2004 2/21
挿絵 市川笙子さま

移り香 X




 血とはなぜこれほどまでに人を不安と恐怖に落とし入れるのだろう。あの色だろうか。あれほど鮮やかな色は他にない。
 フェルディナンは腕を上げ目の前に袖をかざしてみた。一体いつ付いたのだろう。真っ白な絹の襞は縁を浸していたのではないかと思うほど紅く染まっていた。鮮やかなその色はたとえ僅かであってもどこかが決壊している事を示す。危険をいち早く知らせる為、神は体内を満たす命の水にこのような色をつけたのだろうか。
 突然、後から引きつったような叫び声が聞こえた。
「フェルディナンさま、血が! どこを怪我なさったのです!」
 誰かが飛んで来てフェルディナンの袖に手をかけた。振り向いた彼の目に喘ぐようなエレナが映った。彼女は震えていた。
「どこも怪我などしていない」
 彼はエレナに近寄り唇に指をあてた。
「騒ぐな。誰にも言うな」
「でも…」
 エレナは目だけでフェルディナンの袖を見た。彼女の目に涙が溜まるのが見えた。
「怪我をしたのは私ではない」
 彼は両袖をまくり彼女の目の前に腕を晒してみせた。
「…御召し替えを」
 彼女は涙の残る声で言うと後に回りフェルディナンの上着を脱がせた。血の染みは服の裾にも付いていた。
「人を殺めたのでもない。安心しろ」
 彼は含みを持たせた目で笑いかけた。
「フェルディナンさまがご無事なら私は何も…」
 エレナは上着を手に掛けると膝を屈めた。涙の滴が落ちたように見えた。
「着替えとお湯の用意をします。お部屋でお待ちください」
「母上は?」
「お休みになりました」
 フェルディナンはエレナの肩に手を置いた。
「わかっていると思うが、母上にこの事は言わないで欲しい」
「かしこまりました」
 エレナはさらに膝を折り彼の前に頭を下げた。


 朝日の差し込む部屋には禍々しさや畏れをもたらすものは何も無かった。フェルディナンは起き上がるとシャツを脱ぎ捨て寝台を降りた。朝の空気はひんやり肌を刺した。季節も変ろうとしている。彼は窓辺に寄りながら両手で首元を押さえた。規則正しい拍動が手に伝わってくる。その手を胸に下ろし自分の体をゆっくり撫でていった。これが肉体というものなのだ。自分の胸を見た。今までどれほどの女が肩や腕に触れてきただろう。だが彼が自分の身体を意識する事はなかった。健康であればその存在など忘れてしまう。だがそこには確実に命が宿っていた。

 珍しく朝食の席についたフェルディナンに微笑みながらマルグリッドが言った。
「今日は早いのね」
 彼は母に笑みを返しながらエレナを見た。彼女はいつもと変らぬ表情で忙しそうだ。フェルディナンの方を見ようともしない。これでいい。
「はい。出かける用事がありまして‥」
 彼は手をテーブルの上に出してみた。袖口の絹は艶やかな光沢を見せている。
「そう」
 母は頷くとヴィクトールに顔を向けた。
「ヴィクトール、宮廷への出仕はもうすぐね。お父様もお慶びですよ」
 母は弟の髪をなで頬に触る。弟は風のように爽やかだ。


 食事が済むとフェルディナンは馬でデュルフォール男爵家へ向かった。ヴェルサイユの外れに向かうと朝のテーブルの上には無かったものが見えてくるようだった。緑の濃い古びた館。それは同じ貴族の家でありながら自分の家とは全く違っていた。
 馬を庭先に繋ぎ植え込みを横切り扉の前に立ち呼び鈴を鳴らした。人が出てくる気配がない。彼は空を見上げしばらく待った。内側で音がし控え目に扉が開いた。隙間から一人の老女が顔を出した。
「お嬢様はお出掛けです」
 彼女はフェルディナンが何か言う前に急いで言った。
「どちらへ行かれたかわかりますか?」
 彼の問いに女は黙って首を横に振った。
「私は料理番の女で何もわかりません」
 
