2004 9/30

星月夜



 道端に腰をおろし空を仰いだ。満点の星。夜の空気は冷たかったがそれは熱を持った身体中の血を静めてくれる。
 通りは静まり返り物音一つしない。辻馬車か荷馬車でも通るのを待ちながら、このまま朝までお前とこうしていてもいいと思う。傷だらけの顔に血が滲んでいる。気を失ってはいるがその顔はむしろ発散しきった清々しい表情をしていた。膝に乗せた頭の重みに密やかな満足を覚え俺は星を見上げた。
 いつもは冷静なお前が堰を切ったような激情を見せる時、それは心踊るほど美しい。今夜お前はそれを見せた。アメリカに渡ったまま戻らぬ男を想って…
 男達が一斉に殴りかかる。近衛士官と聞いて逆上した男達は憤怒に満ちオスカルに襲い掛かる。俺はオスカルを殴りつけようとする奴らを一人づつ引き剥がし叩きのめした。
「フェルゼンの馬鹿野郎! 地獄へ行っちまえ!」
 お前の叫びを聞いた時、俺の中でも何かが弾けた。人を殴る事が快感になると初めて知った。拳に感じる衝撃が心に巣食う苛立ちを吸収する。グラスの割れる音、椅子の壊れる音。後から押さえつけられ連打された。だがそれさえも得体の知れない鬱積を晴らすには具合が良かった。
 気がつくと店の中には誰も居ず、隣にオスカルが倒れていた。

 俺にはお前の苦しみが良くわかる。抑えつけても溢れる出る女としてのお前の想い… それを知りながら何もできない自分が腹立たしい。そして同時に激しい嫉妬が襲う。お前を愛すれば、いつかは出会う感情だった。
 俺はお前から逃げようとした。こうなる事を予感して…

 あれはまだ二十歳にも満たない時だった。俺の不手際でアントワネット様を乗せた馬が暴走した。俺はその場で死刑の宣告を受けるはずだった。だがオスカルの嘆願でそれは免れた。俺は一生をかけても返せない恩をオスカルから受けた。アントワネット様を救うためオスカルは怪我を負った。だが、旦那様もオスカルも俺のしでかした罪を責めることはなかった。温かい情けが苦しみに追い討ちをかける。最も大切な人達を窮地に陥れた不甲斐なさを呪う俺におばあちゃんが言った。
「アンドレ、お前に宮廷勤めは無理だ。私が旦那様から暇をもらってやるからこの家を出たらどうだい?」
 おばあちゃんの気落ちした半泣きの顔は何よりも辛かった。
 ――この家を出る。
 それは俺にできるただ一つの恩返しかもしれなかった。許されたとはいえ大罪人がこの家にいる訳にはいかない。
「うん」
 返事をしながら心が強張り、凍り付いていくのがわかった。
 一番古い記憶は母さんの笑顔と優しい歌声だった。それ以外何を掘り起こそうとしても思い出すのは全てジャルジェ家での思い出。オスカルに出合った時の事、初めて見た雪、聖ニコラウスが入れてくれた贈り物、エピファニーの出来事… 幼かった自分を育んでくれた全ての思い出に別れを告げる。そしていつも一緒だったオスカルにも… 誰よりも好きな俺の…
「アンドレ、お前ももう大人だ。一人でも生きていかれるように何か手に職をつけて‥ そうそう、お前を気に入ってくれている娘さんもいるんだよ。モランさんの知り合いの娘なんだけど、気立てのいい娘でお前にどうかと‥」
「おばあちゃん、よしてくれよ」
 俺は泣きたくなる思いをこらえながら言った。
「この家を出ることは、お前のためでもあるんだよ」
 背に感じるおばあちゃんの手は優しかった。


 ――お前のため…
 おばあちゃんの言うことは何となくわかった。オスカルに対する気持ちが抑えられない。俺の想いがオスカルに届くことはない。叶わぬ夢は諦めるようにとおばあちゃんは諭しているのだ。だがそれより俺が恐れたのはこの感情がいつかオスカルやこの家に取り返しのつかない事をするのではないかという思いだった。ちょうど今回の事件のように…
 俺はオスカルの側に居ない方が良い。それがオスカルの為… 部屋の隅にうずくまり立てた膝の上に顔を伏せて俺は泣いた。

