2006 1/28
文 ラーキーさま

Passion

7. L'impatience 〜焦燥〜



 秋の早い日がとうに沈み窓の外が闇に閉ざされても、彼の執務室にはいつまでも明かりが灯されていた。昼間のように雑用に邪魔されることなく静かに職務に専念できるこの時間が、彼は決して嫌いではなかった―――ついこの間までは。しかしさきほどから彼は苛立たしげに何度も時計に目をやり、小さな溜め息をつくと、デスクの上に積まれた書類をやや乱暴に―――彼にしては―――取り上げた。そのはずみで鋭い紙の端が、彼の指を傷つけた。微かな痛みとともに中指の先から薄く滲み出た血を、彼はしばらくの間不思議なものでも見るように見ていた。やがて意を決したように小さな紙片を取り出し簡単に走り書きをすると、使いの者を呼んで手渡した。

 近衛連隊長の地位に就いた今でも、如何ともしがたい権力の圧力というものはある。むしろ連隊長となった今の方が、その理不尽さを否応なく感じさせられる機会は増えた。彼の預かり知らぬ所でとり決められる重要事項。それを黙って鵜呑みにするしかない歯痒さ。今日も長時間にわたる会議のすえようやく決定した事項が、上層部の気まぐれであっさり覆された。いつ下るとも分からぬその最終決定を、彼はただ不抜けのように待っていなければならなかった。約束の時間がせまったジャルジェ家での晩餐は、使者に言伝をして辞退するしかなかった。

 巨大な組織の持つ抗いがたい理不尽さに、あの人もよく苛立っていたものだった―――彼はふとそんなことを思い出した。副官として彼女を支える立場にあった彼は、当時はむしろ苛立つ彼女のなだめ役だった。そしてそんな自分の役回りを、心のどこかで楽しんでいることさえあった。仕事上の関係とはいえ、ごく近しい間柄の上司と部下の間に生じる独特の親密さと、彼女の厚い信頼を得ているという自負。ずいぶんと気楽なものだったと思う。当時、美しい上官のことを誰よりも理解し支えているつもりで、彼女がその両肩に背負っていたものの重さをどれだけ分かっていたというのだろう。彼女のすぐ側にいて、自分にできたことはもっといくらでもあったのではないか。そうすればもしかしたら、彼女をフランス衛兵隊になど追いやることはなかったのではないのか……。
 彼女が突然衛兵隊に転属になった理由は、周囲で様々に取り沙汰されていた。だがまことしやかに囁かれる噂のどれにも信憑性があるとは思えず、彼にとってそれはスフィンクスが人々に投げ掛けたという永遠の謎の如く解けない謎として残った。自分は彼女の何を分かっていたというのか。そんな無力感と自責の念が、長い間彼を苛んだ。彼女に正々堂々と愛を告げることで、そんな葛藤にも終止符が打たれるはずだった。打てると思っていた。だが……。そのとき、影のように彼女に寄り添う男の面影が唐突に脳裏に浮かび、彼の心に暗い陰りを落とした。彼はあえてそのイメージを頭の中から振り落とし、再び過去に思いを巡らせた。

 長い冬の夜、暖炉の薪が爆ぜる音が響く静かな執務室の中で、二人きりで急ぎの執務と格闘したこともあった。彼はその日どこかの夜会に招待されていた。彼女はそんな彼に気を使って先に帰るように何度か促したが、彼は笑って取り合わなかった。執務の合間に交わされるさりげない会話。そこには昼間の慌ただしさの中では感じられない独特の温かみとユーモアが混ざっている。短い休憩の時間に立ち上るカフェの香り……。彼女にとって最も親密な人間であるべきはずの今の自分より、ただの同僚だった当時の方がはるかに彼女の近くにいたことを思い出し、彼は微かな心の痛みを覚えた。最初から覚悟をしていたこととはいえ、皮肉な役回りだと思う。近づこうと手を伸ばせばふいと遠ざかる美しい幻のような人。

