2006 7/26
ゆかりんさま作

1778夏の誓い

A 紅の夜



左肩に、息が止まるほどの鋭い激痛が走る。オスカルは、バランスを崩した。
アンドレはすぐさま駆け寄り、かろうじて膝間づいた彼女を抱き支えた。
 
「オスカルッ!!!」
 「アンドレ・・・・肩を、やられた・・・・・」

 苦しい呼吸の下から、声が漏れる。無残に切り裂かれた軍服の裂け目から、あふれ出る鮮血が見える。アンドレは全身が震えた。咄嗟に己のクラバットを解く。
「すこし我慢してくれ。」

出血近くをきつく縛り上げた瞬間、オスカルは喉を仰け反らして、短く呻いた。すかさず上着とシャツを脱ぎ捨て、アンドレは傷口を押さえた。シャツの白い布はじんわりと真紅色に染まり、力を込めた指の間から、生暖かい血が幾筋も滴り落ちた。生々しい匂いが鼻についてくる。
初夏の夜風が、かすかに通り過ぎる。御者台から落ちて割れたランタンの火芯が、ちりちりと地面を這って揺れた。ベルサイユ宮殿から、ほどなく離れた人通りのない路上は、月明かりに冷たく照らし出されていた。

 「ポリニャック一味だ・・・はっ、まんまと引っかかるとは・・・・・。」
 半裸のアンドレの腕のなかで、荒く呼吸を吐きながら、オスカルは自嘲気味に口元をゆがめた。激痛から逃れるように、彼の首筋に額を強く押しあててくる。彼女があえぐ熱い息が、アンドレの鎖骨付近に容赦なく迫った。

 「オスカル、話すと傷に障るぞ。」
「このぐらい・・・・・・剣の傷は・・・慣れている・・・・・」
  「オスカル 頼むから喋るな!」

 切羽詰った声に気押され、傍で泣きじゃくっていたロザリーは、びくりと身を硬くした。
 オスカル・・・・・オスカル、すまない。おまえを護ると誓ったのに!
 愛するひとを刃(やいば)から護れなかった。腕のなかで、おれのオスカルが傷を負い、喘いでいる。乱れたブロンドの髪から生じる、甘い薔薇の香りがアンドレに触れる。祈るように彼女の頭髪に顔を埋め、唇を強く押し当てた。言い知れぬ不安と、甘い疼きで、混乱しそうになるのを必死で押し殺しながら、アンドレはにじみ出る鮮血を、重ねた布で押さえ続けた。彼方の小夜鳴鳥のさえずりが、幻聴のように、かすかに響く。
血を流すのは、おれではなかったのか。

「アンドレッ!早く医者へ!」
フェルゼンのはっきりとしたひと声が、静寂を切り裂いた。アンドレは我に返った。
そうだ、医者だ。オスカルを抱き締める腕に力が入った。落ち着かなくては。アンドレは自分にそう言い聞かせた。感情にかき乱されそうになる理性を働かせ、彼は的確な指示をすぐさま導いた。
 「ここからだと、主治医宅へ直接行く方が近い。俺が馬車を走らせる。オスカルを、頼む。」
 
アンドレから別の腕へ、そっと抱き移されたのを、オスカルは感じた。もうろうとする意識を振り払って、うっすらと目を開く。そこには、心配そうな表情を浮かべるフェルゼンの姿があった。
 「オスカル、大丈夫だ。いまから主治医に診てもらうから、安心しろ。」
 密着したフェルゼンの胸から伝わる落ち着いた声は、衰弱する彼女に、安堵感を与えた。
いつも、かすかに掠めるだけの北欧の香りが、ふんわりと自分を包む。
 フェルゼン・・・彼が、どうしてここに・・・・・。
 痛みの慟哭は、激しい強さを増していた。思考力が麻痺してゆく。オスカルは大儀そうにかすかに頷くと、身を任せるままに、瞼をふたたび閉じた。



 夜更けの突然の訪問者たちを、ジャルジュ家主治医のラソンヌ医師は、驚きながらも速やかに招き入れた。すぐさま運ばれたオスカルは、診察台にうつぶせに寝かされた。
 「ボン・ソワール、ラソンヌ先生・・・・・」
 彼女は幼い頃から親しんだ主治医へ、気丈に挨拶を告げた。
 「ボン・ソワール。オスカル様・・・・・。わざわざ自宅にいらしてくださったのに、とっておきのシャトー・ラフィットをお出しできないのが、残念ですぞ。」
 手馴れた様子で診察器具を用意しながら、主治医は彼女を見やった。
 「さぁ、恐れ入りますが、皆さんは外でお待ちください。」
 ふたりきりになったラソンヌ医師は、険しい表情を浮かべた。ろうそくの火が音もなく揺らめく。
彼は、血染めの軍服とブラウスに裁ち鋏を入れると、手際よく切り裂いた。

