2005 10/20
文 ラーキーさま

Passion

3. L'embarras 〜当惑〜



 愛用の手袋をテーブルの上に放り出すと、彼女は軍装のまま肘掛け椅子に身を投げ出した。身体は疲れていたが、頭の中心の神経がぴりぴりと張り詰めて、クッションに深く身を沈めても寛ぐことができない。着替えを手伝うために部屋にやってきた侍女は、適当な理由をつけて早々に下がらせた。
 考えねばならないことがたくさんあった。自分自身のこと……これまで辿ってきた人生……そして将来のこと……。だが今彼女の心に重苦しくのしかかっているのは、彼女自身のことではなかった。

 一昨日の夜、ショコラを頼んだはずのアンドレが、いつまで待っても姿を現さなかった。ずいぶんと時間がたってから、別の侍女がショコラを持って現れた。アンドレは何をしているのだ……以前の彼女なら何のわだかまりもなく聞けた些細なことを、そのときはなぜか聞くことができなかった。この一件は小さなしこりとなって彼女の心の片隅に淡い影を落とした。彼が理由もなく彼女の頼みごとを無視するなど、これまで決してなかったことだったから。
 そしてつい半時間ほど前、侍女たちが厨房で噂話をしているのを、アンドレを探しに行った彼女は偶然に聞きつけた。馬車の中で言い忘れた用件があった。いつもならば彼が部屋に来るのを待って伝えればすむ。だが今日は彼が姿を現さないような気がした。仕事から戻ってきたとき、屋敷の前の車止めにジェローデルの馬車が止まっていることに、二人とも気がついていたから。

 「それで、ジェローデル様はどうされたの。お怒りにならなかったの?」
 周囲をはばかるような、抑えた調子の話し声が厨房の中から聞こえてきた。
 「それがね、ばあやさんがすぐに謝りに行って、その場はどうにかおさまったらしいわ。ばあやさんが控室にご案内して、わたしも手伝ってショコラの染みを取ったのよ」
 「取れた?」
 「ええ、どうにか……よかったわ、ひどい染みが残らなくて」
 「それで、あの方はどんなご様子だったの? 不機嫌そうだった?」
 「別に……いつもの通り落ち着いて、ばあやさんにオスカル様のことをいろいろ尋ねていらしたわ」
 「へえ、意外と鷹揚なのね。でもよかったわ。こんなことが旦那様に知れたらどうなっていたことか……。まさかアンドレがあんなことをね……」
 「ええ。ばあやさんもすっかり気が動転していたらしくて、見ていてなんだか気の毒なくらいだったわ」
 「アンドレがどうしたって?」
 「オスカル様……!」
 こんなところに女主人が姿を現すとは思っていなかったのだろう、二人の侍女はオスカルの姿を見ると、みるみるうちに青ざめた。


 オスカルは苛立たしげに席を立つと、窓辺に近づいた。窓を開け放って、外の空気を深く吸い込む。湿気を含んだ宵の空気に混ざって、初秋の花々の微かな香りがどこからともなく漂ってきた。そんな自然の英知が生み出すやさしい恵みが、彼女のささくれ立った神経をわずかながら癒してくれるような気がした。

 やがて控え目なノックの音が聞こえ、待っていた男が姿を現した。男は静かに扉を閉めると、落ち着いた声で言った。
 「わたくしにお話があると伺いましたが」
 彼は彼女の私室に呼ばれたことに喜びを示すわけでもなく、先日のように大胆に距離を縮めてくるでもない。少し離れたところから静かに彼女の出方を待つ、そんな態度だった。彼女は少し意外な気がしたが、かつての部下として慣れ親しんだ男との距離感に、かすかな安堵を感じた。
 「ああ……。最初に君に謝っておかねばならない」
 彼女は単刀直入に切り出した。男は一瞬いぶかしけな表情を浮かべたが、何も言わずに彼女の言葉を待った。
 「アンドレが……君に失礼なことをしたと聞いた。彼の主人であるわたしからも、君に謝罪する。彼に対する君の寛容な態度には感謝している……」
 つまらないことで男に負い目を負いたくはなかった。ましてやアンドレに負い目を負わせたくはなかった。そんな彼女の気持ちが、男にも伝わったのだろう。微かな笑みが男の顔に浮かんだ。
 「変わりませんね……あなたは」
 「何が」
 「昔からそんなふうに一本気で……直球勝負だ。でも……」
 「でも?」
 「あなたはなぜ、そんなふうに無条件に謝罪をされるのです?」
 「どういう意味だ? 家の者が働いた不躾を謝罪するのは、主人としての当然の義務だろう」
 彼女は唇の端に皮肉な笑みを浮かべていたが、その声音にはかすかな苛立ちが混ざっている。
 「あのアンドレ・グランディエが将軍の客人に無礼を働くなど……余程のことだと思われませんか。わたしの方に非があったかもしれないと、あなたはお考えにならなかったのですか?」

