2006 11/29

革命前夜

-前編-




「銀の月と小さな花」に続いています。
「最後のドレス」が最初の話になります。
「弟」に関連した記述があります。
Map参照。




 窓から差し込む日で起こされる。シルビーは寝台に横になったまま窓に目をやった。昼の明るい日が窓の外に押しかけてきている。シルビーは大儀そうに寝返りを打ち窓に背を向けた。いつもこの日で起こされる。最近ひどく体がだるい。出来れば一日中寝ていたいくらいだ。だが一年で最も長い日差しは西向きの窓から容赦なく強い光を投げ込んでくる。
 本当はもっと厚いカーテンをかけたかった。シルビーはのろのろと起きあがると窓辺に寄り、薄いカーテンを引き払った。窓を開け外の空気を入れながら向かいの店を見やる。太陽はすっかり西にきていたが、まだ高い位置にあった。店には灯が入っていない。
 シルビーは窓から離れると衣装箪笥の引き出しを開けた。衣装というほどのものは何もない。少しの小物と古びた化粧道具。シルビーは愛しむような手つきで引き出しから小さな木箱を取り出した。ここには手紙が入れてある。母からの手紙、友達からの手紙、そして短い文面の走り書き。何かをちぎった紙の切れ端やビラの裏側、そういた物に文字は書かれている。
「シルビーに会いたい」「来週の非番に来る」 繰り返し読むには短すぎる文面。シルビーは日に何度もそれを開け文字を追った。インクの掠れや滲みにさえ見覚えがある。思い出す。フランソワとどんな話をし、どんな夜を過ごしたか…
 紙の折り目には色あせた花。すっかり枯れて香りもない。でもそれを捨てることは出来なかった。
「フランソワ‥ 早く帰ってきて…」
 手紙を前に物思う時間が過ぎていく… 幸せだった時間を反芻するほどに今が切なくなる。シルビーは滲んできた涙を拭くともう一度窓辺に寄った。店には灯が入り、何人かの男が入っていく。シルビーは手紙をしまい部屋を出た。


 通りを挟んだ反対側の店は市民達のたまり場になっていた。そこは三部会が開催されると決まった頃から、単に酒を飲み騒ぐ場所ではなくなっていた。三部会開催のニュースが伝わると同時にそこは貴重な情報の発信源になっていった。中心にいるのはクロードという男。若い頃は船に乗っていたという得体の知れない男で、今は薬屋の女の元に転がり込んでいる。黒い髪に黒い髭。強い光の宿った眼と強引な口のきき方。むっとするほど押し付けがましい男だが、彼は市民達から絶大な信頼を勝ち得ていた。
 店はまだ始まったばかりで客は少なく、男達がてんでばらばらにわめき合っていた。飲みたくもない酒を注文し、店の片隅の椅子に座る。フランソワ達が三部会警護の為にベルサイユへ移動してからは、もっぱらこの店に情報を頼っていた。
 シルビーは傷だらけのテーブルの上に指を這わせながら、ベルサイユからの情報を待った。毎日のように平民議員の活躍の様子、演説の仔細が入ってくる。人々はビラを奪い合い、ベルサイユからの知らせに一喜一憂する。
 平民議員は我こそが国民だと言うように国民議会を発足させた。その快挙に人々は熱狂する。だがシルビーが欲しかったのはそんな情報ではなかった。フランス衛兵の動向。それだけが知りたい事の全てだった。三部会ならぬ国民議会の会議はいつ終わるのか。役目の済んだフランス衛兵がパリに戻れるのはいつなのか。
 運ばれてきた安酒を飲もうと鼻を近づけ、シルビーはそれをテーブルに戻した。吐きそうだった。店はまばらな入りだというのに男達の発する臭気が酒に染みついているようで我慢がならない。何もかもが耐え難かった。
 シルビーは店の片隅で肩を抱き、目を閉じた。
『シルビー、開会式は見に来る? フランス衛兵が議員達の列を護るよ』
 フランソワの言葉が耳に蘇る。シルビーは三部会開催のパレードを思い出していた。心が辛い時、会いたくてたまらない時、いつも繰り返し見る夢のようにあの時のことを思い出す。

