2003 11/8
挿絵 市川笙子さま

移り香 U




  女とは愛すれば愛するほど愛を返してくれるものだ。
  柔らかい肌と甘い匂い。
  女の情は深く、肉体の欲は貪欲だ。だがそれに溺れることは男女の双方に至福をもたらす。
  優しくされることを望みながら女は乱暴に扱われる事も好む。
  その性癖は男の欲望に一致する。神はこれほど愛を込めて男と女を作ったのだ。

  どの女にも美点がある。男はそれを探し出し褒めればよい。
  小さく可憐だった花が見違えるように咲き誇る。
  美しい花は男の歓びだ。
  花はそこらじゅうに咲き乱れている。
  そして摘みあげられるのを待っている。



 今日は朝早くから響き渡る剣の音で起こされた。フェルディナンは寝台脇に整えられた服に着替えるとまだ眠い目を擦りながら机の上に揃えられた手紙の列に目をやった。一番手前の若草色の手紙を取り上げる。うっかりしているとこの列はどんどん増えていく。彼はそれらに返事を書くことはなかったがどれも丁寧に読んでいた。彼は手紙にペーパーナイフを差し入れながら窓に寄り下を見おろした。弟のヴィクトールが友人達と剣をあわせている。
 弟は剣が得意だ。射撃も巧い。いや、何でも出来るのだ。剣の勝負はあっという間に決まる。だがすぐに次の挑戦者が現れる。だからいつまで経っても音が途切れない。
 彼は手紙を取り出しそれを広げたがそこに目を遣らずもう一度窓の下を眺めた。何人もの士官学校の生徒達の中で弟の美しさは一際目を引いている。身のこなしも良い。ヴィクトールは卒業したら近衛連隊への入隊が決まっている。彼の噂は既に宮廷中に広まっていたが弟が実際に伺候するようになってからがフェルディナンは楽しみだった。きっと注目を独り占めするに違いない。だが弟は若いせいかどうも頑なさが取れていない。もう少し洗練された優雅さが必要だと思うが、軍人ならそれも良いか… 彼は窓の下を見ながら笑った。多分宮廷の貴婦人達がヴィクトールを鍛え上げてくれる。男も女も異性によって磨かれるのだ。
 彼は手紙を机の上に置くと階下に降りた。居間で母が一人お茶を飲んでいた。
「あら、フェルディナン、起きたの?」
 母は優しそうに微笑み彼を見た。
「おはようございます。母上」
 彼は丁寧に朝の挨拶をした。母の前ではきちんと身なりを整え彼女の気に入るようの振舞っている。母は満足そうに頷くと目の前の椅子に座るようにうながした。
「何か食べる?」
 朝食はすっかり済んでいた。彼は頷いた。
「母上が付き合ってくださるのなら」
 母は笑いながら隣の部屋に呼びかけた。
「エレナ」
 待ち構えていたように侍女が顔を出す。エレナは母のお気に入りの侍女だ。
「ただいま、お持ちいたします」
 何もかも心得たように彼女はさがる。フェルディナンがいつ起きても、いつ帰ってきても大丈夫なように全てが手配されている。
 マルグリットと向かい合い彼は居間で遅い朝食を取った。母はゆったり微笑み息子を眺める。彼は窓に目をやった。相変らず剣の音が聞こえる。
「ヴィクトールは頑張っているようですね」
 母の気に入りそうな話題を出した。
「最終学年もどうやら首席のようだし… いつものメダルとは別に学校も何か考えているようですね。入学から卒業まで首席で通したのは開校以来初めてだそうですから」
 母は黙って微笑んでいる。フェルディナンは母が自慢だった。美しいマルグリット。最初の恋は母にだった。母に抱かれた時の良い匂いとなめらかで冷たい首筋の感触。彼の手を取ってくれる白い細い手。いつまでも忘れない。神聖で清らかな美しさを母は持っている。
 母はおとなしくたおやかな印象でありながら中々豪胆であることを彼は知っていた。フェルディナンの放蕩ぶりに時として苦情が持ち込まれることもあったが母はどんな時でもやんわりとそれを収めてしまう。そして表情だけで彼に分からせた。
 彼は母の前では品行方正に振舞っていたが、母はその上辺を易々と見破っていた。そしてあるがままの彼を受け入れていた。フェルディナンはそれを知っていた。父だったらこうはいかない。父は彼の放埓ぶりを笑って見ていたがそれ以外のことには厳しかった。『ジェローデル家の跡取として』が父の口癖だった。家の名に恥じる事があれば父は息子であっても容赦はしないだろう。
 母は小さな頃から彼がどんな事をしようと怒ったり嗜めたりしなかった。彼女は二人の息子を同じように愛情深く、つまり甘やかして育てたが息子二人はそれぞれの個性を色濃く発揮していった。だがどちらもジェローデル家の息子として社交界では評判をとっていた。マルグリットはそれがたまらなく自慢だった。
 乳母もいたが息子達は次々変わる乳母よりも母になついた。マルグリットは窓辺の椅子に座り彼らを膝に抱き、そこで眠らせた。小さな声で歌を歌い彼らの寝顔を眺めるのが彼女の幸せだった。
 若さ真っ盛りのフェルディナンは自分を試すかのような様々な試みに躊躇いがなかったが母の信頼は常に彼の心にあった。
「フェルディナン、イレーヌ伯母さまが新しい絵が入ったから見に来ないかってお誘いくださったわ」
 母が次に何と言うか察しながら彼は僅かになった朝食を口に運ぶ事に専念した。
「久しぶりに行ってみたら?」
「はい」
 母は満足そうに微笑んだ。
「今日の午後皆様を集めてお披露目をなさるそうよ」
 彼は母に微笑みを返す。この家の社交は全て彼に任されている。勿論父や母も義理は果たすが時期当主としての彼の振る舞いに両親は期待している。
 フェルディナンはナプキンで口を押さえると立ち上がった。多少面倒くさい気もするが久しぶりにイレーヌ伯母のサロンに顔を出すのも悪くはないだろう。
「母上、伯母さまにお伝えする事があれば聞いておきます」
 彼は母の前に顔を寄せた。母は黙って首を横に振り窓の外を見た。外ではまだ剣の音が聞こえていた。


