2004 1/10
挿絵 市川笙子さま

移り香 W




 差し込む光と活気のある声が夢を砕く。
 眩しさを避けるように寝返りを打ちうっすらと目を開ける。寝台の上に波打つ絹が目に入った。フェルディナンは腕を伸ばしそれを抱くように引き寄せた。
 夢の中で女を抱いていた。暖かい水がまわりを満たしている。身体の自由がきかないほどけだるく気持ちがいい。目を閉じ浮遊感に身を任せていた。横になったからだの上に女のからだを感じた。女は水の音をさせながら首から胸へ、肩から腹へと手を動かす。その動きは水と一体になる。皮膚に触れるのは水なのか女なのか… 確かめようとして腕を伸ばした…
 身体に快感が残っている。沈み込むように重い心地よさと甘い感覚は夢の世界に未練を残す。彼は夢の余韻にしばらく身体を預けた。
『大切な女は隠しておけ』
『他の女とは関係を続けることが護る事…』
 ロドリグの言葉が耳によぎった。途端に夢は遠のき今日という日が姿を現す。彼は口の中で女の名を呟いた。


 朝から騒々しかった。
 今日はヴィクトールの近衛の軍服が仕上がる日だ。母が親戚の伯母達を集めて昼食会を兼ねた披露目の会を開くようだ。イレーヌ伯母は勿論、マティルド伯母やアネット伯母、ジュヌヴィエーヴ伯母、ルイーズ伯母、父方母方の親族が一堂に集った。
 ヴィクトールは幾分うんざりした面持ちで、しかし始終笑みを絶やさずに伯母達の目の前で言われるままあちらを向いたりこちらを向いたりしてみせていた。
「本当に似合うわ」
「近衛の中でも一際目を引くでしょうね」
「宮廷中、大騒ぎになるわ」
 伯母達は口々に弟を誉めそやした。
「マルグリット、貴女が羨ましいわ。こんなに素敵な息子達に囲まれて…」
 伯母達の視線はヴィクトールだけでなく部屋の隅から披露目の会を眺めているフェルディナンの方にも注がれる。
「フェルディナンのお嫁さん探しも大変でしょうね」
 マティルド伯母が彼の方を振り向いた。今日はいつも伯母にくっついている従兄妹のリディーが来ていない。やれやれと思う。
「あら、もっと先の話よ」
 母は笑いながら弟を見ている。
「まあ、呑気なことを言って、マルグリットったら。すぐよ」
 マティルドが母の肩を肩で押した。
「ヴィクトールにだっていつそんな話が来るとも限らないわ。マルグリット、長男は急いだほうがいいわ」
 マティルドの進言を母は笑いながらやり過ごす。
「母上、もうよろしいでしょうか」
 ヴィクトールは疲れきったように母に言った。
「アレクサンドルと約束があるのです」
 弟の言葉に母は頷いた。
「そうだったわね、ヴィクトール。もういいわ、着替えていらっしゃい」
 母はそう言い弟を客間から出した。