 フェルディナンは馬をパリの方向に走らせた。レイアの行く先は大体わかる。秋へ移ろうとする日差しが道を照らしていた。ヴェルサイユからパリに通じる道。通い慣れた道だった。
 彼は馬を飛ばしながらパリに通っていた頃を思い出した。
 あまたの貴婦人達と或いは男友達と豪華に仕立てた馬車に乗り、パリの盛り場や劇場や邸宅に通った。そこはいつもまばゆい光が踊り刺激と活気に満ちた場所だった。一晩パリにいるだけで恋の機会はいくつもあった。
 今夜の相手は誰にしよう。彼は女の表情を見るだけで女が何を求めているかがわかった。優しく愛をささやいてほしいのか、拒みながら徐々に陥落させてほしいのか、或いは、いきなり突き上げるように肉体を蹂躙してほしいのか。彼が振り向くだけで幾つもの媚態がそこにあった。
 耳元で風がうなり光は溶けたように後にさがる。
 暗闇の中で空ろに動く不安そうな眼。彼の脳裏に洞窟のように暗い部屋が映った。あの部屋で人が生活している。何となく気が急いた。一刻も早くレイアに会いたかった。

 彼は目的の場所にたどり着くと石段を登り扉に手をかけた。錠がかかっていた。呼び鈴を鳴らしてみたが誰も出てこなかった。だがレイアはきっとここにいる、確信があった。
 彼は建物の裏に回りこんでみた。木立が繁っていたがそれが途切れた所に小さな木戸があった。それを押すと視界が広がった。青い空を背景に教会の尖塔が見えた。小さな教会だった。教会の前にはいくつもの植え込みがありそれは中庭に作られた畑のようなものに続いていた。
 畑の中に人がいた。しゃがみ込んで何かを摘んでいた。彼はその人物の前に歩み寄った。気配に女が顔を上げた。
「ここだと思った」
 彼の言葉にかごを持ってレイアが立ち上がった。
「薬草を摘んでいるのです」
 彼女は落ち着いた声で言うとかごの中の草を手に乗せた。
「これは傷の化膿を止める効き目があるのです」
 フェルディナンはレイアの様子に少しばかり安心した。昨夜のように怯えた彼女はどこにもいなかった。彼は手を伸ばしレイアの持っているかごから一つ草をつまみ上げてみた。強い匂いがした。
「薬草など摘んで貴女はここで何をしているのですか?」
 この質問が彼女を困らせるだろうという事は察しがついた。だが聞きたかった。
「私はここの手伝いをしています」
 レイアは顔を上げ朗らかに言った。
「手伝い? ここは‥?」
「モランド先生の診療所です」
「貴女が診療所の手伝いを?」
「ええ」
 フェルディナンはレイアの答えがそれほど意外ではなかったことに気がついた。それは少年を手当てしたことだけではなかった。
 デュルフォール男爵家の書斎で見たレイア。そこで彼女は血のついた軍服に手を触れた。叔父とはいえ顔も知らない男の血、それは恐くはないのかと思った。だが彼女はそれを愛しそうに撫でていた。まるでそこにある穴をふさいでしまいたいというように…
『叔父が死んでからこの家は不幸続き…』
 レイアの言葉が頭をよぎった。もし今ヴィクトールが死んだりしたらジェローデル家は奈落の底に沈んでしまうだろう。あの白い軍服を血に染めてはならない。
「叔父上は…」
 フェルディナンの声にレイアの瞳が大きく見開かれた。
「貴女の叔父上はどんな方だったのです?」
 聞きたかった。自分によく似た彼… 彼がどんな人物か知りたかった。
「私が知っているのは、叔父はとても勇敢で優しかった、そしてイレーヌさまをとても愛していた、それだけです」
 レイアは下を向き感情のこもらぬ声で答えた。
「お父上から聞いたのですね」
 フェルディナンの言葉にレイアは首を横に振った。
「父が叔父の話をした事はありません。これがモーリス叔父さんだよと教えてはくれました。でもそれ以上は何も… 父にとって叔父の事は辛くて話せないようです」
 では、誰が彼女に話したのだろうか。
「伯母からデュルフォール少尉のことを聞きました。貴女は誰からイレーヌ伯母の事を聞いたのですか?」
