2002 9/16
挿絵 市川笙子さま

初  恋

−アルベールの場合−



「私の初恋」の続編です。







 妹のアンジェリーヌがベルサイユから帰ってきた。あいつは熱に浮かされたように黒髪の君を語り、オスカルがいかに美しかったかを語った。
 アンジェリーヌ、お前は結婚相手を探しにベルサイユへ行ったのではなかったのか? それで良さそうな相手は見つかったのか?
「お兄様もいらっしゃれば良かったのに。それはオスカル様は美しかったんですから。ご覧になったら驚くわよ。もうなんて言ったらいいのかしら、神ががり的だわ、あの美しさは。ベルサイユ中が見つめていたわ、恐いくらいよ」
 アンジェリーヌはもう何回目になるだろう、同じことを繰り返した。
「わかったよ、アンジェリーヌ、よく聞いた」
 私は椅子から立ち上がった。
「あら、お兄様お待ちになって。まだ全部話していないわ」
「そうかい。お前がジャルジェ家に行った事と、オスカルとアンドレがいかに素晴らしかったかと、あの木があった事と、マロンやネージュがまだ元気だった事は聞いたが。何回もね」
「まあ、ひどいわ、お兄様ったら。オスカル様はお兄様にも会いたがっていらしたわよ」
「それも聞いた」
「それから」
「アンジェリーヌ、聞いてない事があったよ」
「何かしら?」
 アンジェリーヌのさも聞いてくれというような瞳が見上げた。
「叔父上の舞踏会はどうだったんだい?」
「まあ、お兄様ったら」
 アンジェリーヌは顔を赤くして横を向いてしまった。私はあいつの頬を指でつつくと部屋を出て行った。

 アンジェリーヌは不満らしい。私がオスカルとアンドレの話に強い関心を示さないことが。私が彼らに興味を無くしたと思っているのか? それとも幼い日の思い出など忘却の彼方に押しやられ、思い出す事も無いと思っているのか? アンジェリーヌ、ちゃんと話は聞いていたよ。私がオスカルやアンドレの事を忘れると思っているのか?
 アンジェリーヌ、私はお前より少し前にオスカルのことを知っていたのだよ。私はまだ勉強中の身だが父上の仕事を手伝ってもいる。フランスに新国王が即位された時は忙しかった。外交の仕事をしている私たちはフランスの情勢に常に注意を払っていなければならない。その時に見た書類の中に私は近衛連隊長、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの名前をみつけた。
 近衛連隊長。連隊長? あのオスカルか? 間違いはなかった。
 十九歳のオスカル・フランソワが近衛連隊長。私はその事実に驚愕したが、それよりも十九歳になったオスカル・フランソワのことを考えて、あの時は半月ばかり眠れなかった。母は私が夏負けしたと思っていたし、お前は「お兄様は毎晩遅くまで本を読んでいるからよ」そう言った。
 アンジェリーヌ、本当はお前が羨ましい。私だってオスカルやアンドレに会いたいさ。でも止めておこう。もう少し時間が必要だ。私は行こうと思えばいつでもベルサイユに行かれる。でもオスカル、君と会っても良い友人でいられるようになるまではやめておこう。そしていつかきっと会える日が来る事を信じている。


 オスカル、初めて君に会った時、君からは剥き出しの神経にさわるようなヒリヒリとした緊張を感じた。君に、はかられているようで僕は気分が悪かった。初めは男だと思っていたから、君のきらきらしい容色と人の心の奥まで見通すような冷徹さは居心地が悪かった。
 僕は君よりアンドレの方がよほど心地よかった。アンドレ、お前はいい奴だった。お前は親切で、何というか人を受け入れる度量の深さのようなものを持っていた。オスカル、君の神経質な様子とは違ってアンドレには人を包み込む柔らかさがあった。でもそんな緊張もあっという間にほぐれた。僕達は子供だったから、すぐに遊びに夢中になった。慣れたからだろうか、君の緊張はすぐに取れ、およそ神経質とは思えず、僕達はずっと前からの知り合いのように仲良く遊んだ。
 でもまもなく僕の方が緊張するようになった。気がつくといつも君を見ていた。そしてそれに気がつくと、何だか落ち着かなかった。アンドレといる時は気安く、妙な連帯感さえあるのに、オスカルといると何でこんなに落ち着かないのだろう。
 オスカルは僕より年下だったのに、剣を操り乗馬に長けていた。ラテン語や歴史を勉強し、バイオリンを習っていた。君の本棚にはたくさんの物語の本に混じって、歴史や、何やら軍関係の教本のような物まであった。僕も本は好きだったがオスカルの読書量にはかなわなかった。
「僕は歴史が好きなんだ」 君のそんな言葉はとても大人っぽく思われ僕を感化した。僕は父に頼んで剣や乗馬を習い練習した。オスカルに負けたくない。それはライバル意識というのではなく、オスカルに認められ一目置かれたいという思いだった。

