2003 5/31

銀の月と小さな花 U




 シルビーは窓から顔を出した。この部屋は気に入っている。大きな通りではないが、通りに面していてパリの様子が一目でわかる。毎日のように開かれるちょっとした集会やいさかい、辻立ちの演説、そして喧嘩。地味に仕立てた貴族の馬車も通れば泥棒も通る。ここにいれば、窓を開ければ、パリの空気のうねりを感じる事が出来る。
 年が明けてからは毎日のように三部会だ。
 『三部会に我々の代表を送ろう!』
 『フランスは変わるのだ!』
 『第三身分の議員が祖国の未来を作るのだ!』
 『自由で平等な世の中が来るのだ!』
 『三部会を!』
 『三部会を!!』
 本当に三部会がフランスを変えてくれるのか。パリには選挙に対する異様な熱気と明日のパンを憂える冷めた諦めが交錯していた。シルビーは風にあたりながら表の喧騒を眺めた。風はすっかり穏やかになっていた。
 シルビーは戸に鍵をかけ、部屋を出た。母に手紙を出し送金する。用事を済ませ彼女が部屋に戻ると戸の側に誰かがいた。背を向けてしゃがみ込んでいる。青い軍服。
「誰?」
 シルビーの声に驚いたように男は立ち上がった。
「何やっているの? こんなところで」
 男はこの間アランとやってきた男だった。後ろ手に何か隠している。シルビーは男を睨みつけた。
「何を持っているの?」
 彼の後ろに回り込もうとすると男は背でそれを隠した。
「ごめん、何でもない。何でもないんだ。直ぐ帰る」
 彼は後ずさりした。背を見せたくないらしい。下手な細工されても困る。シルビーは男の腕を掴み、前に引き出した。彼は観念したように腕をシルビーに預けた。
「これを持って来ただけなんだ」
 彼の手には薄桃色の花が握られていた。
「何?」
 意外な物にシルビーは戸惑った。
「だから、その、この間迷惑かけたから…」
 彼は顔を赤らめうつむいた。シルビーは彼を見た。差し出した手の置き場に困っているようだ。
「そう、ありがとう。よかったら入らない?」
 シルビーは腕を伸ばし彼の手から花を受け取った。受け取らずにはいられなかった。シルビーの声と動作に彼は意外そうに顔を上げた。
「で、でも」
「忙しいの?」
「いや、もう交代したから帰ってもいいんだ」
「じゃあ、入りなさいよ。美味しいお茶をご馳走するわ」

 シルビーは部屋に入るとグラスに水を入れた。薄桃色の花は一握りもあり、可憐に咲き誇っていた。もうこんな花が咲いているのか。いつの間にか春は来ていたのだ。部屋に花を飾るなど何年ぶりだろう。水に入れると花は茎の色さえ生き生きしてくるようだった。シルビーはグラスをテーブルの上に置いた。フランソワは戸口を一歩入ったきり立ち尽くしている。
「戸を閉めて」
 シルビーの声に彼は急いで戸を閉めた。
「待っていて。今、とびきり美味しいお茶を淹れてあげる」
 シルビーは緊張したような彼の様子を面白そうに眺めながら、戸棚から缶を取り出した。
「座りなさいよ」
 シルビーは缶から茶を取り出し量っている。フランソワは椅子を引きながらシルビーを見た。
 高い位置で一つに結んだ鮮やかな赤い髪は背に流れ、腰の近くまで届いていた。真っ直ぐに伸びた背は美しい姿勢を保ち、深めに開いた襟ぐりからは白い肌がのぞいていた。
 ぎこちなく椅子に座るフランソワの前に湯気の立ったカップが置かれた。
「どうぞ」
 シルビーが目の前で笑っている。フランソワはカップに目を落とした。薄い紅茶の様な色。嗅いだ事のない独特の匂いが漂っていた。
「ずっと東の、海の向こうの国のお茶よ。珍しいでしょう」
 シルビーは椅子に座り、顎の下で両手を組んだ。フランソワはカップから目を上げるとシルビーを見た。その目には戸惑ったような不審げな光があった。彼は手をつけない。シルビーは笑った。
「痺れ薬でも入っていると思った?」
 彼女は自分のカップを取り上げると一口飲んで見せた。
「悪い味じゃないわよ」
 フランソワは恐る恐るカップを取り上げると匂いを嗅ぎ、そっと口を付けた。
「どう?」
 問い掛けるようなシルビーの目に彼は頷いた。
「悪くない」
 シルビーは喉の奥から声を出して笑った。きっと私もこんな風に飲んだのだろう。

