2003 2/2

再会 T



「私の初恋」 「初恋 -アルベールの場合-」の続編です。




「あそこにいる近衛連隊長、あの人がなによりの証拠ですわ!」
 法廷中に響きわたる大声。高々と上げられはっきりと指し示す指先。法廷中の視線が一斉に注目する。

 ――会ってしまった。会えない、会わないと思っていた彼女に会ってしまった。

 フランス王妃をスキャンダルのただ中に叩き込んだ首飾り事件。ジャンヌ・バロア・ド・ラ・モットという得体のしれない女詐欺師。詐欺かどうかをはっきりさせるのがこの裁判の目的なのだろうが最初の目的はどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。フランス聖職者の最高峰とフランス王妃が被告と原告なのだ。普段窺い見ることなど叶わない堅く閉ざされた世界を白日のもとにさらけ出してくれる裁判に国民全体が熱狂した。
 160万リーブルという値段。詐欺というにはあまりにも大胆で、常人の常識をはるかに超える大胆さが却って現実味を帯びているようにも見える。しかし裁判によって真実を見極めようと思っている人間がいるのかと思われるほどこの裁判は変質していった。裁判自体がどうというよりそれを取り巻く国民の見る目が、考えが誰を裁いていったかを考えれば解る事だ。
 多分王妃は潔白だろう。潔白でなければ裁判に訴えるという正攻法を取る訳がない。だが彼女は一点の曇りもないほど潔癖であるが故に単純で頑なすぎた。裁判の経過を見ていくと彼女の取った行動が正解だったとは言い難い。結果的に追い詰められて行ったのは彼女の方だった。
 独占的支配者というのは清く正しいことも大切だがある種の狡猾さも備えていなければならない。そういった意味ではこの王妃は愚直なほど真っ正直だった。彼女が訴えようとした世論は彼女の味方をしていない。それどころかそのうち王妃はレズであるというデマを誰もが信じるようになる。それは今まで王妃が民衆の気持を顧みる事なく無頓着だったからに他ならない。そして味方だと思っていた世論に裏切られているのは全て自分の為した事だと彼女は気づいているだろうか。
 たった数スウ稼ぐのに汗水たらしている国民は160万リーブルという値段が一つの首飾りの値段だという事に度肝を抜かれたに違いない。そして王妃の名をかたればそのような代物がいとも簡単に右から左に通過していくのだと信じられない思いで見ているだろう。何故自分達はこのような境遇なのか見当もつかなかった彼らに王妃は自らその原因を解りやすく説明してあげたのだ。
 民衆だけではない、王妃は自身が最も忌み嫌っているローアン大司教が諸悪の根源だとヒステリックに誤解した為に聖職者全体を侮辱し貴族達の離反も買っていった。ローアン大司教は確かに軽薄なほど信じやすく聖職者にあるまじき好色家だったが彼女は自身の好き嫌いより優先して考えるべき事があったのだ。もう少し冷静に‥。あの善良で思慮に欠ける金満家のローアンがこのような詐欺を働くであろうか。この場合の彼の役得は何であろうか。
 彼女のような由緒正しい王家の家柄に生まれ偉大なるマリア・テレジア女王の訓戒の元に育った人間にはローアン大司教が王妃の書いたラブレターを受け取ったとかヴィーナスの茂みで逢引をしたと考えるだけでも充分「侮辱罪」にあたるのであるが高等法院や国民はそのように見ないかもしれない。いずれにしてもこの裁判は王妃にとってことごとく不利である。そして証人ニコル・ド・オリバの登場によって窮地に立たされたジャンヌ・バロアは首飾り事件を仕組んだのは王妃で自分は利用されただけ、自分は王妃のレズビアンの相手でありポリニャック伯夫人や男装の近衛連隊長がその相手だと言い切った。こんな法廷中がひっくり返るような荒唐無稽な証言を誰が信じるというのか。でも世論の行方によってはわからない。それは判決とは別のところにあるからだ。