 そう言われて、オスカルははっとした。つい先日、アンドレの行為とはにわかに信じがたい発砲事件があったばかりだった。そのことで心を痛めていた矢先の今回の出来事だった。言い渋る侍女を宥めすかして事の顛末を聞き出したときには、背中に冷水を浴びせられたような気がした。もしこの一件が父上の耳に入ったら、アンドレはどれほどの怒りを買うことだろう。まかり間違えば……。いや、問題はそんな単純なことではない。このどうしようもなく息苦しい状況を一刻も早く打開しなければ。取りあえずはジェローデルに会わなければならない。会って、きっぱりと話をつけなければ。とっさにそう考えて、彼女はあと先も考えずジェローデルを自室に呼ぶよう侍女に伝えた。周囲の目があるかもしれぬ他の場所では、微妙な話はできないだろうから。アンドレの常軌を逸した行動の理由など、考える余地もなかった。

 「ほほう、では君の方に何かやましいことがあったとでも? 君がそんなつまらぬトラブルを起こす男だとは、いままで知らなかったが」
 彼女はあいかわらず口角に皮肉な笑みを浮かべながら言った。
 「人間はときにひどく愚かになれるものなのですよ。いったん何かに魂を奪われると、他のことが何も見えなくなる。今のわたしがまるきりそうだ……」
 ジェローデルはそう言いながら、じっと食い入るように彼女を見つめた。
 「正直に言いましょう……。わたしはアンドレ・グランディエに嫉妬したのです。いつもあなたの側に寄り添って、あなたを公私ともに支えているあの男に。……あなたは愚かだと笑うかもしれない。でも、それでもいいと思っています」
 
 ―――この男はこんなふうにストレートに相手に切り込んでくる男だったか。もっと遠回しに、優雅に当たり障りなく会話を進める術を心得た男ではなかったか……彼女はかつての部下の変わりように微かな当惑を感じた。同時に、事態を一気に打開しようと焦るあまり、深く考えもせずに彼を自室に招き入れたことを後悔した。
 だが、言うべきことは言っておかねばならない。そのために彼を呼んだのだから。

 一瞬の間黙りこんでしまった彼女の言葉を促すように、男が言った。
 「あなたはそんなことを言うために、わたしをお呼びになったのですか」
 「いや。君とアンドレの間にどんな話があったのかは知らないが……。アンドレはわたしの大切な乳兄弟で、それ以上でも以下でもない。アンドレのことは、わたしが結婚を拒否していることとは何の関係もない」
 これだけを一気に言ってしまうと、彼女は男の方に向き直ってさらに続けた。
 「これだけははっきり言っておく。わたしには結婚する意志はない。それがわたしの答えのすべてだ。そのことを君に理解してもらいたい。君とて望まぬものを無理強いするような無粋な男ではあるまい。ジャルジェ家の家督の問題ならば、他に方法などいくらでもある」
 「わかっています。だいいち家督の問題など……あなたのご両親でさえ問題にされていないものを」
 「何だって?」

 しかし男はそれには答えず、目を細めて部屋の中を見回した。
 「懐かしいですね……。あなたのお部屋に伺うのは、これで三度目だ。あの頃と少しも変わっていない」
 「そうだったかな。よく覚えていない」
 彼女は男から顔を背けてぶっきらぼうに答えたが、男は意に介していないらしかった。
 「あなたに会いたくて、休暇中の連隊長への急な報せや伝言はいつもわたしが預かっていました。翌日でも済ませられるような用件まででっちあげて、あなたに会うために、ここに来たこともあった」
 彼女はそっぽを向いたまま、皮肉を笑みを浮かべた。
 「それはどうかな。わたしとて、君がご婦人方と浮名を流していたことくらいは知っている」
 「ええ。あなたはわたしにとって遠い存在でしたから。わたしには決して手の届かない高嶺の花だと思って諦めていました。ただあなたに憧れて……ずっとあなたを愛していました。わたしに勇気がなかったばかりに、こんなに遠回りをしてしまった」
 「ジェローデル、もうやめろ。そんな話は……」