 イレーヌはフェルディナンにとっては祖父の妹にあたる大叔母だった。彼女は九人兄弟の一番下であったため兄である祖父よりもフェルディナンの母親のマルグリッドに年が近かった。マルグリットよりいくつか年上でジェローデル家の兄弟より年長の息子が一人いた。イレーヌは一風変った人間で大切な一人息子を長い間勉学の旅に出したまま放っていた。
 彼女の息子エドワールとフェルディナンは家庭での修学が済んだ頃、見聞を広めると称する勉学の旅に出た。彼らは共に諸外国を回り行く先々で新たな体験を積んできた。旅にはお目付け役がいたが自由だった。自由は興奮を生み好奇心を育てる。かつて味わった事のない不便さでさえ楽しいと思った。旅先でいくつも恋をした。別れが次の恋につながった。
 彼らはウィーンに落ち着きしばらくそこに住みもしたが、その後エドワールは世界を見たいと放浪の旅に出かけ、フェルディナンはフランスが一番良いと確信しヴェルサイユに帰って来た。エドワールはヴェネツィアに向かいジェノヴァ、アッシジ、ローマと辿りフィレンツェにたどり着いた。深い歴史とおびただしいほどの絵画や芸術品が彼の心を捕えた。
 フィレンツェにいるエドワールは気に入った絵があれば買い取りフランスへ送ってくる。伯母は彼から新しい荷が届くと大喜びでそれを解き披露目のサロンを開く。この伯母は美術や工芸品に目がなかった。宝飾類も大好きだったが身を飾るものにかけている様子はなかった。彼女の好きなものは職人や芸術家だった。イレーヌは彼らの技を見る為に家に呼んだり何かを作らせることもあった。彼女のサロンには貴族以外の人間が大勢出入りしたた。若い作家や神学を勉強中の学生などもいた。勿論、母のような暇な貴婦人も大勢来ていた。
 館中に彼女が集めた絵画や工芸品が飾られそれらを収蔵する部屋も増えていく。美術品に囲まれ道楽に耽るのもいいがこのままだとエドワールは爵位を継ぐことなど忘れトスカーナあたりに住みつきそうだ。彼は伯母やエドワールのことを考えて笑った。彼女たちは本当に風変わりだった。