 法廷中が注視する中に近衛連隊長はいる。顔をあからめ憤怒の様相だ。王妃のレズ相手と呼ばれた彼女が怒るのもわかる。変わっていない。少しも変わっていない。思い出の中で成長した彼女は思い描いた通りの姿でそこにいた。
 ――会ってしまった…。
 見上げる先にいるオスカル。その引力に急速に引きつけられてゆく自分。もう後戻り出来ない。これは運命なのだろうか。



 アルベールは法廷の出口でオスカルを待った。声をかけようか否か迷った。引き返すのなら今のうちだ、自分の中のもう一つの声が言った。でもそれは出来ない。これは運命なのだから…。運命に逆らえる訳がない…。
 こうしているうちにも胸が高鳴り体が熱くなるのがわかる。アルベールは腕組みをしてその鼓動を押さえようとした。ここには知り合いも多い。
「やあ、アルベール」
 知った顔が声をかけるのも煩わしい。彼は軽く頷き素っ気無い態度で彼らをやり過ごした。
 彼女が来る。オスカル・フランソワ。法廷内の人込みに混じり憤懣やるかたない表情でしかしその中に小さな憂いを含んだような蒼い瞳をして…。
 アルベールはただ一点彼女のみ見つめていた。この瞬間多くの時空はその時を埋めあの時と今をつなぐ。あの時の少女は美しさを増し変わらぬ蒼い瞳で、豪華になった金の髪でこちらに近づく。オスカルは隣の少女に話し掛けるように顔をそちらに向けた。僅かに微笑む横顔。ああ、この瞬間何もかも投げ出してよいと思う。喉元までせり上がってくる鼓動。この瞬間を待ち望んでいたのではなかったか。ヴェルサイユに来ようとしなかった自分。それでも心の中でこの時が来る事を、神がその時を授けてくれる日を待ち望んではいなかったか。
 時に襲いかかるようにアルベールの中にオスカルの像が浮かぶ。それは逃れられないほど妖艶でアルベールの心をがんじがらめにした。妹のアンジェリーヌがヴェルサイユでオスカルとアンドレに会ったと言った。その時の十九歳になったオスカルはアルベールの心のほとんどを占領し時として押さえられなくなっていた。
 ずっとオスカルはアルベールと共にいた。幼い時は大人になったらオスカルとアンドレに会いに行くと決めていた。でもいつからかそれをやめるようになった。何故だろう。きっとこの時を予感していたからだ。会ってしまったら逃れられなくなる自分がわかっていたから…。運命が近づいてくる。すぐ目の前に…。

