2005 12/4
文 ラーキーさま

Passion

6. La Douleur 〜痛み〜



 油の匂いと安物の煙草の煙が漂う店内は、グラスのぶつかる音と、男たちの騒々しい声で満たされていた。時おり上がる笑い声に、店の女たちの嬌声が混じり合う。店の隅の薄暗い席に座り、ぼんやりと店内を見まわしていたアンドレは、グラスに並々と注いだ酒をゆっくりと飲み干した。渇いた喉に安物のワインがしみわたる。
 空っぽの胃にアルコールを流しこんだために急速に酔いが回ったが、今日一日の出来事は鮮明に記憶の底に焼きついて頭から離れなかった。

 香料商人ピエール・オションは、人の良さそうな丸顔に満面の笑みを浮かべて彼を出迎えた。祖母の言うとおり、自分が強く望まれてこの家に招かれたことがひしひしと感じられた。後ろめたさに心が軋んだが、なんとか気力を振り絞り、旦那様の面目をつぶさないだけの精一杯の礼儀で応えた。
 彼が通された部屋で座って待っていたフロールは、金髪の巻き毛に優しげな面持ちをした美しい娘だった。もしオスカルと出会うことがなければ……オスカルを愛することがなければ、フロールのような娘と、平凡な幸福を築くこともあり得たかもしれないとふと思う。
 彼女は立ち上がって彼に挨拶をすると、すぐに俯いて微かに頬を染めた。その瞬間、目の前の金髪にオスカルの面影が重なった。彼はふたたび心が軋むのを感じた。

 手ずから茶の用意するため彼女が立って部屋の入口へ向かったとき、彼は彼女が妙な具合に片足を引きずっていることに気付いた。すかさずオションが言った。
 「ご覧の通り、フロールは足が悪いのです。あれが子供のころ、わたしの不注意で大怪我をさせてしまいましてね。身体の方にも少し……傷跡が残っています。そんなわけで、もう25才を過ぎたというのに、これまで良縁に恵まれませんで……」
 「お嬢さんのような魅力的な女性なら、そんなことは関係ないでしょう」
 彼は素直に感じたことを言った。オションの顔が喜びに輝いた。
 「そう思って下さいますか……。お恥ずかしい話ですが、わたしのように一代で財を築き上げた人間は、時々他人が信じられなくなりましてね。信頼していた番頭に金を持ち逃げされたことが過去にありまして。いずれは店の跡継ぎにと楽しみに育てていた若者でした。……そんなわけで、あれが不憫だと思えば思うほど、あれに近づこうとする男がみなわたしの財産目当てのような気がするのです。馬鹿な父親のせいで、あれにはかわいそうなことをしてしまって……」
 オションは真剣な面持ちで、アンドレの目を見ながら続けた。
 「あなたのことは昔から存じておりました。いつもオスカル様と一緒にいらっしゃった。真面目そうないい青年だと思って拝見しておりました。今回失礼ながら、あなたのことを少し調べさせていただきました。お屋敷ではもちろん、衛兵隊でもあなたのお人柄に対する周囲の評判は申し分がありません。わたしの直感は間違っていなかったんですな……。娘もあなたのことをたいへん気に入っておりまして」
 「フロールさんが?」
 「覚えておいででないですかな。あなたがジャルジェ家のお使いでパリのわたしどもの店にいらしたとき、娘もちょうど店の方に来ていたのです」
 彼は少しずつ抜け出せない底無し沼に足を引きずり込まれるような息苦しさを感じていた。