 ヴィクトールに続いてフェルディナンも二階へ上がった。弟は忙しそうに新しい軍服を脱ぐとそれを椅子の背に掛けた。真新しい白い近衛隊少尉の軍服。きらびやかな金モールと派手な縁飾り。戦いの為の服ではない。
 近衛隊は容姿、家柄選びぬかれた者ばかりだ。それはフランス王室を警護しその威厳を一層知らしめる為のものだ。フランスにもう戦いはいらない。これからは和平をいかにもたせていくかの時代だ。その為にはフランスは大国であらねばならない。フェルディナンは部屋に入ると軍服に手をかけた。宮廷のあちこちで見かける近衛隊の軍服。それは軍服でありながら、デザインの粋(すい)を集めたように洗練されかつ優美だ。
 この輝くような白。若い将校達にさぞ似合うだろう。だがこれが最も似合う人物を彼は知っていた。
「ヴクトール、近衛隊に女がいるそうだが知っているか?」
 フェルディナンの言葉に弟の動きが止まった。彼は結びかけていたクラバットの手を止め不審気な瞳を兄に向け言った。
「そんな事なら私より兄上の方がよくご存知でしょう」
 ヴィクトールは横目で兄を見た。その瞳には慎重そうな光が宿った。全くこの兄は油断も隙もない。一体何が言いたいのだ。
 フェルディナンは明らかに態度の変った弟を眺めながら手に持った軍服の金モールをいじった。
「知らないな。軍服を着た女に興味はないのでね。美しければ話は別だが… 美しい女か?」
 弟の側に寄りその顔を覗き込む兄の視線。それを避けるようにヴィクトールはさらに外を向いた。男といえ兄といえこの目には不思議な魅力を感じる。数々の女達がこの視線に陥落させられてきた。
 兄の意図は一体何だ。変な方向に話が行く前に早く兄をまかなければ‥。ヴィクトールは気のない素振りで視線を宙に向けた。
「私も、知りませんね」
「そうか。お前は士官学校で一緒だったのではないか?」
 兄はヴィクトールの顔を追いかけてくる。
「軍隊に美しい女がいるわけないでしょう!」
 ヴィクトールは苛立ちを隠せず声を荒げた。
「知らないのに美しくないとなぜわかるのだ?」
 兄はヴィクトールの苛立ちとは反対にひどく冷静に言った。ヴィクトールは兄の前で不用意な事を言ったと悟った。彼は不利な立場を挽回するべく澄ました顔でクラバットを結びなおした。
「特に何の印象もありませんでした。美しければ人の心に残るでしょう。残るものが無かった、それだけです」
 弟は兄の視線を避けるように鏡の中のクラバットの様子を確かめている。
「そうか」
 フェルディナンは素直に引き下がった。彼は鏡の中の弟に微笑みかけた。これ以上弟を追いかけるのはやめておこう。
「どこに行くのだ、ヴィクトール」
 弟は手袋をはめ外出の支度だ。
「アレクサンドルの叔父上が海軍からお戻りになるので話を聞きに言ってきます。今度大佐におなりになったそうです」
 弟は先ほどの突っかかるような態度とは裏腹にひどく朗らかに答えた。
「そうか、楽しんでこい」
 フェルディナンの言葉にヴィクトールは嬉しそうに頷き兄に微笑みかけた。
「昼食会は兄上にお任せします」
「上手く逃げたな」
 睨みつける兄の視線をかわし弟は兄の耳元に口を寄せた
「兄上、マティルド伯母さまには気をつけた方がいいです」
 怪訝そうなフェルディナンにヴィクトールが言った。
「リディーを兄上の花嫁にと、お考えのようですよ」
 弟にしては随分早熟ではないか。さっきの仕返しか?
「父上がその気になる前に早く手を打った方がいいです」
 ヴィクトールはそれだけ言うと笑いながら逃げていった。
 フェルディナンは廊下まで出ると階段を降りていくヴィクトールの背中を見つめた。ホールに母が待ち構えていて弟にキスをしている。一刻も早く行きたい弟を離すまいとするかのように両手で顔をはさみ何か言っている。キスをしながらもう一言。一言いながらもう一度頬を寄せる。
 時々彼は思う。自分はジェローデル家の跡取として大切にされているが母が本当に愛しているのはヴィクトールではないか…。
 フェルディナンは弟の部屋に戻ると脱ぎすてられた軍服を手に取った。この純白の軍服が血に染まることがあったら母はどんなに嘆くだろう。

