2005 11/12
文 ラーキーさま

Passion

4. Un Reve 〜夢〜



 夢の中で、彼女は微笑んでいた。自分だけに向けられる子供のように無邪気な笑顔。懐かしい……涙が溢れそうなほどに。
 「ずっとわたしの側にいてくれるか? おまえがいないとわたしは一人では何もできないのだ」
 彼女はそう言って切なげな瞳で彼を見上げた。彼は思わず手を差し延べて抱き寄せようとしたが、彼女は笑いながらするりと彼の腕を逃れた。ようやく追いついて捕らえた彼女は、豪奢なオダリスク風のドレスを身に纏っている。
 「どうしたんだ、そんな恰好をして。おまえは子供の頃からドレスを着るのをあんなに嫌がっていたじゃないか……」
 「忘れたのか。今日はわたしたちの結婚式だ。結婚式に軍服ではおかしいだろう?」
 「結婚式……?」

 ふと気がつくと、きらびやかな衣装に身を包んだ男が女の側にぴったり寄り添って立っている。男の優雅な手は、コルセットで締め上げた女の細い腰を抱いている。
 「アンドレ・グランディエ、わたしにも妻を慕う召使を妻の側につけてやるくらいの心の広さはあるつもりだよ……君もわたしたちと一緒に来るかね?」
 「アンドレ、わたしを置いてどこへも行かないだろう?」
 「わたしが羨ましいか? 愛しているなら、わたしから彼女を奪いたまえ。君に彼女を幸福にする自信があるのならね……」
 男が勝ち誇ったように笑う。その隣で女も艶やかな衣装に包まれたまま笑っている。
 『やめろ。こんなのはおまえじゃない。おまえらしい生き方じゃない。行くな、オスカル』
 彼はそう叫ぼうとしたが、押さえつけられたように喉が詰まって声を出すことができない。やがて男は女の顎に手をかけると、彼に見せつけるようにゆっくりと女に口付けた。唇から白い喉元へ、大きく肌けた胸元へと男の唇は貪欲にすべっていく。女は男の愛撫に身をまかせたまま、相変わらず笑っている。
 『やめろ……! やめてくれ……』                       
 彼を嘲笑うかのように二つの笑い声は次第に高まり、抱き合う男と女の姿はどろどろと醜く溶け合って、やがて白濁した意識の底に落ちていった……


 夜明け前の薄明の中で目覚めた彼は、ほの暗い天井を見つめたまま身じろぎもしなかった。奇妙な形に浮き上がった天上の染みが、悪夢の残骸のように醜い姿を晒している。じっと見つめていると、その模様がまるで生き物のようにゆっくりと動き出した。彼はとっさに目を閉じた。どうかしているんだ、俺は……。ふと窓の方に顔を向けると、頭の芯に鈍痛が走った。その痛みで、彼はゆうべのことをぼんやりと思い出した。
 昨日の夜、パリに出て馴染みの店で酒を飲んだ。何もかもを忘れてしまいたかった。けれどもどれだけ杯を重ねても、心底から酔うことなど到底できない。どうにか屋敷に戻り、自分の部屋に辿り着いたときには、上衣を脱いでベッドに倒れこむだけで精一杯だった。

 夕べはオスカルの用事も確かめずに、逃げるように屋敷を後にした。もしかするとあのあと、オスカルは自分を探したかもしれない。昨夕オスカルと一緒に仕事から戻り、厩舎で雑用を済ませて部屋に戻るとき、オスカルが自分を探していたと侍女の一人が教えてくれた。彼は手早く着替えを済ますと、彼女の部屋に向かった。
 階段の手前で、彼はこちらへ向かって歩いてくる男の姿に気が付いた。隙のない優雅な身のこなしと、豪奢で洗練された衣装。長く宮廷に出入りしていた彼には見慣れたはずの貴族の姿が、その瞬間、決して乗り越えることのできない壁の存在を思い知らしめるように、威圧感をもって彼の前に立ちはだかった。