 雨の多い年だった。馬車代を節約して歩いた為、マントは濡れそぼり、ぬかるんだ道はドレスと足を重くした。だがどんな苦行に満ちた道のりも苦にならなかった。もうすぐフランス衛兵が護る三部会の開会式が見られるのだ。
 ノートルダム寺院からサン・ルイ教会までの狭い街道はびっしり人で埋まっていた。連なった人垣の隙間を縫いフランソワの姿を探す。すっかり身なりを整えた兵隊が街道沿いに直立不動の姿勢で立っている。フランソワはどこ? アランは? 求める姿を探す目に真っ先に入ったのは金髪の隊長だった。
 人垣の頭の上にフランス衛兵隊長の軍服と美しい横顔が見えた。彼は真っ白な馬に乗り、静かに兵の傍を歩いていた。緊張でこわばっている兵士達と違い、彼は風のように柔らかく静かだった。
 シルビーは彼の姿を追った。彼を見るといつも不思議な気持ちになった。鍛え抜かれた屈強な兵士達の中で、その姿は繊細と言って良いほど細身だった。泰然としているようでどこか儚い。
 コツコツと街路を叩く蹄の音を止め、彼は持っていた指揮棒である兵士の足元を指した。兵士が僅かに足の位置を変える。調和の取れた美しさ… 見事だった。
 彼を見ていると心が洗われるようだ。横暴な軍隊、汚い兵隊を嫌というほど知っているが、彼には気品と高貴しか感じられない。それが貴族というものだ。認めるのは簡単だが、貴族が豚のように恥知らずで横柄なことを知っている。宝石で身を飾りながら、塵ほどの慈悲もなく、保身にだけは汲々としていることも知っている。だが彼からはそんな貴族が発する浅ましさは感じられなかった。
 彼は向きを変えると道の向こう側の兵の様子を確かめるように動いた。その先にアランとフランソワがいた。姿を見るだけで涙が出た。それだけで満足だった。
 行進が始まる。第三身分の議員達も素晴らしかったが、誇りに満ちたフランス衛兵が何よりも素晴らしかった。

「おや、シルビーじゃないか」
 野卑た声にシルビーは目を開けた。見知った男の脂ぎった顔が目の前にあった。
「どうした。またフランス衛兵の尻を追いかけているのか?」
 男は汚れの浮いた顔に下品な笑いを浮かべシルビーの顔を覗き込んだ。男の顔、臭い、何もかもが不快だった。シルビーは男から目を反らし顔を横に向けた。
「やい! 返事をしろ! 裏切り者めがっ!」
 びしゃりと何かがひっかけられた。男が目の前にあったグラスの酒をかけたのだ。冷たい感触が肌を伝う。顔にかけられた酒を拭うこともせず、シルビーは席を立つと店を出て行った。


 部屋に帰り着き、酒の染み付いた服を脱ぐ。汚い男の汚い罵り。シルビーは水差しから水を汲み、浸した布で体を拭いた。「裏切り者」という男の言葉が耳にこだまする。激しい憤怒は寂しさと表裏一体になり責めさいなむ。水で体を清めながらも不快感は拭えない。起きた時から我慢していた吐き気が襲う。シルビーはたまらず嘔吐した。
 男の言う意味は分かっていた。昨夜もたらされたニュース。それはフランス衛兵が議場の封鎖をしているというニュースだった。
「恥知らずの王妃の犬め! いいか覚えていろ! どんな妨害に会っても俺達は負けないのだ!」
 追いかけてくる男の声。シルビーは頭を抱え首を横に振った。信じられなかった。この目で見なければ信じられなかった。だがそれは複数の市民の証言だった。第三身分の議員達は議場封鎖にめげず広いホールに場所を移し、最後まで戦い抜くと誓ったという。
 封鎖はフランス衛兵の本意ではないことは確かだ。決して贔屓目などではない。パリを護ってきたフランス衛兵を見ていれば分かることだ。なぜそれが市民達には分からない。
「フランソワ、何があったの? 来て説明してちょうだい」
 下着のまま寝台に横になる。涙がとめどなく溢れた。