「後の事は皆私に任せて‥ 何も心配しなくていい」
 おばあちゃんの言う通り僅かの身の回りのものと当座を凌ぐだけの金を持って誰にも別れを告げず長い間世話になったジャルジェ家を出た。
 朝もやが立ち込めるまだ薄暗い早朝、一度だけ建物を振り返った。壮麗でありながら瀟洒な懐かしい館。あの二階、白い扉の奥にはオスカルが眠っている。


 パリの一角に安いアパルトマンを借りた。店番や配達や鍛冶屋の手伝い何でもやった。少しでも時間があると懐かしい面影が俺を捕らえにきた。毎日くたくたになるまで働いて何も考えずに寝る。それが日々を消化するコツだった。


 ある日、部屋の戸を開けると一人の女がいた。
「ごめんなさい。勝手に入ったりして」
 知らない女だった。俺は部屋に入り水差しから水を汲むと顔と手を洗った。
「鍵が開いていたから‥ マロン・グラッセさんから聞いている? 私、モランの所の‥」
 女は言葉を切った。部屋は夕餉の匂いがしていた。
「俺は一人で何でもできる。必要ない」
 一部屋だけの狭いアパルトマン。俺は女に部屋を出るよう手で示しシャツを脱ぎ身体を拭いた。
「私、あなたの世話に来たんじゃないのよ」
「わかっている」
 振り向くと女は部屋を出るかわりに脱いだシャツを手にしていた。
「洗濯しておくわ」
「返せよ!」
 俺は邪険に女の手からシャツをむしり取った。女は唇を軽く引き結ぶと小さく何回か頷いた。
「帰るわ」
 素直に戸口に向かうと開いた戸に手を掛け女は振り向いた。
「あなたも両親がいないのでしょう? 私もよ」


 パリの空はなぜいつも曇っているのだろう。ベルサイユと同じ空とは思えない。ほんの短い距離なのにこれほどまでに色が違う。
 女は毎日のように訪ねてくる。部屋には鍵がかからない。どうせ取られる物は何も無い。あるのは男と女の世迷いごと。
「俺はおまえを知らない」
「これから知ってくれればいいわ」
 寝台に座り背中に女の身体を感じながら空を見上げる。今日も曇り。夜は星がでているのに…
「パリはいつ晴れるのだろう」
「もうすぐよ。もう少しで春よ」
 背中に身体を付けたまま女が言う。

 誰に教わったわけでもないのに男は女を抱ける。
 愛している―― 言葉にする事の空しさを打ち消すように繰り返した。
「アンナと呼んで」
 女は満足するのだろうか。男女の睦事に耽りながら、愛を‥探した。


 屋敷を離れてから一月以上経つ。一度おばあちゃんが訪ねてくれたがそれ以外には何の沙汰もない。オスカルの事を聞こうとして何も言えなかった。おばあちゃんも察してかお屋敷は何も変ったことはないと、それだけ言った。
 ――何も変わらない。
 そうなのだ。俺が居ても居なくても屋敷もオスカルも変わらない。それで良いと思ったはずだ。だが、なぜこれほどまでに悲しいのか… オスカルの心に俺はいない。それがこんなにも辛い。
 だが、乗り越えなければならない。
「アンドレ、何を考えているの? 悲しそうな目をして‥」
 女の指が頬に触れる。人の温もりが恋しいと思う夜もある。


「アンドレ! 新しい国王陛下が誕生したわ」
 部屋に息を切らせたアンナが入ってきた。
 前国王が死んだ? 窓を開けると「新国王万歳!」の叫び声が聞こえた。
「ルイ16世陛下万歳!」
「アントワネット王妃様万歳!!」
 その声は俺をあっと言う間にベルサイユ宮殿に連れていく。目に浮かぶ近衛隊の軍服。途端に心の中で警鐘が鳴り出す。止めろ、考えるな、思い出すのではない!
 俺はアンナの肩をつかむと寝台に押し倒した。軋む寝台の上で俺は狂ったように女を抱いた。