「オスカル」
 軍服の肩に声をかけた。振り向く蒼い瞳。それは怪訝そうに瞬き、アルベールを見つめた。長いまつげを上下させ僅かに首をかしげたような素振りがアルベールを生身の彼女に向かい合っている陶酔の中に押しやった。
「私だ、覚えているか? アルベールだよ」
 オスカルの顔に驚愕と共に歓喜の渦が広がった。
「アルベール、アルベールか? 本当に?」
 オスカルは両手でアルベールの手を握りしめた。良かった、オスカルは覚えていた。オスカルに忘れられていはしまいか、一抹の不安がなかったと言えば嘘になる。それだけの年月が経っていたのだ。
「アルベール、いつフランスに? 本当にアルベールなのだな?」
 オスカルはアルベールの手を握りしめたまま離さなかった。彼女の顔に浮かぶ嬉しそうな表情がアルベールの心を優しく揺さ振る。
「オスカル」
 こうしてまた向かいあえる日が来ようとは…。アルベールの目には回りの何も入っていなかった。ここが法廷でなかったなら、多くの人々が行き交っていなかったならアルベールは我を忘れてオスカルを抱しめていたかもしれない。
「あの‥」
 オスカルの隣にいた少女が二人を見上げ小さな声を上げた。
「紹介しよう、アルベール、ロザリーだ。私の遠縁にあたる」
 薔薇色の頬をした可憐な少女は膝を折り可愛らしくお辞儀をした。
「ロザリー、こちらはアルベール・ボリス・ド・セシェル伯爵。私とアンドレの幼馴染で親友だ」
 オスカルの紹介はアルベールを大切な存在として認めているという響きがあった。アルベールの心は喜びで満たされた。
「アルベール・ボリス・ド・セシェルです。ロザリー嬢、お会いできて光栄です」
 アルベールはロザリーの手を取り挨拶した。ロザリーは薔薇色の頬をいっそう濃く染め目を伏せた。
「オスカル、少し時間が取れるか?」
 アルベールの問いかけにオスカルは微笑んだ。
「ああ、大丈夫だ。少しは話せるのか、アルベール。フランスに戻っていたとは知らなかった。今どこに?」
「パリにいる」
「いつまで?」
「ずっとだ、ずっとパリにいた」
「ずっと? 何故訪ねてくれなかった?」
「まあ、色々あって」
 アルベールは言いよどんだがオスカルは素直に頷いた。
「そうか」
「家に来てもらってもよいが、この先にカフェ・ル・プロコープがある。少し話そう」
 アルベールの提案にオスカルは頷きながら不思議そうに聞き返した。
「アルベール、パリに住んでいるのか?」
「ああ、ブルジョア通りだ。あとで馬車で送ろう」
 アルベールの返事にオスカルはロザリーを振り返り言った。
「ロザリー、先に馬車で帰りなさい。そしてアンドレに近いうちに素晴らしいお客をお連れすると言っておいてくれ。だが彼のことはまだ内緒だ。いいな」
 ひとさし指を立て唇に持っていくオスカル。オスカルの唇を見つめアルベールは胸が鳴った。薔薇色のつぼみのようでありながら血のかよったなまめかしさを感じる唇。オスカルは自分のふとした仕草にこれほどまでの艶姿がある事に気づいているのだろうか。ロザリーは恥ずかしそうに微笑み頷いた。彼女を馬車に乗せ見送るとオスカルが言った。
「今、セシェル伯は在オーストリアのはず。アルベールもそちらにいると思っていた」
「私は父の思いどうりの良い息子ではなかったのでね。好きにやらせてもらっている」
 石畳の道を歩きながらアルベールは言った。
「アルベール、アンジェリーヌはどうしている? 元気か?」
「ああ、元気だ。ボルドーの田舎貴族の所へ嫁に行った」
「ボルドー、それはまた遠くに…」
「子供も二人いる」
 アルベールは石畳を見つめた。あの時の風がふとよぎった。
「アンジェリーヌが母親に‥。そうかそんなに経ったのだな」
 オスカルの声に郷愁を感じアルベールは顔を上げた。目が合った。
「アルベール、お前はどうしていた。結婚したのか?」
 オスカルの問いにアルベールは答えた。
「ああ、デンマークにいた時にそこで妻をもらった。子供もいる」
「そうか、みんな幸せになったのだな」
 アルベールはオスカルの表情を見つめた。そこに現れる何ものも逃すまいと厳しく見つめた。
「オスカル、お前はどうなのだ? 幸せか?」
 オスカルは笑った。
「私は今の自分の境遇に充分満足している」
 満足しているか‥。幸せとは言わなかった。幸せでいるのか? アルベールの視線を避けるようにオスカルは前を向いた。白い横顔は寸分のくるいもない彫刻のようだ。
「オスカル、アンドレはどうしている」
 もう一人の大切な親友。彼にも会えるのだろうか。
「変わらない。あの時のままだ」
 オスカルのさり気ない返事にはすべてのものが含まれていた。アルベールは一瞬にしてそれを悟った。オスカル、お前もあの時のままなのか。二人はずっと同じ時を一緒に生きてきたのか。