 弟でありながらフェルディナンはヴィクトールに頼もしいものを感じていた。弟はその存在の全てをかける対象を持っている。毎日学校に通い、毎年首席を通し、そして今年から近衛隊配属だ。弟は近衛隊勤務をとても楽しみにしている。士官学校に行っている時は弟がこれほど忠義者だとは思わなかった。彼はニヒルな批判精神を持っていた筈だ。一体どこで変わったのか。
 軍服を眺めていると浮かんでくる顔がある。忠義者といえばあのオスカル・フランソワ。いつもアントワネット王太子妃から離れず付き従っている。
 フランスが大国であるためには戦いよりも政略結婚だ。敵国に嫁いできた王太子妃を護るにはオスカル・フランソワはうってつけだ。アントワネット王太子妃はオスカルを信頼している。次期王妃の寵愛を受けながらオスカルは宮廷にありがちな打算とは無縁そうだ。それほどの自信をオスカルからは感じる。それはきっと彼女が自分と自分の進むべき道を信じているから。信じる者の横顔は美しい。一点の曇りもないまっすぐ前を見すえる瞳。信念を持ちながら優しさの溢れる表情。彼女は自分の使命を喜んでいる。そこに意義を見い出し自分をかけている。それはヴィクトールにも重なる。そんな人間をフェルディナンは羨ましいと思った。

 伯母達との昼食会も滞りなく済んだ。イレーヌ伯母はレイアの家での事がなかったかと思わせるほどいつもと同じ陽気に振る舞っていた。だが時々彼と目が合うと目で語りかけてきた。何度めかにマティルド伯母が気づいたが彼女は彼とイレーヌを交互に見比べる事しか出来なかった。
 伯母達と午後のお茶まで付き合いフェルディナンはようやく自室に引き上げた。彼にはこれから今日最大の行事が待っていた。
 フェルディナンは鏡に向かい自分の顔を眺めた。顔を確かめるように右に向け左に向けてみた。彼は鏡を見ることは滅多に無かった。鏡に映る自分の顔を眺めるよりも女の表情に映る自分を見る方が好きだった。彼は髪に手をやり束ねていたリボンを解いた。彼は髪をいつも無造作に束ねるだけで丁寧に梳(くしけず)ることはあまり無かった。ジェローデル家には理髪理容専門の下男がいたが彼に厄介にならなくても彼の髪は手で梳(す)くだけで見事な艶を保っていた。だが今日はきちんと整えたほうが良いだろう。
 髪を整え着替えを済ませるとフェルディナンは香水の瓶を取り出しほんの僅かを手首につけた。ジェローデル家に出入りする香水の調合師が特別にフェルディナンの為に調合した香水。彼は男性用の香水を専門に調合していた。
「人にはそれぞれ匂いがあります。勿論、男性と女性では違うし同じ人間でも年齢によって変化します。香水は匂いを消す為の物でもなければ変える為のものでもありません。その人の持つ香りと絡み合って人の脳に忘れられない印象を残す為の物です。どうぞ毎日少しずつお使いください。貴方の肌にすり込まれ貴方の匂いになります。より自然で、あくまで引き立て役に徹するように作ってみました」
 彼は香水の瓶を机の上に置いた。
「名前は『フェルディナン』 貴方以外の人間にこれは合いませんし、作りません。フェルディナンさまの香りです。お気に召さなければやり直しますが…」
 彼は自身たっぷりに瓶を押しやった。
「私は長い間調合してきてこれほど心躍ったことはありません。どうぞお試ください」