 この茶は片足の男の家から貰ったものだった。彼の家で供された香ばしい香りを振りまく珍しい飲み物。彼のメイドが豪華な茶道具と共に運び、目の前で淹れてくれた。だが同じ茶器から注がれた茶であっても飲むのに勇気がいった。
『毒でも入っていると思うか?』
 彼はシルビーの目の前で茶をごくごく飲んで見せた。疑っていた訳ではないが、彼と一緒に死出の旅に出たくはなかった。茶そのものの香りは良い香りだったし、味も悪くはなかった。だがそこに何となく陰惨なものを感じた。
『旦那様はこのお茶が大層気に入りです』
 これは帰りにメイドが持たせてくれた。シルビーが固辞すると彼女は『これは身体に良いそうです。肌や髪も美しくなるとか』と言って無理に手の中に押し込んだ。見知らぬ海の向こうの異国の地。その地で人はこれを飲んでいるのか。だがシルビーはこの茶を家で一人で飲む気にはなれなかった。

「良かったらどうぞ」
 シルビーは缶をフランソワの前に置いた。
「あなたに、あげるわ」
 フランソワは驚いたように首を左右に振った。
「こんな高価な物、貰えないよ」
「あら、いいのよ、遠慮しないで。持って帰ってアランやあなたのお仲間と飲んだらいいわ」
 気味の悪い物を厄介払いするにはうってつけ。シルビーはフランソワの目の前に缶を押しやった。
「隊にそんなもの持ち込めないよ」
 フランソワはそう言いながらも缶を手に取った。
「入れ物も変わっているね」
「そうよ、綺麗でしょう」
「これ、弟にもらっていいかな」
 缶を手に取り眺めるフランソワに虚を衝かれたようにシルビーは目を見開いた。
「弟に…?」
「うん」
 顔を上げたフランソワは幸福そうに微笑んでいた。
「そ、それは構わないけど‥」
 シルビーは思わず缶を取り戻そうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「あなたにあげた物だから、どうしようと勝手よ」
「ありがとう。君って優しいんだね」
 フランソワに礼を言われ、シルビーはぎこちなく体を動かし椅子の上に座りなおした。弟。彼の弟。うっすらとした後悔の波が襲ってくる。それを避けるように彼女は缶に見入るフランソワに問いかけた。
「弟がいるのね。幾つなの?」
「八歳だよ。来月九歳になる」
「そう。まだ小さいのね」
「うん。でもとても賢いんだ」
 フランソワは缶から目を上げた。微笑んでいる。明るい色の瞳に優しげな光が浮かぶ。
「エミールだって賢いわ」
 つられるように言った。
「エミール?」
「弟よ」
「いくつ?」
「あの子は‥」
 シルビーは考えるように俯いた。数えてみる。
「もう十五になるわ。早いわね」
「シルビー、君にも弟がいるんだね」
 思い出を探るような優しい声。
「あの子はきっと偉くなるわ」
 信じている。シルビーは机に肘をつき、組んだ両手に目を落とした。思い出したら少し寂しくなった。もうずっとエミールに会っていない。きっと大きくなっただろう。勉強の好きなエミール、母さんを助けて働いている。あの子の為だったら私は何だって出来る。
 目を上げるとフランソワの顔に暗い影が浮かんでいた。さっきはあんなに嬉しそうにしていたのに…まるで痛みに耐えているかのような様だ。
「どうしたの?」
 シルビーは思わず声をかけた。弟を思い出して寂しくなったという類のものではないフランソワの沈痛な表情が気になった。
「弟、病気なの?」
「いや」
 フランソワはあわてて首を振った。
「元気だよ」
「じゃあ、どうして‥」
「え?」
「悲しそうな顔していたわ」
「なんでもないよ」
 フランソワは慌てたように冷めかけた茶のカップを取り上げた。
「なんでもない」
「フランソワ、あなた達、今パリにいるの?」
 シルビーは話題を変えた。フランソワは何か悲しいことを隠しているのではないか。気になったが、聞かない方が良いような気がした。
「うん。今はパリの方が大変なんだ。三部会が始まったらヴェルサイユに詰めることになるけれど」
 シルビーの頭に閃くものがあった。
「ねえ、フランソワ、フランス衛兵に凄く綺麗な将校がいるだろう」
 彼女は身を乗り出して彼に問いかけた。
「見事な金髪のさ」
 シルビーは髪の長さを示すように手を動かした。
「ああ、隊長?」
 フランソワの素っ気無い言い方にシルビーは首を振った。
「違う、違う、もっと若いの。顔もなんて言ったらいいかな。聖堂の彫刻みたいな」
「だから、隊長だろう」
「違うよ。フランス衛兵の隊長って、偉いんだろ?」
「金髪が見事で、聖堂の彫刻みたいで、若くて、すらりとしていたら隊長だよ」
 フランソワは可笑しそうに笑った。
「それで目は深い蒼じゃなかった?」
 彼は指で自分の目を指し示してみせた。シルビーは首を傾けた。あれが隊長…? 確かに高貴な血を感じさせる凛々しさはあったが、貫禄という点になると彼は心許なかった。アランなどと比べると身体も細く華奢だった。あの若さと細身の身体でフランス衛兵をまとめ上げているのか。
「ふーん、あれが隊長かい。育ちの良さそうな優男に見えるけどね。アランやあんた達みたいな強情そうな兵隊の相手は大変だろうに」
 シルビーの言い方にフランソワは声を上げて笑った。
「何が可笑しいの?」
「いや、本当にその通りなんだ」
「ふん、飾りってわけか。それでフランス衛兵の実権を握っているのは誰なんだい? アランかい?」
 こいつに笑われるのは面白くない。シルビーはフランソワを睨みつけた。
「前まではね。でも今は違うよ。俺達はどこまでも隊長についていく」
 フランソワにからかわれているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。当たり前のように言い切る彼の顔に他意は見られなかった。
「よくわからないね。あの隊長がそんなに頼りになるのかね。アランは面白くないだろうに」
 フランソワはまだ笑っていた。
「軍隊に置いておくにはもったいなくらいの男じゃないか」
「だって隊長は…」
 言いかけてフランソワは口をつぐんだ。
「隊の事言ってはいけないんだ」
「聞きたいわけじゃないよ。無駄話ばかりしたわ」
 シルビーは立ち上がった。
「俺も悪かった。お茶をありがとう。これ貰っておくよ」
 フランソワも席を立つと身軽な動作で戸口に立った。シルビーは戸に手を掛け思い出したように言った。
「フランソワ、あなたの弟の名前なんていうの?」
「ミシェルだよ」
 フランソワはシルビーの正面に向き直った。
「可愛い名前ね」
「うん」
「花をありがとう」
 フランソワは恥ずかしそうに頷いた。シルビーは彼の前でゆっくりと戸を閉めた。


