市川笙子さまより「星月夜」に寄せてイラストを頂きました。

貴婦人達に囲まれるベルサイユで、或いはパリの街角で
彼はどれほど女の視線を浴び、誘われてきたことでしょう。
女達の洗礼を受け男として艶を増していくアンドレ。
でも心に抱く人はただ一人。

笙子さま画によるおりぼん時代の艶やかアンドレに
こんなエピソードを書いてみました。






2004 10/14
イラスト 市川笙子さま
文 マリ子

一 瞥




 小さな劇場には入りきらないほどの人が詰めかけていた。プチ・トリアノンにある王妃の劇場。普段はアントワネット様とごく親しい者しか入れない劇場だが、この日は王妃の主演で初めての演目がお披露目される日とあり、国王陛下の御臨席のもと、普段出入りのない者達も大勢観劇を許されていた。
 観劇客は皆見知った者ばかり。警備は部屋の隅に必要最低限の配置だけ。王妃の最も大切な招待客として、オスカルは席の最前列左端にいる。客達が全て席に着き、ざわつきが収まったところで、俺は部屋を出た。
 ホールで終演を待ちながら、劇場の出入り口に目を配る。見知らぬ者はいないか、不審な行動を取る者はいないか、長年の習性だった。
 劇も終盤に差し掛かろうという時だった。扉が開き、中から一人の貴婦人が出てきた。王妃が演じる劇を中座するなどたいした度胸だが、抜き差しならぬ用事なら仕方あるまい。俺は彼女に背を向け、気づかない素振りで壁の方に目をやった。
「アンドレ、貴方は劇を見ないの?」
 背中から声をかけられ、振り返った。女が目の前に立っていた。
「王妃様の劇はいつ見ても素晴らしいわ」
 うっとりとした言い方ではあったが、通り一遍に褒めている様子が見て取れた。
「今日はオスカルさまもお席にいらっしゃるのね。珍しいこと。王妃様はきっと国王陛下よりもオスカル様に見てもらいたいのではないかしら」
 彼女は悠然と微笑むとゆったりした動作でホールの隅に歩いていった。途中振り返り、扇で俺を指し示す。彼女の用向きを聞く者は他にいない。俺は貴婦人の元に歩み寄った。
「オスカルさまは幾つになっても変わらないわね。白薔薇のごとき清純そのもの」
 女はホールの隅の椅子を通り越し、柱の陰に身を隠した。
 彼女の瞳が扉の方を伺った。つられるように俺もそちらを見た。何の変化も無かった。無事に劇は上演されている。
 女が動き、彼女は俺と身体を入れ替えるように場所を移動した。
「それに比べて貴方はどんどん変わっていく。一体何がそうさせるの?」
 視線を徐々に動かしながら、女は俺を見た。
「貴方は見る度に精悍になっていく。気づいている?」
 女が近づく。俺は身体を後に引いた。壁が背に当たった。
「アンドレ、私の言った事を覚えている?」
 女は胸が付くほど近づき顔を上げた。
「そのお話はお断りした筈です」
 彼女の顔に屈み込み、言った。
「覚えては、いたみたいね」
 女は笑いながら首から首飾りを外すと、それを俺のポケットに入れた。ジャラリとした重みが上着の裾を引いた。
「勿論です。忘れる訳はありません」
 俺は深く頷いた。覚えている。ルボワ伯爵夫人。
 一番最初は彼女が結婚したばかりの時だった。俺は若くして結婚した彼女の夫に対する不満を延々と聞かされた。挙句、彼女は「寂しいの」と訴えかけるような目で俺を見上げた。機会あるごとに彼女は話しかけてきた。だがそれは俺にとって負担でしかなかった。
 次に彼女はジャルジェ家の三倍の給料を払うから屋敷に来ないかと言ってきた。俺は断った。金の問題ではないと心を込めて説明したつもりだった。彼女は俺にこうも言った。
「子供が欲しいの。でもあの人では駄目なの。貴方、貴族の子供が欲しくない? 貴方が屋敷に来てくれたら私…」
 遮る俺に彼女はたたみかけるように言った。
「私、あの人を見返してやりたいのよ」


 あれから十年経つ。
「私も少しは大人になったつもりよ。貴方の立場も考えず無理を言ったわ。でも、貴方も若かったわね。平民でありながら、あんな無下に断るなんて‥」
 女は目に険と媚を含ませ、俺を見上げた。
「貴方がダンスをしてるところを見たわ。真面目で控えめそうにして隠しているつもりかもしれないけれど、貴方の仕草や振る舞いを見ていればわかるわ。貴方を通り過ぎていった女達はどのくらい、いるの?」
 女は俺の上着の裾に目をやった。
「それで足りなければもっとあげるわ。恋愛しようっていうのじゃないわよ。そんなのくだらないわ。貴方も男ならわかるでしょう」
 挑戦するような言い方だった。いつも不満顔で神経質そうに眉根を寄せていた若い伯爵夫人は、不敵な笑みを浮かべる妖婦になっていた。俺は彼女の胴を両手で掴み、力を入れた。女は何かを悟ったように目を細め、首飾りを付けていない胸を反らせた。
「裏切らないのはお金だけ」
 俺は女を見つめ、言った。
「平民の男は皆、金で動くとお思いですか?」
「貴族だってお金で動くわ!」
 女は言い捨てるとドレスの胸を押し下げてみせた。
「大人の遊びよ。どう? 私を抱いてみない? 貴方、遊んでないとは言わせないわ」
 遊び―― 言われなくてもわかっていた。目の前に迫る女の口紅と付けぼくろが語っていた。ベルサイユで流行だった。女はほくろで誘い男はそれに応える。
「俺も若かった。何も知らない男だった」
 俺は懐かしそうに笑うと女の顎に手をかけた。女の顔に勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。俺はもう片方の手をポケットに入れると首飾りを取り出した。伯爵夫人の首筋を指でなぞり、首飾りを首に掛ける。女を抱き寄せ、後れ毛をかき揚げるようにして、留め金を留めた。
「伯爵夫人」
 俺は彼女の両肩を抱くと唇を耳元につけ、囁いた。
「ご縁が無かったようです」
 恍惚を浮かべた女の顔はしばらく変わらなかったが、状況を察したと見ると憤怒で真っ赤になった。
「私に恥をかかせるつもり?!」
 女の手が挙がった。それが振り下ろされる瞬間、俺はその腕を掴んだ。
「人に見られます。ご注意を‥」
 痛みを感じるのか、女が顔をしかめたが、俺は腕を離さなかった。きつく締め上げる。劇が終ったのか扉から人が出てきた。俺は腕を離した。伯爵夫人は怒りに満ちた目で俺を睨むと肩を反らし、真っ直ぐホールを出ていった。
 開いた扉から観劇に興奮したような人達がはき出されてくる。その中に姿を探しながら、俺は伯爵夫人が出て行った方向を振り返った。


 金は裏切らないと言っていた。彼女にとっては金がすべてなのだろうか。それが信じられるものなのだろうか。一体何がそのように考えさせるのだろうか。
 哀れだった。贅沢を身に纏いながら、金で人の歓心を買おうとする。金で人を動かそうとする。卑しいと思った。
 もう二度と言葉を交わす事は無いだろう。
 俺は顔を戻し、舞台のある扉の方を探した。待っていた姿が見えた。光をまとい、きらめく笑みを浮かべながら、その姿は真っ直ぐ俺の元にやってくる。

































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