 鏡の前に立つフェルディナンに誰かが声をかけた。
「まあ、フェルディナンさま! どちらにお出掛けですか?」
 侍女のエレナだった。
「オペラ座だ」
 彼はエレナを見て笑った。
 いつも見慣れたフェルディナンだったがエレナは頬が熱くなるのが分かった。美しさや身だしなみにおいて彼は完璧だった。髪の毛から爪の先まで神経が行き届いていながら力んだところが少しもない。容姿だけではなかった。若くあったが彼には成熟した男の色香がありそれは女の本能にたやすく滑り込んできた。
「今日はいつにも増して素晴らしいですわ」
 エレナは両手を口元に当て上気した頬を染めながら目を輝かせ言った。
 しなやかな身体は美しい姿勢を保つ。彼の優雅でありながら大胆な身のこなしには溌剌とした若さと精力が備わっていた。
「そうか」
「ええ、きっとオペラ座中の人が舞台ではなくフェルディナンさまを見ますわ」
 彼女はますます頬を上気させた。
「大事な用事なのでしょうか?」
 エレナの質問は使用人としては立ち入っていた。だがフェルディナンはエレナに近づくと彼女の肩を抱き額に口づけた。
「そうだよ」
 エレナは驚いたように目を見開き真っ赤になった。
 フェルディナンの出て行った先を見つめエレナは部屋の壁に体をもたせかけ溜息をついた。階下で彼女を呼ぶ鈴音が聞こえたが彼女はしばらくの間そのままでいた。


 フェルディナンはデュルフォール男爵家にレイアを迎えに言った。今日はレイアとオペラ座にいく約束をしていた。
 玄関先に出てきたレイアはいつもより華やかに髪を飾りつけうっすらと化粧を施していた。彼女は肌が美しくそのままでも充分綺麗だったが紅をさした姿は艶やかだと思う。ドレスも白に地模様の入った豪華なものだった。
「よくお似合いです」
 彼は彼女を見て心からそう言った。レイアはは白がとてもよく似合った。
 フェルディナンは手を差し出し彼女が馬車に乗るのを助けた。今までどれほどの婦人にしてきたことだろう。だがたったそれだけのことでありながら心がときめいた。自分の中に見つけた初心な心に彼は驚いていた。


 馬車はパリに向った。
 オペラ座はパリの一大社交場だった。毎日何かしらの演目が開かれ貴族だけではなく多くの人々がやってきた。そこはオペラや舞踊、観劇だけでなく社交目的で多くの男女が訪れる場所だった。彼らは舞台だけでなく、客達の衣装や宝石類や連れの様子にも多くの興味を持っていたし、音楽よりも扇の陰で交わされる会話の方が面白いこともあった。
 馬車の中でフェルディナンは今日の演目についての話をした。もしレイアが観劇が好きならパリにはもっと面白い芝居を見せるところがあった。芝居だけではなかった。パリにはあらゆる楽しい遊戯と贅沢と刺激があった。彼の心はこれから彼女と過ごすための計画が次々と閃きそれは今日の楽しみと共に興奮を誘った。彼女を埋め尽くすほどの花や宝石やドレスを買う事もできる。それから… 彼は自分の声が熱を帯びていくのが分かった。

