2005 10/1
文 ラーキーさま

Passion

2. La Chaleur 〜熱〜



 二ヵ月ぶりに足を踏み入れるその部屋は、庭から切り取ったばかりの初秋の花々で埋めつくされていた。ヴェルヌイユ公爵夫人の園芸好きはベルサイユの貴婦人たちの間では有名で、趣向を凝らした庭園や温室には、いつも異国から取り寄せた珍しい花々が咲き誇っていた。その香りを深々と吸い込みながら部屋に入ると、彼は入口のところで立ち止まった。いつもなら朗らかに彼を出迎えてくれるはずのアデレーヌ叔母が、今日は窓辺に立ったまま、ぼんやりと外を眺めている。
 「久し振りね、ヴィクトール。あなたがしばらく姿を見せなかったのは、何か疚しいことでもあったからかしら?」
 そう言いながらゆっくりと振り向いた叔母の顔は、窓から射し込む夕日で逆光になり、表情が良く分からなかった。
 「そういうわけではありませんよ。叔母上にはちゃんとお話ししておきたいと思っていました」
 「まあ、一体何のお話かしら?」
 その口調で、叔母が苛立っていることが彼には分かった。苛立っているときに皮肉たっぷりに話を混ぜ返すのは、叔母のいつもの癖だ。

 彼の存在など忘れたかのようにしばらく窓辺の花をいじっていたアデレーヌは、我慢強く待っている甥の方をふりむいてようやく口を開いた。 
 「あなたがこんなお馬鹿さんだったとは今まで知らなかったわよ」
 「ええ、わたしも知りませんでした」 
 叔母らしい単刀直入で辛辣な物言いに思わず苦笑しながら、彼は答えた。
 「ずいぶんと余裕だことね。ベルサイユ中の貴族たちが、かっこうの暇潰しのタネを見つけて舌なめずりしているわ。お義姉さまもとても心配されていてよ。わたくしも行く先々で詮索されて大変だったんだから」
 「申し訳ありません」
 正式に公表したわけでもないのに、どこから情報が伝わるのか。おそらくジャルジェ将軍は、意地の悪い好奇の目に晒されることも覚悟の上で、今回の一件に関して屋敷の者たちに箝口令を敷かなかったのだろう。将軍の思い入れのほどがうかがわれる。
 もちろん彼は誰に何を言われようとかまわなかった。ただ自分のせいで周囲の下らぬ詮索や好奇の眼に晒される叔母や母を気の毒だと思った。そんな気持ちが彼の口調にあらわれていたのだろう。厳しかった叔母の雰囲気が心なしか和らいだようだった。
 「まあ、いいわ。わたくしのことは何でもなくてよ。それより、いったいどういうことなの? 本人の意志も確かめずに、いきなりジャルジェ将軍のところへ出向いたわけ?」
 「彼女の意向など、聞かなくても分かっていますから」
 「だから? 将軍の威光に頼ろうとでも考えたの」
 「違いますよ。......まあ、そのように思われても仕方ないですが。彼女もそう考えて、わたしに対してひどく怒っています」
 「あたりまえよ。本当に、あなたらしくない馬鹿げたやり方だわよ」
 「ええ、わかっています」
 彼女は呆れたように肩を竦めると、再び窓辺の花をいじり始めた。

 「それで? どういうことなの」
 「わたしが本気だということをあの方にわかっていただきたかった。それだけです」
 「まあ、ずいぶんと潔いことね。わたくしの小さなヴィクトールは、いつのまにこんな大人の男になっていたのかしら」
 相手を茶化すような言い方だったが、その口調からは叔母の情愛が感じられた。
 「でもそれほど彼女が好きなのなら、どうして今までぐずぐずしていたのかしら? 近衛隊で一緒に働いていたころなら、もう少しましな方法もあったでしょうに、今ごろになって何故。あの方が近衛隊を除隊してから、もう一年にもなるのよ」

