいいわ』

 そうだ。陰惨な男の影のちらつくそれが嫌で、私はフランソワにそれを押し付けた。捨てるには忍びない高価な物。だが家の棚に置きたくはないそれを、ちょうど良い機会とばかりに、そこにいたフランソワにあげた。不躾なアランやフランソワへのささやかなお返しのつもりだった。

『これ、弟にもらっていいかな』

 埋もれていた記憶はするすると出てくる。あれは、出会ったばかりの頃だった。通りの良く見える窓のある部屋。彼は確かそう言った。
 私はアランやフランソワに向けた悪意が、彼のいたいけな弟に向かうような気がして居心地悪かった。だが一度言ったことを撤回するわけにもいかず、それはそのままフランソワの手に渡った。
 そして、それが今ここにある。私は屈み込み問いかけた。

「その入れ物は‥ どうしたの? 誰に、もらったの?」
 明るい瞳は私を見上げて言った。
「お兄ちゃんだよ」
「お兄ちゃん?」
「うん、いつも来て遊んでくれる。これ僕の宝物だよ」
 子供はすずらんを沢山詰めたそれを高く掲げてみせた。明るい瞳はきらきらと輝いている。私が手をのばして同じ物か確かめようとした瞬間、子供は立ち上がり、叫びながら走り出した。
「お兄ちゃん!」
 子供は手元からすり抜け、小さな動物のように走り去った。その方向を見遣り、私は息を呑んだ。
 フランソワがいた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
 子供は嬉しそうにまとわりつく。着ている物は違うがまさしくフランソワだった。彼は時が止まったかのようにあの時の姿でそこにいた。
 フランソワは慣れた手つきで子供を軽々と抱き上げた。彼は少しも年を取っていなかった。記憶の中の姿。少年の面影を残す若い彼。
 話す声は聞こえないが、抱き上げた子供に何か言われたフランソワがこちらを見た。彼は小さな体を地面に降ろすとゆっくり歩いてきた。近づけば近づくほど、姿ははっきりする。フランソワだった。時をさかのぼり、彼は私の前にあらわれたのだ。全てが彼そのものだった。
 彼はゆっくりと私の前に歩み寄ると私の顔を見つめた。私も彼を見つめた。瞳も顔も、出合った時を思い出させる。
 私を見つめる瞳は確かめるように少しずつ下がっていった。そして胸元で止まった。
 彼は瞳を動かすことなく見つめている。私は胸元に手をやり、手を握り締めた。手に馴染んだ木彫りの感触。いつも胸にさげている聖母子像。あの人がくれた物だ。結婚を約束する指輪の代わりにくれた物。

『シルビーに持っていてもらいたいんだ。本当は銀か金の物をあげたいのだけれど、今はそれしかないから‥ 母さんの形見なんだ』

 母さんの形見―― 彼を生んでくれた人の胸にいつもあった物。
 あの時の声は昨日の事のように思い出せる。熱っぽい肌や押し付けるように添えられた手も…

 胸元に下がっていった瞳はゆっくりと持ち上がり、私を見た。あの人と同じ瞳。同じ面差し。
 やがて、彼の口が開いた。
「兄を‥ ご存知ですか?」
 風が吹き、枝が鳴った。過去が一気に押し寄せ、私の周りで渦巻いた。
 彼は体の向きを変えると何かを探すように首を回した。
「フランソワ!」
 明るい大きな声でフランソワを呼ぶと、じっとしていない子供を抱き上げ頬ずりした。彼は、くすぐったそうに体を捩る子供に尚も身を寄せ、小さな体に顔を埋めた。
「フランソワ、フランソワ」
 何度も名前を呼ぶ。やがて彼は子供を地面に降ろすと小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「また来るよ… フランソワ」
 懐かしい声が懐かしい名前を呼ぶ。私は地面に置かれた茶の入れ物を見た。
 それは間違いなく私がフランソワにあげた物だった。それが、ここにある。子供を抱きしめて離さない彼にとって、それはきっと大切な思い出の品だったはずだ。だが彼はそれを小さなフランソワにくれた。何がそうさせたのか。父の面影を忠実に受けついた子供…
「‥フランソワ」
 明るかった声に涙が混じる。彼は尚も子供を抱きしめた。
 風が吹く。風が涙を吹き払う。すずらんの香る庭で、私は胸の木彫りを握り締めた。



Fin




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