 フェルディナンはヴァラン邸の門をたたいた。
「フェルディナンさま」
 出迎えてくれた執事の顔が嬉しそうだ。
「イレーヌ伯母からお招きを受け母の名代で来ました」
 彼は丁寧に挨拶をする。彼は彼の行く所がどこであっても歓迎される事を知っていた。
「まあ、フェルディナン、よく来てくれたわ」
 イレーヌが後から顔を出した。
「時間より随分早いわ。一緒にお客さまをお迎えしてくれるのね」

 イレーヌのサロンはいつも盛況だった。次々にやって来る客達は−この日は婦人客ばかりだったが−フェルディナンがいると分かると驚き、興奮したような声を上げ、歓喜の表情を見せた。彼に挨拶をする為に彼女らは列を作った。彼に手を取られ口づけを受ける。ある者ははにかみ、ある者は嫣然と微笑み、ある者は彼と洒落た冗談を言い合った。
 今日の主役である絵は客間の隅の低い台の上に置かれ覆いを掛けられていた。客達が客間に入り飲物を振る舞われひとしきりしゃべりあった後でイレーヌ伯母が今日の主役を紹介する。彼女はもったいぶった様子で覆いを外していった。
 息を飲むような一瞬の沈黙の後、感嘆のため息が漏れた。キリスト降下の図だった。細長い画布に描かれた十字架から降ろされるキリスト像。生気のない像はぞっとするくらいリアルでありながら圧倒的な神々しさで迫る。足元に嘆きのマリア。フェルディナンは皮膚に細かい戦慄が走るような感銘を受けた。イレーヌもエドワールも芸術品を見抜く目を持っていると思う。人々の口に上るのはため息ばかりだった。素晴らしい絵だと思う。
 フェルディナンは絵の前に並び互いに感想を言い合う婦人達の後で辺りを見回した。これだけの絵の披露をするにしては客が少なすぎないか? 今日は婦人客ばかりだし、絵の品評にかけては絶対の自信を持ち長い講釈を聞かせてくれるマルボー子爵もいなかった。
「今日は婦人だけの集まりなの」
 イレーヌはフェルディナンにそっと囁いた。彼の思いを察したかのようなタイミングだった。彼は唇を引き結び厳しい目で伯母を見た。それなら母が来るべきではないか。母も知ってか知らずか人が悪い。
 イレーヌは彼の視線に気づきもしない様子で続けた。
「そうだわ、後で貴方のフルートを聴かせてちょうだい」
 前にいた婦人が振り返った。
「素敵だわ!」
「ジュリエンヌ、伴奏してあげなさいよ」
 ざわめきが波のように広がる。女達の華やかなドレスが重なり合った奥から一人の女性が他の者に手を引かれ進み出てきた。ハープの名手と言われるボンドウィール侯爵夫人だった。
 フェルディナンはいくつかの楽器が出来たが一番得意なのはフルートだった。イレーヌは絵を片付け楽器を用意するよう執事に言った。
「モーツァルトがいいわ」
 大きな羽飾りをつけた婦人がリクエストをする。工芸品とも言えそうなヴァラン家のハープが運ばれてきた。伯母がエドワールのフルートを貸してくれた。それはもう長いこと使っていないので殆どフェルディナンの物のようだった。思い出が頭をかすめる。フルートはエドワールに影響されて始めた。
 ハープの前に座ったジュリエンヌは姿勢を正し小さく頷くと曲の最初の部分を奏でフェルディナンを見た。この曲で良いかと聞いているのだ。彼も目で返事をしフルートに口をつけた。
 ジュリエンヌがハープに手をかける。流れ出る音色は一瞬にして回りの空気を変える。彼女は王太子妃の宮廷音楽会に毎回のように呼ばれ弾いている。しなやかな腕が弦を抱えるように動く。光のしずくのような弦から弾き出される音は脳に染み渡り聞く者の心を溶かす。なめらかに動くしなやかな指先。音は不思議だ。奏でる者の心を映し出す。
 彼はジュリエンヌの音色に合わせるように吹いたつもりだった。だが彼女は目で合図を送ってきた。好きに吹くようにとでも言いたげに… 合わせるのは私… 
 余計な事を考えるのはよそう。自由に吹けばよいのだ。フェルディナンはフルートの音色に身を任せた。音と戯れるのだ。彼はいつもそうしていた。楽しいからフルートを吹く。欲が無いから巧くならない。でも音は自由でどこまでも広がる。共鳴する素晴らしさ。演奏する気持ちよさ。彼女のハープはフルートの響きをどこまでも引き立たてる。フェルディナンは自由に音を響かせていった。