 そう言いながら苛立たしげに男の方に振り向いた彼女は、いつの間にか男が自分のすぐ側に立っていることに気がついて驚いた。その動揺を見透かしたように男の手が伸びて、彼女の手をとらえた。彼女は咄嗟に手を引こうとしたが、男はその手をとらえたまま離そうとしない。
 「わたしもあなたにこれだけはわかっていただきたい。あなたを愛しています……女性として、おそらくあなたに初めて出会った日から。それが、わたしに言えることのすべてです」
 言いながら、男はやわらかな手に口づけを落とした。強く押しつけられた唇の愛撫が、手の甲から手の平へと、大胆に移っていく。
 「離せ……!」
 次の瞬間、もぎとるように振りほどいた手は、今度は意外なほどあっさりと解放された。
 「わたしは焦りません。いつまででもあなたをお待ちしています」
 黙り込んだまま厳しい表情であらぬ方向を見つめているオスカルに軽く礼をして、男は静かに踵を返した。だが扉の前まで来て立ち止まると、思い出したように彼女の方を振り向いて言った。

 「一昨日のことは、アンドレ・グランディエに非はありません。わたしが何か彼の気に触るようなことを言ったのでしょう。……ただ」
 オスカルがふと目を上げて、男を方を見た。
 「今回の一件でよくわかりましたよ。彼は……アンドレ・グランディエは、あなたのためならどんな無謀なことも、命を投げ出すことさえ躊躇しないでしょう」
 咄嗟に返す言葉が見つからなかった。彼が自分のために、どれほどの犠牲を払ってきたかを一番よく知っているのは他ならぬ彼女だったから。
 「……何が言いたい?」
 「彼をいつまであなたのそばに引き止めておくのですか。乳兄弟として、無二の親友として……」
 「引き止めるなど。わたしたちは昔から何も変わっていない。これが自然なのだ」
 ―――何も変わっていない……本当にそうか? 自分で言いながらも、ふとそんな思いが彼女の頭を掠めた。
 「ええ。あなたにとってはそれが自然なのだと、わたしもずっと思っていました……ついこの間まで。たが今のままの状態が本当に幸福なのかどうか。彼には……」
 「彼には……何だというのだ?」
 その声音には、かすかな苛立ちと不安がまざっていた。男はわずかに逡巡したが、その迷いを振り切るようなはっきりとした声で言った。
 「もしかしたら、彼の身分に相応しいもっと別の幸福があったかもしれない」

 彼女の頬にさっと赤みがさした。瞳に走った暗い影が、その言葉が彼女に与えた衝撃の大きさを物語っている。男は彼女の反応を確かめると、静かに言った。
 「差しでがましいことを言いました。これはあなた自身の問題で、わたしの口出しすべきことではないのかもしれない。しかしこれがわたしの正直な気持ちです」

 男は静かに扉を閉めて出ていったが、彼女は彼がどんなふうに部屋を出ていったのかも覚えていなかった。アンドレに相応しいもっと別の幸福……その言葉が頭の中で何度も響いていた。
 ―――あの男の言うことは、おそらく正しいのだろう……。わたしはアンドレにどんな幸福を与えられるというのだ? いままで与えてきたというのだ? ただ一方的に彼の好意に甘えるばかりで、そうやって彼を苦しめるばかりで、何ひとつ彼に与えることができないではないか……。
 彼の愛に応えられないのなら。今まで何度となくそんなことを考えたことはあった。だが答えを出せないままに、彼の優しさに甘えてきたつけを、今ふたたび彼自身に払わせているのではないか? 

 オスカルは倒れこむように長椅子の上に身を投げ出すと、寒々とした部屋の中でいつまでも身じろぎもせず横たわっていた。


3. L'embarras −Fin−











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