2003 11/20
挿絵 市川笙子さま

移り香 V




 夏も盛りに向かおうとしていたが涼やかな朝だった。
 フェルディナンはヴァラン家に寄ると手紙受けに封書を差し入れた。『鴨のクネル〜深い森の恵み〜マルグリッド風』凝った筆跡に母自慢の我が家の料理人の力の入れようが窺える。伯母の骨折りに対しての約束は果たさねばならない。
 馬車でレイアの家に向かいながら彼は窓から顔を出してみた。朝の光が眩しく道を照らしている。レイアは朝の早い時間を指定してきた。街路の木々の輝やき、爽やかな空気。こんな清々しい気持ちは久しぶりだ。朝の空気がこれほど気持ちの良いものだとは忘れていた。
 デュルフォール男爵家はヴェルサイユのはずれにあった。すっかり木立も深くなった一角で彼は道を間違えているのではないかと御者に問うたほどだった。辺りに他の館は見当たらない。この先はずっと森になっているようだ。ヴェルサイユは深い森を切り開いて作った街なのだと今さらながら気がついた。
 男爵家は深い木立ちの中に隠れるように建っていた。館は濃い緑が合う重厚な造りでそれは両翼の張りのそれほどない小さなものだったが当主のはっきりとした意思を感じさせた。流行に左右されない佇まいは森を背景に美しく映えていたが固執した古臭さは否めなかった。
 フェルディナンは馬車を降り建物に向った。遠目では気づかなかったが前庭の手入れが行き届いていない。僅かに人の手は入っているが庭の殆どは自然のままだった。彼の到着に気づいたのだろう、年を取った男の召使いがやってきて馬車を車庫に案内した。
 彼は建物の正面に立ち館を見上げた。近くでよく見ると屋敷は何となく煤けていた。
「ようこそいらっしゃいました。フェルディナンさま」
 玄関の扉が開きレイアが直々に出迎えてくれた。彼女は笑っていた。彼からも自然に笑みがもれた。彼女の嬉しそうな微笑みは彼を幸せにする。
「不躾な願いを聞き届けてくださりありがとうございます」
 彼は胸に手を当て深々と礼をした。デュルフォール男爵家への訪問が叶うとは思わなかった。伯母には感謝したい。
 彼は持ってきた包みを彼女に差し出した。女達が好みそうな甘く愛らしい菓子。レイアと、母親や姉妹がいれば彼女達にも、そして侍女達にもと、見繕ってきた。大袈裟でもなくさりとて礼は失さない程度のものだ。本来だったら召使いに持たせデュルフォール家の侍女に手渡すべきなのだろうがデュルフォール家のホールには侍女の姿が見えなかった。だがそれはむしろ嬉しかった。彼女とはロドリグの家で会った。若い者同士、ロドリグの館のように気楽にいきたいものだ。
 レイアは包みを受け取ると彼を客間に案内した。そして彼を一人待たせ姿を消した。
 一人になった彼は客間を見渡した。重厚な家具類は高い価値があるのだろうがどれも古臭く垢抜けた印象がなかった。床も壁も何年も張り替えていないようだ。だが壁に掛けられた鏡はピカピカに磨かれていたし真っ白なカーテンは窓からの風を受けて美しく揺れていた。
 彼は窓辺に寄った。窓から見える庭は緑が濃く、繁るものの息吹がきこえてくるようだ。だがここも充分手が入っていない。
 扉が開いた。彼が振り向くとレイアが茶を運んできた。
「どうぞお座りになって」
 彼女に言われフェルディナンは椅子にかけた。レイアの白い手が彼の前にカップを差し出す。優雅な手つきはどの女と比べても遜色がない。青い模様の入った白磁器は逸品だった。だがこれは令嬢や女主人の仕事ではない。
 彼はレイアを見上げた。その瞳に応えるようにして彼女が笑った。彼女は恥じる様子もなくたおやかに微笑んでいた。つられるように彼も微笑を返す。
 彼女は見る度に違う表情を見せる。ロドリグの館でのレイア、伯母のところで見たレイア、だが彼は今のレイアが一番好きだった。彼の為に彼女は笑っている。部屋には二人きり。熱い気持ちもときめく興奮もなかったがしみじみとした幸せを感じた。