 次の日シルビーが仕事から帰ると戸の前に白い花が置いてあった。枝に咲いた白い花。香りもいい。枝ごと何本か手折ってあった。フランソワが来たのだ。きっと無理やり押し付けた茶の礼のつもりなのだろう。シルビーは枝を手に取ると花に顔を近づけ部屋に入った。心にあった呵責の念が小さく疼いた。


 夜だった。部屋の戸を叩く音がした。
「誰?」
 こんな夜に訪ねてくる人はいない。シルビーは戸に手をかけたまま問いかけた。
「僕だよ。フランソワ」
 彼女は戸を開けた。
「どうしたの? こんな時間に」
 フランソワは雑嚢を抱えて立っていた。
「これを持ってきたんだ」
 彼はそれを差し出した。
「まあ、とにかく入りなさいよ」
 フランソワは部屋に入るとテーブルに近づき、雑嚢から青々とした菜を取り出しそこに置いた。
「フランソワ、こんな物どうしたの?」
 シルビーはあっけにとられ問いただした。
「今日は炊事当番だったんだ。だから‥ この間のお礼さ」
「この間? お茶のお礼ならもらったわ」
 シルビーは飾った花に目をやった。
「あれは‥ ただの花だよ。これ、いらない?」
「いいえ、貰っておくわ」
 シルビーはテーブルの上に広げられた菜に目をやった。
「炊事当番って‥ フランソワ、あなた結構悪いのね」
「このくらい平気さ。俺達剣を売ったこともあるんだ」
 菜を集めていたシルビーの手が止まった。
「何ですって?」
「もっとも売ろうと言ったのはアランだけどね」
「ふーん、あの男ならやりそうだけどね」
「俺達取られた物を取り返しているだけなんだ」
 得意そうな彼の声にシルビーは笑わずにいられなかった。
「立派な理屈ね。誰に聞いたの?」
 フランソワは腕を組んで笑った。何も言わなかった。シルビーは集めた菜を手にして言った。
「これからスープを作ろうと思っていたところよ。あなたも一緒にどう?」

