2003 5/3
挿絵 市川笙子さま

ポワソン・ダウリル




「なぜ私は仮装舞踏会へ行ってはいけないのかしら」
 フランス王太子妃マリー・アントワネットは憤懣やるかたない様子で気に入りの王太子妃付きの近衛士官を前にため息をついた。
「アントワネット様、どうぞご身分をお考えください」
 王太子妃の私室にまで入れる近衛士官。彼女は王太子妃の前に膝をついて答えた。
「オスカル、あなたはどう思って? 仮面をつけて身分を隠してオペラ座に行く事が、それほどいけない事なのかしら?」
 王太子妃は不満そうに部屋の中を歩き回り、近衛士官の前を通り過ぎると部屋の中央の長椅子に身を投げ出すように横たえた。
「アントワネット様」
 オスカルは答えられずにいた。二ヶ月前とつい最近、マリー・アントワネットはお忍びでオペラ座の仮装舞踏会に出かけたが、どちらの夜も王太子妃とわかり途中で退出するはめになった。どれほど身分を隠そうとも分かる時には分かる。フランス王太子妃は毎夜オペラ座で遊ぶと噂がたっては困るし、身元を隠した盛り場では何が起こるか分からない。危険すぎる。それに王太子妃の仮面をむしり取る不埒者もいるわけだし…。
 オスカルは二ヶ月前の夜の事を思いだすと体が熱くなった。その不埒者は堂々と宮廷にやってきて謁見を申し込んだ。王太子妃と言う身分は些細な日常の出来事を重大な懸案事項に変える力を持っている。次期フランス王妃たる身分の女は奔放な貴族の娘のような行動は謹んでもらわなければならない。
「オスカル、あなたの意見を聞いているのよ」
 アントワネットは扇を差し出し、それでオスカルを指し示し、問い詰めるように言った。普段のアントワネットにあるまじき強い口調だったが、瞳には肯定してくれる味方を求めるような懇願の色があった。飾らない心根。フランス王妃という身分を背負うには純粋すぎる瞳だった。
「アントワネット様、舞踏会なら宮廷でいくらでも開けます」
 忠義者の近衛士官の答えにアントワネットは解っていないというように音を立て、ため息をついた。
「宮廷での生活はもう飽き飽き! うんざりなのよ!」
 彼女は同情を誘う様な目をしてオスカルを見つめた。オスカルはアントワネットの前で目を伏せた。彼女の気持はわかる。毎日毎日王太子妃としての務めの日々。しきたりに縛られ、ほんの少しの自由さえない。自分は勤めが終れば一人のオスカル・フランソワに戻れるが、彼女は朝も昼も夜も、眠っている時でさえ、フランス王太子妃から逃れられないのだ。でもだからといって…。
「アントワネット様、お立場があります」
 オスカルは身を低くし、頭を垂れた。
「わかったわ」
 アントワネットは立ち上がった。
「オスカル、あなたもノアイユ伯夫人やメルシー伯と同じなのね。しきたり、しきたり、しきたりでございます!」
 彼女はノアイユ伯夫人の口調を真似してみせた。
「私は仮装舞踏会に行ってはいけないし、馬に乗ってもいけない」
 アントワネットは立ち上がるとオスカルの前を通り過ぎ、立ち止まった。
「アントワネット様」
 オスカルはアントワネットの背に声をかけた。
「ごめんなさい、オスカル。私のわがままであなたに迷惑をかけたわ」
 アントワネットは振り返り、オスカルを見た。オスカルは立ち上がった。
「忘れた訳ではないのよ。私はもう馬には乗りません」
 アントワネットからは不満そうな表情は消え、しなやかな腕がオスカルの肩先に触れた。
「オスカル、もう怪我はだいじょうぶなの?」
「はい」
「ごめんなさい。あなたの言う通りにするわ」
 アントワネットは観念した子供のように大人しく言った。
「私、ノアイユ伯夫人とメルシー伯に反省文を書かなければいけないのよ。最初の約束を破ってオペラ座に行ったから…。オスカル、貴女それを届けてくれないかしら」
 アントワネットの言い方は愛くるしく、蕾のような唇から出てくる言葉に逆らえる人間はいない。
「はい」
 オスカルはアントワネットに心から同情した。自分に出来ることがあればどんな手助けでもしたいと思っている。
「でもオスカル、私がフランス王妃になったら、この古臭くてかび臭い宮廷を変えてみせるわ」
 アントワネットは元気を取り戻したように明るい顔で微笑み頷いた。その表情には次期フランス女王としての高貴な貫禄がすでについていた。
「アントワネット様」
 オスカルは安堵した。マリー・アントワネットには回りの空気を華やかにする天性のものがあった。それは自分の境遇を明るくするのにも役立っていた。荘厳なヴェルサイユ宮殿が雅な愛らしさにつつまれる日がきっと来る。
「ここで待っていて」
 アントワネットはすっかり気を取り直したようだった。