 客達のリクエストに応え何曲も演奏した。婦人達は互いに興奮を鎮め合いながら歓喜の表情を浮かべていた。それが徐々に恍惚とした沈黙に変っていく。
 扇の陰でひっそりと交わされる会話。
「何て美しい…」
「イレーヌ、貴女のサロンは素晴らしいわ」
 ここでは最も年上と思われる伯爵婦人は涙ぐんでいた。

 即興の演奏会も終り客達は帰り支度を始めた。
「貴方と演奏できてよかったわ」 
 フェルディナンはジュリエンヌからそう言われ恥じた。もっときちんと勉強しておけば良かったと思う。自分の腕はそれほどでもない。
「貴方の音は他の人とは違う。今度もう一度合わせてください」
 ジュリエンヌはフェルディナンを見て微笑んだ。彼女は美貌でも鳴らす宮廷音楽界の花形だった。


 客達を見送った後だった。執事が来客を告げにきた。
「デュルフォール男爵令嬢がお見えです」
「そう、私の部屋にお通しして」
 イレーヌがすかさず言った。
 デュルフォール男爵令嬢… フェルディナンは執事の告げた名前に聞き覚えがあった。レイア・クラリス・ド・デュルフォール… ロドリグの館で会ったあの女ではないか?
 夢見心地だった演奏会の余韻はあっという間に吹き飛んだ。客間の扉の陰から執事に案内される女が見えた。金髪にほっそりとした体。あの女だった。間違いない。なぜこんな所に…
 彼女は顔を上げ横顔に嬉しそうな微笑みを浮かべ軽やかな足取りで歩いていた。こちらには気づかないようだ。
 フェルディナンは心臓の鼓動が早まるのを感じた。自分を落ち着かせるように言い聞かせイレーヌに問うた。
「どなたですか?」
 イレーヌは探るような目をして彼を見た。こんな時のイレーヌは恐ろしい。伯母は人の心を見透かしてしまう。
「だめよ、あの娘(こ)は」
 伯母は何やら確信したような目で微笑んだ。彼は何か言おうとしたがイレーヌがそれを遮った。
「今日はありがとう。マルグリットによろしくね」
 それだけ言うと伯母は急いで客間を出て行こうとした。
「お待ちください」
 フェルディナンは彼女の腕を捕えた。伯母の様子はどことなく落ち着かなかった。いつもの伯母らしくない。彼の心に不吉な陰がよぎった。
「私に紹介してくださらないのですか?」
 伯母の腕を捕えたまま彼は問うた。伯母が誰であろうと客を紹介しない事はなかった。彼はもう一度デュルフォール男爵令嬢に会いたかった。なぜか… 分からない。だがもう一度会いたかった。
「駄目と言ったでしょう」
 イレーヌは聞き分けの悪い子供に言うように言った。
「お願いです」
 彼は伯母の腕にかけた手を離さなかった。なぜ今頃デュルフォール男爵令嬢は来るのか…。サロンも終った今になって…。それに伯母は彼女を客間でなく自室に通すように言った。自室に通すほど親しい間柄なのだろうか…。
「彼女とは友人の家で会いました。でも名のり合う事をしていません。どうぞ伯母上紹介してください」
 彼は伯母に頼んでみた。
「友人のロドリグの所で会ったのです」
 正直に言った。途端に伯母の眉間に皺が寄った。
「フェルディナン、貴方まだそんな所に出入りしているの?」
「はい」
 フェルディナンは愁傷そうな面持ちで頷いてみせた。
「ガルダン伯爵には困ったものだわ。ヴェルサイユの若者達が退廃して堕落していくのはロドリグのサロンが影響していると言う人もいるのよ」
「はい。知っています」
 素直に頷く。伯母には逆らわない事にしている。
「貴方には良いお友達なのでしょうがね」
 イレーヌは扇でフェルディナンの肩を撫でた。
「はい。初めてロドリグのサロンに連れて行ってくれたのはエドワールでした」
 伯母はため息をつくと彼を見つめ執事を呼んだ。
「デュルフォール男爵令嬢を呼んできてちょうだい」