 部屋に戻ってきたフロールが、慣れた手付きでアンドレの茶碗に茶を注いだ。上等な茶葉の香りが周囲に立ちのぼる。
 「ところでオスカル様のご結婚の話は進展しましたかな? ついこの間も娘とその話をしておりまして」
 「いえ……。まだ正式には何も」
 「オスカル様のご結婚が正式に決まったらあなたもご自由になるとのことで、わたしどもも大変よろこんでいます。ジャルジェ様では盛大な舞踏会を計画されているという噂を聞きましたが、現在のご求婚者の方も申し分のない立派なお相手だと伺っておりますよ。たしか近衛の連隊長をされているとか。早くご結婚が決まればいいですな。オスカル様の花嫁姿はさぞかしお美しいことでしょう」
 オションはそう言って、フロールの方を見た。彼女は父親に賛同するように、にこりと微笑んでみせた。
 無邪気に語るオションの言葉が、アンドレの胸を鋭く抉った。わずかに青ざめた彼の表情の変化に気付くこともなく、オションは声を落とし、まじめな口調で言った。
 「オスカル様ほどのお美しい女性がドレスをお召しになることもなく、いつも無趣味な軍服姿で……生涯独身で過ごされるのかと、実はおせっかいながら大変残念に思っておりました。ジャルジェ将軍もずいぶん残酷なことをされるものだと……」
 「お父様。そんなお話、ジャルジェ様に失礼よ」
 フロールが軽く窘めるように言う。
 「いや、これは失礼しました。この話は内密に願いますよ。フロールのことがあるだけに、とても他人ごととは思えなくて。オスカル様のご結婚の話をうかがって、なんだかわが娘のことのように嬉しく思えましてね。うちの娘もオスカル様のご幸福にあやかることが出来ればと……」

 胸が苦しかった。そのあとフロールを交えてどんな話をしたのかはよく覚えていない。当たり障りのない世間話に終始したような気がする。ただフロールが祖母の言うように、慎ましく気立てのよい娘だということは分かった。自分は彼らに対して、最低の礼儀だけは失しなかったと思う。だがそうすることに何の意味があるというのだろう?
 オションの家を辞す直前、ジャルジェ家への贈り物を取りに行くためにフロールが席を外した。娘の姿がドアの向こうに消えるのを待って、オションが言った。
 「あなたさえよろしければ、時々こんなふうに会ってやっていただけませんか。あんな娘でも気に入っていただけるようなら、いずれ店の方はあなたにお任せすることになります」
 「オションさん。わたしは商売のことなど何も知りません。ずっとお屋敷に奉公していましたから、とても……」
 彼は会話の流れを断ち切るように言った。
 「そんなことなら。わたしが全部お教えします。なに、あなたほどの優秀な方なら、なんでもないことですよ」
 そう言って、オションは満足そうに笑った。
 彼を見送る父娘の善良そうな、幸福そうな笑顔が、彼の偽善を糾弾するかのようにいつまでも彼の脳裏から離れなかった。


 「いらっしゃい、アンドレ。そんな隅の方に座ってどうしたの」
 物思いの谷間に沈んでいた彼に、馴染みの店の女が声を掛けた。
 「やあ、アンナ。元気かい?」
 店一番の美人で評判のアンナは、彼のテーブルに片手を付き、首を傾げて彼の顔を覗き込みながら言った。
 「あんたこそ調子はどうなの。なんだか浮かない顔をしているようだけど」
 「上々だ。地獄の底まで一気に駈け下りられそうな気分だよ」
 そう言いながら、彼は力なく笑った。
 「ふふん。あんたにしてはずいぶんと気のきかない台詞だわね。ちょっと待ってて。さきからあっちの客がうるさいから顔を出して来るわ。すぐに戻ってくるから」
 女はそう言いながら彼の手を軽く握ると、派手なドレスの裾を揺らしながら、男たちの一団の方へ歩いていった。

 一人になると、彼は再び詮のない物思いに沈みこんだ。
 すぐにでも縁談の話を断るべきだった。だが、それが出来なかった。あの父娘に対する気遣いのためではない。運命の槌が振り下ろされ、オスカルから引き離される日を少しでも先伸ばしにしたいという自分勝手な都合のために、自分はあの父娘の好意を利用しているのだ……。彼は自分自身をさげすんだ。同時に、自分の中にあるそんな浅ましさや卑怯すら、どこかで肯定しているもう一人の自分がいた。
 フロールのような娘を愛することができれば、どれほど幸福なことだろうと思う。だがそんな可能性を想像することもできないほど、彼の運命はオスカルと強く結び付けられていた。もしオスカルと離れて生きていけるのならば、こんな出口のない愛の地獄でのたうちまわる前に、とっくにオスカルの側から逃げ出していた。