 カフェ・ル・プロコープは混んでいた。高等法院での裁判が済んだばかりでそこに詰めかけた傍聴人達がそっくり移動したようでそれぞれが勝手なことをわめくように話していた。場所をかえようかとアルベールは思ったが意外とこのような喧騒の中の方が好都合かもしれないとも思った。ここのお客は自分達の話以外は興味がないようだから。オスカルを振り返ったがオスカルも頓着していないようだ。アルベールは店の隅に席を取った。
「アルベール変わった。わからなかった。男とは変わるものだな」
 店の椅子に座るとオスカルが言った。
「そうか、私はすぐにわかったぞ」
「私もアンジェリーヌに会った時はすぐにわかった。全然変わっていなかった。あの時のまま、天使のようだった。見違えるように綺麗になっていたがすぐにわかった」
「オスカル、お前も見違えるように綺麗になったが変わっていない」
 アルベールの言葉を皮肉と受け取ったか、オスカルは瞳に若干の険を加え見つめた。アルベールはその視線を受け止めながら続けた。
「男と違って女は昔と少しも変わらぬ美しさでいなければならない」
「私を女と認めてくれているわけか。お前の言葉は喜んで受け取ってよいのだな」
 ぞくっとする。蒼い瞳がいっそうきらめきこちらの心の中をすくうような光り方をする。あのオスカルがこんな目をするのか‥。いや、子供の頃からオスカルには清純で清冽な美しさの他に子供らしからぬ妖艶さをもっていた。それに翻弄され続けていなかったか。そしてオスカルの美しさにのめりこんでいった。今もう一度先の表情が見たい。何と言えばオスカルはそうして魅せてくれるだろうか。
「あの時アンジェリーヌにアルベールに会いたいと言っておいたはずだが聞いたか?」
 オスカルの声は夢の中のように響く。
「ああ、聞いた」
 アルベールはテーブルの上に置いた手を握り締めた。来たかった。本当はすぐにでも飛んで行きたかった。
「何故ヴェルサイユに来なかったのだ。こんなに長い間」
「実は大学に行っていたんだ。法律の勉強がしたくてね。それで‥」
「そうか、大学に‥ ではずっと近くにいながら知らなかったと言うわけだ」
 オスカルは柔らかく微笑みながら言った。先の表情とは全く違う、大輪の花がほころんだようだ。アルベールは息が苦しくなった。これほど近くにオスカルと向かいあって想像以上に美しくなったオスカルを見て痺れるほどの幸福感に溢れかえっていた。オスカルの手がアルベールの手に触れた。
「でもこうして会えた。よかった」
 オスカルはささやくようにそっと言った。アルベールはオスカルの手を取らないよう気をつけた。手を取ったりしたら自分の制御がきかなくなりそうだ。
「パリに住んでいると言ったが‥」
 オスカルが手を離した。
「ああ、仕事の上でもパリの方が便利がいいからね」
「仕事‥?」
「大学で弁護士の資格を取った。それで‥」
「アルベールが弁護士に‥」
 オスカルの声には意外だというような響きがあった。
「父は高等法院の判事にでもなるつもりかと大変な腹立ちようだ。そういった意味では私もアンジェリーヌも父の思惑通りにいかなかったというわけだ」
「アンジェリーヌが何故?」