 レイアが客間に顔を出した。伏目がちで部屋に入るのを躊躇っているように見えた。フェルディナンはレイアの姿を見るなり高鳴ってくる胸の鼓動を感じた。彼女の俯き加減の白いうなじは細く頼りなげであったがどこか妖艶な感じもした。柔らかく結い上げられた髪は飾りの一つもついていなかったが流れるような美しさがあった。閉じられた唇や揃えられた手は少女のようで清楚な白い小花のドレスが似合っていた。自分より年上にはとても見えない。
「レイア、甥のフェルディナンです」
 伯母が紹介してくれる。
「存じています」
 レイアは軽く膝を折るとイレーヌに挨拶をした。
「フェルディナン・レイモン・ド・ジェローデルです。お見知りおきを」
 彼はレイアの手を取った。彼女は困ったような顔をしていた。彼女の細い手はどこまでも白くうっすらと静脈が浮かんでいた。だが心なしか荒れている様な気がする。貴族の娘の手ではない。それに今まで嗅いだ事のない匂いがしていた。何だろう… フェルディナンは意味も無く高鳴ってくる胸の動悸を抑える事が出来なかった。失礼のないよう細心の注意を払って口づける。
「レイア・クラリス・ド・デュルフォールです」
 彼女の声に顔を上げた。
「私のお友達よ」
 レイアの側に並ぶようにしてイレーヌが言った。あれほど拒んだにしては伯母の様子は悪くなかった。彼女の声は明るくむしろ紹介できる事を喜んでいるようにも聞こえた。フェルディナンは少しほっとした。何だかんだ言ってもこの伯母の物分かりは良いのだ。
「ロドリグの館でお会いしましたね」
 彼の言葉にレイアの頬がほんのり染まった。美しいと思う。愛らしいと思う。彼女の何がこれほど心に響くのかわからないがフェルディナンは心が華やいていくのを感じた。ただ始終レイアは顔を俯けていた。伯母さえいなかったら彼女の顔を上げさせるのに…。だが焦ることはない、自分に言い聞かせる。時間はたっぷりあるのだ。
「それじゃ、フェルディナン、今日はありがとう」
 伯母はあっさりと言った。彼女はレイアの背中に手を回すと部屋を出て行こうとした。
「伯母上…」
 彼は出て行こうとする女二人を見つめた。これから自分も一緒に加わり時間を過ごすつもりだったのに…。イレーヌが振り返った。
「マルグリッドによろしくね」
「伯母上、私はのけ者ですか?!」
 フェルディナンは目に力を込め語気を荒げた。
「女同士の大切な話なの」
 イレーヌは気の毒そうに、しかし素っ気無く言ったが、何かを思いついた様子で戻ってきた。彼は一、二歩、伯母の方に足を踏み出した。
「そうそう、マルグリッドに聞いておいてちょうだい。貴方の家でこの前いただいた鴨のクネル〔挽肉料理〕には何が入っているの? どこにもない味だったわ」
 彼は音を立ててため息をついた。
「伯母上、聞きたければどうぞご自分で…」
「いつも聞こうと思って忘れてしまうのよ。私が知りたがっていたと伝えてちょうだい」
 イレーヌは扇を頬に当て笑いながら言った。