 パリに入ったところだった。突然馬車が音を立てて止まった。勢いで前のめりになったレイアがフェルディナンの膝に手をついた。
「どうしたのだ。気をつけろ」
 彼は窓から顔を出し御者に言った。人だかりがしている。
「道の真ん中に馬車が止って動きません」
 御者は舌打ちしながら言った。
 一人の男が止まっている馬車の窓に向って何か言っている。怒っているようだ。彼は馬車の車輪を指しながら窓から中に手を入れ何かにつかみかかろうとした。馬車が動こうとする。途端に人々が押し寄せ馬車を引きとめる。男は今度は御者台に乗り込むと御者をそこから引きずり出そうとした。これはただ事ではない。フェルディナンはレイアに中にいるよう言うと馬車を降りた。
 人込みをかき分けるように前に進むと人々の怒声の中、馬車の車輪の側にうずくまった少年が見えた。彼は馬車の車輪に腕を挟まれ動けないでいた。シャツが血に染まっている。
 彼の腕は馬車の車輪に絡まり抜けない。それなのに馬車は動こうとする。何とかしなければ‥ 彼が思った時だった。
「早く腕を出さなければ」
 一人の人間が少年の前にしゃがみ込み車輪の中に頭を突っ込んだ。
「ここを壊して」
 彼女は顔を上げると誰にともなく言った。レイアだった。彼女の要請に応えるように一人の男が持っていた工具で車輪を壊し始めた。
「気をつけて、慎重にね」
 彼女は自分の手で少年の腕を庇うように覆った。腕一本を引き抜くに足りる隙間ができた。レイアは壊された車輪の隙間から少年の腕をそっと引き抜いた。彼は腕が自由になったのに気づいたのか顔を上げた。年のころ十二、三才だろうか。貧しい身なりの少年だった。
 彼の腕は血だらけだった。それを見た少年は恐ろしそうな叫び声を上げて泣き出した。
「誰か水差しに水を!」
 レイアはもう一度顔を上げ叫ぶように言った。
「フェルディナンさま、どうぞ抱いてあげて。そして大丈夫と励ましてあげてください」
 レイアが少年の頬をフェルディナンの方に押した。彼はレイアに言われた通りに少年の頭を抱いたが励ます事は出来なかった。
 レイアは立てた膝の上に少年の腕を乗せると血だらけのシャツの裂け目に手をかけそれを徐々に引き裂いた。少年がうめき声をあげる。
「今すぐ手当てするからね」
 彼女はそう言うと剥き出しになった少年の腕をこちら側に向けた。彼の細い腕は肩から肘にかけ内側が無残にもザックリ裂けていた。フェルディナンは人間の皮膚の内側を見たのは初めてだった。そこは真っ赤な肉で溢れ血が流れだしていた。彼は思わず目を背け少年の頭をより強く抱えた。
 レイアは真剣な表情で少年の腕の傷に顔を近づけた。傷からは止めどなく血があふれ彼女の手やドレスを濡らしていった。彼女は頭から髪留めのピンを抜いた。そしてそれを持つと一点を見つめながら慎重に傷口の間にピンを差し入れた。ピンの切っ先がそこに刺さっていた木片をはじき出した。一つはじき出すと彼女はもう一度傷口の隙間に目を凝らした。
 フェルディナンは少年の無残な傷からは目を反らしレイアを見つめた。彼女のまっすぐ見つめる目は真剣で見たこともない厳しさを込めていた。固く引き結ばれた唇。白い横顔はみるみる上気していった。
 頭上から叫び声が聞こえた。上から眺める者達が声を上げながら遠のいていく。辺りにはこの事態に気づいたのか立ち去る者、覗き込む者でごった返した。
 誰かが水差しに入った水を差し出した。レイアはそれを認めるとフェルディナンに少年の腕を持っているように命じ少年の傷口に少しづづ水を注ぎ込んでいった。沢山の血と共に泥や砂粒が流れ出ていった。彼女は水差しを彼に預けるともう一度少年の傷を覗き込んだ。
「痛いけれど我慢してね。一回で済ませるから」
 彼女はそう言うとドレスの下に手を差し入れ中からペチコートをむしり取った。それに水を少しばかり浸すと少年の傷口にそっと挿し入れた。フェルディナンに抱かれ彼の胸に顔をつけた少年がくぐもった叫び声を上げる。
「ごめんなさい」
 彼女は言うとふき取るようにペチコートを取り出した。そこにはおびただしい血と共に泥や砂粒が一杯ついていた。レイアはもう一度何かを確かめるように傷の中を覗き込んだ。やがて彼女はフェルディナンの胸にもたれている少年の頭を撫でた。
「頑張ったわね。偉いわ」
 次に彼女はもう一度スカートの中に手をやると今度はもっと大量のペチコートを切り出しそれを細長く裂いていった。そしてその一本を捻りひも状にすると少年の腕の上部を締め上げるようにして結びつけた。結び目には扇を差し入れ止めつけた。次に少年の傷口をぴったり合わせ細長く切った布で手早く巻いていった。
 フェルディナンは少年の頭を抱いたままレイアの手つきを眺めていた。それは躊躇う素振りもなく的確に動いていった。彼はレイアが馬車の車輪の側に座り込んだ時からずっと彼女を見ていた。この時のレイアはいつものたおやかで控えめで陰のある顔ではなかった。神々しいほどにきらめき上気した頬は燃え上がるようだった。無残な傷を見ながらフェルディナンは心が躍るような高揚を感じた。レイアは美しかった。これほどの美しい横顔は見たことがなかった。興奮で胸が苦しいほどだった。
「フェルディナンさま、馬車をお貸しください」
 レイアの声に我に返った。
 彼女の蒼い瞳がまっすぐ彼を見た。気おされるような強いきらめき。薔薇色の頬に噛みしめていた唇は血のように紅かった。
 フェルディナンは頷き、少年の頭を抱いたまま立ち上がった。途端に回り中に立っていた野次馬達がばらけた。彼らは一斉に叫び声を上げ逃げまどった。人々はフェルディナンや少年を見ていなかった。彼らは指差しながら後ずさりした。気を失う婦人、道端で吐く者もいた。彼は後ろを振り返った。そこには両手を血に染めレイアが立っていた。人々は血だらけになった彼女の白いドレスを見ていた。