 彼女には聞きたいことが山ほどあった。彼女の顔に時折浮かぶ悲しみの陰。何かを聞くことがレイアの気持ちを傷つけることがないようにと思いながら彼は聞かずにはいられなかった。
 レイアは顔を上げ遠くの空を見ながら話し出した。
「私は時々訪ねてくれるジルベール叔父さんが大好きでした。彼はとても優しくてモーリス叔父の事を良く知っていました。いつも私と弟にお土産を持って来てくれお茶だけ飲むとモーリスに会ってくると言ってあの部屋に入るのです。私はジルベール叔父さんに遊んでもらいたくて扉の隙間から顔を出すのです。すると彼は手招きをして…」
 レイアは言葉を切りフェルディナンを見た。その顔には見たこともない笑みが浮んでいた。
「こんな話が面白いですか?」
「続けてください」
 彼は先を促した。
「彼はいつも部屋の長椅子に腰掛けてあの絵を見ていました。そして私を呼んで隣に座らせるとモーリス叔父さんの話をしてくれるのです。モーリスは友達思いの勇敢なやつだった。命令に忠実でありながら危険な事はまず真っ先に自分がやる、そんなやつだった」
 レイアは薬草のかごを持ち直し摘み上げた葉をならすようにそっと撫でた。
「彼は私の子供らしい質問に笑いながら答えてくれ色々な話をしてくれました。幼かった私はまるで冒険物語でも聞くようにその話を聞いたものです。モーリス叔父は医学の心得もあって軍医殿と一緒に傷病兵の手当てもしたそうです。灯りを持ちながらいつもモーリスの手を見ていたから知っている。彼はそう教えてくれました」
 かごの中の葉を撫でながらレイアは微かに笑った。
「ジルベール叔父さんは自分の体を示しながら負傷した兵の傷の様子を話してくれました。そしてそれをモーリス叔父がどのように手当てしていったかも… 叔父達は昼は前線に出て夜は傷ついた者を看護した。そこには一兵卒だとか将校だとかの階級はなかった。ジルベール叔父さんの話は少し恐かったけれど私の心にいつまでも残りました」
 ゆっくりと噛みしめるように話すレイアの横顔は抜けるように白く、蒼い瞳はどこか遠くを見つめていた。
「私は時々ジルベール叔父さんの話を聞きながら彼の膝の上で眠ってしまう事もありました。私はベットで目が覚め彼が帰ったと知るとひどくがっかりしたものでした。でも彼は半年に一度は訪ねてくれました。モーリスに会いにきたよって…」
 レイアは目を細め懐かしそうに言った。口元に小さな笑みが浮んだ。だがそれも一瞬だった。
「次第に私はジルベール叔父さんがいない時もあの部屋で過ごすようになりました。あそこで見つけた手紙も読みました」
 レイアはフェルディナンの様子を確かめるように彼を見た。彼は眼で先を促した。
「最後に訪ねてくれた時、私は彼に聞きました。モーリス叔父さんはどこにいるの? 彼は地図を開いて場所を指し示してくれました。ここにモーリスは眠っている。いつも持っていた愛する人の小さな肖像画、それを胸に抱いて十字架を握っている。そう言って彼は泣きました。私はジルベール叔父さんが泣くのを始めて見ました」
 レイアは淡々と先を続けた。
「彼は叔父の髪を切り取り軍服とサーベルと手紙を持ち帰ってくれました。イレーヌさまにも会ってくれました。イレーヌさまに叔父の遺品を届けてくれたのです。でもイレーヌさまは何ももらってはくれなかったと言っていました」
 イレーヌから聞いた話と重なった。
「伯母はデュルフォール少尉の死が信じられなかったようです」
 フェルディナンはイレーヌの代わりに言いたかった。伯母の部屋で見た彼女の悲しみ。イレーヌはデュルフォール少尉を心から愛していた。伯母は差し出された箱を受け取らなかったと言った。彼の死に今も向き合えないでいるイレーヌ。デュルフォー少尉の身体から切り離された髪の毛。それを受け取ってしまったら彼はイレーヌの中で死んでしまうのだ。