 新しい時代は俺に新しい人生を始めるように言う。俺に相応しい新しい人生を…
 一生懸命働き、善良で気立ての良い娘を愛し、子供を慈しんで育てる。誰もがしている健全で明るく平凡な毎日。妻を持ち、子を持ち、幸せに暮らす。
 アンナは俺を慕ってくれる。彼女を愛するのだ。そして幸せにする。式も挙げる必要があるかもしれない。パリが一番美しい時に小さな教会でも探してひっそりと二人きりで…
「アンドレ、あなたベルサイユ宮殿に行ったことあるのでしょう? 王妃様の話をしてくれない?」
 無邪気なアンナの瞳を避けながら俺は笑った。
「今の店はやめる。俺、もっと稼ぎたいんだ。明日から鍛冶屋の見習いに行こうと思うんだ。最初の給料は低いけれどゆくゆくはその方が…」
「私の為に‥?」
 俺の言葉をアンナが遮った。
「そうだよ」
 アンナが膝に乗り俺の唇を塞いだ。
「アンドレ、愛しているわ。愛しているのに、こんなに愛しているのに、不安なのよ。なぜかしら‥ どうして?」
 彼女は泣いていた。

「あなたの心に誰がいるの?」 
 窓辺に腕を乗せてアンナが問う。彼女は独り言のように言うと真っ直ぐやってきて俺の首に両腕をかけると俺の目を覗き込んだ。
「あなたは笑っている時でも目の奥は笑っていない気がするのよ。何か悲しい事でもあるの? 何があなたをそんなに苦しめるの? 私に話してちょうだい」
「何もないよ」
 女の背を撫でながら彼女を喜ばせようと言葉を捜した。

 目を覚ますとアンナが俺の腕を掴んでいた。夜中だった。彼女は暗闇の中で俺に身体を近づけた。
「目を覚ますとあなたが居なくなってるんじゃないかって、時々とても不安になるの」
 俺は女の腕を取ると彼女の胸の上に乗せてやった。
「心配するな。寝よう」
「嫌よ。抱いてちょうだい」
 闇の中で女が動いた。
「あなたの心に誰がいてもいい。だから、どこにも行かないと約束して」


 ジャルジェ家から手紙が来た。旦那様からだった。
『アントワネット王后陛下がベルサイユ宮に馳せ参じるよう御要望だ。すぐ帰るように』
 半信半疑だった。アントワネット様がいったい何故?
 もう一度手紙を見た。ジャルジェ家の書簡箋。旦那様の直筆。見慣れたそれらを目にしたのはずっと昔のような気がした。
 アンナが降ろした手に持った手紙を取り上げた。
「行かないでアンドレ! 行かないでちょうだい!」
 彼女は大声で泣き出すと俺の身体に腕を回した。
「アンナ」
 女の肩を掴んだ。ジャルジェからの手紙は俺の中に叩きつけるような強い風を吹き込んだ。顔を上げ部屋を出ようとした俺を塞ぐようにアンナが戸口に立った。
「行かないで!」
 泣きながら叫ぶ女の顔を見た。この部屋で俺は何をしてきた‥? 我に返った。
 今更帰れない。俺はアンナに背を向けると寝台に腰を降ろした。衝動に突き動かされるように身体が動いたが俺はどこにも行かれない。
 ジェルジェ家を、オスカルを忘れようとした。でもそんな事できはしない。今更ながらわかるなんて…
 
 パンを焼く香ばしい匂いとカフェの香りで目が覚めた。テーブルの上に朝食がのっている。
「アンドレ、これを食べたら行ってちょうだい」
 アンナはカップに湯気のたつカフェを注いだ。昨日と違って明るい顔だった。
「あなたが行ってしまっても私待っているわ。だってあなたは私が初めて心から愛した人だもの… でも、大好きな人が悲しそうなのは嫌なの。晴れやかで満足した生活があなたにあげられないのなら私は‥」
 アンナはカップを置くとベットに歩み寄り俺を抱き寄せキスをした。
「でもね、諦めたわけじゃないわよ。あなたを待っているわ、この部屋で。私の気が済むまで‥ どうしたの? アンドレ、浮かない顔をして。私が好きになったあなたはもっと明るい顔をしていたわ」
 俺はぼんやりアンナを見つめた。
「あなたは私の事は何も聞いてくれないのね。私、あなたを何回も見ているのよ。一度で好きになったわ。でも今のあなたはあの時のあなたじゃないわ」
 明るい表情の裏に疲れた色が浮かんでいた。アンナはテーブルを回り椅子に座った。
「さあ、食べましょう。アンドレ、私を哀れんだり罪を感じたりしないでね。私はあなたと暮らせたことを喜んでいるのよ」
 アンナは最後に寂しそうに微笑んだ。
「あなたは‥優しかったわ」