 「おまたせ」
 アンナはすぐに戻ってきて、彼の向かいの席に座った。
 「あっちの客は放っておいていいのか? 君が目当ての連中だろう」
 「いいのよ、あんなやつら。下らない連中ばかり」
 そう言うと、アンナは形のよい眉の片方をつり上げて見せた。人を小馬鹿にするときの彼女のいつもの癖だった。
 「相変わらず強気だな」
 「そうじゃなきゃやってられないわ、こんな商売」
 「まあな……」
 磨き上げれば貴婦人にでもなれそうなほどの美人のアンナにも、背負ってきた多くの過去があるのだろうとふと思う。歳の頃はおそらく彼と同じくらいだろう。彼女の経歴を聞いたことは一度もなかったが、根っから水商売の世界で生きてきた女たちとは明らかに違った雰囲気を彼女は持っていた。

 「ついこの間もずいぶん飲んでいたようだけど、何かあったの? あんたがあんなに飲むなんて、珍しいわね」
 アンドレは黙って微笑むと、グラスに残っていた酒を飲み干した。
 「およしなさいよ、そんな飲み方。あんたらしくないわ」
 「らしくない……か。俺にだって飲みたいときはあるさ」
 「ふふん。いつもは紳士のアンドレさんが、失意のやけ酒ってわけ? じゃあ、わたしも付き合うわ。注いでちょうだい」
 アンナはそう言いながら、テーブルの横を通りかかった店の男からグラスを受け取ると、彼の前に差し出した。彼は黙って彼女のグラスに酒を注いだ。

 「あんたのような色男がやけを起こす原因は、失恋か片思いだって相場が決まってるわ。で、どんな相手なの、あんたの思い人は?」
 彼は幾分酔いの回った目で女の方を見たが、押し黙ったまま何も答えようとしなかった。その様子を見て女は言った。
 「わたしみたいな水商売の女には何も話せないってわけ? あんただってわたしと同じ平民の出でしょ。貴族のお殿様じゃあるまいし、ずいぶんとお高く止まってるのね」
 平民……その言葉が思いがけず彼の胸を刺す。
 「そんなんじゃないよ」
 「あんた自分のことはあまり話さないからわからないけど、たしか貴族のお屋敷に奉公してるんだったわね。じゃあ、お相手はお屋敷のお嬢様ってとこかしら。あんたは理想が高そうだから」
 「もういいよ、そんな話は」
 彼は吐き捨てるように言うと、女から目をそらした。女の軽口を聞き流すだけの余裕すら、今の彼にはなかった。
 「ふん……むきになるところを見ると、図星のようね。あんた、そのお嬢様とやらに手を出したこともないの?」
 「やめてくれ」
 「手を出そうとしてふられたの? それとも親に見つかってお屋敷を追い出されでもしたの?」
 「アンナ! いい加減にしてくれ。何だって今日はそんなに俺に絡むんだ? 君の方こそらしくないぞ」

 女は鼻先でふふんと笑うと、グラスに残っていた酒を飲み干し彼の前に差し出した。彼は女のグラスと自分のグラスに並々と酒を注ぐと、少し離れたところに立っている店の男に空き瓶を振って見せた。男はすぐに新しい瓶を運んできた。女は注がれた酒を一気に飲み干すと、言った。
 「ずいぶん昔にね、あんたみたいな男を知っていたわ」
 「俺みたいな男?」
 「商人の娘と愛し合っていた……。裕福な商家の一人娘でね、男はその家で見習いとして働いていた。働きもので、気の優しい誠実な男だったわ。ね、あんたに似てるでしょ?」
 女の瞳には、からかうような皮肉な笑みが浮かんでいた。彼は女の問い掛けには答えず、グラスの酒を傾けながら黙って女の話の続きを待った。
 「娘の父親が、娘を落ちぶれた貴族と結婚させようとしたの。金の力で貴族の称号を買うつもりだったのね。男と娘は駆け落ちしようと決めた。万が一失敗したときは、ともに死ぬつもりだった……」
 「それで……?」
 「駆け落ちはあえなく失敗して、娘は家に連れ戻された……。共に死のうとまで言っていた男は、たぶん怖じ気づいたのね。自分のために娘の人生を狂わせるのは忍びないなんて言って、娘の元から逃げ出したのよ」
 「二人の関係は終わったのか?」
 「男は別の女と結婚をして家庭を築いた……。女は泣く泣く、反吐が出そうな貴族の馬鹿息子と結婚させられた」
 「ふん……世間では、よくある話だな」
 苦々しげに彼が言う。
 「ええ。でもまだ続きがあるのよ。聞きたい?」