 レイアが皿にのせた菓子を置いた。貝の形をした黄金色の焼き菓子。糖蜜とレモンの香りのする。彼女は恥ずかしそうに笑うと盆を脇に置き長椅子に座った。
 彼女を真正面に見てフェルディナンは何と切り出してよいか迷った。女を前に迷うなど初めてのことだった。言葉が出ない訳でもあるまい。
「もう一度お会いできて嬉しいです。一目貴女を見た時からもう一度お会いしたいと思っていました」
 レイアが頷いた。彼女も同じ気持ちでいてくれたのだろうか。
「なぜ貴女はロドリグの家から直ぐに帰ってしまわれたのですか?」
 彼は優しく尋ねたがレイアは困った様に下を向いてしまった。彼は注意深く彼女を見た。
「あの日貴女がゲームに参加していたら私と組んだかもしれなかったのに… 私はあぶれたのであそこに行ったのです。ゲームはお嫌いですか?」
 レイアは首を横に振った。
「エクスラーヴ、ご存知でしょう? 貴女にだったら命令されてもいい。それより貴女を私の自由にするもの魅力的でしょうね」
 レイアは彼が今まで知った女とはどことなく違っていた、享楽的な印象はない。むしろ禁欲的でエクスラーヴに興じるようには見えなかった。彼は話のちぐはぐさが気になったが彼女に打ち解けて欲しかった。
「ロドリグさまは面白い話をしてくださいました」
 彼女の返事は彼を喜ばせた。
「確かにロドリグの話は面白い。時々とてつもなく破廉恥ですが」
 レイアが声を立てて笑った。堅いばかりの女ではなさそうだ。
「伯母の家で見た時は驚きました。私は貴女が伯母と親しくしてくださっているとは知らなかったものですから…」
 途端にレイアの顔が寂しそうに翳った。この表情を見ると不安になる。彼女には何かある。ずっと彼の心に巣食ってきたのはこの不安だった。
 何の苦労もなく育った他の貴族の令嬢達とは明らかに違う。それは何だ。彼は思わず部屋の中を見回した。彼女は一人で茶を運んできた。この家には召使いがいないのか。家の手入れも行き届いていない。裕福とはいえない境遇に起因するのだろうか。違う。そんなものではない。フェルディナンの心に嫌な陰が浮かんだ。『血の匂い』『魔女』 頭にいつも反響するこの言葉。この考えから開放されたい。
 彼は一歩踏み込んでみた。
「伯母とはどのようなご関係なのでしょうか」
 意外にもレイアはにっこり微笑んだ。
「フェルディナンさま、どうぞこちらに」
 レイアが立ち上がった。彼女の顔には何かを決心したような様子が見て取れた。彼も席を立った。心臓が大きく音を立てた。
 彼女は客間を出るとホールから奥へ通じる廊下を歩いた。この館は奥に細長い造りになっている。外は夏の陽気なのに廊下は薄寒く感じられ彼は思わず身震いした。
 レイアは一つの扉の前に立つとそれをそっと押した。部屋の中は暗くかび臭い匂いがした。彼女は部屋の中に入り鎧戸を開けた。明るい太陽の光が一気に部屋に流れ込んできた。
 そこは、小さな部屋だった。誰かの書斎だろうか。窓からの日差しが湿った空気を掃き出し部屋の隅々までを明るく見せた。
 そこは確かに書斎のようだった。奥まった場所にあり館の中に占める位置は悪くないと思う。だが部屋の隅に大きな机が置いてあるだけで他には長椅子が一客きり、人を招き入れる部屋ではないようだ。
 レイアはフェルディナンの前に立って彼を見つめている。彼女は何の意図があってこの部屋に案内したのだろうか。この部屋は人の生活感がまるで感じられない。まるで時間が止まっているかのように… この部屋の主は一体誰だ?
 フェルディナンは隅の机から壁に目を移し「あっ」と声を上げそうになった。そこには彼の肖像画がかかっていた。
 彼は急いでレイアを見た。彼女は目に小さな笑みをたたえながら静かに立っていた。
 絵の中の彼は見た事のない軍服を着ていた。身体を斜め前方に向け顔は正面を向いている。目も鼻も口元も彼そのものだった。年の恰好も同じ位だ。だが自分ではない! こんな肖像画を描かせた覚えはない!