「イレーヌさまのお心はわかっているつもりです」
 レイアはゆっくりと頷いた。
「私は地図の上に顔を伏せ声を上げて泣くジルベール叔父さんを見ていました。モーリスは何としても帰らなければならなかった。愛する人がいたのだから… 彼はまるで縋るように泣いて、泣いて…」
 レイアはそこで言葉を切った。
「それが最後でした。もう彼はモーリス叔父さんに会いに来なくなりました。でもそれはジルベールのせいではなかった…」
 レイアは半ば独り言のように言った。
「彼は軍隊に戻ったのですね」
 フェルディナンは伏せたレイアの目を見た。デュルフォール少尉の戦友、彼は今どうしているのだろう。友の死を乗り越え今もどこかの軍にいるのだろうか。
 レイアは静かに首を横に振った。
「いいえ、ジルベールは体を悪くしていたので除隊していました」
 レイアの言い方に微かな違和感を感じた。
「彼は… 誰です? 姓は何というのです?」
 フェルディナンは質問した。レイアにモーリスの事を教え、イレーヌに遺品を届けたデュルフォール少尉の戦友。彼はどこにいるのだ。
「ジルベール・マルセル・ド・シェニエです」
 レイアは目を伏せたまま答えた。名に聞き覚えがあった。初めて聞く名ではなかった。どこで聞いた? フェルディナンはめまいにも似た軽い衝撃を感じた。何がそうさせるのか。彼は記憶を探った。
「先ほど彼はもう来なくなったと言いましたが違います。何年も経って私はもう一度ジルベールに会いました。私は彼と結婚しました」
 思い出した。シェニエ伯爵。レイアに殺されたという彼女の夫。
「軍を離れていたのですね。彼は‥ どこが、悪かったのですか?」
 フェルディナンは早まってくる胸の鼓動を押さえ込むべく落ち着いた口調で問うた。
「長い間心臓を患っていました。私はそんなことも知らなかったのです。母が亡くなってあの人は現れた。私に結婚を申し込み‥ 私は、受けた‥」
 レイアは一つ一つ区切るように言った。瞳に陰がよぎる。時々彼女の瞳に救いようがないほどの悲しみが表れる。彼はそれを見るとたまらなく不安になった。
『得体の知れない薬を飲ませていた』
 ロドリグの言葉がよぎった
「貴女は今薬草を摘んでいる。彼の為に薬をとは考えませんでしたか?」
「もちろん薬は貰っていました。心臓に効く薬をくれるというお医者さまは残らず探したつもりです」
「貴女はシェニエ伯の臨終の場にいましたね」
 フェルディナンはためらう事をしなかった。
 レイアの顔色が変わった。彼女はフェルディナンを見ると顔を戻し一点を見つめたまま抑揚のない声で言った。
「あの夜‥ あの人は急に苦しみだして… 恐かった‥ ジルベールは息をしていなかった。私は…」
 斜めになったかごからいくつもの葉がこぼれ落ちた。
「胸を強く押すと心の臓が止まった人でも息を吹き返すことがあると聞いてやってみた。でも、駄目だった。ジネットさまに止められたけれど‥ 私も、必死だった。でもだめだった。あの人は蘇ってくれなかった。だめだった‥」
 レイアの瞳に涙が盛りあがるのが見えた。彼女は両手で顔を覆った。かごは地面に落ち葉が散らばった。
 フェルディナンはレイアの両手首を持ち顔から離した。彼女は涙の伝った顔を俯けた。フェルディナンに両手首をつかまれ首を落とすその姿は罪人のようだった
 声を殺しレイアは泣いている。体が沈み込む。手首を鎖につながれ罪を負うかのように。うつむいた頬を幾筋も涙がつたった。
 フェルディナンは膝を折り彼女の体の下にかがみ込んだ。支えるようにレイアの身体を抱きとめ言った。
「レイア… 私と結婚して欲しい」
 彼女は涙に濡れた目でぼんやりと彼を見たが膝を折ると地面の上に落ちたかごを取り上げ散らばった薬草を拾い始めた。
「突然不躾な申し込みをして申しわけありません。でもどうか考えて欲しい。お願いです」