 ―――そうだ......なぜ今まで彼女への思いに気付かなかったのだろう? いやとっくに気付いていたのに、正面から向き合おうとしなかったのだろう? 今となっては自分でも不思議なくらいだった。ただあの日、パリの喧騒と埃の中で荒くれの兵士たちに囲まれて立っていた彼女が、ひどく痛ましく感じられたことは事実だった。すぐにでもそばに飛んで行って、その細い身体を抱きしめて、彼女が本来いるべき場所へ連れ戻したい。暖かな暖炉の側へ、そして自分の腕の中へ......。
 「強いて言えば......彼女を守りたかった。わたしの手の届くところから離れて嵐の中へつき進んでいくあの人を、引き止めたかったのもしれません」
 「かっこうをつけるのはおよしなさいな、ヴィクトール」
 間髪を入れず、叔母が言った。
 「え?」
 「あなたは彼女が欲しい。欲しくて欲しくてたまらなかった。なのにあなたは詰まらない理屈を並べて、そんな自分を認めようとしなかっただけよ。男が女を愛するのに、それ以外のどんな理由がいると言うの? だったらその気持ちを正面からあの方にぶつければいいじゃないの。あなたはお馬鹿さんの上に、たいした臆病者ね......」

 叔母の言葉は辛辣だったが、なぜか腹は立たなかった。むしろ自分の弱点を的確に突かれたような気がした。彼女を愛する権利さえ持たぬあの黒髪の男は、ただその内に燃え滾る情熱のみに生きているのではないか? 一昨日の夜、男が彼に見せた、憎悪と情熱に燃え立つような眼を、彼はまざまざと思い出した。
 「彼女を守るどころか、わたしの方こそあの男に殺されるかもしれないな......」
 「なんですって?」
 「いえ、何でもありません。叔母上のおっしゃる通りですよ。彼女にとってわたしが必要なのではなく、わたしの方があの人を必要としているのです。彼女のいない人生など......今ではもう考えられない」


 叔母の家を辞してジャルジェ家へ向かう馬車の中で、彼は二日前の出来事を思い出していた。

 拒絶されることも覚悟の上で訪ねたジャルジェ将軍に、思いのほか快く迎え入れられた。何度か将軍と話し合ったあと、正式な求婚者としてジャルジェ家への出入りを許された。それで事が成就するとはもちろん考えていなかったが、ジャルジェ夫妻に暖かく迎え入れられ、自分の思いを正々堂々と彼女に告げられる幸福にしばし酔い痴れた。彼女の怒りや拒否は問題ではなかった。彼女は卑劣な人間をこそ貶むが、相手の誠意を理解できない人ではない。むしろ、誠意や信念や一途な情熱といった人間の美徳に、人一倍敏感なタイプの人間だということを、彼はよく理解していたから。愛を得られるかどうかは分からない。だが一時の怒りで頑なに閉ざされた彼女の心を、時間をかけて解きほぐす自信は十分にあった。そしてその間、彼の念頭に黒髪の男の姿は一度も浮かばなかった。

 おそらく彼女の部屋に持っていくのだろう、一人分のショコラを携えて廊下を急ぐ男の姿を目にしたときも、彼はまだ幸福感のただ中にいた。彼女の姿を遠くから見つめることしかできなかったあのパリでの再会の日より、男の存在がずいぶんと小さくなったように感じた。
 「やあ、アンドレ・グランディエ。久し振りだね」
 「お久し振りです」
 男は表情ひとつ変えずに答えた。良家の使用人としての完璧な態度だった。
 「いま、フランス衛兵隊に入隊しているんだってね。パリで一度君たちの姿を見かけたよ。軍の馬車が横転して立ち往生していたときに」
 微かな驚きが一瞬男の瞳に浮かんだが、それもすぐに消えて男の表情は再び読めなくなった。
 「そうですか」
 「ジャルジェ将軍が護衛のために君を特別入隊させた気持ちがよく分かったよ。あんな荒くれの兵士たちに囲まれて、女の身で......。いくらオスカル嬢が優秀な武官だからといって、あれではあんまりだ。わたしとしては彼女を一日もあんなところに置いておきたくないのだがね。君もそう思わないか?」
 「いえ......それは、わたしの決めることではありませんから」
 あいかわらず男の表情は読めない。模範的な使用人としての態度を崩さない男の落ち着き払った態度に、彼は心の奥底でかすかな苛立ちが動くのを感じた。