「俺、隊で食べてきたからいいよ」
 フランソワは目の前で湯気を立てているスープを向こうに押しやった。
「あら、あたしのスープは飲めないっていうの?」
 シルビーは椅子に座り、スプーンを取った。
「そうじゃないけど‥」
「だったらどうぞ。一人で食事なんて味気ないわ」
 フランソワはうながされ、皿を引き寄せた。
「シルビー、食事はそれだけ?」
 フランソワはシルビーの皿を見つめた。青菜の浮いたスープと手の中に収まるだけのパン。
「え? ええ、そうよ。いつもはもっと食べるのだけれど、この仕事は太ったらおしまいなのよ。だから時々こうやって、加減しながら‥ね」
 シルビーはパンをちぎりながら笑った。フランソワはスプーンを取り口に運んだ。薄い塩味のスープ。青菜が浮いていなければスープとはいえない。フランソワはスプーンを口に運ぶシルビーを見つめた。この菜がなかったら今日の彼女のスープには何が入っていたのだろう。
「フランソワ、あなた、隊を抜け出してこんな所に来て大丈夫なの?」
 スープとパンだけの食事はすぐに終る。
「ああ、夜勤でなければ夜の点呼まではね」
 フランソワは軍服の襟に手をかけ、釦を外そうとして手を止めた。
「フランソワ、あなたこの間誕生日だって言っていたわね。いくつになったの?」
 シルビーは二枚きりの皿をかたずけた。
「二十二だよ」
 フランソワはシルビーの背を見つめ、息を吐くと顔を自分の両足に向けた。
「二十二で女を知らないの?」
 シルビーの気配を感じてフランソワは顔を上げた。彼女は彼の直ぐ側に来ていた。彼の顔はみるみる赤くなった。シルビーの口元に笑みが広がった。フランソワは顔を反対側に向けた。
「恥ずかしがる事ないわ」
 シルビーはフランソワの髪を一房指でつまみあげた。栗色の柔らかい毛だった。
「恥ずかしくなんかないよ」
 フランソワはシルビーに髪をもてあそばれたまま、軍靴を履いた片足をもう片方の足にのせた。椅子の背に肘をかけ、話の内容に興味はないといった風情で部屋の壁を見た。
「あたしでよかったら、教えてあげようか?」
 フランソワの髪を指に巻きつけ、シルビーは彼に囁いた。険を含んだ瞳でフランソワは振り返った。
「それとも、娼婦なんて嫌かい?」
 フランソワは口元をきつく結び、シルビーを見上げた。彼女はテーブルに腰をかけ、フランソワを見ていた。
「俺、金持ってないんだ」
 フランソワは起こしかけた体の力を抜き、背もたれに体を預けると両手を広げ肩をすくめてみせた。
「それはある時でいいわ」
 シルビーの指はフランソワの髪から頬を伝い、顎まで降りてきた。
「言っておくけど、青菜のお礼でもないわよ。私はそこまで安くはないの。今度うんと払ってもらう。あなた出世しそうだもの」
 彼は口を結び、目の前のテーブルに腰を降ろしたシルビーの手を見つめていた。
「ふふ、構えることないわ。遊びよ」
 シルビーの息が彼の耳にかかった。フランソワは立ち上がった。彼はテーブルに座ったシルビーを見下ろした。
「俺、遊びじゃなくて、本気でするよ」
「ふふ、頼もしいじゃないの」
 シルビーも立ち上がった。
「大丈夫、私が何でも教えてあげる」
 シルビーはフランソワの体に両腕をまわし、青い軍服に顔をうずめた。



銀の月と小さな花 V に続く




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