 戸を叩く音で目が覚めた。シルビーは寝巻きの上にガウンを羽織り戸に声をかけた。
「誰?」
「俺だよ。フランソワ」
 思いもかけぬ声だった。シルビーは大急ぎで戸を開けた。
「フランソワ! フランソワじゃないの!」
 声でそうだと分かったが、懐かしい顔を見るまでは信じられなかった。
「嬉しいわ! 来てくれたのね。もうどこにも行かないで!」
 シルビーは部屋から飛び出すと階段の上でフランソワに抱きついた。
「やっと会えた。嬉しいよ。元気だった?」
 フランソワは抱きついてくるシルビーの体を離すようにして顔を覗き込んだ。
「待ったわ! もうこれ以上待てないわ! フランソワ、もうどこへも行かないと約束して!」
 涙でフランソワの顔が滲んだ。懐かしい声、優しい眼差し、馴染んだ匂いは離れていた時間を一気に埋める。もう離さない、離れたくない。
 唇に送られる感触は忘れていた官能を蘇らせる。フランソワの動作に応えながらシルビーは体を押し付けた。彼が欲しかった。今は夜の仕事に出るのがひどく億劫だ。男の体、性欲、何もかもが嫌だった。だが今は心底彼を欲しいと思った。
 彼の欲を呼び起こせば彼は居てくれるに違いない。シルビーは心の中から沸き上がる感情の赴くままありったけの技巧を駆使しフランソワに口づけた。彼も長い間女から遠ざかっていた男の性急さで貪ってくる。
 フランソワの肩に手を回し引き付ける。彼の下半身に腹を押し付け動かした。肩に回した腕を下げ、彼の腰を強く引き付ける。腹に膨張してくる塊を感じながら、胸を押し付け、足を絡めた。必死だった。フランソワをベルサイユに戻したくない。
「シルビー、駄目だ」
 苦しそうに息を吐きながらフランソワが体を離した。
「俺、すぐに戻らなければならないんだ。もうパリの留守部隊は引き上げるんだ。今日はその残務整理に来たんだ。仲間も待っているから行かなくては」
 そう言いフランソワは階段の下を見た。フランス衛兵の青い軍服が見えた。仲間の男はシルビーが見ると急いで壁の影に姿を隠した。
「いやよ」
 今彼を放したらもう永久に会えないような気がした。シルビーはフランソワの軍服にしがみついて泣いた。先ほどの欲情は寂しさにかき消されるように消え去った。
「フランソワ、もう軍隊なんか辞めて。私が働くわ。だから軍隊なんか辞めて」
 浅ましい真似をして引きとめようとした事を恥じながらシルビーは言った。
「シルビー、困らせないで。もう少しだよ。もう少しで新しい国ができる。そうしたら一緒に暮らそう」
 フランソワの指が頬を撫で、涙をすくった。
「ほら見て、シルビー、花を取ってきた。珍しいだろう。蝶が羽を広げたように見えるだろう」
 目の前に白い花が差し出された。フランソワが持ってきたのだ。彼が持っていたものに初めて気がつきシルビーは言った。
「…綺麗ね」
 端のぎざぎざした花びらが二枚両翼を張っている。小さな白い花。細い茎に止まったように咲いている。
「本当に‥綺麗…」
 シルビーはそれをフランソワから受け取った。心に冷たい風が吹いた。もうあとどのくらい待てばフランソワは帰ってくるのだろう。
「もう少しの辛抱だ。俺だって辛いさ」
 額に唇を感じた。手が顎にかかり、唇に額から降りてきた唇が触れる。肩を抱かれ抱きしめられた。
「好きだよ、シルビー」
 きつく抱かれ肩にフランソワの頭を感じながらくぐもった声を聞いた。
「もう行かなくちゃ、シルビー、愛しているよ」
 どれほど抱きしめても名残りは消えない。彼は行ってしまう。引き止める術を知らないままシルビーはフランソワを見た。体の向きを変え、行きかけ、彼は振り返りもう一度言う。好きだよ。何度も言う。愛しているよ。
 シルビーは階段上の手すりに寄りかかり放心したように段を見つめた。段の途中まで降りたフランソワが振り返る。手を振り笑う。彼に応えることもできず、シルビーは花を持ったまま、去り行く背中を見つめていた。
 すっかり下に降りたフランソワの姿は一端壁の影に隠れたが、やがて馬に乗った同僚と姿を現した。手綱を引きながら振り返り、高々と手を上げた。上げた手を盛んに振り、一言叫んだ。また来るよ!
 遠ざかる馬、青い軍服。シルビーは力なく手すりに背を預け、いつまでもそれを見ていた。