 最初に感じたのは懐かしい匂いだった。ホールに立ち高い天井を、手すりのついた階段を見上げる。もう二度と見る事はないと思っていた館。見上げる段に人影があった。あの時と同じ… きみ、名前は?
 風のように階段を駆けおりてくるとお前は俺の腕を掴んだ。
「アンドレ、帰ってきたのだな」
 永遠に答えのでない迷宮を彷徨っていたようだった。
「よく帰ってくれた」
「俺は…」
 オスカルの瞳を真っ直ぐ見られなかった。
「アントワネットさまがお前が姿を見せないので心配している」
 俺の顔を覗き込むお前からも懐かしい匂いがした。胸にこみあげるものがあった。だがそれを押し込めるように俺は呟いた。
「アントワネットさまが‥?」
 手紙にも書いてあったが意味がわからない。今は王后陛下になられたアントワネットさまが心配している。王妃ともあろう方が一体何だって俺を…
「アントワネットさまは心の優しいお方だ。お前があの時の事を気に病んでいるのではないかと心配しておいでだ」
 オスカルの声も優しかった。
「今はアントワネットさまがフランス王妃だ。何も心配することはない。アンドレ、明日一緒に宮廷に行こう。いいな?」
 心の奥を揺さぶるような声だった。この声を聞くことなくいられた事が不思議でならない。
「アンドレ、今までどこにいた? 何をしていた?」
 労わるように優しい‥ 俺はオスカルから視線を反らせ下を向いた。
「あの事件のことで父上がお前を謹慎させた事は知っている。私は父上に逆らってでもお前を取り戻すつもりでいた。でもそれをしなかったのは…」
 オスカルは言葉を切り俺の後に何かを探すように目をやった。
「お前が結婚すると聞いたからだ。だから‥」
 俺は首を横に振った。自分の卑劣さを噛み締めた。
「そうか」
 オスカルの両腕が俺を抱いた。
「アンドレ、もうどこへも行かないでくれ」
 金の髪が目の前にあった。肩にお前の額が触れる。俺はただ立ち尽くしていた。もうどこへも行かない。一生お前の側を離れない。お前に命を捧げる。あの時の誓いを胸に刻んだ。
 オスカルの背から視線を移す。見つめる先に俺が踏みにじった女の顔が浮かんだ。彼女の声が耳にこだまする。
『アンドレ、人を好きになるってね、努力してするものじゃないわ…』


 夜空は冴え渡り星が輝きを増す。オスカルの呼吸は規則正しい寝息になった。俺は上着を脱ぎオスカルの肩にかけた。
 

 俺は以前と変わることなく宮廷への出入りを許された。オスカルは近衛連隊長に昇進した。宮廷で毎日のように繰り広げられる舞踏会や音楽会。華やかで優美な生活でありながら、その下には醜い欲望と冷酷と権力争いが渦まいていた。貴族が貴族というだけで平民の子供を平気で撃ち殺すところを見た。貴族の馬車に親を轢き殺された少女が仇を取りにも来た。
 人は欲望を満たす為、権力を守る為、どこまで身勝手になれるのか。
 王妃の名を語りオスカルを呼び出し襲った覆面の男達。オスカルの左肩に深々と刺さった剣。誰が放った刺客かは判るすぎるほど判っていた。王妃の寵愛を欲しいままにする誰もが認める宮廷での権力者、ポリニャック伯爵夫人。彼女の最も嫌う者がオスカルだった。

 命に別状ないとはいえオスカルは重症だった。あの夜を思い出すと俺は憤怒に焼かれそうになった。オスカルを傷つけた者を許さない。だがそれ以上に自分が許せなかった。オスカルを亡き者にしようとするポリニャック伯夫人の意向を察していながらオスカルを護る事ができなかった。
 意識が戻ったオスカルは弱々しくベットの上で呟いた。
「アンドレ‥ これからはもっと慎重にしないとな‥」