 馬車は傷ついた少年を乗せパリの街を走った。御者はレイアの指示通り馬を走らせた。彼女は少年の頭を肩に乗せ目を閉じていた。馬車の中は無言だった。
 フェルディナンは腕を組みレイアを見つめた。彼女は彼の視線を避けるかのよう目を閉じている。彼は最後に見た異様な光景が忘れられないない。人々のレイアを見つめる目…。まるで異端の者を見るようだった。少年よりも血に染まったのは彼女だった。洗い流した鮮血が純白の絹に染み込み白との鮮やかな対比を見せる。
 立ち上がり周囲の様子に初めて気づいたようなレイアはほつれた髪をかき上げると水差しに残った水で手を洗い出した。フェルディナンは少年を抱いたまま胸のポケットからスカーフを取り出すと彼女の頬をそれで拭った。彼女の顔にもうっすらと血が付いていた。

 馬車は彼の知らない場所で止まった。
「さあ、降りて」
 レイアは少年を抱きかかえるようにして馬車を降りた。蒼ざめた少年の顔が苦痛に歪む。彼女は一つの建物の前に立つと呼び鈴を鳴らした。しばらくすると戸が開いて一人の老人が顔を出した。
「もう、帰るところだったよ」
「お願いです。どうぞ見てあげてください。馬車に轢かれたのです」
 彼女は少年を抱え数段の階段を登った。老人は訝しげな目でフェルディナンを見ていたが彼にも入るよう促した。
 フェルディナンはレイアに続いて階段を登り低い扉をくぐった。草か何かを干したような、燃やしたような匂いがした。彼は部屋の中を見渡した。そこは全て木で作られた小さな部屋だった。壁の周りにぐるりと作り付けの椅子があり出入り口とは別に一つの扉があった。
「おやおや、完璧な応急処置ではないか」
 老人は少年の包帯を見るなり言った。
「さあ、こっちへ入りなさい、見てあげよう」
 少年は老人が開けた扉の中へ入れられた。
「どうぞここでお待ちください」
 レイアに言われてフェルディナンはそこで立ったまま彼らが出てくるのを待った。
 扉の中からは先ほどの老人の呟くような声とレイアの声が聞こえ次に少年の叫び声が聞こえてきた。強い匂いが漂い金属の重なり合う音が聞こえた。少年の泣き声と彼を力づけ励ますようなレイアの声。そこでなされていることを想像するとフェルディナンには耐えられないような時間だった。
 長い時間が経ち扉が開いた。もうすっかり精も根も尽き果てたような少年は先とは違う包帯を巻かれ幅広の布で腕を吊られていた。
「私はもう帰るよ」
 老人は言いながらレイアに小さな包みを手渡した。
「後は私が…」
 彼女はそれを受け取ると老人を送り出した。少年は疲れきったように椅子に座り込んだ。
「フェルディナンさま、もう一度馬車をお貸しください」
 まだ一仕事残っていた。彼は少年をおぶって馬車まで運んだ。女を抱き上げることはあったが子供を背負うなど初めてだった。
 彼は馬車の椅子に少年を座らせた。血の気の失せた真っ青な顔だった。可愛そうに…。フェルディナンは少年の額にかかった髪を撫でた。その時気を失ったように見えた少年が目を開け微笑んだ。こんな時になぜ彼は微笑んだりするのだろう。フェルディナンは不思議だった。彼は感じた事のない想いで胸が熱くなった。