 まもなく、アンドレとフェルゼンに、診察室へ入るよう声が掛かった。
消毒アルコール臭の漂う室内に入ったアンドレは、目が釘付けになった。揺れるろうそくの灯のもと、あらわに横たわる乳白色の素肌がそこにあった。彼女の背中の右上半身と両腕は、真っ白なシーツに覆われていた。肌の露出を極力控えた配慮は、長年の主治医としての心遣いであった。かなりの出血と危惧していたが、命に別状がないという言葉に、とりあえず、アンドレはほっと胸を撫で下ろした。張りつめていた緊張がゆるみ、涙ぐみそうになる。胸で浅く息をしているオスカルの姿が、いとおしく映った。

 だが診察台に近づいたとき、アンドレは金縛りに遭ったように、立ちすくんだ。左肩から肩甲骨下にかけて、無残に振り下ろされた剣の傷口は、ざくろの実のように紅黒く、ぱっくりと開いていた。ふたたび彼の胸に、償いきれない後悔の念が渦巻いた。美しいなめらかな肢体に、生涯残るだろう痕跡。アンドレは、やり場のない悔しさで、拳を固く握り締めた。
 「これから縫合に入るので、オスカル様の体を、しばらく押さえていただきたい。」
 ラソンヌ医師が、ふたりを交互に見やった。アンドレとフェルゼンは、診察室に呼ばれた意図を、即時に解した。

 「・・・・・アンドレ・・・」
 もはや、気力だけで意識を保っているオスカルの声は、消え入りそうな囁きだった。アンドレはすばやく彼女の元に跪いた。透き通るように青白い顔は、苦しげな呼吸を繰り返していた。端正な額一面に、水晶のような汗が浮き上がっている。額に張りついたブロンドの髪を、彼は指先で拭った。わずかに開いた長い睫に縁取られた碧い瞳は、可憐に潤んでいた。オスカルのやるせない瞳が、アンドレを捉える。こんな状況なのに、熱を帯びた感情が、アンドレの喉元までひたひたと充ちてくる。たまらず深く息を吸い込んだとき、オスカルが擦れた声を振り絞るように、呟いた。
 「わたしの口に、布を噛ませてくれ。」
 喘ぐ唇は、昨夜口づけたときの薔薇のような瑞々しさを、完全に失っていた。アンドレは手にしたリネンを、乾いた唇に、そっと押し当てた。水を含ませたリネンの冷たさが、彼女の唇に、潤いと心地よさを与えてゆく。
 「気がきくな・・・相変わらず。」
 オスカルは、かすかに目を細めた。アンドレは微笑もうとしたが、うまくできなかった。代わりに彼女の頬に、そっと触れた。
 「では、始めましょうか。」
 頃合を見計らったラソンヌ医師が、声を掛けた。目で応えたアンドレは、オスカルの口に、リネンをしっかりくわえさせた。白い喉が、リネンの水を飲んで、コクリと小さく動く。
 「大丈夫だ。オスカル。そばにいるから。」
 アンドレは耳元で囁いた。そして立ち上がると、たおやかな右半身と腕を、シーツの上から、ゆっくり押さえつけた。


 ラソンヌ医師のひと針ひと針が、鋭い激痛となって、突き刺さる。その度にオスカルは、リネンを強く噛み締め、息を殺して、ただひたすら耐えていた。痛みに反応してしまう身体を、アンドレとフェルゼンが押さえつけるのが、嫌でも伝わってくる。治療とはいえ、この無抵抗な体勢は、オスカルにとって、かなり屈辱的であったが、どうすることもできなかった。
自分を囲む相手が、信頼する男たちであるのが、せめてもの救いだ。と、オスカルはこころから、神に感謝した。

 ああ、アンドレの手だ。
 数針縫ったとき、彼女の右手を包み込むように、握りしめてくる手があった。大きくて温かい。彼の手は昔と変わらず、しっとり熱っぽく弾力があった。
 子供のときみたいだ。なにかあると、いつもそうだ。黙って、手を握ってくれた・・・・・。
 皮膚を貫く痛みのなか、オスカルは、幼い頃をとりとめもなく思い巡らした。彼の逞しい手には変わらぬぬくもりがあった。逃れられない痛みの中で、頼る拠りどころに辿り着いたような安らぎを、オスカルはぼんやり感じた。


  「1ヶ月は、安静になさってください。ここ4,5日は、熱が出るでしょうな。」
 縫合後、医療器具の金属音と共に、ラソンヌ医師の冷静な声が、遠くに聞こえた。
 終わった・・・・・。
はり詰めていた理性がたちまち崩れ、オスカルはそのまま、泥のような深い眠りに堕ちていった。





 





































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