 オスカルが刺されてしばらく経った頃、グラヴィエール侯爵家から俺を名指しで呼び出しがあった。
「オスカルさまのお怪我のことでお知らせしたい事があります」
 グラヴィエール侯爵夫人はポリニャック伯爵夫人と親しかった。警戒するべきだが使いの者はオスカルでなく俺に用があると言う。危険を感じたが益も感じた。俺は後日訪問すると従者に告げた。


 グラヴィエール侯爵夫人は客間に俺を招き入れると事件について切り出した。
「オスカルさまは大変だったわね。お怪我はどうなの?」
 座るように薦められたが俺は椅子の脇に立ったまま彼女を見つめた。グラヴィエール侯爵夫人はポリニャック伯爵夫人と同様アントワネット妃殿下の気に入りの貴婦人だった。ポリニャック伯夫人よりは若く、アントワネット妃殿下より幾つか年上というところだろうか。たおやかで優美な物腰と眼差し。美しさにおいては王妃を取り巻く貴婦人達の中でも群を抜いていた。
 俺の手を取り椅子に座らせながら彼女は囁くような小声で言った。
「貴方、オスカルさまを刺したのが誰だか知っているわね」
 俺の表情が変ったのを彼女は見逃さなかった。
「ふふふ。誰がやったのか皆わかっているのに、誰も何も出来ない。ふふふ」
 オスカルの深手を思うと心がえぐられるようだった。それなのにグラヴィエール侯夫人はまるで男に媚でも売るかのように嫣然と笑った。
 彼女は椅子の後に回ると俺の身体に両腕を回した。
「警戒しているわね。無理もないわ。大丈夫、私は貴方の味方よ」
 肩に回った腕は胸の前で交差し白い手が顔に触れた。
「味方といったら変だけれど、貴方の物分かりが良ければ損な話ではないわ。私と取引しない? 私はポリニャック伯夫人の動向に詳しいの」
 髪の中に手が入るのが分かった。
「貴方に彼女の考えている事、企んでいる事、何でも教えてあげる」
 粘りつくように甘い香水の匂いが纏わりつき頭に柔らかい胸の膨らみを感じた。
「ふふ、緊張することないわ。誰でも秘密を聞き出す為にはしている事よ。貴方、ポリニャック家の秘密を知りたくない? オスカルさまの為に…」
 最後の言葉が俺を動揺させる事をこの女は知っていた。女は息を潜めて言った。
「ポリニャック伯夫人が一番嫌いなのは、あのスウェーデン人とオスカル・フランソワ…」
 首筋に吐息が吐き出される。
「私は小間使いの一人をポリニャック家に忍び込ませてもいるの。宮廷で生き延びていくには賢く機を見なければ… 貴方のご主人は愚鈍なほど実直ですものね」
 俺は首を回し女の顔を見た。優しげな表情の中に隠れる狡猾さ。だがそれさえも媚態の中に隠すさまは見事としか言いようがない。
「素敵よ。怒った顔がいいわ。貴方、愛するご主人の為に一肌脱ぐ気はない?」
 しなやかな指はクラバットを解きにかかる。
「今夜は、オスカル様を刺した一味の名前を教えてあげる。もうとっくに高飛びしてしまったけれど」
 クラバットを解いた手はシャツの釦を外した。はだけた胸に女の手が滑り込んだ。
「情報の見返りは何ですか?」
 女の顔を正面に見た。彼女は目を細め艶のある紅い唇を引き笑った。
「勿論、貴方よ。今更何をいうの?」
「取引に応じましょう。でも、もしこのことが外部に漏れた場合‥」
 俺の言葉は女の唇に遮られた。暫しの口づけの後、女が言った。
「貴方がしゃべったりしなければ漏れる事はないわ。秘密は守ってこそ価値があるもの‥ でも覚えていてちょうだい。貴方が私を満足させられなかったり不審な事をしたらジャルジェ家の従僕が狼藉を働いたと貴方のご主人に言うわよ」