 答えを求めるようにレイアを見た。彼女が言った。
「叔父ですわ。私も初めてフェルディナンさまにお会いした時は驚きました」
 彼女は彼の心の内を見透かしたように言った。彼は声も出なかった。
「この肖像画にあまりにも似ていらして…」
 レイアはそう言い、すぐにつけ加えた。
「あ、申し訳ありません。失礼な事を申しました。叔父に似ているなど…」
 レイアは顔をあからめフェルディナンに詫びた。だがそんなことはどうでも良かった。彼はもう一度肖像画を見た。その絵はさして大きくもなく僅かに古びているだけの普通の肖像画だった。だが額の中の人物は彼に生きうつしだった。額から目にかけての顔立ちや口や顎の線、輪郭までもが彼に似ていた。髪の色や目の色が僅かに違うだけで何度見ても彼そのものだった。彼は肖像画から目を離した。見知らぬ場所で見知らぬ自分に会うとは何と奇妙な感覚だろう。
 肖像画の前には軍服が置いてあった。肖像画の人物の着ている物と同じ物で型崩れしないように人型のものに着せてある。だがそれはひどく汚れていて片方の肩から腕にかけては真っ黒な染みがついていた。レイアはその軍服に近づくとその染みの部分に手をかけた。
「叔父は私が生まれる以前に亡くなりました」
 よく見るとその軍服の肩の部分には周囲が焦げた小さな穴がいくつも開いていた。この黒い染みは多分、血だろう。
 壁には他にサーベルもかかっていた。そしてその前に小さな机ほどのガラスケースがあり女物の手袋や扇が置いてあった。他には宝飾を施した小物入れ、髪飾り腕輪などがあった。 
 彼はゆっくりと壁を見ていった。デュルフォール男爵の肖像画から離れた所にもう一枚、肖像画がかかっていた。こちらは女だった。彼女は髪を高く結い上げ胴を締め上げたドレスを着ていた。真っ白な肩を出し上体を反らせ扇を広げている。その姿は大人の仲間入りをしていたが彼女はまだ少女だった。聡明そうな額、涼しげな目元、大人っぽい表情を作っていたが唇は少女らしい初々しさに溢れていた。この少女は誰だ…? フェルディナンは肖像画を見つめた。彼はレイアを見たが彼女は何も言わなかった。答えが知りたい。彼は大きく息をつき頭を反らすと後を振り返った。そこにも何枚かの肖像画がかかっていた。それは誰だか直ぐに分かった。イレーヌ伯母だった。
「あれはこの絵を元に父が描かせたものです」
 フェルディナンは眩暈を感じた。今まで知りもしなかったヴェルサイユの外れの奥深い一室にこのような物があろうとは… 時間の止まったこの部屋にこれらのものはずっとあったのだろうか。
 その時ホールの方で呼び鈴が鳴った。
「失礼します」
 レイアは頭を下げると部屋を出て行った。
 彼は机に歩み寄った。デュルフォール男爵の机だ。綺麗に片付けられ何ものっていない。彼は一番上の引き出しをそっと開けてみた。そこには瑠璃を張った小さな小箱と手紙の束が入っていた。手紙はどれも擦り切れ何かに添わせていたように微かに曲がっていた。フェルディナンは小箱を避け手紙に手をかけた。どれも見覚えのある筆跡だった。イレーヌ伯母の筆跡だ。彼は手紙を戻し引き出しを閉めた。
 レイアが部屋に戻ってきた。
「申し訳ありません。弟でした。ご挨拶をと思ったのですが直ぐに行かなければならないようで失礼させていただきます」
 彼女は言い訳をするように付け加えた。
「弟は働いているのです。ラテン語や歴史などを教えています」
 彼は頷いた。彼女は今も自らホールに出て行った。この屋敷には使用人はいないようだ。
「今度は父と弟のいる時にまたおいでください」
 彼女は目を伏せた。フェルディナンはレイアの手を取ると両手で挟み込んだ。女を誘う為ではない、篭絡させるためでもない、ただそうしたかった。彼女の手をずっと手の中に入れておきたかった。レイアは彼に手を取られたまま言った。