「妹は両親の薦める結婚にはことごとく首を縦には振らなかった。アンジェリーヌがあれほど頑固だとは思わなかった。そしてとうとうたいした地位もない田舎貴族のところに嫁に行きたいと言い出した。もちろん両親は大反対だ。妹を親の言いなりに嫁がせるにはアンジェリーヌは年がいっていた。しっかりとした自分の意思を持ち無理に結婚させられるのなら修道院に入ってやると親を脅かしたりもした。彼、クリストフは資産家ではあったが宮廷の出入りなど許されてはいない気のいいだけの男だった。でもこのままだったら一生アンジェリーヌは嫁に行かれないと思った両親はその結婚を許した。今妹はボルドーの田舎で薔薇と広大な果樹園に囲まれて暮らしている」
「そうか。でもアンジェリーヌが幸せならそれでよいのではないか?」
「私もそう思う。アンジェリーヌは幸せそうだ。クリストフに似た男の子とアンジェリーヌによく似た女の子の二人に囲まれて。クリストフは黒い髪で黒い目の優しそうな男だ。なにもかも受け継いだ息子のジョルジュはクリストフにそっくりだ」
 アルベールは自分の髪にそっと手をやった。
「ジョルジュは幾つになる?」
「今年で六歳か」
「黒い髪に黒い目だと言ったな。ではジョルジュはあの頃のアンドレに似ているか」
 オスカルはテーブルに身を乗り出すようにして言った。
「さあ、どうかな。それより娘の方はアンジェリーヌにそっくりだ。まだ四歳だが妹の小さな頃と同じだ」
「会ってみたいなアンジェリーヌにも子供達にも。この前はアルベールがいなかった。今度はアンジェリーヌがいない。一度四人で会ってみたい」
「そうだな」
「アルベール、約束だぞ」
「わかった」
「でも懐かしいな。あの頃のこと覚えているか?」
 オスカルも嬉しそうだ。
「覚えている。私はジャルジェ家に出入り出来ることが得意だった。新参者の私が何故あのジャルジェ家に出入りできるのか他の連中はわからなかったようで私はお前やアンドレの事を随分聞かれたぞ」
「どういうことだ」
「お前の家に入ったはいいが大抵の者は追い出されてくるらしい。お前に殴られたという奴もいた。ジャルジェ家の跡取息子はえらく気まぐれで荒っぽいという評判だった」
「ふふふ」
 オスカルは可笑しそうに笑った。蒼い目に悪戯っぽい光がきらめいた。認めるのか? オスカルの瞳は様々な光を宿している。ちょうどサファイアにあたった太陽光線が反射によって色々な光を放つように‥。アルベールはその光をまっすぐ受けながら続けた。
「そのくせ彼らはジャルジェ家やお前に押さえられない興味があるしい。根掘り葉掘り聞かれたよ。そう、彼らが興味あるのはお前だけではなかった。彼らはアンドレに対してお前以上の興味を持っていた」
「面白い」
「アンドレは一体何者なのだ。召使の子供だと聞いたがそれにしてはオスカルに対する態度や彼に対するオスカルやジャルジェ家の態度が変だ。一介の召使にしては変だというわけだ」
 オスカルは運ばれてきたカフェを口に運びながら興味深そうに聞いている。
「彼らは今にして思えばアンドレに対してやきもちを焼いていたのだと思うが彼らがあまりアンドレを侮辱するような事を言うものだから私も彼らの興味に応えてやらなければと思って言った」
「何と?」