 レイアが少年から聞いた行き先を御者に告げる。辺りが闇に包まれる中、馬車はゆっくりと走り出した。
 馬車の止まった場所はパリの中心地のようだった。狭い路地が入り組み延々と続いている。道の際まで家々が立ち並び辺りには悪臭がたち込めていた。道も壁も触れる事さえ躊躇われるほど汚かった。
「ここだよ」
 少年は一つの戸を指差した。フェルディナンが先に降り黒い戸の前に立った。呼び鈴がなかったので手で戸を叩いた。それだけで戸は激しく揺れ外れそうになった。
 中で何かが動く音がして女の声がした。
「ピエールかい?」
 彼の返事を待たずに戸が開き中からみすぼらしいなりの女が顔を出した。彼女はフェルディナンを見ると腰を抜かさんばかりに驚き後に飛びのいた。
「ひえー! 貴族の旦那さま、どうかお許しください! お許しください!」
 彼女は飛びのいた場所から這うようにやってくると床に這いつくばってフェルディナンの靴先に頭を擦りつけた。
「うちのピエールが何かしでかしたのでしょうか。どうぞお許しください」
 彼は事の成り行きがさっぱり分からず女から遠ざかるように一歩身を引いた。
「かあさん、俺だよ」
 フェルディナンの後から顔を出した少年を見ると女は大声を出した。
「ピエール! お前って奴はこんなに遅く帰ってきて一体何をやらかしたんだい!」
 女は立ち上がった。
「かあさん、俺、馬車の車輪に引っ掛けられて怪我したんだ。この人達に助けてもらったんだ」
 少年の声は甲高く薄暗い部屋に響いた。女は少年の腕に巻いた包帯に気づいたようだった。同時に少年の横に立つレイアの血だらけの服にも気づいたようだった。女の顔に別の驚きが走った。
「お前! ピエール! 大丈夫なのかい!」
 女は今度は少年の両足に抱きついた。
「ピエール! 何て事を! 何てことを!」
 女は声を上げて泣き出した。
「大丈夫だよ、母さん。ほら見て、ちゃんと手当てして貰ったんだ」
 少年は母親であろう女の前に腕を突き出し顔をしかめた。レイアがやってきて彼の腕を押さえた。
「動かしてはだめ」
 レイアは床にへたり込んだ女の側に膝を付くとゆっくりと言った。
「大丈夫、心配いりません。でも一週間は腕を動かさないように大事にしてください。今夜は熱が出るかも知れません。痛みも戻るかもしれません。これはお薬です。二時間おきに飲ませてあげてください」
 女は空ろな目を左右に動かした。事態がよく飲み込めないようだ。レイアはピエールの肩に手を置き顔を見ながら言った。
「お薬をちゃんと飲んでね。それから明日も傷を見てもらいに行きなさい。場所はわかる?」
 彼女はピエールの髪を優しく撫でる。彼は頷いた。
「今日は良く頑張ったわ。ゆっくり休んでね」
 レイアはピエールの腕にそっと手をかけた。
 フェルディナンは二人を見つめながらその後にがらんどうのように開いた暗い空間が気になった。
 部屋の隅に流しとかまどがあった。反対側の隅には木でできた粗末なベットが置いてあり部屋の中央には今にも壊れそうなテーブルがあった。ここはホールであり厨房であり寝室なのだろうか。ここに彼らは住んでいるのだろうか。剥き出しの石の床、灯りは一本の蝋燭のみ、家具とはいえない粗末な道具。ここは人間の住む所ではなかった。