「お分かりになりましたか? 叔父とイレーヌ様は許婚だったのです。でも叔父は戦いで死にました。この部屋は私が生まれた時からありました。父が作らせたようです。母は私がここに入る事を嫌いました。私だけでなく誰でも… でも、私はこの部屋が嫌いではなかった」
「デュルフォール男爵夫人は…」
 彼の問いに彼女が答えた。
「母は亡くなりました。もう随分前に…」
 彼は軽はずみな言動を後悔した。
「余計な事を聞きました。お許しください」
 彼の詫びにレイアは首を左右に振った。
「どうぞお気になさらずに」
 レイアはそう言うと彼の手の中から手を滑らせ壁に寄り軍服の肩に手をかけた。そして染みの付いた袖を撫でるように動かした。
「初めてイレーヌ様にお会いした時、私はここにある肖像画の方とは気づきませんでした。でもイレーヌ様は私のデュルフォールの名前から直ぐにお分かりになったようです。私を見つめて涙を流されました。イレーヌ様は多くを語りませんが私はあの方の気持ちが分かります」
 レイアは軍服の肩先に手を遣った。
「イレーヌ様にお会いして私も救われました。叔父の死後、父が爵位を継ぎましたが叔父が亡くなってからこの家は不幸続き… 祖父は勿論ですが父にとっても叔父の死は打撃だったようです」
 彼女は後ろの壁にかかっている肖像画を振り仰いだ。 
「この家は長い間いさかいが絶えなかった。そんな時私はここに逃げ込みそして叱られました」
 レイアは続けた。
「私はイレーヌさまにお会いして母に同情すべきか、誰を憎めむべきなのか、長い間の悩みから開放されました」
 フェルディナンは静かに語るレイアの横顔を見つめた。彼女は軍服から手を離したがそれを見つめることは止めなかった。彼はレイアの肩を掴んでそこから引き離してやりたかった。彼女はどれだけ長い時をこの部屋でこれらのものと向かい合っていたのだ。叔父のものとはいえ会った事もない男の血染めの軍服。それは気味悪くないのか。
「伯母の事は知りませんでした。本当に何も‥ デュルフォール男爵の事も何も‥」
 フェルディナンは知らずにいた非礼を詫びたかった。ひざまづいて彼女に詫びたかった。
「それは当たり前です。フェルディナンさまが気になさるようなことではありません。叔父はもういないのです。だたこの部屋を片付けることもできずにいる。それだけです」
 レイアはそう言って部屋を出た。先ほど寒々しいと思った廊下だが今はほっとするような安息を感じた。
 長い廊下を歩き客間に戻った。
「今日はありがとうございます。よかったら‥ 今度オペラにでもお付き合いいただきたい。観劇は嫌いですか?」
 彼はレイアを誘ってみた。寂しそうな顔は見たくない。彼女をもっと笑わせたい。レイアは年相応の楽しみを身につけるべきだ。彼は彼女にもう一歩近づいた。女を誘うのにこれほど緊張した事はない。レイアは顔を上げひっそりと微笑んだ。儚い微笑みだった。彼は彼女を抱きしめたくなる衝動を必死にこらえた。
「ありがとうございます。喜んで…」
 レイアはしばらく考えそう答えた。


 フェルディナンはヴァラン邸に向かった。伯母の元へ。デュルフォール男爵の正体が分かった。今まで心にわだかまっていた想いがほぐされていく。だがその想いは新たな感情を生んだ。
 あの壁に掛けられた肖像画。恐ろしいくらい自分に似ていた。彼はあの部屋に閉じ込められているような錯覚さえおこした。彼は自分の肩に手をやってみた。あの軍服に開いた穴。レイアはそこに手を当てていた。
 馬車は見慣れた館の門をくぐる。彼の目にデュルフォール男爵家の鬱蒼とした庭が重なった。伯母にこんな過去があったなど思いもかけなかった。デュルフォール男爵は伯母に深い縁(ゆかり)のある人だった。自分の我侭が伯母の秘密を暴いたようで気になった。だがイレーヌを訪ねない訳にはいかなかった。それに伯母に会いたかった。