「お前達知らないのか? アンドレはさる国の王子なのだ。あの黒い髪を見ただろう。ずっと南の方の、猫の代わりに虎を飼っているという国の王子なのだ。何かの理由でジャルジェ家に身分を隠して隠れているらしい。時々ジャルジェ将軍の三倍もあるような太いサーベルを下げた黒い顔の黒い髭の大きな男達がアンドレの様子を見にやってくる。彼らは何故か知らないがいつも大きな袋を持っている。僕は何回も見ている。そしてアンドレに何か変わった事はないか聞いている。アンドレの国はフランスより大きな国なのだ。もしかしてお前達それを知らないで何かアンドレを侮辱するような事を言ったのではあるまいな」
 アルベールは声を上げて笑ったがオスカルは驚いたようにアルベールを見つめたままだった。
「アルベール、お前がそんな事を言うなんて‥」
「おかしいか? きっと思い当たる節でもあったのだろうな、彼らは真っ青になって逃げていったよ。はっはっはっ」
 豪快に笑い飛ばすアルベールを見てオスカルも息をはいた。
「さすが我が親友だ。あらためて限りない敬意を表させてもらおう」
「光栄だ」
 オスカルが笑う。貴婦人達の、女達の笑いとは違い、はにかみも気取りもない。それでいてそれらの媚態以上に引きつけられるのは何故だろう。笑いながらオスカルが思い出したように言う。
「そうだ、こんな事もあった。お前が私の顔に木苺をつけた。覚えているか?」
「覚えている」
 アルベールは両手を組みその手に力を込めた。忘れるわけがない。あの時の光景。白い肌にのった潰れた木苺、したたり落ちる赤く透きとおった果汁。それは頬を伝い首のほうまで落ちていった。押し下げられたブラウスの襟、剥き出しにされた白い首すじ。今思い出しても体の中心が疼いてくる。突然甘美な衝撃に襲われて息もできなかった。アルベールはオスカルの顔を見た。首の方に視線を移す。オスカルの首は軍服の襟にさえぎられ見ることは出来ない。強固な城壁のようだ、アルベールは思った。だがその下の白いうなじやそこに息づく拍動さえ感じることができる。こんなに近くにいるのだから。手を伸ばしその髪をかきわけ…
「あのあと私が仕返しをした」
 オスカルの言葉にアルベールの想像は断ち切られた。
「あの時の仕返しをお前はずっと怒っていた。それほど悪い事をしたとは思っていなかったが‥」
「そうだったか」
「そうだ。何日も口をきいてくれなかった」
「忘れたな」
「アンドレに言ったら‥」
「アンドレに言ったのか?」
 アルベールの語調にオスカルは驚いたように目を見張った。
「そうだ」
「で、アンドレは何と?」
「アルベールはそんな事で怒ったりはしない」
「そうか」
「私はそうとう気を揉んだのだぞ」
「そうか悪かったな。でもそんなつもりはなかった、怒ってなどいない」
「そうか、アンドレの言う通り私の思い過ごしか」
「そうだ」
 オスカルが素直に引き下がるのを見てアルベールはほっとした。あの時の心の内を悟られでもしたら…。 オスカルが眩しすぎて、オスカルに嫌われたくなくて、口がきけなかった。
「アルベール、今日にでも寄って欲しいがなんの準備も出来ていない。明日はどうだ? 明日の晩餐に招待したい。奥方も御一緒に。アンドレにはお前に会わせるまでずっと秘密にしておこうと思う。驚かせたいのだ」
 オスカルの表情は子供のようだった。幼い日二人でアンドレを驚かせようと色々な事を仕組んだものだった。アルベールは頷いた。あの時の可愛らしいオスカルがそこにいた。
 