 フェルディナンはレイアに倣い膝を折り彼女と目の高さを揃えた。それほど遠くない未来に自分が誰かに結婚を申し込む時があると思っていた。その時は出来るだけ用意周到に、大掛かりな演出と永遠に心に残る愛の言葉を携えて、女を歓喜の涙と幸福の絶頂に導いてやるつもりだった。誰かはわからないがいつか永遠に愛する女が現われる。彼はそう信じていた。
 自分の口から出た結婚という言葉は彼を夢中にした。声に出す事によって自分が長い間求めてきたものがわかったような気がした。
「ありがとうございます。私のような者を…」
 彼女は彼を見ずに言った。
「本気にしていませんね。私のいう事など信用できないとお思いですか?」
 彼女の仕草は彼の言葉を真剣に聞いているようにはみえなかった。結婚を申し込むにはあまりに不用意で突然すぎたことを半ば後悔しながらフェルディナンはレイアの肩を起こした。
「信用できないなど… フェルディナンさまの真心をありがたく思っています」
 レアイは彼を見て微笑んだ。彼の心に明るい光が差し込んできた。結婚という言葉には女を惑わす力があるのだ。レイアは少し驚いただけに違いない。
 だったら… 彼が言いかける前にレイアが言った。
「私はブロイ神父の修道会に入るつもりでいます。来月マルセイユから出る船に乗るつもりです。布教と医療と子供の教育の為に」
 レイアは涙の跡のついた顔にもう一度笑みを浮かべた。
「何だって!?」
 思ってもいない返事だった。彼は動転した。
「行かせない! そんな所に行かせるものか!」
 フェルディナンはレイアの肩をつかんで揺すった。彼女が痛みで顔をしかめたのにも気づかなかった。
「なぜそんな所に! 一体何を考えているのですか? 貴女はそんな所に行くべきではない。それより…」
 修道会より彼女に相応しい場所があるはずだ。彼は大急ぎで考えを巡らせた。彼はある光景を思い出した。百科全書の医学のページを眺めているレイア。真剣なあの表情。
「大学に行ったらどうですか?! 貴女は医学が勉強したいのでしょう。大学できちんと勉強したらどうです?」
 この事になぜ気づかなかったのだろう。フェルディナンはレイアの肩をつかんで立ち上がらせた。
「大学へ?」
 彼を見上げるレイアの表情に今までと違ったものが浮んだ。
「そう、大学です。大学できちんと勉強するのです」
 フェルディナンはレイアの身体に腕を回し自分の正面を向かせた。彼の頭にもう一つの考えが浮んだ。
「そして… そうだ、病院を建てよう! 貴女も見たでしょう。貧しくて医療も満足に受けられない人がこのフランスに沢山います。彼らの為に病院を建てよう。私もできるだけのことをします」
 レイアに向かって言いながらフェルディナンは自分の心が昂ぶってくるのがわかった。あの洞窟の中に閉じ込められている人達を思った。痛みで疲労困憊し汗で額に髪を張りつかせた少年。フェルディナンが手を触れただけで彼は笑った。あの時感じた不思議な感覚。それが少し分かったような気がした。
『お兄さん、ありがとう。ずっと僕を抱いていてくれてありがとう。だから我慢できた』
 少年の声が耳に響いた。


 フェルディナンはパリから取って返すとヴァラン邸の門をくぐった。
「まあ、フェルディナン、貴方って人はいつも突然現われるのね。息を切らせて今度は一体何事なの?」
 イレーヌが迎えてくれる。
「今、お茶を運ばせるわ。待って、そう急かさないの。話はちゃんと聞きますよ」

 ヴァラン家の客間で一口茶をすすりフェルディナンは切り出した。
「伯母上、レイアに結婚を申し込みました。どうか伯母上の協力を仰ぎたい!」
 イレーヌは取りあげかけたカップを受け皿に戻した。弾みで茶がこぼれテーブルの上の敷物に大きな染みを作った。
「さすがの私も驚いたわ」
 イレーヌは胸を押さえた。