 母親に代わって少年が見送ってくれた。
「お兄さん、ありがとう」
 馬車に乗ろうとするフェルディナンを引き止めるようにピエールは片腕で彼の胴に抱きついた。彼の腹に顔を擦りつけると少年は顔を上げた。
「ずっと僕を抱いていてくれてありがとう。だから我慢できた」
 見上げる少年の瞳はつやつやと光っていた。フェルディナンは屈み込み胸にピエールを強く抱き寄せた。彼に何か言おうとし何も言えなかった。
 ピエールはレイアにも礼を言った。貧しいが礼儀正しい子供だった。彼女は少年の髪を整えるようにかき寄せ何か言っている。レイアの優しい横顔は慈愛に満ちていた。
 

 ピエール少年を手当てした場所へ戻った。レイアは入り口の錠に鍵を差し込むと扉を開け部屋の中に入った。無言だった。
 フェルディナンはレイアの後について彼女の様子を窺った。レイアは両脇からドレスの襞を寄せるようにして血の付いた部分を隠そうとしていた。彼女はうな垂れたまま言った。
「フェルディナンさま、せっかくのお誘いでしたのに… 申し訳ありませんでした…」
 レイアの白いうなじは折れそうだった。 
「何を言うのです」
 フェルディナンはレイアの肩を掴んで彼女を自分の正面に向けた。彼女はまるで何かを恥じているようだった。少年を救ったのは彼女ではないか。他の誰がこのような事をできただろう。あのような大怪我を見た事のない自分でも彼女の取った行動が的確で勇気のあることだとはわかる。それなのにレイアはまるで悪いことでもしたような表情をしていた。
「貴女がいなければ彼は助からなかった」
 レイアは下を向いている。床を見なければならない理由がどこにあるのだ。彼は彼女の顎に手をかけ上向かせた。
「顔を上げて… 貴女は素晴らしい事をしたのですよ」
 レアイはフェルディナンの手に手をかけるとそれをそっと外した。
「ありがとうございます」
 彼女そう言うともう一度背を向けた。
「フェルディナンさま、申し訳ありませんが家まで送ってください」
 彼女の細い肩が震えていた。
「わかりました」
 フェルディナンは素直に従った。本当はもっと彼女に言いたいことがあった。
 レイアの肩が震えている。その震えは次第に大きくなっていった。どうしたことだろう。彼は回り込み彼女の横顔を見た。上気して美しかった顔は蒼ざめ唇も白かった。彼女は何を震えているのだろう。フェルディナンはレイアの横顔に手を伸ばした。
 この震えをとめてしまいたい。寒いのなら暖かく… 不安なら安心を… 恐ろしいのならそれは幻と… 
 彼女の瞳が彼を見た。彼はゆっくり近づき彼女の唇に触れた。それは冷たく小さく震えていた。
 彼女を暖めたい‥ 自分の生気を送りたい…
 女をものにする為でもかけ引きでもなかった。ただそうしたかった。
 ゆっくりとした口づけだったが彼女の唇からは甘やかな匂いがして次第に彼は心の昂ぶりを抑えることができなくなっていった。そうだ、ずっとこうしたかった… 触れてしまったらもう戻れない。今までどの女にも感じた事のない切ない情欲が彼を煽った。彼の口づけは深くなっていった。
「フェルディナンさま!」
 レイアが彼の胸を押した。
「どうか…」
 彼女は片手で胸元を押さえ息を吐き出した。彼女は目を伏せ彼から逃げるように上体を屈めた。彼はもう一度レイアの肩をつかみ起こそうとした。だが彼女は首を左右に振り苦しそうに言った。
「どうか、家まで‥ お送りください」



「移り香 X」に続く




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