 ペンを取ろうとして指に微かな違和感を覚え目をやると、さっきの傷痕は絹糸よりも細い一本のすじになっていた。その傷痕が再び別の回想へと彼を誘った。
 彼女がたしか羽根ペンの先を削ろうとした時のことだったと思う。鋭いナイフの刃先が彼女の指先を傷つけた。ちょうどそのとき彼女のすぐ側に立っていた彼は、白い指先からみるみる血が盛り上がってこぼれ落ちそうになるのを間近に見た。彼はとっさに彼女の手を取ると、身をかがめて傷ついた指先を唇に含んだ。鉄錆びた血の匂いが口の中に広がる。その瞬間彼女がどんな表情をしたのかは、かがんでいる彼にはわからなかった。彼は舌の先で血をぬぐい取ると、ポケットから出したハンカチーフで彼女の指をそっと包んだ。
 そのときになって始めて、彼は彼女の顔を見た。本来ならば、恋人同士の男女にしか許されないような艶めかしく不躾な行為。彼はそのことをじゅうぶん承知の上でやっていた。だが彼女の方は、ふだんの彼らしからぬ大胆な行為に毒気を抜かれたのだろう。微かな当惑の表情を浮かべながらも、小さな声で「ありがとう」と言っただけだった。

 なぜあんなことをしたのだろう。ちょっとした悪戯心が動いたのは確かだった。だがそれだけではない。あのころ彼女の瞳は一人の貴公子を切なげに追っていた。彼がそのことに気づいたのは、かの貴公子が遠いアメリカの地から帰還して間もなくのことだった。不思議と焦りや嫉妬は感じなかった。彼の目に映る北国の貴公子は、現実のフランス宮廷の中に確かに存在しながら、心だけ遠い世界に置き忘れてきたかのような奇妙な浮遊感を漂わせていた。地位も財産も家柄も、何もかもに恵まれた故国を持ちながら、異国の地でボヘミアンのような生活を送っているせいか。彼女とともにいるとき、男の瞳はたしかに親愛と尊敬の念を浮かべていた。しかしその眼差しはいつも彼女を通り越して別の遠いところを見ていた。
 もし仮に男が情にほだされて彼女の方を振り向くことがあったとしても、彼女は決してそれを受け入れないだろう。あの人が王妃様の友情を裏切れるわけがない。あの人はそんな人だから―――。だからこそ、いくら思っても永遠に叶わぬ相手を思い続ける彼女が歯痒かった。彼女に対するそんな軽い苛立ちが、あのときふだんの彼らしからぬ突飛な行動をとらせたのかもしれなかった。

 取り止めのない回想の波間に漂っていた彼の元に、ジャルジェ将軍からのメッセージを携えてさきほどの使者が戻ってきた。その直後、待ち詫びていた上層部からの報せがようやく彼のもとに届いた。
 
 彼が必要な処理を終えて帰途につく頃には、もう八時を回っていた。いったん自分の屋敷に戻るつもりでマントも持たずに馬で出仕した彼は、愛馬をゆっくりと走らせながら寒さに身震いした。秋の夜風はことさらに身にしみる。今頃ジャルジェ家では主賓のいない晩餐が終わり、食後のカフェが出されている頃だろう。だが肝心の彼女は、今日も晩餐に同席していないかもしれない。
 彼はこれまで何度かジャルジェ将軍から晩餐の招待を受けたが、彼女はいつも仕事から戻っていなかった。そして決まって晩餐が終わる頃に現れて形式的な謝意を告げると、すぐに自室に引き取った。ジャルジェ夫人に言われて食後のカフェを共にすることもあったが、いつも言葉少なで、疲れているからと早々に席を立った。本当に抜けられない仕事があったのか、故意に自分を避けたのかは分からない。ジャルジェ将軍も長期戦に出る覚悟か、娘の不在の理由をあえて強く問いただそうとはしなかった。いずれにせよ焦りは禁物だ。
 だがそのときふと、もしかしてこの時間なら……という考えが彼の頭に閃いた。他家を訪問するには遅すぎる時間だが、急に晩餐を辞退した侘びを述べに行くというのならさほど非常識にもあたるまい。そんなふうに世間的な思考を巡らせながら、実際はただ彼女に会いたいのだと、その思いがこれまで保ってきた限界点を越えて溢れ出ようとしているのだということを、彼は心のどこかで自覚していた。彼は手綱を引いてもと来た方向に馬の進路を変更すると、拍車をかけてジャルジェ家へ向かった。


 ジャルジェ夫妻はごく当然のように彼を迎えた。最近では彼は客間ではなく、夫妻の居室に通されるようになっていた。かつて彼女も、急な報せを持って訪れた彼を気さくに私室で迎えたものだった。主人たちの気取りのない人柄が、この屋敷全体に独特の雰囲気を醸し出していると、ジャルジェ家を訪れるたびに彼は思う。重厚で威厳を感じさせながらも華美に陥らず、どこか温かみの漂うジャルジェ家の雰囲気が、彼は好きだった。