「お願いです。叔母上!」
 フェルディナンは椅子から身を乗り出すとイレーヌの前にひざまずいた。それはいつも彼がイレーヌに願いごとをする時の癖だった。
「いつも貴方にねだられると何でもいう事を聞いてきたわ。でもね、出来る事と出来ない事があるわ。その目はやめなさい、フェルディナン。そうやって見上げても駄目よ」
 イレーヌはカップのかわりに扇を取り出すとそれを広げて煽ぎだした。
 フェルディナンはイレーヌのドレスを両手で掴んで言った。
「父と母が反対したら叔母上が味方になってください!」
 レイアは結婚経験のある女だった。しかも夫殺しの嫌疑までかけられている。両親が反対するのは分かっていた。
「フェルディナン、落ち着きなさい。それでレイアは何と言ったの。貴方と結婚すると言ったの?」
 イレーヌは扇を動かす手を止めずに言った。
「それはまだ‥」
 イレーヌはうな垂れたフェルディナンに向かって扇で風を送ってやった。
「ほらごらんなさい。貴方、少し頭を冷やす必要があるわ」
「でも、きっとその気にしてみせます!」
 フェルディナンは目に強い決意をみなぎらせ立ち上がった。イレーヌは脇机に肘をついてその上に頭を乗せた。
「ああ、こんな事になるんじゃないかと思っていたのよ」
「叔母上! 貴女は体裁を繕ったり見栄をはったりという世間の詰まらぬしがらみとは無縁の方だと思っています。どうかお力添えを!」
 ジェローデル家とデュルフォール家では家柄にしろ財産にしろ釣り合いが取れないことは分かっていた。貴族の結婚は家の為だという事もわかっている。ジェローデル家の跡取として彼には使命があるのだ。自分の意思だけではどうにもならないことがあるのだ。それが分かっていながら彼はどうしてもレイアと結婚したかった。
「貴方とレイアがそう望むのなら私だって願ってもないと思いますよ」
 イレーヌは分かっている。フェルディナンは心のどこかでほっとするものを感じた。かつてイレーヌが嫁くべきところだったデュルフォール家。そこから花嫁を迎え入れることが出来れば伯母は喜んでくれるだろう。
「でもね、フェルディナン、あの娘(こ)の意思を踏みにじることだけはしないと誓ってちょうだい。レイアは何か言っていなかった?」
 イレーヌの目はレイアの志を知っていた。
「ブロイ神父の修道会に入ると‥ そしてマルセイユから船に乗ると‥」
 レイアの言葉を反芻するだけで胸が塞がれる気がした。
「フェルディナン、貴方も男なら女の生き方を見守るくらいの度量を持ちなさいね」
 味方だと思っていたイレーヌらしからぬ言葉だった。彼はそれに反抗するように言った。
「もちろんそのつもりです。彼女は医学を勉強したがっている。彼女は大学に行くべきだ」
「まあ、貴方は大学を餌にあの娘に結婚をせまったの?」
「餌だなど! 叔母上いくら貴女でも‥」
 フェルディナンは語気を荒げた。
「ごめんなさい、フェルディナン、あの娘が選んだ道なら私は何も言わないわ。でもあの娘を愛しているのならあの娘の意思を真っ先に考えてあげてちょうだい」
 イレーヌは痛みをこらえるかのように言った。



 半分捕まった恰好だった。
「いつ呼んでも来ないしな。今日は女を送った帰りだ。誰もいないから来いよ。話したいことがある」
 ロドリグに連れられ彼の家に行った。
「見たぞ。パリで」
 ロドリグはフェルディナンが客間の椅子に座るやいなや言った。
「やってくれたな、あの女」
 ロドリグは興味深いものでも見るような笑みを浮べフェルディナンを見た。
 多分彼はオペラ座に行く途中で遭遇したことを言っているのだ。だが別に見られたからといってどうということはない。フェルディナンもロドリグに微笑みかけた。
「観劇よりはるかに面白い体験ができた」
「お前も変わったな。たまには違うものでも食べたくなったか」