 ある時オスカルが女だと気づいた。乳母がお嬢様と呼んでいる、姉達が妹と呼んでいる、ジャルジェ夫人が娘と言った。
 なんて間抜けだったのだろう僕は。ずっとオスカルは男だとばかり思っていた。でもそれが分かれば全ての疑問は解ける。オスカルがあんなにも繊細な美しさを持っていることも、活発でありながらどこか華奢な印象があることも、そしてオスカルの側に行くと何となく落ち着かなくなることも。
 母に聞いてオスカルが女だということがはっきりした。そして、彼女がジャルジェ家の跡を継ぐために男として育てられていることも。
 それからの僕はオスカルを女として意識するようになっていった。もちろん遊び友達としての域を出ることはなかったが、オスカルの細い首や反り返ったまつげや唇などが僕を刺激した。
 一度オスカルが僕に言った事がある。
「アルベール、君の妹はとてもいい匂いがする」
 オスカル、君だってとてもいい匂いがするよ。妹みたいに乳臭い赤ん坊の匂いじゃなくて、君からはとてもいい匂いがしたよ。女の子はこんな匂いがするんだ。僕は初めて知って少し驚き、そして苦しくなった。
「アンジェリーヌ、可愛い、何て可愛いんだ」
 オスカルが妹を抱きしめる。妹はくすぐったそうに身をよじり、オスカルから逃れようとする。それを離すまいとオスカルがなおも抱き寄せる。そんな光景を見ているだけで、苦しいような、何とも形容できない気分になった。


 ある夏の日のことだった。
 僕達はそれぞれ皿に木苺を入れてもらい庭で食べていた。オスカルが庭で食べようと言い出したのだ。僕達は芝の上に座り、真っ赤に熟れた木苺を、指を赤く染めながら食べていた。
 ふと僕は悪戯心がわいて、一つ木苺を取ると、オスカルに気づかれないようにそっと後ろからオスカルの頬のあたりにそれを差し出した。
「オスカル」
 僕の声にオスカルが振り向いた。柔らかい木苺は難なく潰れ、オスカルの頬に真っ赤な染みを残した。
「やったな、アルベール」
 オスカルは頬に苺の染みを残したまま横目で僕を睨んだ。僕は狙いがまんまと当たったことが嬉しくて笑い出した。
「この仕返しは必ずするからな」
 オスカルは苺を手で拭う事もせず、相変わらず頬に付けたまま言った。
「何か拭くもの持ってくるよ」
 アンドレが家の方へ走って行った。僕はオスカルを見た。
 うっすらとした薔薇色の頬に真っ赤な苺の染みが付いている。それは潰れ、貼りつくようにそこにのっていた。そしてそこから赤い汁が垂れ、オスカルの首筋に這っていった。その感覚が伝わったのだろう、オスカルはあごを上げ、ブラウスの襟を押し下げた。まるで見せつけるように白い首筋を目の前に晒し、オスカルはじっとしていた。
 オスカルを見ているうちに、僕は胸の奥に這い登ってくる今まで感じた事のない感覚に狼狽していた。それは、何かオスカルにしてはいけない、とんでもなく悪い事をしているような、そんな気にさせた。それでいてオスカルから目が離せない。オスカルの首筋をゆっくり垂れる、透き通った赤い汁から目が離せない。僕は心臓を突き上げてくる鼓動の早さに耐えながら、オスカルを見つめた。オスカルは首を傾け、目を半眼にし、唇をうっすらと開けていた。僕にはそれが恍惚の表情にも見えた。むろん意味がわかった訳ではない。ただ今まで少女の中に見たことのない、気持ちを揺さ振られる表情に驚いたのだ。
 ふと僕は後ろを振り向いた。誰かに見咎められているのではないかと思ったのだ。この心の内を誰かに見られたのではないかと。後ろには自分の皿にしか興味のないような妹がせっせっと苺を口に運んでいた。
 僕は何かを悟られないように悪戯っ子の笑みを浮かべた。オスカルはブラウスの襟を押さえ、観念したようにじっとしていた。
 オスカルはなぜ苺を拭う事をしなかったのだろう。僕はなぜあんな気分になったのだろう。それはきっと性のとば口に立った者のうろたえだったのだ。僕はうろたえていたくせに、何ともいえない甘美な思いに息が詰まりそうだった。