 簡単な挨拶と晩餐を急に辞退した侘びを述べたあと、彼はジャルジェ夫人から意外な言葉を聞いた。
 「残念でしたわ。今日は珍しく早くにオスカルが仕事から戻っておりましたの。本当に間が悪いこと。今すぐにオスカルを呼びにやりますから」
 「いえ、それには及びません。オスカル嬢もお疲れでしょうから、わたしの方からご挨拶に伺いましょう。もし差し支えなければ……」
 そう言いながら、彼はジャルジェ将軍の方を見た。これまでより一歩踏み込んだ彼の申し出の意図を汲み取ったのだろう、ジャルジェ将軍がすかさず言った。
 「そうしていただけるとありがたい。あれはいつも君に無沙汰ばかりしているのでな。さきほど晩餐が終わって、自分の部屋に引き上げたところだ」
 「では、そちらの方に何か温かい飲み物でも運ばせましょう。少佐もお疲れでしょうから、ごゆっくりなさいませ」
 そう言ってジャルジェ夫人は穏やかに微笑んだ。この夫人はいつでも実質通りの誠実な言葉しか口にしない。謎掛けのような言葉を玩ぶのがあたりまえの社交界で、希有な存在だと思う。ジャルジェ夫人とオスカルは一見まったく似ていない対照的な親子のようでいながら、実際はよく似ているところがある……。


 彼女の部屋に向かいながら、彼は唇の端に小さな笑みを浮かべた。こんな時間に案内も乞わずいきなり部屋を訪ねたら、彼女はいったいどんな顔をするだろう。呆れるだろうか、それとも怒るだろうか。遠回しに出ていけと言われるか。それでもかまわない。彼女に会いたかった。彼女の反応を見てみたいという好奇心もあった。部屋の前まで来ると、彼はゆっくりと扉をノックした。すると予期していた誰何の言葉もなしに、すぐに入室を促す返事が返ってきた。
 扉を開けて部屋に入ったとき、ゆっくりと彼の方に振り向いた彼女の瞳には何かを訴えかけるような切なげな、それでいてどこか人なつっこい表情が浮かんでいた。わずかに潤んだ青い瞳がぴたりと彼の目と合った。次の瞬間、彼女の瞳の雄弁な表情は波が引くようにすうっと消えた。実際は一秒にも満たないだろう一瞬の鮮やかな印象が、彼の心を強くとらえた。彼はその瞬間を永遠に手中にしたいと願った。

 「ジェローデルか……何の用だ」
 「仕事が長引いて晩餐に間に合わなかったものですから、ご挨拶に伺いました」
 「ふん……。まめな男だな、相変わらず」
 「今日は珍しく早くに帰っておられたそうですね」
 「ああ……」
 気のなさそうな生返事。だがその口調にはこれまでのような剥き出しの反発や皮肉は感じられなかった。テーブルの上にはワインのボトルとグラスが置かれ、その脇に読みかけらしい書物が無造作に投げ出されている。よく見るとワインのボトルはすでにほとんど空になっている。部屋に戻ってからのわずかな時間に、これだけのワインを飲んだというのか。彼女の姿からはいつもの緊張感が感じられず、ワインのせいか瞳は潤みを帯びて、ある種の憂いを浮かべていた。

 「今夜は随分とワインが進んでいるようですね。何かありましたか」
 そう言いながら、彼はごく自然な仕種で彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。
 「そういうわけではない。いつものことだ」
 「いつもこんなにワインを?」
 彼は小さな驚きとともに思わず彼女に聞いた。だが彼女は肩を竦めたたげで答えず、グラスに残ったワインをゆっくりと飲み干した。酔っているせいだろうか。やはりこれまでのような身構えや反発は感じられない。彼女はボトルを取り上げ少なくなったワインの量を確かめると、残りをグラスに注ぎきった。彼はその様子を黙って見ていたが、再び口を開いた。

 「今日は参りましたよ。会議は大もめにもめる。ド・ナヴァラン公の一言でせっかくの決定事項が白紙状態になる。まあ、珍しくもないことですがね」
 「ふん……高見の見物でふんぞり返っているお歴々には、現場の苦労など何も分かってはいないのだ」
 「ええ。そう考えて割り切ってやってゆくしかないのでしょうがね。今になってあなたの苦労が身にしみて分かるようになりましたよ」
 「苦労……か。それでも君やわたしなどは途方もなく運に恵まれている方だ。世の中にはどれだけ……」
 ふと彼女の言葉が途絶えた。
 「どれだけ……?」
 彼女は彼の方をちらりと見ると言った。
 「いや、何でもない」