 しかし一瞬のうちに脳裏をかすめたこんな想念とは裏腹に、彼は、そして相手の男もまた、お互いの姿を認めながら、まるで誰も存在しないかのように表情ひとつ変えず歩を進めた。やがて階段の前までくると、二人とも申し合わせたように足を止めた。先に口を開いたのは、ジェローデルだった。
 「やあ、アンドレ・グランディエ。先日は失礼したね」
 一昨日の出来事などなかったかのように穏やかに話し掛ける貴族の男を前にして、彼はかすかな当惑を覚えた。
 「君もオスカル嬢のところへ?」
 「……いえ」
 咄嗟に嘘が口をついて出る。
 「そうか。わたしに何か話があるらしくてね。彼女の部屋に呼ばれたよ。今までわたしと顔を合わせるのも避けておられたのに、一体どういう風のふきまわしだか」
 そう言いながら、ジェローデルはおかしそうにくっと笑った。
 「……あなたは……」
 「何だね?」
 「なぜ何も言わないのです? あなたの立場をもってすれば、わたしをこの屋敷から追い出すなど、たやすいことだ」
 「ふふ、おかしいかな。わたしはこれでも計算高い人間でね。あの人の前では卑劣な人間にはなりたくないのだよ。君に何か不利なことでもあれば、彼女は一生涯わたしを許さないだろう。違うかね?」

 不思議な光景だ……二人の男の胸中に同時に浮かんだのは、こんな思いだった。地位も身分も財産も、彼がどれほど望んでも手に入れられないすべてを持っている高貴な男が、ただ彼女への愛と献身しか持たぬ平民の従僕に、これほどの気遣いと敵愾心を抱かねばならないとは。

 男がふと真面目な面持ちになって言った。
 「君の気持ちはよく分かったよ。だがわたしとて生半可な気持ちであの人に求婚したわけじゃない。もとより拒絶されるのは覚悟の上だ」
 そう言って、男は唇に微かな笑みを浮かべた。
 「わたしはこれでも気の長い方でね。彼女の愛情を得るためだったら、いつまででも待てるよ。いつか彼女の気持ちがゆっくりとほぐれて、わたしの方を振り向いてくれるまで。君にとってはありがたくない話だろうがね……」
 「どうぞ、御随意に」
 そう言いながら、彼は男の横をすり抜けるようにゆっくりと階段の前を通り過ぎた。男はちらりと彼の方を見やったが、何事もなかったかのように階段を昇り始めた。
 彼が振り返って見上げたときには、ジェローデルはすでに階段を昇りきっていた。その後ろ姿が見えなくなるまで、彼はじっと男の背中を見つめていた。


 窓の外はすでに明るくなっていた。いつもなら起き出して屋敷の仕事を手伝わねばならない時刻だが、今日は久し振りの休暇で、激務に明け暮れる彼には自由な時間が許されていた。
 ジェローデルが彼の気持ちを見抜いていたように、近衛隊でともに働いていた長い年月、ジェローデルがオスカルに密かに寄せていた思いに彼もまた気が付いていた。だが処世術とバランス感覚に長けた万事そつのないこの男が、今ごろになって世間体も省みぬこんな大きな賭けに打って出るとは思ってもみなかった。なぜ今ごろ……? 男の真意は分からない。ただこれほどの賭けに打って出た以上、男が本気で人生を投げ出そうとしていることだけは分かった。そして、もし貴族の男たちの中からオスカルの結婚相手を選ばねばならないとしたら、副官として長年彼女を支え、彼女の信頼も厚いあの男以上に相応しい相手はいないだろうということも。奈落の底に落ちていきそうな暗い想念の一方で、こんなふうに冷静に考えている自分が彼には不思議だった。
 あの男は、決して生半可なことでは引き下がらないだろう。旦那様の強い後押しもある。……だがそれが本当に彼女らしい生き方だろうか?
 そのときふと、夢の中でジェローデルの抱擁に身をまかせる彼女の姿が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。瞬間、焼けつくような嫉妬と痛みが胸を突く。

 貴族の身分さえあれば。彼女から逃げることも、あの男から逃げることも、酒に一時の慰めを求める必要もない。自分のすべてを賭けて、彼女の愛を得るために正々堂々とあの男と張り合うことができる。だが彼にはたった一言、愛していると彼女に告げることさえ許されていないのだ。
 「オスカル、愛している……」
 虚空に向かって放たれたその言葉は、ただ虚しく夜明けの空気の中に吸い込まれていった。