 グラヴィエール家へ行く時は変装する必要があった。彼女の用意してくれた服にあらかじめ着替え深々と帽子を被り名前を隠し女の元へ通う情夫になりすました。ジャルジェ家の者と分からぬようにしなければならない。それは俺とグラヴィエール候夫人の両方にとって大事な事だった。
 俺はどこかの伯爵ということになっていた。指定された日時に行くといつも決まった侍女が真っ直ぐに侯爵夫人の寝室に案内してくれる。そこで俺は見返りを得るため努めを果たす。
 グラヴィエール候夫人はポリニャック家で毎週金曜に開かれる秘密の会談について教えてくれた。そこでは一族の主な者が集り、王妃の歓心を買う為の算段や地位や金の分配、邪魔者を消す為に都合の良い方法などが話し合われていた。
「ポリニャック伯夫人は今度はド・ギーシュ家と縁戚を結ぶ為に画策しているわ。自分の親のような年齢のド・ギーシュ公爵と十一才にもならない自分の娘をね。うふふ。貴方、ド・ギーシュ公爵の風変わりな趣味をご存知?」
 侯爵夫人はド・ギーシュ公爵の胸が悪くなるような趣味について教えてくれた。妙なる香りの贅沢な絹に包まれた寝室の中であったが、そこは上辺だけ綺麗で中身は膿んだ宮廷そのものだった。

 オスカルの為に有益な情報が欲しいと思った。だが割り切ったつもりでも時に耐えられなくなった。そんな俺の心を見透かすのか彼女が言う。
「オスカルさまの肩の傷を思い出して。誰が付けたの? 玉の肌に一生消えない傷跡を残したのよ」
 俺の怒りを侯爵夫人は笑いを浮かべて見つめる。
「怒りなさい、アンドレ。怒った貴方はとても素敵よ」
 俺は身分など考えず女を寝台に叩きつけた。黒い感情の渦に任せ、乱暴に扱えば扱うほど女は喜びの声を上げた。

「アンドレ、貴方は堅物でどれだけ誘っても乗ってこないのですって? 貴方、宮廷で何と言われてるかご存知? オスカル・フランソワにぴったりくっついているあのジャルジェ家の従僕を自由にできたらいいでしょうね」
 侯爵夫人は薄絹で囲まれた寝台に横たわり俺を見ていた。情事の後の熱っぽいけだるさが女から漂ってくる。俺は身体を起こすと彼女に背を向けた。
「一度貴方と寝台を共にしたいと思っている女達は大勢いるのよ。貴方をモノのしようと思ったら一筋縄ではいかないわ。貴方の大切な人の耳に変な噂が入っては大変。口の軽い女では駄目よね」
 侯爵夫人は笑いながら深いため息をつき続けた。
「宮廷の女達は貴方の見た目に興味があるようね。でも私は違うの」
 女の指が背中を這う。
「貴方には貴族の男達にない魅力があるわ。貴方は‥ 強靭で、野生的で、美しい…」
 絡みつく声から逃れるように俺は天蓋の外へ出た。
「貴方は平民でありながら貴族以上に誇り高い。私はその頑固さが好きなの。そしてそれほど強いものを持っていながら大切な者の為にはそれも捨てる」
 彼女の笑い声が重なった襞の奥から聞こえた。
「私は貴方と秘密を共有している。私にとってはそれがエクスタシーなの」
 次に女が何と言うか分かっていた。
「特に宮廷でオスカル・フランソワを見る時がたまらないわ」


 グラヴィエール侯爵夫人はジャルジェ家、ポリニャック家どちらの味方でもなく完全に中立を保っていた。彼女の情報は正確で有益だった。誰も知り得ないはず陰謀は偶然を装い回避できたし、幾つもの危険を察知してきた。俺は侯爵家に通うことをやめるわけにはいかなかった。
 グラヴィエール家で過した後、俺は必ずパリに出た。グラヴィエール家の匂いを、侯爵夫人の香水の匂いを消す為に俺はパリで浴びるように酒を飲んだ。グラヴィエール候夫人は取引相手としては申し分ない。だが惨めな境遇に甘んじている自分に嫌気がさした。
 一かけらの愛さえないのに技巧にだけは長けてゆく。堕ちるところまで堕ち、汚れていく。それでも良いと自分を納得させる為、グラスをあおる。
 この夜初めて金で女を買った。俺は女を慈しむことはない。遣る瀬無い憤懣をぶつけるだけの相手。
「辛いことがあったら酒飲んで女を抱けば忘れちまうよ。お兄さん」
 あかぎれだらけの手をした女に慰められた。