「おい! 聞いたか、大変だ!フランス衛兵が銃殺されるぞ!」
 ニュースはいきなり飛び込んできた。馬に乗ったまま店の中に走りこんでくる一人の市民。瞬く間に彼のまわりに人垣ができ店中が騒然となる。
「何だって?」
「どういうことだ?」
 グラスが倒れテーブルの上を酒が流れる。店の入り口で馬を降りた男はたちまち出来た人垣に見えなくなった。
「議場に居座る平民議員を追い払えという命令を聞かなかったからだ。フランス衛兵は平民議員を武力で追い出す事を拒否したのだ。それで投獄された!」
 店の片隅の席からは男の姿は見えない。人垣の中から響く興奮した声。乾いたかすれ声は最後の部分で搾り出すような絶叫に変わった。
「フランス衛兵は正しいじゃないか!」
「そうだ、彼らは立派だ。議員を守る者を牢に入れるのか?! なんて国だ!」
「そんな事が許されるのか?」
 店は騒然となる。男達の怒号は渦となりシルビーに襲い掛かった。

 ――フランス衛兵は平民議員を武力で追い出す事を拒否した。それで投獄された。

 耳の中に反響する声。言葉は回るのに意味が理解できない。
「おい、もっと詳しく話してくれ!」
 市民が詰め寄る。不安と緊張が最大限に上りつめる。それを静めるように落ち着いた声が話し始めた。
「国王は平民議員を雨の中に立たせやがった。しかも入りたければ裏口に回れだとよ。そこまで侮辱されて退けるものか」
 声には市民を静める力があった。クロードだった。回りが彼の話を聞くかのように静まり返った。
「そこまでしやがって、国王が何を言うかと思えば」
 怒りに満ちた中で静かな声は不気味でもあった。だが突然彼は机の上に飛び乗ると大声で叫んだ。
「国民議会を解散しろだとさ!!」
 市民達の頭の上に現れた姿。雨に濡れた黒い髪の下から睨み付ける眼光は一瞬で市民達の支持を取り付ける。
「国王を許さない!」
「国民議会を侮辱するな!」
 人垣はクロードの乗ったテーブルめがけて集まってくる。唸りのように上がってくる声に彼は泥だらけの足で机を叩き割らんばかりに踏み鳴らした。
「国王は俺達には誇りがないと思っている。だがそれは違う! 平民議員は退かない。議場から一歩も出ない。なぜならそこが彼らの死に場所だからだ! 彼らは命を懸けて戦っている!」
 拍手が巻き起こる。クロードは髭の顔を紅潮させ続けた。
「平民議員を武力で追い払え、命令をフランス衛兵は拒否した。フランス衛兵の代わりに近衛隊が出動した。だが逆にフランス衛兵に追い払われた! ざまあみろだ! 平民議員は今、議場にいる」
 クロードが息を継ぐたび歓声が上がり、静まり返る。
「フランス衛兵は英雄だ! いつかの議場封鎖は許してやろうじゃないか。彼らは国民の見方だ。俺は今日、一部始終を見てきた。平民議員に武器を向ける近衛の大軍、それを追い払ったのはたった一人のフランス衛兵の隊長だった!」
 男達からどよめきが起こった。金髪の隊長だ。天啓のようにその姿は浮かぶ。きっと彼は剣を抜き、雨の中を一人で近衛隊に向かったのだろう。シルビーの目には金の髪をなびかせ、大軍と対峙するフランス衛兵隊長の姿がありありと浮かんだ。
「おい、この事を皆に知らせるんだ」
 クロードに焚きつけられた市民達は突き動かされるように店を出て行った。