 イレーヌはいつもの笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、フェルディナン。ちょうどお昼だわ。貴方が届けてくれたレシピに我が家の料理人が挑戦しているところなの。一緒にどう? 鴨と鶏のクネル、深い森の恵み、イレーヌ風よ」

 ヴァラン家の居間に場所を移しイレーヌと食後のお茶を飲んだ。ここにはエドワールが送ってきた様々なものが置いてる。伯母の好きなように飾ってあるが彼女はエドワールがいなくて寂しくはないのだろうか。
「今日、デュルフォール男爵家で貴女の肖像画を見ました」
 フェルディナンの言葉にイレーヌは察していたように微笑んだ。
「そんなものが…」
 彼女は茶のはいったカップを取り上げようとしたがそれは小さな音を立てるだけだった。
「モーリスは私の許婚だったの。私達はお互いを好いていたわ。姉達は親の決めた所に嫁いでいったけれど私は末っ子だから好きなところに嫁に行けと父も兄も許してくれていたの」
 イレーヌは茶の中に匙をいれ意味もなくかき回した。
「デュルフォール少尉。あの人はそれは素晴らしかった」
 伯母は手を止め微笑んだ。
「軍服がとても似合ったわ」
 フェルディナンの目にもう一枚の肖像画が映った。伯母はあの部屋にあるものを知っているのだろうか。イレーヌの顔は優しく穏やかだった。
「モーリスは戦いで手柄を立ててくる、そうしたら結婚してくれ、そう言って出かけたわ。そして帰ってこなかった…。私の初恋だった…。女はね、初恋の人に死なれることほどこたえる事はないのよ」
 伯母は寂しそうに笑った。
「フェルディナン、貴方はいくつになったの?」
 イレーヌは突然彼に問うた。
「二十二になりました」
 彼は答えた。
「そう、あの人が死んだ年だわ。私など人から見れば面白可笑しくやっているように見えるでしょうね。でも一日だってあの人の事を忘れたことはない。私は家族を愛しているわ。でもあの人のことも忘れないのよ」
「わかります」
「私はあの人の死が信じられなくて‥ あの人の遺品を皆返してしまったの。いいえ、違うわ、受け取らなかったの。あの人は絶対帰ってくる。私を置いて逝ったりはしないって… 私は箱に入ったあの人の髪の毛さえ受け取らなかった。差し出されたあの箱は‥青かったわ」
 伯母は記憶を辿るような目をした。その遺品は全てあの部屋にあるのだ。そうだ、机の中に見つけた瑠璃を張ったあの青い小箱には何が入っているのだ。古い手紙と一緒に置いてあった。伯母の筆跡、何度も読み返したような跡のある手紙… 
「どれほど待ってもあの人は帰ってこなかった。私に残されたのはあの人の十字架と貰った手紙だけ… 出立する前に十字架を交換したの。小さな銀があの人を護ってくれるように祈ったわ。でも駄目だった…」
 イレーヌは膝の上に組んだ両手の指先に目を落とした。 
「あの人の十字架はもう二度と開けないと誓った箱の中にしまってあるわ。手紙と一緒にね。私はあの人の死をまだ清算していないの。そんなこととても出来ない。今度天国で会う時までのほんの短いお別れだと思っているの」
 イレーヌはやっと冷めた茶をすすった。僅かに目を潤ませてはいたが彼女は涙の一つもこぼしはしなかった。
「レイアはあの人の姪になるのね。とてもいい娘(こ)なの。でも私は彼女を知らなかった。モーリスが死んでから私はあの家には行かなくなってしまったの。彼の帰りを待っていたのに…」
 伯母は遠い過去を見ている。閉ざされたあの部屋を伯母は知らないのかもしれない。あの部屋はただ時を止めそこにあったに過ぎないのだ。
「彼は真っ先に私の所へ帰ってくると信じていた。蹄の音が聞こえるようにと毎晩窓を開けて眠ったわ」
 伯母は寂しそうに微笑み息をついた。
「さあ、私の話はもういいわ。それよりヴィクトールの話を聞かせてちょうだい。あの子もうすぐ宮廷に伺候する頃じゃない? マルグリットが近衛の軍服が出来たら見に来るようにって言っていたわ。楽しみね」