 パリの街で一人の女と知り合った。出会いを良く覚えていないのは酔っていたからかもしれない。彼女が何者か俺は知らない。知る必要もない。知れば俺はそこにいなかっただろう。
 長椅子の上に二匹の猫が乗っている。細い小さな白猫と黒い大きな猫。どちらもこの部屋でよく見かける奴だった。俺は二匹を抱き上げると長椅子に横になった。
「アンドレ、猫に餌をやってくれた?」
 クララは帰ってきて俺を認めるとまずそう聞く。彼女の後からもう二匹がついてくる。灰色に毛羽立った汚らしいのと地毛だか汚れだ分からない薄茶色。どちらもびっしょり濡れている。外は雨なのか。
 クララは自分の濡れた髪も構わず猫を摘み上げると体と足を丁寧に拭き俺の胸の上に乗せた。一匹、もう一匹。
「いきなり降り出してきたわ」
 クララが皿にミルクを入れると胸の上で押し合いをしていた奴らは一斉に床に飛び降りる。クララは首を傾げしゃがみ込み猫達を見ていた。
 昼間の彼女を知らないが彼女の稼ぎは皆猫の為に消えていた。パリは以前よりずっと物価高になっている。それでもクララは猫の面倒をみていた。
「一体この家には何匹猫がいる?」
 俺の問いにミルクの皿に集まる猫を見ながらクララは答えた。
「そんなに多くはないわ。あなたを入れて八匹くらいよ」
 彼女の好きなものは猫と子供。男は嫌いと言いながら時々俺の居場所は長椅子からベットに格上げになった。
「あなただけは特別」
 彼女が言う。
「だって魂がないもの」
 腕の中の女は遠い目をしていた。


 ―――魂がない。
 クララこそ、そうだった。
 彼女はよく長い時間身動きもせず物思いに耽っていた。俺は石の像にでもなったような女を見つめる。静かに流れる無為の時間。何も言わず‥ 何も聞かず…
「アンドレ」
 擦り切れた長椅子は猫と俺の居場所だった。彼女は虚ろな目をして俺を見つめる。
「あなたの探している人は、いつか、みつかるの?」
 俺は長椅子の背に腕を回したまま目を伏せた。クララがやってきて隣に座る。
「泣いているの?」
 クララの手がまぶたに触れる。俺は首を横に振った。泣いているのはクララの方だった。

 部屋はいつも薄蒼かった。女の肌は冷たく身体はつかみ所のない波のようだった。

 海の底のような部屋はしばらく行かないうちに窓辺の様子が変わっていた。風をはらんで揺れたいた白いカーテンが満艦飾の洗濯物になっていた。いつもひっそりとしていた室内からは陽気な声が響いていた。住人が代わったのだ。
 あの女はどこに行ったのか… 俺は窓を見上げそこを立ち去った。


 夜気は冷たく膚を刺す。


 アントワネット様はプチ・トリアノンに引きこもりほとんど政務を省みなくなった。ポリニャック伯夫人の威光が衰えることは無かったがオスカルの近衛連隊長としての地位も磐石だった。誰もオスカルを陥れることなどできはしない。俺がグラヴィエール家に行く機会も減ってきていた。
 グラヴィエール侯夫人は王妃の気に入りとしてプチ・トリアノンへの出入りを許されていたが侯爵の転進に伴い彼女はベルサイユを離れることになった。
 王妃に別れの挨拶をした帰りだろうか、グラヴィエール侯夫人とプチ・トリアノンへ通じる道の途中で行き会った。彼女は笑みを浮かべるとオスカルに向き合い腰を屈めた。
「オスカルさま、ごきげんよう。ローヌの領地にまいります。急なことでご挨拶もままなりませんで」
 どのような時でも彼女の仕草は優美だった。恋多き女。彼女の為に決闘で命を落とした男もいた。
「貴女が行ってしまわれたらきっとアントワネット様は寂しがる」
 オスカルの声にグラヴィエール侯夫人は顔を上げた。
「オスカル様、貴女は神がお与えになった多くの宝を持っていらっしゃいます。でも、大切なものは失ってからその価値が判ると言われます。まして近くにあれば尚更ですわ。人は一人で生きていかれぬもの‥」
 彼女は懐かしそうにプチ・トリアノンの方角に目を向けた。
「自分にとって何が一番大切か気づかないと不幸になります。オスカル様、貴女の愛を注いでこそより輝く宝もございましてよ」
 最後に会釈をするとグラヴィエール候夫人はオスカルに背を向けた。俺の脇を通り過ぎながら彼女は俺を見る事はなかった。宮廷での彼女のポーカーフェイスは完璧だった。彼女は最後までそれを守り通した。