 彼女は隣室へ行き、しばらくすると三通の封書を持ってきた。
 随分早く書き上げたものだ。オスカルはアントワネットの手に持った封書を見つめた。すでに書いてあったのだろうか。アントワネットはゆったりと微笑んでいる。近づいてくる彼女を見て、オスカルの顔にも笑みが浮かんだ。アントワネット様はお分かりになっているのだ。ご自分の立場を理解されているのだ。私に不満を言いたかっただけなのだ。オスカルは改めて膝をつくと、彼女の前に頭を垂れた。
「オスカル、これをノアイユ伯夫人に、こちらをメルシー伯に、それからこれはオスカル、貴女にです」
 アントワネットはオスカルの顔を上げさせ、一つづつ封書を手渡した。
「私に?」
 意外そうに瞬く蒼い瞳にアントワネットは優しく頷いた。
「そうです、オスカル、貴女にです。家に帰ってから開けてちょうだい」
 彼女は封を持ったオスカルの手にそっと触れると、まっすぐ背を伸ばして言った。
「それを届けたらもう帰ってよろしい。私は部屋に下がりますから」
「はい」
 オスカルは膝をつき胸に手を当て礼をした。


「オスカル様、おかえりなさいませ」
 屋敷に戻るとオスカルの早い帰りを使用人達が嬉しそうに出迎えた。たった今まで厨房にいたのだろう、若い女の使用人からは香ばしい匂いがした。きっとばあやがパイを焼いている。オスカルは軽く身をひるがえすと二階に上がった。良いところへ帰ってきた。焼きたてのパイが食べられる。
 部屋に入るとオスカルはアントワネットから受け取った封書にペーパーナイフを差し入れた。
 一体何だろう。ノアイユ伯夫人やメルシー伯だけでなく自分にも手紙など…。四年近くアントワネットの側に仕えていながら彼女から手紙をもらうのは初めてだった。どんな内容か見当がつかなかったが嬉しかった。
 オスカルは封から書簡箋を取り出した。はやる気持を抑え広げてみる。王家の紋章入りの書簡箋。特別な者にしか許されない美しいなめらかな白。そこには白との対比も鮮やかな黒々とした二匹の魚が描かれてあった。
(何だこれは…)
 たっぷり含ませたインクも生々しく魚は横たわっていた。隅に文字が書いてある。
『オスカル、あなたが三百年前の暦を使っているなど思いませんでした。太陽はとっくに牡羊座に行ってしまいましたよ。いつまでも時代遅れのお魚さんへ』
 オスカルは笑いだした。アントワネットの精一杯の皮肉が可愛らしくおかしかった。オスカルはひとしきり声を上げて笑うと一つの事に気づき笑うのをやめた。
(まさか‥私が届けたあの二通にも同じことが書かれていたのか‥?)
 部屋をノックする音が聞こえた。
「入れ」
 オスカルの声に扉が開いた。
「お帰りオスカル、早かったな。おばあちゃんがちょうどパイを焼いていたところだ。食べるだろう」
 アンドレが部屋に入ってくる。扉を開けるだけで焼きあがるパイの匂いがした。
「まさかそのパイは魚の形をしてはいまいな」
 肩越しにオスカルが振り返った。アンドレは意味ありげに瞬くオスカルの瞳と表情を楽しむように受けとめた。
「よくわかったなオスカル、今日は四月一日。ポワソン・ダヴリル〔四月の魚〕だ」
 アンドレはオスカルの瞳にゆっくり近づいた。春の訪れを告げる四月。この瞳には春を待つときめきと同じものがある。
 オスカルは封を差し出した。
「アンドレ、お前にやろう」
 アンドレは怪訝そうにオスカルを見て封を受け取った。広げた書簡箋を見つめるアンドレにオスカルは言った。
「私からお前に新年の贈り物だ」
「いいのか、オスカル」
 アンドレは書簡箋をたたんだ。
「お前から私に贈り物はないのか?」
「オスカル、お前がそんな古い暦を使っているとは知らなかった」
 アンドレは封書をしまった。
「今、パイを持ってくる。待っていろ」