 伯母に追い出され馬で家に向かいながら彼は考えた。レイアはサロンに来なかった。伯母の友達ならサロンに来てもおかしくない。レイアくらいの若い婦人も沢山来ていた。
 彼女の様子は人目をはばかるようだった。それに… そこまで考えてフェルディナンはあることに気がついた。伯母はどこで彼女と知り合ったのだ? レイアは宮廷や他の貴族のサロンで見たことがなかった。デュルフォール家は宮廷に出入りはしていないようだ。ロドリグの話ではそれほど裕福とはいえないようだが… それに今まで一度もレイアの話を伯母から聞いたことが無かった。サロンが終った後自室に呼ぶほど親しいのなら一度でも彼女の名前が出てもおかしくない。伯母とレイアの年齢差なら伯母の知り合いの娘といったところだがレイアと伯母の関係に釈然としないものを感じる。伯母は口は固いが隠し事のない性格だ。何か不安だ。伯母の家から離れれば離れるほど不安になった。ロドリグの言葉が頭を過ぎった。
『あの女は夫を殺した』
『彼女は血の匂いがする』
『何やら得体の知れない薬をシェニエ伯に飲ませていた』
『あの女は魔女』
 フェルディナンは馬の向きを変えた。伯母の家に戻ろうか。だが戻る理由がない。伯母に拒絶もされた。
 彼は来た道を振り返りずっと先を見た。きっと大丈夫だろう。イレーヌは用心深い性格だし執事も召使いもいる。何も心配する事はない。

 彼は家に戻ると自分の部屋の寝台の上に体を投げ出した。目を閉じるとレイアの顔が浮かんできた。伯母の家で向かい合った時はあれほど美しく可憐に見えたがこうしているともう一つの顔を見るようで胸が苦しくなる。
『シェニエ伯は死んだ』
『彼の心臓は止まった』
 ロドリグの言葉が離れない。最も悪いものは最も優しい顔をしているのかもしれない。イレーヌ伯母に何かあったら… 彼は身体を起こした。

 フェルディナンは急いで厩に行った。シモンが彼の馬の手入れしているところだった。
「シモン、また出かける」
 彼の言葉にシモンは驚いたように目を開いたがもう一度彼の愛馬に鞍をつけた。

 フェルディナンは馬の腹を蹴った。一刻も早く伯母の元へ! もう辺りは暗かった。
『毒を塗った長い針で突かれる』
 ロドリグの言葉が頭の中で響いた。


「フェルディナン、どうしたこと?」
 ホールに出迎えてくれた伯母は先と少しも変っていなかった。彼はほっとしながらも足元から力が抜けていくような気がした。我ながらどうかしている。伯母に何かあったらと考えるなど… 伯母の家のホールに立つといかに自分がおかしな想像に捕えられていたかがわかる。
「レイア嬢は?」
 馬を飛ばしてきたから息が切れた。
「座りなさい。今何か飲む物を持ってくるわ」
 イレーヌは彼の様子を見つめると労わるかのように言った。彼は伯母の腕に手をかけた。
「レイアは?」
「帰ったわ」
 伯母は寂しそうに微笑んだ。彼は長く息をはいた。
「伯母上」
 イレーヌに聞かなければならないことがある。彼女に言わなければならないことがある。
「フェルディナン、お茶を飲んだら話しましょうね」