 軍服… フェルディナンの目にあの部屋にかけてあった軍服が映った。
「でもね、私は軍人が嫌い」
 きっぱりとしたイレーヌの言い方に彼は目を戻した。
「軍人はね、死ぬのよ。私はヴィクトールが心配だわ」
 伯母の言葉の意味がわかり彼は安心した。
「伯母上、ヴィクトールは近衛です。戦いには行きません。それにフランスはこんなに平和です」
 彼は伯母を慰めるように言った。
「そうね。でも平和なんて脆いものよ。今は平和でもいつ何が起こるかわからない。近衛だって安全とはいえないのよ」
 イレーヌの声は優しく諭すようようだった。フェルディナンはテーブルに目を落とした。伯母は弟をこんなに心配している。不意に彼の心を寂寥感が襲った
「伯母上、貴女は昔からヴィクトールばかりを可愛がって私には冷たかった… それは‥私がデュルフォー少尉に似ているからですか? 悲しい事を思い出させるから?」
 顔を上げた彼を見てイレーヌは驚いたように目を見開いた。
「まあ! 何を言うの、フェルディナン。貴方もヴィクトールも同じように愛していますよ」
 伯母は怒ったように言った。
「申しわけありません、伯母上、どうかしていました。忘れてください」
 自分の心の中から出た言葉だとも思えず彼はうろたえ素直に詫びた。
「フェルディナン、貴方を愛さない人間など一人もいませんよ。ええ、一人もね」
 イレーヌは真っ直ぐ彼を見た。伯母の声は優しかった。



「フェルディナン、よく来た。来ないかと思っていた」
 ロドリグの笑顔は久しぶりだった。
「たまにはお前とゆっくり話すのもいいかと思ってな」
 フェルディナンはガルダン家のホールを見渡した。ここはいつも賑やかだが今日はひっそりとしている。ロドリグから話があるから二人で会おうと言ってきた。少し気持ちが沈んでいた。こんな時、友の存在はありがたいと思う。
 ロドリグの後に続き客間に入るともう一人の客が目に入った。
「ロドリグ、二人だけと言うから来たのだぞ」
 フェルディナンは友に非難の目を向けた。
「まあ、いいじゃないか。彼女も心配しているのだよ」
 会いたくない女だった。
「フェルディナン、久しぶり」
 華やかなドレスを着た女が手を出した。彼女は今日も美しく化粧が一段と濃かった。
「久しぶりだったな。イザベル」
 フェルディナンは女の手を取った。
 イザベルはロドリグのサロンの常連で彼のサロンには欠かせない存在だった。彼女は人目を引く華やかな顔立ちと明るくさっぱりとした性格を持っていた。世話好きで社交的でユーモアもあり冗談が通じ乱痴気騒ぎが大好きだった。どんな男とも訳隔てなく付き合ってくれ、男離れもよかった。彼女の気を引こうと沢山の男達が競い合ったものだ。彼女は男達の間を蝶のように飛び回っていたが本命はフェルディナンという事は誰の目にもはっきりと分かっていた。
 フェルディナンがイザベルと関係を持つのはあっという間だった。だが彼女は他の女達のように彼を束縛しなかった。イザベルのような女は気が楽だった。彼女は男というものを知っている。男が何を求め何を嫌うか知っている。彼女は多くの男達と付き合いながらもすれた感じがしなかった。それどころか男を知る度に魅惑的になっていくようだった。彼女は奔放で男のどんな欲望にも応えてくれた。
「フェルディナン、貴方最近どうしたの?」
 椅子に座るなりイザベルが聞いてきた。
「どうって、何が?」
「何か気に入らない事でもあるの?」
 彼女は長椅子に座ったフェルディナンの側に座り彼の顔を見ながら身体をすり寄せてきた。
「何もないさ」
 彼には彼女の言う言葉の意味が分からなかった。
「おかしいわよね」
 彼女は振り返りロドリグに確認するように言った。ロドリグは自分の座る椅子を長椅子の側に寄せようと動かしている最中だった。
「おかしくなんかないよ」
 フェルディナンは気分を害されたというようにイザベルの目を避け息を吐いた。