 夜は更けていく。汗は冷気となり身体を冷やす。地面から上ってくる冷えがオスカルに伝わらないよう俺はオスカルを抱え上げ腕の中に囲い込んだ。オスカルの肩に掛けた上着を引き寄せ隙間のないよう包み込む。こうして抱いていれば少しは温かいかもしれない。
 オスカルは身じろぎしたが俺の胸に頭をもたせかけると再び寝息をたてた。この眠りの中に誰がいるのだろうか。俺はオスカルを抱いたまま空を見上げた。
 アメリカへ渡った彼。お前はいつから彼を想い始めていたのだろうか。最初に会った時からか‥? それとも再会した時だろうか。
 彼は身分、家柄、人物、全てにおいて完璧だった。オスカルが六番目の令嬢として育っていたら彼と添い遂げることが出来たかもしれなかった。
 だが、彼には‥ そこまで考え俺は彼を見る時いつも感じる不快感が胸の奥から這い上がってくるのを感じた。その不快感はいつも俺を悩ませた。お前と一緒に俺の嘆願に命をかけてくれた彼。その彼にこのような感情を持つ自分の卑小さにいつも向かい合ってきた。
 何を感じるのだろうか。羨望か、嫉妬か。それもある。だが今更自分の卑小さに気落ちするほど純情でも繊細でもない。心にいつも引っかかるのは…

 ――彼はフランス王妃と心を通わせている――

 この一点だった。あってはならないことだった。責めるつもりはない。だが、オスカルを思うと‥
 彼はお前の崇高で高貴な思いを捧げるに相応しい相手だろうか。お前が彼を想う時、彼が誰を想っているか考えると胸が裂けそうだった。
 俺は空を見上げ笑った。彼が誰を想うとも、お前が誰を想うとも、その感情は誰侵すことのできないその人だけのものなのに…
 凍てつく空気の中で星の輝きは冴え渡る。
 俺は再び腕の中に目を移した。安心しきったように眠る顔。血と泥で汚れていながらお前の美しさは変わることがない。それは見つめるだけで罪を誘う。お前の顔に手をかけ俺は畏れに挑戦するかのような確信を持ってお前の唇に口をつけた。
 酒場を出た道でお前を抱え上げ思わず口づけた。何も考えることなく触れてしまった。お前の苦しみに同調したと言ったらいい訳になるだろうか。微かに触れた唇の感触に陶然となりながら、その時感じた畏れに身体中が震えた。
 俺がお前に触れることは多分許されない。それは分かっている。己の辿ってきた道を反芻すれば尚更だ。だが‥
 胸に預けられた頭に腕を回し、顔を上げさせ、お前の眠りを妨げてしまう危惧を抱きながらより深く口づけた。
 お前は息を吐きながら顔を反らせる。そこに手を添え、向きを変え、もう一度唇に触れた。許して欲しい。こうすることを…
 胸の奥から、指先から、流れるように溢れてくるものがあった。お前に触れたい、もっと触れたい。突き上げてくる熱さに耐え切れず俺は唇を離した。
 お前の寝息は時に乱れながら甘く俺を誘う。お前の髪の中に手を入れ乱れた流れを梳きながらもう一度口づけた。
 俺はお前の為ならどんな目に合ってもいい。お前が健やかで安全であることが願いだ。お前の笑みを見る為なら俺は何でもする。
 お前が輝くなら俺は泥にまみれて構わない。お前の尊厳と誇りの為に戦い、必要なら悪をも懐柔してみせる。気高さを、清廉さを、優しさを、愛している。お前がいつもお前らしくある為に俺は生まれてきた…
 この夜を忘れない。これから一生どんなことがあってもお前から離れることが無いように勇気をくれ。何があってもお前の側で生きていかれるように…
 オスカルに口づけながら俺は心の中で繰り返した。
 
 彼はもうすぐ帰ってくる。きっと帰ってくるさ、オスカル…



Fin




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