 女の瞳からはいつしか皮肉な笑みが消え、その奥底には妖しい情念が閃いていた。
 「とんだお笑い草よ……。男は結局女のことが忘れられなかったのね。結婚をして所帯を持ったものの、だんだんと沈みこむ日が多くなった。仕事も休みがちになって、毎日家でぶらぶらするようになった。あんなに働きものだった男がね……。新妻は泣いて男に頼んだけれど、男はもう何にも心を動かすことがなかった……」
 とっさにフロールの顔が思い浮かぶ。彼は僅かに呼吸が早くなるのを感じた。
 「そしてある日、共に死のうと二人で用意していた毒をあおって、一人で勝手に死んでしまったのよ。いつも二人が逢引していた森の番小屋で……。結婚して一年もたっていなかったというのにね」
 彼はなぜかその結末をとうに知っていたような、奇妙な既視感にとらわれた。見たこともない男の姿が鮮やかに思い浮かぶ。横たわる男の青白い顔と、口許から溢れ出たどす黒い血……。

 「女はどうなった……?」
 「貴族の馬鹿息子に財産を食いつぶされて、すっかり落ちぶれてしまったわ……。ねえ、そんなにまでして男が守ろうとした娘の人生って何? 結局男に勇気がなかっただけのことよ。結婚までして、一人で死んでしまうくらいなら、あの時きれいなままで二人で死んだ方がよかったじゃない……」
 女は酔いの回った目で、アンドレの顔を見据えながら言った。多くの客を事も無げにあしらう女のいつもの表情とは違う、重い過去を背負った女の素顔を見るような気がした。
 「それは君自身の過去の話……?」
 「さあ……どうとでも好きに考えてちょうだい」
 「どうして俺に、そんな話を……?」
 「だからさっき言ったじゃない。あんたに似てるって」


 重苦しい思いを抱きながら、家路についた。酔いの回った頭に取り止めもない映像が浮かんでは消える。フロールの金髪にオスカルの姿が重なって消えた。オション父娘の善良そうな笑顔が次第に醜く歪み、やがて毒をあおって死んだという見ず知らずの男の姿が現れた。その亡骸を身じろぎもせず見つめているアンナの妖しく輝く目……。

 辻馬車の息苦しい空間に耐えられず、彼は途中で馬車を降りて歩いた。屋敷はすぐ間近だったが、それでも少し夜の風にあたったせいで、屋敷に着いたときには幾分酔いがさめていた。見上げると、オスカルの部屋に明かりが灯っているのが見える。闇の中に浮かび上がるその清らかな光が、彼をおぞましい想念から清純な世界に引き戻してくれるような気がした。痛いほどの懐かしさと愛しさがこみ上げる。
 今ごろは就寝前のひとときを、部屋でゆっくりと過ごしていることだろう。今日一日、彼が突然休暇を取ったことで仕事にもいろいろと支障が出たに違いない。そんな話も聞いてやって、明日からの仕事に備えねばなければならない……。まっとうな日常の感覚が戻ってきたことで、彼はしばしの間、胸を圧迫する重苦しい物思いから解放された。そのことに微かな安堵を感じながら、彼は着替えのために自室に急いだ。