 ―――彼女を愛しているのではないのか......彼女を永久に奪ってしまうかもしれない求婚者のわたしを前にして、なぜそんなに落ちつき払った態度でいられるのだ。それともそんなことは起こり得ないという自信があるとでも?―――

 先ほどまで胸に広がっていた幸福感はいつの間にか消え、漠然とした不快感が流れ込んできた。だが彼の表情には、一瞬のうちに心の中に生じた変化はかけらほども表れていなかった。彼は今までと変わらない落ち着いた、むしろ陽気とも取れる口調で続けた。
 「寂しくなるね......。君はいままでいつだって、どこでだって彼女と一緒だったから。じつにうらやましいほどにね」
 この男は一体何を言い出すのか......そんないぶかしげな表情が、黒髪の男の顔に浮かんだ。ジェローデルは相手のどんな些細な感情の動きも見逃すまいと、正面から男の顔を見つめながら続けた。
 「彼女が王太子妃付きの近衛士官として特別入隊したときから、君なしの彼女はありえなかったし、おそらく彼女なしの君もありえなかった......。君は平民の身分でありながら、宮廷にまで出入りを許されて......」
 「少佐、もうそのようなお話は」
 「だがもうじきにそんな必要もなくなるのだからね。わたしたちが結婚したら」
 「わかっています」
 耐えきれないというように彼の言葉を遮った男の瞳に、一瞬明らかな苦痛の色が浮かんだのを彼は見逃さなかった。
 「わかっています......わたしの役目は終わったのでしょう。これからは、ジェローデル少佐......」
 「これからは? なんだというのだね?」

 ―――わたしは何を焦っているのだ......そう思いながらも、ジェローデルは自分を抑えることができなかった。男は言葉を失ったかのようにふつりと口を閉ざし、彼の目を正面から見返した。夜のような暗色の瞳が、異様な熱を帯びて輝いている。そこに浮かんでいるのは憎しみだろうか、それとも絶望だろうか?

 ―――この男は今なお報われぬ情熱に苦しんでいるのだ......どれだけ想い続けても、決して手の届かないあの人への情熱に。そして目の前に迫った喪失の危機に怯えているのだ。
 彼はとっさにそう確信したが、なおも得体の知れない感情に突き動かされて、もう一歩踏み込んだ。

 「彼女は気付いているのだろうか......君が彼女の分身だということに」
 「......どういう意味です?」
 彼はそれには答えず、微かな笑みを浮かべて言った。 
 「そんなことは君自身が一番よく分かっているはずだよ……」
 ―――そう、たしかに君は彼女の絶対的な信頼と友情を得ている。だがそれは厳然たる社会の掟の前では何ほどの意味もない。

 「ところで君、ヌーベル・エロイーズは読みましたか? 他愛もない恋愛小説だがね......」
 熱を帯びた暗色の瞳は相変わらず彼を凝視したまま動かない。その暗い情熱が、彼の心に苛立ちとも憎しみとも同情ともつかない感情を呼び起こした。それを彼に言わせたのは何だったのか、彼自身にもよく分からなかった。窮地に追い込まれた敵にさらにとどめを刺そうとする残忍さか、追い込まれてもなお不適な態度を崩さない男に対する苛立ちか、それとも貴族の青い血を誇る者に特有の傲慢だったのだろうか。あるいはそのすべてだったかもしれない。

 「アンドレ・グランディエ。わたしにも、妻を慕う召使を妻の側につけてやるくらいの心の広さはあるつもりだよ。君さえよければ......」
 
 一瞬の出来事だった。男は持っていたショコラをジェローデルの顔に浴びせかけると、怒りに燃える声で言った。
 「そのショコラが熱くなかったのを、幸いに思え!」
 そして彼に挑戦的な視線を投げつけると、昂然とした足取りで歩き去った。その後ろ姿には、微塵ほどの迷いも後悔も感じられなかった。そのとき背後でばたばたと慌ただしく走り去っていくもうひとつの足音を、ジェローデルは夢の中の出来事のようにぼんやりと聞いていた。