 運ばれてきた茶を飲みながら彼は改めて部屋を見渡した。出て行った時と少しも変っていない。
「どうしたというの? 貴方、普通じゃなかったわよ」
 イレーヌを前にして彼は恥じた。なぜ家にいてあのようなことを考えたのか分からなかった。伯母は元気で目の前にいる。レイアがイレーヌに何をするというのだ。
「レイア嬢に会いたくて…」
 彼は伯母の身体を心配したとも言えず体裁を繕ったが思いがけない自分の気持ちを発見したようにも感じた。
「フェルディナン、あの娘(こ)に近づかないで」
 彼は顔を上げた。伯母は先もそう言った。レイアに会わせようとしなかった。何かある。
「どういうことですか?」
 彼は努めて冷静さを装った。
「危険なのよ」
 イレーヌが言った。
「彼女のどこが危険だというのです!」
 彼は椅子を蹴り倒すように立ち上がり声を荒げた。彼は先ほど伯母の身をあれほど案じた事はすっかり忘れていた。いや、忘れていた訳ではない。他の誰かがレイアのことを悪くいうのが許せないと思ったのだ。彼女が人を手にかけたとはどうしても考えたくなかった。
「危険なのはあの娘じゃないわ。貴方よ」
 伯母はキッパリと言った。
「どういうことです」
 伯母の言いたいことは何となくわかったが彼は問うた。イレーヌはそれには答えず微かに笑うと席を立ち、たたんだ扇を手にうちつけながらゆっくりと彼の前を歩いた。彼女は何か考え事でもしていたようだが背を向けたまま彼に言った。
「あの娘を貴方の毒牙にかけないで欲しいの」
「伯母さま、随分なおっしゃりようではありませんか」
 彼はやんわりと抗議した。
「あら、褒めたのよ」
 伯母はとぼけた様子で振り返った。
「私がその気になったら落ちない女はいないと?」
 彼は伯母を見おろした。
「まあ、しょっているのね」
 イレーヌは扇を口に当て笑った。
「でも自覚があるのならそうして欲しいわ。ほら、またそんな目をする。その目がいけないの。貴方に出会ってしまったら大変だわ。伯母でさえ手篭めにされそうですものね」
「伯母さまこそ、しょっていらっしゃいます」
「ほほ、冗談よ」
「分かっています」
 イレーヌは含みを持たせた微笑みを向けると彼の前を通り椅子に座った。彼は伯母に向き直った。レイアには何か秘密がある。イレーヌはそれを知っている。この伯母には姑息な手段は通じない。正直に言った方がいいだろう。
「伯母上、レイア嬢について嫌な噂を聞きました」
 単刀直入に切り出した。
「貴方、自分の目と人の噂とどちらを信じるの?」
 伯母は事も無げに言った。
「伯母上、貴女はどこでレイア譲と知り会ったのですか? 彼女は誰なのですか? デュルフォール男爵と伯母上はどういう間柄なのです?」
 彼は聞きたいことを皆尋ねた。イレーヌはレイアをひどく大切にしている様に感じたのだ。もしかしたらまだ彼女はイレーヌの部屋にいるのかもしれない。
 途端にまた苦しくなった。彼女がまだこの館にいる。何がこれほど気になるのだろう。先ほどレイアは危険な人物ではないと確信したではないか。
「サロンに来てくれたのよ。そこで知ったの」
 伯母の言い方に微かな違和感を感じた。知った…
「ブロイ神父の紹介だったの」
「サロンに神父が?」
 何か変ではないか? 彼の不審を感じたのかイレーヌは言った。
「毎月第三木曜には聖書の会を開いているのよ」
 そうだ、伯母は多くの慈善にもかかわっていた。彼女の家に神父やシスターが来ても不思議はない。ではレイアはたまたま知り合っただけなのだろうか。自分は何か考え過ぎているのだろうか。
「伯母上、レイア嬢にもう一度お会いしたい。デュルフォール男爵のことも知りたいのです」
 先ほど伯母に止められたが素直に引き下がる訳にはいかなかった。彼女をもっと知りたい。血の匂いとは一体… なぜ魔女などと言われるのだ。
「レイアが気になる?」
 伯母は静かに言った。
「はい。彼女をもっと知りたいのです。今度お会い出来るように取り計らってもらえないでしょうか」
 そうだ、伯母の伝(つて)で会うのだ。それが良いような気がする。きっとレイアは会ってくれる。だが伯母はまだ悩んでいるようだ。彼はたたみかけた。
「でも出来ないのならいいです。私も子供ではありませんし一人で訪ねる事もできます。彼女を知る友人も、います」
 イレーヌはため息をつくと首を小さく左右に振った。
「貴方は小さな頃から一度言い出したらきかない子だった。分かったわ。レイアに聞いておくわ」
「ありがとうございます、伯母上。感謝いたします」
 フェルディナンは椅子から降りると跪いてイレーヌの手を取り口づけた。
「私も我が家のクネルには何が入っているのか母に聞いておきます」
 
 二日後、フェルディナンはデュルフォール男爵家への訪問の段取りを取り付けた。



「移り香 V」に続く


イラストのアップはこちら




Menu Back Next




































inserted by FC2 system