 ノックの音がして、二人の侍女が料理とワインやブランデーの瓶を乗せたワゴンを運んできた。おそらく晩餐のために用意された料理の中から、手軽につまみやすいものだけを選んだのだろう。数種類の料理が一口大に美しく切り分けられ、皿の上に手際よく盛りつけられていた。それを見てオスカルが言った。
 「夕食はまだなのか。そうか、仕事帰りだったな……」
 先ほどジャルジェ夫人には、職場で軽い食事を済ませたと言っておいた。だがそれが単なる社交辞令だということを、夫人は見抜いていたのだろう。彼は素直に答えた。
 「ええ、実は」
 「そうか。わたしに遠慮はいらないから、ゆっくりとやってくれ。わたしはそっちのブランデーをいただこう」

 何のわだかまりも緊張もなかった頃のような穏やかな空気が一瞬二人の間に流れた。彼女の心の鎧が酒の力で一時的に解かれているだけだとしても……彼はその魔法をしばらくの間享受した。だが一方で、自分の心のあり方がすでに大きく変わってしまっていることも彼は自覚していた。
 ふだんの軍服姿ではなく、柔らかな絹のブラウスにキュロットというラフな出で立ちの彼女は、ひどく華奢で頼りなげに見えた。寛いでいるというよりは、心に何かしらの憂いを抱えた人のように、クッションに深く身を凭せ掛けている。気だるそうな仕種と物憂げな声。ブラウスの胸元からのぞく白い肌とブランデーに赤く濡れた唇が、まるで誘いかけるように彼の目を刺激した。今すぐにでも手を差し延べて、折れるほどに抱き締めたい。耳元で愛を囁き強引に唇を奪ったら、彼女はどんな顔をするだろう。若い頃、そんな手練手管を使って女をものにしたことを、彼はふと思い出した。お互いに結末の見え透いた退屈な恋愛ゲーム。彼は過去の自分を嘲笑した。だが今は……。次第に熱くなる心とはうらはらに、彼は落ち着いた声で彼女に話しかけた。

 「あなたが突然近衛隊をお辞めになったとき、わたしはすいぶんと自分を責めたものでした」
 「なぜ」
 「副官として、あなたに信頼されていると思っていました。だがあなたはわたしに一言の理由もおっしゃらず、近衛隊を去られた……。もっとわたしに出来たことがあったのではないか、わたしに到らないところがあったのではないかと、正直ひどく落ち込みましたよ」
 彼女の唇に小さな微笑が浮かんだ。
 「そういうことではない。君はいつもよくやってくれた。実に優秀で得難い副官だったよ。近衛連隊長の地位は、今の君にこそふさわしいと思うが」
 「なぜ……あなたは近衛隊をお辞めになったのです?」
 彼は彼女の目を見つめながら、長く心にひっかかっていたことを率直に聞いた。彼女はつと視線を逸らして言った。
 「……たしか前にも同じことを君に聞かれたな。新しい世界が見たくなった……それだけだ」
 「だからと言って、フランス衛兵隊になど」
 「そこにしか空いているポストがなかったのだ。たが今はフランス衛兵隊に転属になってよかったと思っている」
 彼は探るように彼女の顔を見たが、その表情に強がりや衒いは感じられなかった。

 「……わたしには分かりません。衛兵隊の不穏な噂はわたしの耳にも入ってきます。失礼ながら、あなたが女性であることに兵士たちがずいぶんと反発しているということも。それでも転属になってよかったと?」
 「ふふ……」
 「……もっと不穏な噂も耳にしましたよ。兵士たちがあなたを拉致しようとしたというのは本当ですか?」
 彼女の体がわずかにピクリと反応したような気がした。
 「彼らは感情の表現が直接的なだけだ。近衛隊でも衛兵隊でも人間としての優劣はない」
 「ええ。けれども現実がもたらすものは違います。こんな時代に衛兵隊に身を置き続けることがどんな事態を招くか、あなたもご承知でしょう。なぜあなたは好きこのんで嵐の中に突き進んで行こうとされるのです? わざわざ苦労を背負いこみに行くようなことを」
 「そんなつもりはない」
 「近衛隊にいたころでさえ、あなたはいつもその肩に背負いきれないほどの重荷を背負っておられたはずです。あなたは決して人に弱みを見せなかったが、そんなあなたを見ているのがわたしには苦しかった」
 彼女が驚いたような目で彼を見た。
 「あなたの重荷を少しでも肩代わりして差し上げたいと、いつも思っていました。それができる副官としての立場が、わたしは嬉しかった。だがあなたは唐突にわたしの元から去っていかれた……。あなたはなぜわたしの側を去っていったのです? あなたが側にいなくなって、何か大切なものを無理やりもぎ取られたような気がしました。心に大きな穴があいたようで、毎日が本当につらかった……」