 「アンドレ、今日は何か予定でもあるのか?」
 午後になって、その日初めて顔を合わせたオスカルが彼に言った。
 「どうした?」
 「予定がないなら……久し振りに遠乗りに行きたいと思ってな」
 彼女らしくない歯切れの悪い言い方だった。いつもの彼女なら彼に対して、こんな回りくどい言い方はしない。どこか気づかわしげな彼女に、彼は努めて明るく答えた。
 「ずいぶん遠慮してるんだな。この時間からでは遠くには行けないぞ。いいのか?」
 「かまわん。付き合え。すぐに支度をするから、馬を用意して待っていてくれ」
 「はいはい。仰せのままに」
 ふだんと変わらぬ彼の態度に安心したのか、すぐに彼女らしい笑顔と歯切れのよさが戻った。彼は足早に階段を駆け上がっていく彼女の後ろ姿を、目を細めてじっと見つめていた。

 遠乗りには絶好の晴天だった。木々は少しずつ色づきはじめ、梢から鳥たちが軽やかに舞い上がる。ジャルジェ家の広い敷地から出るとオスカルがすぐに馬の速度を上げ、彼もあとに続いた。頬を切る風はすでに薄ら寒いくらいだが、神経を集中させて馬を走らせていると、うっすらと額に汗が滲んでくる。抜けるような空の下、オスカルと二人で馬を駆けさせていると、昨日までのすべての出来事がまるで一夜の悪い夢のように思えてきた。彼は思い切って馬に笞をくれると、さらに加速をつけてオスカルの馬を追い越しにかかった。追い越す瞬間、ちらりと見たオスカルの瞳に、かすかな驚きが閃いたように見えた。若いころは二人で馬を競いあったこともあった。だが大人なってからは、彼がこんなふうに彼女の馬を引き離すことなどめったになかったから。
 視界から彼女の姿が消えた。世の中のすべての雑音が消え、ただ聞こえるのは風の唸りと大地をうつ蹄の音のみ。蹄の音に驚いた鳥たちが、一斉に木々から飛び立った。このまま風の中に溶け込んで、永遠にこの地上から姿を消してしまえたら。苦しみもなく未練もなく……。ふとそんな突拍子もない考えが浮かぶ。やがて胸に渦巻く暗い想念も夕べの深酒の名残も、すべてが流れていく景色の中ですうっと消えていくような感覚に彼は包まれた。

 深い森に差しかかる手前で、彼は馬の速度を落とした。すぐに追いついたオスカルが呆れたように言った。
 「まったく、とんでもない飛ばし方をする。おまえらしくないぞ」
 彼は黙って微笑むと、高い木々を見上げながら言った。
 「ここに来るのは久し振りだ。大人になってからは、いつももっと遠くに出掛けていたからな」
 「そういえば、そうだな。覚えているか? 子供の頃、二人でこの森に迷い込んだことがあった」
 「ああ、忘れるものか。冒険好きなお嬢様のおかげで、俺はおばあちゃんにこっぴどい目にあったんだから」
 「ふふ……」

 「あそこで一休みするか」
 アンドレが指をさした先には、小さな泉が透き通るような水をたたえて、秋空の下で輝いていた。子供の頃は神秘的な場所に思えたこの泉も、いまではほんの水溜まりほどの大きさに過ぎない。それでも久し振りで見る懐かしいその場所は、二人の気持ちをいっとき遠い過去の幸福な日々に引き戻すのに十分だった。子供の頃の思いで話に花を咲かせるのは、久し振りのことだった。日頃は予断を許さない情勢のために、昔を懐かしんでいる余裕などなかったから。
 しかし同時に二人は、何か目の前の大切なことから逃れて、お互いを誤魔化しあっているような居心地の悪さを感じてもいた。目の前に大きく口を開けた深淵を、次から次へと繰り出す思い出話で覆い隠しているかのような危うさ。