 鼻先で笑うロドリグに報告してやりたい気分だった。
「レイアと結婚する」
 だがロドリグに驚いた様子は見られなかった。
「気でも狂ったか? それともあの女の毒が効いてきたかな?」
 ロドリグは喉の奥で笑いながらますます面白いという表情で足を組みなおし椅子の背に身体をもたせた。
「レイアは人殺しなどではない」
 フェルディナンは冷静に言った。
「きっとそうだろうよ。だが真実などどうでもいいのだ。要は人が彼女をどう思っているかだ」
 ロドリグの含みを持った言い方が気になった。
「あの女の武勇伝は他にもある」
「どういう事だ?」
 侍女が飲物を運んできた。ロドリグは運ばれてきたグラスにブランデーを注ぐとフェルディナンに手渡した。召使いが部屋を出て行くのを見届け彼は話し出した。
「これはレイアが結婚していた頃の話だ。母の知り合いのある娘が子供を産みかけたまま死にそうになった。彼女は三日三晩苦しんで子供が生めなかった。赤ん坊は片足だけ出したまま親子で天国の門をくぐろうとしていた」
 ロドリグはブランデーの入ったグラスを持つとそれをゆっくりと動かした。グラスの中の液体が揺れブランデーの匂いが部屋に香った。
「見舞い客はお別れにいったようなものだ。医者も見放した後だった。見舞い客の中にジネットに連れられたレイアがいた。医者を呼ぶべきだと主張するレイアを皆が嗜めた。足から、しかも片方の足から生まれてくる子は生まれないと医者は言った。もし無理に引き出そうものなら赤ん坊の体は千切れてしまうと。だがレイアはそんなこと聞きはしなかった。彼女は姿をくらましたと思ったら戻ってきて、布団を剥ぎ女の股の間に顔を入れた。そしてもう白くなった赤ん坊の足をゆっくりとねじるようにして腹の中に納めたんだ」
 ロドリグは捻りあげるような手つきでその様子を演じてみせた。彼は続けた。
「レイアは女の腹をさすりながら女に何やら薬を飲ませたか嗅がせたかしたようだ。すると半分死にかけたように横たわっていた女がうめき声を上げた」
 ロドリグは言葉を切って目の前に座る友を見た。フェルディナンの表情は段々険しくなってくる。
 沈黙が流れた。
 ロドリグの話はいつも芝居がかっている。フェルディナンはロドリグの口上に苛立ちを感じた。彼はそう言った話し方を楽しんでいる。彼の話はどこか信用できない。だがそれは作り話にしては妙な臨場感があった。フェルディナンはそれをいまいましく思いながら気のない素振りで両腕を組んだ。だがロドリグから目を離す事が出来なかった。話の先が聞きたい。
 フェルディナンの表情に満足したかのようにロドリグは続けた。
「見舞客は女のうなり声の凄まじさに倒れそうになったという。女に悪魔がついたと言う者もいた。そして、女が一際高い悲鳴を上げたかと思うと赤ん坊は、頭から‥生まれてきたんだ」
 ロドリグは乗り出していた身を椅子に預けるとフェルディナンを見て笑った。彼はもったいぶった様子でブランデーのグラスに口をつけた。
「信じられないな。男のお前がどうしてそんなことを知っているのだ」
 フェルディナンは胸の中に充満してくるものを飲み下すように言った。ブランデーの匂いが不快でたまらない。
「女はお産の話になると夢中になって、そこに男がいようがそんなことは忘れてしまうのさ」
 ロドリグは両手を広げ肩をすくめてみせた。
「その娘はお前の従兄妹か?」
 こんな話を聞かせたロドリグに敵意を示してやりたかった。
「母のサロンの客さ。誰かは知らない」
 ロドリグは素っ気無く言った。
「ベットの上は血だらけさ。子供を産んだ事のある女が卒倒する中、レイアは平気だった。それだけではない。レイアは産まれて声も上げない赤ん坊をひどく手荒に扱ったそうだ」
 ロドリグの声は舞台の説明でもするように淡々としていた。だが内容は惨かった。フェルディナンにはその光景が想像できた。