「お帰りなさい、あなた、お客様がお見えだったのですって?」
 家に帰ると妻のフロランスが出迎えた。
「知らなかったものですから出かけておりました。言ってくださればよかったのに」
「いや、急なお客だったからよいのだ。それに馬車でお送りしただけだから。近衛隊のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ大佐だ。それよりこちらが招待を受けた。明日一緒にどうだ?」
「近衛隊のジャルジェ大佐…?」
「近衛隊の連隊長だ。私のフランス時代の古い友人で今日偶然会った。オスカルの御父上は近衛の将軍だ」
「近衛隊の将軍の御家など私なんだか気後れしてしまいます」
「そんな堅苦しい家ではないぞ。きっと歓迎してくれる」
「あなたの古い御友人でしたら私などお邪魔ではありませんか?」
「そんな事はない。でも気がのらなければ無理に来る事はない。またいつでも機会はあるさ」


 ジャルジェ家の正門に馬車が着く。使用人達の丁重な出迎えを受け屋敷の中へ入るとすぐにオスカルが出てきた。軍服姿ではない正装の彼女を見る。美しい。どんな神もこの姿にはかなわない。
「オスカル、妻は今日来られない。せっかく招待してもらったのに申し訳ないが…」
「ああ、聞いている。アルベール悪かったな、伝言一つにも気を使ってもらって」
「アンドレに聞かれては台無しだからな」
「ふふふ、驚くぞ。アンドレ! お客様がお見えになったぞ」
 オスカルが奥に向かって声を張り上げた。靴音が聞こえ彼が、アンドレが姿を現した。
「わかるか? アンドレ、誰だか」
 オスカルの笑い顔にも気づかない様子でアンドレはアルベールを見つめた。
「アルベール、か?」
 あの時と同じ瞳をしてアンドレが聞いた。
「そうだ」
「アルベール、本当にアルベールなんだな」
 アンドレが腕を回してきた。オスカルの時と違ってアルベールもアンドレをかたく抱しめた。アンドレ、懐かしい。私の最初の友人。お前に友情を教えてもらった。
「今日は特別なお客があると皆がそわそわしていた。そのくせ誰なのか皆わかっていない。わかっていないのに嬉しそうだった。中でもおばあちゃんとオスカルが一番嬉しそうだった。俺は追及しなかった。皆が待ち望むお客を楽しみに待っていた。だがこんなに嬉しいお客だとは思わなかった」
 アンドレはもう一度アルベールを抱きしめた。
「アルベール、見違えたよ。逞しくなった。綺麗で華奢な男の子だったのに、お前は」
「お前もやせっぽちで折れそうだったぞ」
「オスカルはお前だとわかったか?」
「私から先に声をかけた」
「だろうな。お前が気づかなかったらオスカルはお前の前を素通りしていたぞ」
 アルベールはアンドレを見た。アンドレは少年の時の面影を残しながらも精悍な男になっていた。アンジェリーヌがアンドレの男振りをあれこれ褒め称えていたがこれならわかる。あの時のアンジェリーヌの言葉と少年の時のアンドレの優しく人懐っこい可愛らしさが一致しなくて長年想い続けた王子様を慕うようなアンジェリーヌをからかったが悪かったと思う。アンドレは男でも惚れるくらいの男になっていた。
「まーあ、アルベール様、立派になってこんなに立派になって」
 この声は、アルベールが振り向いた先に白髪の丸顔の優しい女がいた。変わっていない。彼女こそ変わっていない。少しだけ痩せたかな。
「嬉しゅうございます。こんなに嬉しい日はありません。長生きはするものです」
 アンドレの祖母でありオスカルの乳母であるマロン・グラッセは目に涙をためていた。あの時の彼女の声が聞こえるようだ。
『アルベール様、お嬢様、おやめになってください。お願いですからおやめになってください』
『まあ、アルベール様、こんなに汚れて、お召し物が台無しです。セシェル様に何と申し上げればよいのですか』
『アルベール様、お妹様が泣いておいでです。まあ血が! 大変すぐに手当てを』
 アルベールは深々と息を吸い回りを見渡した。この屋敷のなにもかもが懐かしい。記憶とはこんなに確かなものか。
「父と母にも会ってくれ」
「ああ」
 オスカルに案内され客間に向かう。寛大であった将軍と夫人。父も母も世話になった。自分のことだけ考えて将軍や夫人に挨拶にさえ来なかった身をアルベールは恥じた。


 記憶の中のおぼろげな部分が確実に埋まってゆく。古い切片は色を変え置き換えられる。ジャルジェ家からの帰りの馬車の中でアルベールは目まいを感じた。あまりに多くの事がありすぎた。アルベールは右手を目の前に差し出し眺めてみた。この手は、今目の前にあるこの世界は現実なのか。オスカルまた明日お前に会えるのか? 今一度、もう一度会いたい。そうでないとお前の姿はまた記憶の中に埋もれてしまいそうだ。



再会U に続く




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