 ―――愚かなことを......
 ふとわれに返り、レースのハンカチーフで濡れた頬を拭いながら、彼は自嘲的な笑みを洩らした。繊細なレースの襟飾りについた茶色の染みは、まるで彼の愚かさを証明するかのように見苦しかった。その染みを見ながら、このまま何かの理由をつけてジャルジェ家を辞すべきかどうかと思案しているときだった。遠くから小走りに近づいてくる足音が聞こえ、小柄な老婆が廊下の端から姿を現した。彼女は息を切らして転げるように彼の側まで走り寄ったが、ショコラで汚れた彼の衣装を見ると、打ちのめされたように立ち竦んだ。
 「ジェローデル様......!」
 彼女は今にも床にくず折れるのではないかと思うほど身体を震わせ、目にいっぱい涙を溜めながら言った。
 「申し訳ありません。あの子が......アンドレが、とんでもないことを......」
 その様子を見て、彼はこの年老いた侍女がアンドレ・グランディエの祖母であり、オスカルの乳母を勤める女性なのだろうと見当をつけた。オスカルを溺愛しているという愛すべき乳母の話は、オスカル自身の口から何度か聞いたことがあった。
 「あなたはたしかオスカル嬢の乳母をされている......?」
 「はい、オスカル様の乳母で、アンドレの祖母でございます。ジェローデル様、申し訳ありません。あの子になりかわってわたくしがどんな罰でもお受けいたします。どうか、この年寄りに免じて、あの馬鹿な子を......」
 彼女は彼の前に膝をつくと、ぽろぽろと涙をこぼした。彼はいたたまれない気持ちになった。愛する人の幸福と未来の繁栄をもたらすために、自分はこのジャルジェ家に来たのではなかったか? それがどうだ。愛情に溢れ美しく調和のとれたこの屋敷に、不幸や混乱を持ち込んだだけの邪魔者のようではないか......

 「わたしの不注意でね、ちょっとぶつかっただけですよ。気にすることはない」
 彼は手入れの行き届いた美しい手を彼女の方に差し出した。
 「でも、あの......」
 年老いた侍女は信じられないという表情で、彼の顔と自分の前に差し出された手を代わる代わる見た。
 「さあ、立って下さい。オスカル嬢の大切な「ばあや」にこんなことをさせたら、わたしが彼女に嫌われてしまう。それよりこの染みを何としたいのだが、手伝ってもらえますか。こんな恰好では、とてもオスカル嬢にお目にかかれないからね」
 そう言いいながら彼は、オスカルを慈しんで育てたという年老いた乳母にやさしく微笑んだ。
   
 彼を控えの間に案内する乳母の小さな後ろ姿を見ながら、彼はつい先程の出来事を反芻していた。
 愚かなことを。あの男を追い詰めてどうするつもりだったのだ。あの男の口から何を言わせたかったというのだ......。だが今までなら決して自分に許さなかっただろう愚劣な行為も、下司な嫉妬心さえも、不思議と後悔する気にならなかった。無様でも愚劣でもかまわない。どこまでも、たとえ行き着く先が地獄の果てであろうとも、行けるところまで行くまでだ。
 あの男の目はどうだ。まるで愛の狂気に囚われた者の目付きだ。何ものをも恐れぬ、死をも恐れぬように見えるあの燃えるような目。ふだんの控え目で穏やかな男の態度からは、想像することさえできなかった。あの男はどれほどの長い年月、身を焼き尽くすような絶望的な情熱を抱き続けてきたのだ。あの人は気付いているのだろうか、あの男の貪るような眼差しに。もし気付いているとしたら......
 だが永遠に越えられない身分の壁がある以上、男の破滅的な情熱は、彼女もあの男自身をも不幸にするだけではないのか?

 紺碧の空に、真紅の太陽が燃えている。恐れを知らぬイカロスのごとく、男が微笑みながらそのただ中に猛然と飛び込んでいく。己が情熱に身を焼きつくさんと、全身紅蓮の炎に包まれながら、男は女を道連れにもろとも奈落の底に墜落していく......
 そんな不吉なまでに美しく恐ろしい幻像が、彼の脳裏に鮮やかに浮かんでゆっくりと消えていった。

2. La Chaleur ―Fin―











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