「それで‥ その親子はどうなったのだ」
 フェルディナンは腕を組み下を向きながら言った。
「元気さ。その時生まれた赤ん坊はもうすぐ三歳になる」
「だったら良かったではないか」
 フェルディナンは声に怒気がこもるのを止めることができなかった。
「そうなのだろうな。けれど誰もレイアに感謝はしていない。それどころか彼女は血を見るためならどんな残酷な事でも平気で出来る女だと評判さ」
 フェルディナンは黙った。馬車の回りに集った人々の様子を思い出した。
「多分あの親子はあのまま天国に送ってやったほうが良かったのだろうよ。見舞い客の前で血みどろの生を繰り広げるよりは静かに天国の門をくぐった方がよかったのだ。レイアにとっても…」
 フェルディナンは唇を噛んで友に問うた。
「ロドリグ、お前はレイアがどんな女か知っていたな」
「まあね。面白い女だとは思った。サロンに誘ってみたがあの女は客間でゲームなどしなかった。図書室を見せてくれと言っていつも本を読んでいた。好きにさせたさ。まあ本もたまには読んでもらったほうが喜ぶというものだ」
 ロドリグは天井を向いてひとしきり笑うとフェルディナンに顔を戻した。この目は好きだ。目の前の友の燃えるような目を見てロドリグは思った。



 怒っている。険しさを増した目はフェルディナンの端正な眉や高い鼻梁を際立たせる。もっと怒らせてやりたいとさえ思う。だが彼は大切な友人だ。
「飲めよ」
 ロドリグはブランデーのグラスを押した。
「お前がレイアと結婚するのは勝手さ。だが彼女をジェローデル家の奥方にするのなら家から一歩も出すな。サロンを開かせクラブサンかハープを弾かせろ。さあ、飲め。お前、愛する女を護ってみせると言ったな。だったらレイアをパリの貧民窟に出かけさせたり得体のしれない草を摘ませたりすり潰したりさせるな。それが出来るなら結婚しろ」
 フェルディナンはグラスを取り上げ一気にあおった。
「レイアにはやりたいことがあるのだ」
「フェルディナン、あの時あの親子が助かったからこんな事言っているられるんだぞ。医者の言う事を聞かずに勝手な事をしたレイアは危険な人物という事になっている。まして親子が死んでみろ。証拠不十分で釈放とはいかないぞ」
「レイアは… どうしても助けたかったんだ」
 フェルディナンは下を向いて言った。吐く息が熱い。身体の内側が燃えるようだ。
「あの女は怪我人や病人を見ると黙っていられないようだな。血を見ると勝手に身体が動くようだ。だから家に閉じ込めておけと言ったんだ」
「レイアにはきちんとした教育を受けさせる」
 フェルディナンは顔を上げて答えた。ロドリグの顔が揺れて見えた。
「なるほど、それも良いだろうさ。それでどうするのだ? まさか貧民相手の慈善病院でもやるつもりではないだろうな」
 ロドリグは椅子を立つとフェルディナンの側にやってきて彼の肩を突いた。フェルディナンの身体は椅子の背に沈んだ。
「慈善がやりたかったら他にもやり方はあるだろう。金は出しても手は出すな。それが慈善というものだ。フェルディナン、お前ジェローデル家の奥方に汚い病人の膿を切らせたり、でき物だらけの赤ん坊に薬を塗ったりさせるつもりか? そんなことしてみろ、ジェローデル家は貴族界の爪弾きになる」
 ロドリグは友の肩に手をやったまま身をかがめ言い聞かせるように言った。
「お互いに不幸になる。わかるか? 結婚は家に釣り合う相手としろ。そうすれば彼女の援助がいくらでも出来る。お前はそのくらいの聞き分けは出来る男だ。レイアとは愛人関係でいろ。そして彼女の為に何でもしてやれ」
 フェルディナンは頭を反らせ椅子の背に乗せた。友の声が遠くで響いた。



「移り香 Y」に続く


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