 次の日。
「アルベール」
 振り向くと頬に冷たい物がピシャリとあたった。
「やった! この前の仕返しさ」
 オスカルが両手を濡らして僕を見ていた。蒼い瞳をきらめかせ、無邪気に作戦の成功を喜んでいた。
「やったな」
 僕はオスカルを捕まえた。
 いつもなら逃げるはずなのに、オスカルは笑いながら僕に捕まった。僕はオスカルの両手を押さえ、芝の上に押し倒した。オスカルは抵抗もせずただ笑っていた。可笑しくてたまらないというように、僕に押さえつけられ、笑っていた。
 オスカルを大の字に押さえつけ、その上のまたがりながら、僕はまた妙な気分に襲われた。その時はもうはっきりと意識できていた。僕の下で大きく息をしながら何を疑う事もせずただ押さえつけられているオスカルを見た。笑いは大きな呼吸だけになり、金色の髪は緑の芝の上に散らばり、目は嬉しそうに空を見上げていた。
 僕は振りほどくように急いでオスカルの上からどいた。
「アルベール、怒った? でも君が先にやったんだよ」
 オスカルは芝の上に半身を起こすと髪をかき上げた。
「アルベール、何怒ってんのさ」
 オスカルがやってきて僕の肩にさわった。
「怒ってなんかいないよ」
 僕はオスカルと反対の方向を向いた。
 オスカルをまともに見られない。アンドレがいなくてよかった。きっと妹に付き合わされているのだろう。僕はアンドレの面倒見の良いことに甘えて、何かと足手まといの妹の世話を彼に押し付けていた。アンドレだったら何か悟っただろうか。
 僕はこの後ろめたい、それでいて押さえつけ難い痺れにも似たものをどうする事もできずオスカルに背を向けた。
「いーや、怒っている」
 オスカルは回り込んで僕の顔を見た。やめてくれ。僕はまた反対方向を向いた。
「アルベール、顔が赤いよ」
 言われて心臓が大きく動いた。その時オスカルの柔らかい手が僕の頬をそっとなでた。冷たかったが濡れてはいなかった。オスカルは何も気づいていなかった。僕が仕返しを怒っていると最後まで思っていた。


 アンジェリーヌが言っていた。オスカルとアンドレはあの時のままだと。時が止まったように、二人にまといつく空気の透明さはそのままで、二人は成長したと。二人を見れば一瞬にしてあの時に帰れると。
 わかっている。きっとそうだと思っていた。あの二人なら何もかも乗り越えて、きっと易々と二人だけの信頼関係を作り上げているだろうと。
 何と贅沢な時間だったのだろう、あの時は。
 アンドレ、身分などという物のせいで、もしかしたら私達は会うことが出来なかったのかもしれないのだ。それを考えたら身分制度など馬鹿馬鹿しいと言わざるえない。我々は狭い世界に生きていて、これが世界の全てだと信じている。滑稽なことだ。我々はきっと知らない処でつまらない損を重ねているのだろうな。
 私がこのような考えを持つようになったのはアンドレ、君のおかげだ。私は私達の友情が本当のものだったと信じている。君の存在が私に少し広い世界を考えさせるきっかけを作った。
 オスカル、主従関係でありながら、それを超えた強い結びつきをアンドレと保っていかれるのは君が君である証拠だ。そしてそれだけのものをアンドレは持っている。

 オスカル、君は不思議な存在だった。少年のようでありながら少女だった。快活で気さくなのに人を刺し通すような鋭さを持っていた。無垢な妖精のようでありながら子供らしからぬ妖艶さを持っていた。オスカル、君はいくつだったんだ。少女だった君に私はまだ支配されている。


 オスカル、付き合う女性の中に君の面影を探してしまううちは私は君に会う事は出来ない。オスカルの仕草、笑い、声、それらは妹やオスカルの美しい姉君達とは全く違っていた。それでいて男のそれではありえない。そういったオスカルの様子はことごとく私を魅了した。
 女でありながら男より巧みに剣をあやつれる者がいるだろうか。清純でありながらこれほど艶な美貌があるだろうか。高貴でありながら気取らず人を惹きつける雰囲気はどうしたら出るのだ。
 容姿の優れた令嬢は大勢いる。でも君のような資質を備えている人間に出会ったことはない。男であろうと、女であろうと。

 オスカル、君はますます美しくなったらしい。会いたいけれどやめておく。国を隔てたこれだけの距離があってよかった。もうあとどれくらいしたら私は君の引力から抜け出すことが出来るのだろうか。



Fin



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