 荒れた店を白髪の店主が一人直していく。シルビーはクロードが泥だらけにした机に歩み寄った。足元に落ちている一枚の紙切れ。いつも男達の喧嘩や争いの元になる印刷物。いつも一瞥しては何の進展もないと打ち捨てていた刷りの悪い紙。そこには謀反人として数名の名前が上がっていた。
 アラン・ド・ソワソン
 ジャン・シニエ
 ラサール・ドレッセル 
 ジュール・ロセロワ
 ピエール・モーロワ
 フランソワ・アルマン
      ・
      ・
      ・


 牢獄は強固な石の壁が何人も寄せ付けないかのように阻んでいる。牢獄の門にいる見張り兵に口をきこうとしただけで追い返された。今アランやフランソワがどうしているか分からない。裁判は行われている気配はない。ただ刑の執行の日取りと謀反人の名前だけが牢の門に通告されているだけだ。
 何度通い詰めても成す術はない。自分に出来ることは石壁を叩き、己の無力さを呪うだけ。
 悔しい! なぜ自分達には何の力もないのだろう。フランソワ、アラン、無事でいて…
 石壁の前で呪い、祈るだけで一日が過ぎていく。出来ることは書かれた名前を何度も見つめるだけ。馴染みのフランス衛兵第一班のメンバー十二名。
 ふと感じる違和感にシルビーは頭をめぐらせた。クロードの声が頭によぎる。
『平民議員に武器を向ける近衛の大軍、それを追い払ったのはたった一人のフランス衛兵の隊長』
 謀反を起こしたのはアランやフランソワ達一班だけではない。近衛の大軍を追い払った隊長はどうなるのだろうか。名前がない。彼は一班とは別に処分を受けるのだろうか。それとも高い身分故にとがめだては無しなのだろうか。
 こんな不公平は何度も見てきた。同じ事をしながら片方は重い罰を受け、片方は不問にされる。それとも隊長の咎を隊員達が負うのだろうか。それも考えられる。平民はそれだけ蹂躙されてきた。歯軋りするほどの悔しさだ。
 だがそこにも違和感があった。脳裏に浮かんだ金髪の隊長の姿。剣を抜き、雨の中を駆けつけたであろう彼からは権力が発する腐敗が感じられない。それどころか牢に繋がれた名前に隊長の名前が無いということに小さな望み見出したい。ずっとフランス衛兵と隊長を見てきた。彼は部下を見捨てることはしない。きっと助け出してくれるに違いない。
 根拠など何もない。ただの気休めかもしれない。だが信じたいのだ。彼らの絆。フランソワが語る隊長に対する信頼。清冽さしか感じられないフランス衛兵隊長。近衛を退却させてまで貫こうとしたもの。信念、力強さ。
 だがそれらは幻影かもしれない。間もなく期日は来る。どうしたらいい? 自分に何ができる。張り裂けそうな思いで地面に膝をついたシルビーの目に黒い靴の先が映った。先端が裂けかかったボロ靴。
「こんなところに百回来たってどうしようもないぞ」
 冷たく言い放つ声にシルビーは顔を上げた。クロードが黒い瞳で見下ろしている。
 この男――― シルビーの腹に怒りが込み上げてきた。いつも偉そうに市民達を先導している男。強引さと独断では一流かもしれないが、こいつだって自分と同じだ。何の力も持っていない!
 シルビーは立ち上がった。こんな時でさえふてぶてしく笑っているこの男の横っ面を張り倒してやらなければ気がすまなかった。
「お前も牢に入れてもらいたいのか? 馬鹿な女だ。牢の前に一日佇んでいたって何の足しにもならない。いいか、そんな暇があったらこれをパリ中の家という家の戸口に投げ込んでこい! 命乞いにおいては、はるかにましな筈だ!」
 どさりと何かが手渡された。
「ベルナール・シャトレの論文だ。『フランス衛兵はなぜ投獄されたか。我々の息子達を牢から救い出せ』 いいか、俺達は剣よりも銃よりも強い物を手に入れたのだ。それは、印刷さ。国王、王妃の横暴に立ち向かうには力を集める事が大切だ。虐げられた小さな者たちも集まれば大きな力を持つ。解かったか! 解かったらさっさと行け! 時間がない」
 クロードに背中を押されシルビーは手にした紙の束を見た。見慣れた刷りの悪いビラだった。だがそこには胸を抉り、血を迸らせるような文が踊っていた。簡潔にして力強い文章。人の心に訴え、揺さぶり、行動を起こさせるに足る説得力。そして何よりも希望を与えてくれる。読んでいて涙が出る。こんな文に出会えて良かったと思えるような、そんな力に溢れていた。
『不当に奪われた我々の息子達を助け出そう』
 紙の束に救いがあった。それと予感と。彼らを助けだせるかもしれない。シルビーはそれを届けるための最初の家を目指して走った。



