2006 7/26
ゆかりんさま 作

1778夏の誓い

@ 小夜鳴



宮廷からジャルジュ家の敷地内に馬車が入ると、アンドレはほっと安堵の色を浮かべた。
 最近、1日が長い・・・・・。
ポリニャック一味がオスカルを狙っている、というフェルゼンの忠告を鼻先で笑えないほど、日に日に、伯爵夫人と近衛連隊長との対立は深くなっていた。貴婦人たちの扇から扇へと、まことしやかに面白おかしく連日伝えられるふたりの確執は、ベルサイユでの格好の話題だった。

宮廷の影の女王、と恐れられるポリニャック伯爵夫人に唯一立ちはだかる、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ近衛連隊長。

この勝敗の行く末を、貴族たちは固唾を呑んで見守っていた。以前にも増して、行く先々でオスカルに注がれる多く視線のなか、アンドレは影のように控えていた。彼は、好奇と憧れと畏怖の気配を、冷静に受け止めていた。
先日、オスカルを狙ったかのように、シャンデリアが突然落下した事件があった。あれはポリニャック一派の仕業では、と交わされた囁きは、いつの間にか揉み消されていた。夫人の勢力は底知れない。王妃様を御護りしたい一心のオスカルは、わが身に迫る危険にも圧力にも、けっして臆しなかった。彼女の忠誠心は純粋でまっすぐなだけに、私利私欲をほふる相手にとって、目障りであるのは明らかだった。
今日の午後、すれ違いざまに投げかけられたポリニャック伯夫人の勝ち誇った表情が、アンドレの警戒心を強張らせた。
単なる威嚇か、それとも企みが進行している余裕の笑みなのか・・・嫌な胸騒ぎがする。
宮廷内での彼の意識は、一層研ぎ澄まされ、危険な気配を窺う緊張感は休む間がなかった。


「アンドレ、疲れてるな。」
馬車を降りたオスカルは、彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。」
さりげなくかわそうと微笑み、馬小屋へ足を運ぼうとする彼の肩に、オスカルは手を置いた。
「アンドレ、大丈夫というのは、返事になってない。ウィ か、ノン だ。お前に倒れられたら、わたしは困るからな。」
碧い瞳が、慈しむようにアンドレを見上げた。西日の木漏れ日が、ふたりをやわらかく包みこむ。頼られているのだ。それだけで、心身の疲労が、充実感に変わる気がする。
「オスカル、答えは ウィ であって ノン だ。そういうおまえはどうなんだ、うん?」
やさしく問いかける。
「聞くまでもあるまい。・・・今晩はワインがいいな。」
「今晩も、だろ。」
オスカルはふっと笑いながら、アンドレの肩を軽く叩くと、玄関へと向かっていった。夏の黄昏に光る後姿のブロンドの髪を、まぶしそうに見送りながら、彼は周囲を見渡した。
この領域までは、宮廷での煩わしさは入ってこない。はりつめた緊張感は、ここでは必要ない。今夜もまた、オスカルとふたりだけの時間を過ごすのだ。ワインを傾け、たわいない会話に戯れるささやかなひとときは、日々の緊張をほどく欠かせない日課になっていた。



昨夜は、よほど疲れることがあったのだろう。いつもよりも、杯を重ねるオスカルがいた。ふと会話が途切れ、静寂が部屋を満たす。夜の窓は月の明るみで淡く光り、どこか遠くで小夜鳴鳥のさえずりが密かにこだました。心地よく響く声で、アンドレが口ずさんだ。

「 心やさしい 小夜鳴鳥よ
おまえは 愛しい相手を呼んでいるのか
おいで、わたしの想いびと、と歌いながら。
わたしの歌は やくに立たない
空を飛ぶ翼も ありはしない
おお、幸せな 小鳥よ。 」

耳を傾けていたオスカルは、うっとりとまどろむ表情で眠たげに頷いた。
「アンドレ・・・たしか、モンティヴェルディのマドリガーレだな。」
「ああ、こんな夜に、似あうだろう。」

気がつくと、オスカルはソファにもたれて、寝息を立てていた。起こすのには忍びなく、力の抜けた手からグラスを取り、テーブルに置くと、ゆっくり抱き上げて寝室まで運んだ。弱音を吐かず健気に務める武官の面差しは、そこにはなかった。こどものようなあどけない寝顔は、このうえなく可愛かった。寝台に沈んだ身体から靴を脱がせてやると、眠ったまま誘うような笑みを浮かべ、絹のシーツに寝返りを打った。
オスカル、おれだって男だぞ。おまえ、分かってるのか?
規則正しい寝息を、乱したくなる衝動に襲われる。彼女の、女の部分を目覚めさせたい。感じたい。抗い難い誘惑に、自然と息が荒くなる。アンドレは、ごくりと生唾を飲み込んだ。オスカルの陶磁器のような、なめらかな頬のラインを、指でなぞる。そのまま、露を含んだ真紅の花びらに似た濡れた唇へと、ゆっくり触れる。

小夜鳴鳥はおれだ。オスカル。
美しい薔薇に恋をした小夜鳴鳥の話を知っているか。薔薇を抱きしめ、胸を刺されて血を流しながらも、朝まで愛を唄い続けて息絶えた最期を、幸せだと思わないか。

アンドレは身を屈め、ついばむように唇をそっと重ねた。たとえようもなく柔らかい感触が、身体の芯を甘く揺さぶる。やすらかな寝息を続けるオスカルの眠りは深かった。もう一度、もう一度と、愛しい唇に惹きつけられる度に、激しく脈打つ心音が全身に響く。
どうしよう、口づけが止まらない。唇を、おもいきり吸いあげたい。そんなことをしたら、気づかれるに決まっているのに、たまらなく、おまえが欲しい。
あぁ、もっと・・・・・。

すべてに触れたい男の指が、かすかに震える。
触れてしまったら、もうあとには戻れない。
アンドレはとっさに拳を握り締めた。首に胸に口づけて、香る肌に溺れたい唇を、強く噛み締める。喉の奥から突き上げてくる欲情の嵐に、めまいがしそうになり、おもわず呼吸を止める。翻弄される欲情の瀬戸際で、アンドレはかろうじて己を制した。

しっかりしろ、今は駄目だ。これ以上、オスカルを苦しめたらどうする。
深々と呼吸を整えながら、どうにかなりそうな荒々しい感情に、持てる理性を奮い立たせて、懸命に耐える。もう限界だ。想いを断ち切るように、アンドレは踵を返し、足早に部屋を立ち去ったのだった。



 今夜は、飲ませすぎないようにしなくては。と馬にブラシを掛けながら、アンドレは思い巡していた。今度、寝台へ運ぶ羽目に陥った場合に、自分を制御できるかどうか。確かな自信が持てなかった。
いつもようにさりげなく、だ。
オスカルに悟られぬよう、立ち振る舞う今宵のひとときを思い描きながら、屋敷の仕事をてきぱき片付けていた。アンドレは、あたりまえのようにふたりの時間が来ることを、なんの疑いもせず信じていた。急な呼び出しでふたたび、ベルサイユ宮殿へ馬車を向かわせることになるまでは・・・・・。




    







































































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