 「昔はよく二人で将来のことを話したな。剣の腕を磨いて、立派な軍人になって、旦那様の後を継ぐ……それがおまえの夢だった」
 何気ないアンドレのその言葉には、ただ過去を懐かしむだけの昔語りとは違う色調が含まれていた。世界がもっと単純だったころ、未来への道はどこまでもまっすぐに目の前に続いているものだと思っていた。誰が想像できただろう、こんな日が訪れるなど……
 「わたしの夢……か。わたしはいつも自分の夢ばかりおまえに語って聞かせていたような気がする。アンドレ、おまえの夢は何だったのだ?」
 「なんだ、今さら」
 彼はそう言って微笑んだが、自分自身の夢と問われてとっさに返す言葉がないことに気付く。
 「わたしはいつもおまえが側にいることを当たり前だと思って……二人で同じ夢を見て、同じ道を歩んでいくのが自然なことだと思っていた」
 「それではだめなのか?」
 「そうではない。ただ、おまえ自身の……」
 「俺自身の?」
 オスカルは唇を微かに動かして何かを言いかけたが、そのまま言葉を失って黙りこんだ。彼は彼女の顔を覗き込みながら、低い声でゆっくりと言った。
 「オスカル。俺の存在が重荷か?」
 「ちがう! 何を言っているのだ、馬鹿なことを……」
 弾かれたように、彼女が言う。しばらくの間、気まずい沈黙が二人を包んだ。次に言葉を発したのは彼の方だった。

 「おれに何か用事があったんじゃないのか? 夕べ」
 「え?」
 「おれを探していたのだろう?」
 「ああ、あれはもういいんだ。だけど、知っていたんなら……」
 なぜもっと早く言わなかった? 彼女の目がそう問い掛けている。
 「夕べ、おまえの部屋へ行こうとしたら、途中であの男に会った」
 彼女の表情は変わらなかったが、その頬に微かな赤味がさしたような気がした。
 「ふん。あいつにきっぱり断ってやろうと思って呼びつけたら、うまくはぐらかされた」
 「やつはそう簡単には諦めないさ……」
 「物好きが高じて頭でもおかしくなったんだろう。わたしと結婚しようなどと、酔狂にもほどがある」
 そう言いながら、オスカルはにっと笑った。
 「ジェローデルだけではないぞ。あのがんこ親父も、耄碌のあまりとうとう頭がどうにかなってしまったらしい」
 「……旦那様のことか? 何かあったのか」
 「近年まれにみる大舞踏会を開くらしい」
 「どこで?」
 「ジャルジェ家だ。わたしに求婚したいという馬鹿者を集めるのだそうだ。夕べ直談判をしに行ったら、あのくそ親父……」
 「どういうことだ?」
 「そういうことだ! わたしがジェローデルと結婚する気はないと言ったら、ジェローデルだけではなく、ベルサイユ中に花婿募集の報せを出して、求婚者を集めて、舞踏会を開くときた。まったく人を馬鹿にするにも程がある……。見ていろ。舞踏会なんぞ無茶苦茶にぶち壊して、あのがんこ親父に目にものを見せてやる」
 なにか楽しい事を思いついたときのような悪戯っぽい目でオスカルは笑ったが、その口許にはかすかな神経の波が揺れている。

 貴族たちの派手な習慣を嫌い、無駄な浪費は一切斥けてきたジャルジェ将軍が、ベルサイユ中から招待客を集める大舞踏会を開くなど、ただの勢いや思いつきでできるものではない。ジェローデルだけが問題なのではない。旦那様は本気でオスカルを結婚させようとしているのだ……。彼は周囲の明るい陽光が急速に翳り、ふたたび果てしない深淵に引きずり込まれていくような感覚にとらわれていた。
 オスカルが他の男のものになるのを黙って見ていろと。それが平民の従僕にすぎない自分に許された運命だというのか。

 ―――おまえの夢は何だ……? 
 さきほどの彼女の声がふたたび彼に問い掛ける。
 子供の頃、早く大人になりたかった。大人になって、強くなって、オスカルを守れるようになりたかった。彼の人生のすべてが、愚かしいほどに彼女の運命と強く結びついていたことを、彼は今さらながら思う。今になっておまえと離れるなど、俺に死ねというのと同じことではないのか?
 愛してほしいなどという大それた望みは始めから抱いてはいない。ただ、おまえの側にいられるだけでよかった。おまえの側にいて、こうして二人で生きていくだけで。

 秋の日は急速に翳りを増す。周囲から津波のように押し寄せてくる夕暮れの冷気は、いい知れぬ底なしの不安と絶望の中に、彼を落としていった。


4. Un Reve −Fin−










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