「フェルディナン?」
 彼女の手が彼の顔を捉えた。唇に柔らかいものが触れる。
「止めろよ、イザベル、今はそんな気分じゃないんだ」
 彼は鬱陶しそうに彼女の手を払いのけた。
「やっぱり変よ」
 彼女はもう一度ロドリグを振り返った。
「フェルディナンは病気なんだよ」
 ロドリグは長椅子に寄せた椅子に座ると言った。
「病気? どこが悪いの?」
 イザベルがロドリグに聞く。
「ここかな」
 ロドリグは身体を乗り出して女の頭を指で突っついた。
「それとも、こっちかな?」
 彼は女の胸のもっとも高い膨らみを指先で押した。
「まあ、嫌ね」
 女が笑った。
「イザベル、フェルディナンの病気が治るまでは私が相手だ」
 ロドリグはそう言うと立ち上がり女を抱上げた。彼は彼女を自分の椅子に連れ帰ると膝に抱き女の胸に顔をうずめた。女が声をたてて笑う。ロドリグも笑いながら顔を女の胸から首すじさらに耳へと移していった。
「いやよ、ロドリグったらくすぐったいわ」
 イザベルは甘えたような声を出した。それは男の気持ちに火をつけるのに充分だった。女の吐息を合図に男と女の唇が触れ合った。
 男は女の唇を舐め口を開かせる。口を開いた女が舌を差し出す。フェルディナンの目の前で男と女は互いの唇を吸いあい舌を絡ませていった。吸い付いたものが離れる度に湿った音がする。その音は執拗に続いた。
 フェルディナンは目の前で繰広げられる愛の行為をぼんやりと眺めていた。自分は今までこんな事をしていたのか。女と男の睦み合いを見てこんなに白けた気分になったのは初めてだった。なぜだか自分でもわからない。だがここにいては邪魔な事くらいわかった。彼は席を立った。

 
 ホールに向かったフェルディナンに誰かが呼びかけた。
「待てよ」
 ロドリグだった。彼は息を切らせていた。
「フェルディナン、お前まさか一人の女に絞ろうってんじゃないだろうな?」
 帰ろうとする友を引きとめるよう唐突に彼は言った。
「やめろ。お前には似合わない。それに‥ 大変なことになる」
 ロドリグの深刻そうな顔にフェルディナンは笑いかけた。
「大変な事? 意味が分からないな。それよりイザベルはどうしたのだ?」
「俺の忠告は聞いたほうがいい」
 ロドリグは真顔で言った。
「ありがたいが、いらん世話だ」
 フェルディナンは友の忠告を軽くいなした。早くイザベルの所へ行け。途中で放っておかれた女は気が短いぞ。
「お前は少しもわかっていないな。俺が心配しているのはお前じゃない。女のほうさ。女達の嫉妬を一身に浴びるのはお前が選んだ女だ。間違いなく彼女は呪い殺される」
「大袈裟な」
 フェルディナンは息を吐き出し笑った。いつも彼は大袈裟だ。
「ロドリグ、心配する事は何もない。今は少し静かにしていたいだけなんだ。それに‥」
 彼は言葉を切って友を見た。
「それくらい、護ってみせる」
 ホールを出ようとするフェルディナンをロドリグが制した。
「甘いな。護るってどうするつもりだ。女をみくびると恐いぞ」
「決まった女がいるわけではない。勝手に推測するな」
 フェルディナンは目に力を込め友を見返した。親切心なのだろうが煩わしいと思った。だがフェルディナンを見返すロドリグの目も真剣だった。
「今はな。だが決めた女ができたら人前に出すな。そして彼女の為に他の女とは関係を続けろ。それが護るということだぞ」
「罪人のように?」
 フェルディナンは笑おうと思ったが出来なかった。レアイは罪人ではない。
「そうではない。お前が身辺をすっかり整理して、つまらない男だった、くだらない奴だったと彼女の代わりに女達の中傷を受けられるようになるまでだ。それまでは大切な女は隠しておけ。わかったな!」
 彼はそう言うとフェルディナンの背中を押した。



「移り香 W」に続く


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