 これまで誰にも話したことのない胸の内を彼は素直に語った。彼女はわずかに視線を落としながら、男の言葉を聞いていた。その言葉は少しでも彼女の心に届いたのだろうか。彼はテーブルの上に無造作に投げ出された白い手を取って唇を押しつけた。しっとりと熱を帯びたしなやかな指。抵抗はなかった。その手を静かにテーブルに戻すと、強く握りしめたまま言った。
 「わたしでは今のあなたの支えにはなりませんか? 部下としてではなく、生涯の伴侶として」
 彼女はゆっくりと手を引き抜きながら言った。
 「わたしは君の考えるほど苦労などしていない。君には申し訳ないが、生涯の伴侶を得る気もないのだよ。誰の支えも必要としない。これからは……」
 その言葉尻が、わずかに揺れたような気がした。
 「これからは……? どういう意味です。あなたは……」
 言いながら、彼は眉を顰めた。さきほどから彼女が早いテンポでブランデーのグラスを空けるのを黙って見ていたが、グラスに半ばほど残っていたブランデーを一気に飲み干したのを見て、たまらずに言った。
 「そんな飲み方はおよしなさい。体に毒なだけだ」
 彼女はそれには答えず、再びグラスにブランデーを注いだ。その手付きで、急速に酔いが回り始めているらしいことが分かった。彼は素早く席を立ち、長椅子に座っている彼女の隣に腰掛けると、その手からグラスを取り上げた。
 「何をする」
 「およしなさい。もう十分でしょう」
 「返せ」
 グラスを取り返そうとしたはずみで、彼女は男の体にもたれかかる恰好になった。彼はテーブルの端に素早くグラスを押しやると、その肩に手を回して抱き寄せた。彼女は男の体を押し戻そうと試みたが、すぐにぐったりと脱力した。
 「苦労していないだなんて、それは嘘だ。あなたが今までどれほどの努力をしてきたか、わたしはよく知っているつもりです。誰の支えも必要としないなど……強がりを言っても、人は一人で生きていけるものではありません」
 頬に落ちかかる金髪を優しくかき上げ、彼女の目を覗きこんだ。
 「こんな酔い方をするなど、あなたらしくない……。一体何があったのです?」
 ゆっくりと諭すように語りかけながら、頭の隅にふといやな予感が動くのを彼は感じた。それは何の前触れもなく唐突に彼の眼前に姿をあらわした。決して思い出したくなかったあの男の面影とともに。

 「そういえば、今日はアンドレ・グランディエを見掛けませんね。彼はどうしました?」
 「アンドレか……? あいつは見合いに出掛けてまだ帰ってこない」
 明らかに酔いの回った口調で彼女が答えた。
 「見合い?」
 「気立てのよい美しい娘らしいぞ。はは。あいつもいい歳だから、ちょうどよいではないか。いつまでもわたしなどに付き合うよりも……。おまえもだ! ジェローデル。わたしなど相手にしてないで、さっさといい相手を見つけろ……」
 その言葉で、彼は今までひっかかっていたことにすうっと一本の筋が通ったような気がした。何かを訴えるかけるような切なげな眼差しが一体だれの訪れを待っていたのか。これからは一人で生きていくという虚勢が何を意味していたのか。彼は胸の奥にどす黒い嫉妬が動くのを感じた。愛ではないと彼女は言う。では二人の間にあるものは何だというのだろう。友情か、肉親の情か。彼はすっかり力の抜けた彼女の両腕を掴み自分の方に向かせると、わずかに激した口調で言った。
 「あなたがそんなだと、彼はいつまでも自由になれない。愛ではないと言いながら、いつまで彼を引き止めておくつもりですか?」
 「わかっている……」
 「少しもわかっていない! あなたは少しもわかっていない。わたしがどれほどあなたを……オスカル……」
 彼は彼女を抱き締めその金髪に顔を埋めた。熱を帯びた体の柔らかな感触と甘い香りに、一瞬陶然となる。だがうつろな瞳の彼女に彼の言葉が届いたかどうかはわからなかった。自分を抱き締め、耳元で愛を乞う男の腕の中で、彼女は深い眠りに落ちていった。


7. L'impatience −Fin −











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