 「アンドレ、帰ってきたのかい。ずいぶん遅かったんだね」
 厨房の前を通りかかったとき、彼の帰りを待っていたらしい祖母に呼び止められた。
 「少し寄り道をしてたんだ。夕食は外ですませてきたから」
 「おまえ……ちゃんとオションさんのところに行ったんだろうね……?」
 遠慮がちに問い掛ける祖母の瞳には、微かな不安が揺れている。
 「行ってきたよ。そんなに心配することはないよ、おばあちゃん。相手様に失礼なことは何もしてないから」
 「うん、うん……。で、どうだった? フロールさんはとてもいい娘さんだったろう?」
 「そうだね……」
 彼は虚ろな声で答えた。
 「だったら、行ってよかったじゃないか……」
 祖母が自分自身に言い聞かせるように言う。
 「それで……また次に会う約束をしたのかい?」
 「いや……」
 つぶやくように言って、ふと黙り込んでしまった彼の顔を、マロンが心配そうに覗き込んだ。
 「アンドレ……。アンドレ、あのね……」
 祖母が何か言いかけたが、彼は彼女の言葉を断ち切るように言った。
 「ごめん、おばあちゃん。話があるならまたあとで聞くから。オスカルの部屋で明日の打合せをしておかないと。あいつに何か温かい飲み物を持っていってやりたいんだ」
 
 「だ、だめだよ、今は……」
 「え?」
 「今はジェローデル様がお嬢様のお部屋にいらっしゃるから……」
 予想外の祖母の言葉に、彼は棍棒で頭を殴られるような衝撃を受けた。
 こんな遅い時間に、一体何のために……? 屋敷に戻ってきたとき、車寄せにジェローデルの馬車か止まっていないことを彼はちゃんと確かめていた。ジャルジェ家に泊まっていくつもりで、馬車を帰したとでもいうのか? それとも……。混乱した頭に、取り止めもない疑念が次々と浮かび上がる。
 「アンドレ……」
 にわかに形相を変えた彼の様子に、祖母はうろたえた。
 「わかったよ、おばあちゃん。明日にする……」
 かろうじてそれだけを言うと、心配そうに立ち竦んでいる祖母に背を向けて、足早に自室に向かった。
 
 部屋に入ると、テーブルの燭台に火を灯すために、手にしていた小さな燭台の火を近づけた。それは彼が毎日ほとんど無意識のうちに行っている行為だったが、興奮のために手が震え、火はうまく燃え移らなかった。
 「くそっ」
 彼は木の扉に向かって、燭台を投げつけた。ガツンという鈍く大きな音がして、部屋の中はたちまち暗闇に包まれた。心臓が激しく脈打っている。彼は頭を抱え込むと、冷えきった寝台の上に身を投げ出した。

 これまで自分が大切に守ってきたものが、手のうちからこぼれ落ちていく絶望感……。同じ人間の血が通っているのに、ただ身分が違うというだけで、あの男は望むものすべてを手に入れることができるというのか。何ものかへのどす黒い塊のような怒りがこみ上げてくる。そして自信に満ちた貴族の男への、焼くような嫉妬が。このままオスカルの部屋におしかけて、あの男と刺し違えて死ぬことができたら、どれほど楽だろう……。
 彼は生まれてはじめて、誰かを殺したいと思うほどの激しい憎悪に捉えられた。

 どのくらいそうやって燃え盛る炎の中に身を委ねていたのだろう? それはわずか一瞬のことだったかもしれないが、彼には永遠のようにも思えた。扉の外から心配そうに話しかける祖母の声が聞こえ、彼は現実に引き戻された。
 「アンドレ……? なんだか大きな音がしたようだけど、どうしたんだい?」
 「なんでもないよ……。燭台を落としただけだ」
 「そう……。それならいいんだけど……。あのね、アンドレ……」
 「ごめん、おばあちゃん。少し眠りたいんだ」
 短い沈黙ののち、祖母が言った。
 「わかったよ……。今日はきっと疲れがでたんだね。ゆっくりお休み……」

 扉の前で祖母がしばしの間躊躇しているらしい気配が感じられたが、やがて衣擦れの音が聞こえ、小さな足音が遠ざかっていった。そのひそやかな音を、彼は闇の中で身じろぎもせず聞いていた。


6. La Douleur − Fin −










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