 パレ・ロワイヤル広場に集まった市民達はそれだけで一つの凶器のようだった。広場の中心にいる一人の男。クロードが言っていた、あれがベルナール・シャトレ…
 シルビーは目を凝らしその姿を見つめた。若い。最初の印象だった。こんな若者に何が出来る。だが不安は彼が話し出すとたちまち払拭された。
 力強く分かりやすい。あの文章と同じだ。道端で演説を嫌というほど聞いた。誰もが一生懸命話してはいるが、心に響く者は少ない。命のかかっている場面、愛する者の一大事という事を引いても彼の演説には全身の血を沸騰させるような力があった。その証拠にパレ・ロワイヤル広場に集まる人々は怒涛のうねりを見せている。それなのにまだ人は集まってくる。一体パリにはどれほどの人が住んでいるのだろう。そう思わせる勢いだった。
 彼の若い声には張りがあり、希望を燃え起させてくれる。市民は何をすれば良いか教えられ、向かう先を見ながら次のかけ声を待っている。不幸のどん底から再生する力の何と尊いことか。


 アベイ牢獄に押しかけた市民の群れに牢獄側は成す術を持たなかった。兵士十二名が無条件で釈放された。それは完全に市民側の勝利だった。
 市民達の歓呼の声に導かれ英雄になったフランス衛兵隊員がアベイ牢獄から出てくる。涙で姿がよく見えない。そこにはフランソワがいた。アランもいた。愛する者の無事を確かめられるとはなんと幸福なことだろう。彼ら十二名は迎え出た仲間達と会い、抱き合った。投獄された十二名は良く知った顔ばかりだったが、迎えに出た隊員達も殆どを知っていた。自分はフランスの英雄達をこれほどまでに知っている。誇らしい気持ちだった。
 木漏れ日の中、喜び合う隊員達が突然駆け出した。誰もが叫んでいる。それはまるで長い間閉じ込められていた人間が明るい光を欲っするかのようだった。彼らが向かった先に金髪の隊長がいる。釈放された隊員達が我先にと突進するさまは彼がどれほど隊員達から慕われているか語っていた。
 シルビーはぼんやりと酒場での出来事を思い出した。
『たった一人のフランス衛兵の隊長が近衛の大軍を退却させた』
 古い出来事は幻のように溶けていく。
 金髪の隊長とフランス衛兵。彼らの間にはどれほどの絆があるのだろう。牢の前でフランス衛兵の隊長に隊員を助けて欲しいと乞うた事も思い出した。彼らを救い出したのは誰だろう。彼だろうか。根拠などない。だが市民を動かす大いなる力の影に何かが動いたような気がする。
 金髪の隊長はこれ以上無い満足そうな表情をしていた。彼の心にあるものは何だろう。彼は…
 幸福は考えることをやめさせる。今はただ浸っていたい、この安心に…
 待てばいい。もうすぐフランソワは帰ってくる。もう待つだけだ。
 木漏れ日の中で戯れ合う兵士達を見ながらシルビーは心から安堵の息を漏らした。



後編に続く


















































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