 アンドレが香ばしい匂いと共にパイを運んできた。二匹の魚が仲良く並んでいる。一つは大きくこんがり焼けておりもう一つは少し小さく色も濃かった。
「オスカル、おばあちゃんから新年の贈り物だ。この大きい方がオスカル、お前のだ」
 アンドレはオスカルの前に紅茶と共にパイを差し出した。席に座ろうとするオスカルを制してアンドレが一つの箱を差し出した。
「オスカル、俺からお前に新年の贈り物だ」
 オスカルは驚いたようにアンドレを見た。冗談だったのに。アンドレの差し出した白い箱は小さかったが、押し模様の装飾も美しい物だった。
「私に…?」
 オスカルは戸惑ったように瞳を瞬かせ、箱を受け取った。箱は動かすと中でカラカラと小さな音をたてた。
「アンドレ、開けてもいいか」
「ああ」
 オスカルの言葉にアンドレは頷いた。オスカルは期待を込めた表情でそっと箱の蓋を取った。中には小さな粒が入っていた。オスカルはそれをつまみあげた。
「何だ、これは」
 それはしなびた何かの実だった。
「フェーヴ〔ソラマメ〕だ。昔はフェーヴに本物のソラマメを使っていたらしいぞ」
「アンドレ、お前まで私を馬鹿にする気か?」
 一瞬何かを期待したようなオスカルの表情が忘れられない。アンドレは笑いながらオスカルの右手を取った。彼はオスカルの手の平を上に向けさせその上に握った自分の手を置いた。


 そしてその手をそっと離した。オスカルの手の平に何かが乗っていた。オスカルはそれを見つめた。一瞬何かわからなかった。オスカルは手の平を目の高さに差し上げてみた。赤い衣を着て金の冠をかぶった、小さな、スプーンに乗るほど小さな王。
「アンドレ、これはお前がこの家に来て初めて手に入れたフェーヴではないか。こんな物まだ持っていたのか?」
 オスカルは小さな王を手の平で転がした。
「持っていたさ。忘れられない」
 アンドレはオスカルの手の上に横になった美しい陶器の王を見つめた。
「俺からお前に新年の贈り物だ」
「そうか、では今日一日私が王でいいのか? アンドレ」
 オスカルは右手を握りしめ、アンドレを見た。
「オスカル、お前がそうしたいのなら‥」
 アンドレは小さく息をはいて笑った。彼は椅子に座るとオスカルにフォークを差し出した。
「どうする王様、パイは食べるのか」
「勿論、貰おう」
 オスカルは椅子に座ると自分とアンドレの皿の間に小さな王を立てた。



Fin

付記

 エイプリル・フールの起源ともなったポワソン・ダウリル〔四月の魚〕を題材に書いてみました。
 シャルル九世が1567年に定めた勅令により、4月1日から始まっていた新年が1月1日になりました。人々は新しい暦に従い新年の祝いと贈り物を1月1日にするようになりました。でも中には旧来の習慣に固執する人もいて彼らは4月1日に新年の贈り物を交換していました。そういった人をからかってやろうと4月1日に空箱を送ったり嘘のパーティーの招待状を出したりしたことがポワソン・ダウリルの発端となったそうです。
 3月20日までは双魚宮〔うお座〕にあった太陽が4月1日にはとっくに白羊宮〔牡羊座〕に移動している事にひっかけて4月1日に贈り物を交換する人々を「時代遅れの人」「時代から取り残された人」というニュアンスで「四月の魚」と呼んだそうです。
「時代遅れ」を揶揄するポワソン・ダウリルはフランスらしいエスプリがきいていると思いました。

 フェーヴとは1月6日のエピファニー〔公現祭〕に焼かれるガレット・デ・ロワ〔王様のパイ〕に入れる小さなメダルや人形などの形をした素焼きか陶器の焼き物で、切り分けられたパイの中にそれが入っていた人がその日の王様になるというもの。

(出典: 「フランス歳時記」 鹿島 茂 著  中公新書発行 より)



一月の物語「エピファニー」がこの話の元になっています。
なお「エピファニー」はキリ番のプレゼントです。




Menu Back BBS

































inserted by FC2 system