2003 6/11

銀の月と小さな花 V




 フランソワの身体は清潔だった。痩せていたが薄い皮膚の下にじかに触れる筋肉が彼は訓練された兵士だと語っていた。シルビーは彼の背中に腕を回し、しなやかで張りのある背筋を探り当てた。背骨のくぼみを撫で上げるようにして肩を抱く。フランソワからは饐(す)えた肉の臭いもしなかったし捻じ曲がった貪婪(どんらん)さも感じられなかった。そう、彼はどこまでも清潔だった。
 彼のためらいがちだった指はシルビーに触れると確かめるように動きつかみかかりもした。フランソワは息を詰めたり苦しそうに吐き出したりしながらシルビーの肌を求めた。だが決して核心の部分に触れようとはしない。戸惑いだろうか、遠慮だろうか、それとも… シルビーはフランソワの手を導いてやった。顔を上げた彼と暗がりの中で目が合った。彼の髪は額にかかり汗で張り付いていた。
「ふふ、あなたの好きにしていいのよ」
 重ねた胸の下で激しい鼓動が波打っている。彼からは真っ直ぐな欲望とぶつけるような熱さしか感じられなかった。シルビーはフランソワの肩先に口を付けると日の匂いのする肌を舐めた。そこに歯を当て軽く噛む。その感覚が伝わったのだろうか、フランソワの鼓動はさらに激しくなり戸惑いがちだった手も深くなっていった。


 それからフランソワは時々部屋に来るようになった。彼が来た事はそこに花が置いてあることでわかった。ひなげしの一種類だろうか。オレンジ色の繊細な花弁と細い茎をもった一束の花。繁った葉の先に小さな青紫の花をつけているものもあったし、根や土のついたままのすみれもあった。
 シルビーはすみれを鉢に入れ土をかけた。水をやり窓辺に置く。なんて可憐で小さな花なのだろう。窓から入る風がすみれを優しくなでていく。パリは一年で一番美しい季節を迎えようとしていた。こんなに花が咲いているなんて‥ 気がつかなかった‥ 道端に咲いている名もない花達。どれも皆美しい。フランソワが来ると部屋に花が溢れる。シルビーは風にあたりながらいつまでも窓辺のすみれを眺めていた。


 シルビーは窓を開けた。今日は朝からひどい騒ぎで目が覚めた。窓から見下ろすと通りには人が溢れていた。
 フランス各地で選挙が行われ地方の代表議員が決まってくる。だがパリではまだ選挙は行われていなかった。人々の選挙に対する期待は限界まで膨らみ弾けようとしていた。
 今日も辻立ちの演説から、にわか集会に発展したようだ。人々は激論し理論や考えだけでなく感情をぶつけ合う。そして、そこからいつもこぜりあいに発展する。見ていれば面白いのだが下手な仲裁が入って問題を大きくする。特に軍人がいけない。権力を嵩にかけ威圧するような態度は火に油を注ぎかねない。かつて市民はそうやって押さえつけられてきた。それを人々は今跳ね返そうとしている。
 一人の軍人を囲み皆が何か言っている。彼は話を聞いていたがいきなり銃床で一人を殴りつけた。騒動に発展する瞬間だった。すかさずもう一人の軍人が割って入った。青い軍服、フランス衛兵だ。シルビーは窓から身を乗りだした。彼は深い緑の軍服の軍人を相手に何か言っていた。周りを一斉に野次馬が取り囲む。軍人対軍人が一番始末が悪い。パリの規律を乱し暴動を誘発するのは自分達の仕業だという自覚が足りない。あの緑の軍服は竜騎兵だ。彼は挑発するようにフランス衛兵隊員の胸を押した。彼は黙っていたようだが他の市民が黙っていなかった。竜騎兵めがけて鬱積が発散されようとした時だった。もう一人の隊員が割り込んできた。彼はフランス衛兵隊員の銃を取り上げると竜騎兵の方に向き直った。二言、三言、言葉をかけただけのようだったが竜騎兵の態度が変わった。シルビーは、あとから駆けつけてきた彼を知っていた。あの金髪、間違える訳はない。フランス衛兵の隊長だ。フランソワが言っていたっけ、俺達は隊長について行く…。
 金髪の隊長は竜騎兵の話を聞くと通りに突き出した店の中に入っていった。彼の動きに野次馬が連動する。野次馬は野次馬を呼び狭い通りは人でごった返す。通りの端からもう何人かのフランス衛兵隊員が駆けつけてきた。通りは行き交う事もできはしない。遅れて駆けつけてきた隊員は馬の上から野次馬を指図する。
 シルビーは窓枠に手をつき立ち上がった。知った顔、アランだった。もう一人の男にも見覚えがあった。アラン気をつけて、最近の市民は武器を持っている。鬱屈した感情が王宮まで届かないとすればそれが向けられるのは軍隊だ。
 金髪の隊長が店の中から出てきた。彼は真っ直ぐ竜騎兵を見ながら何か言った。しばらく彼ら二人の話が続いた。竜騎兵は顎に手をやり上を見たり下を見たり落ち着かない。金髪の隊長は真っ直ぐ彼を見ながら何か言っていたが声を荒げる様子はなかった。二人の軍人の顔を交互に見上げる人々。ここにいてもそこの緊張した空気が伝わってきた。周りを取り囲む市民達の真剣な目。もう彼らは力で押さえつけられる事を良しとしない。
 緑の軍服は背を向けた。野次馬を怒鳴り散らしながら彼は人波から逃れた。金髪の隊長ともう一人の衛兵隊員は声を張り上げ皆に何か叫んでいた。人波がばらける。シルビーは窓枠に両手をついたままため息をついた。暴動に発展するかと思った。パリにはいつもこんな緊張がみなぎっている。
 金髪の隊長は人波が途切れたところで取り上げた銃を隊員に返した。そして彼の肩をたたいた。緊張が解けたのか彼は、隊長は優しげな顔をしていた。
 最近のフランス衛兵隊長は喧嘩の仲裁をするのか。世の中変わったものだ。シルビーはため息をつき椅子に座った。窓の下をアランが通り過ぎる。アランは野次馬を追い立てる事に余念がない。



 フランソワが部屋にやってきた。
「シルビー、いい?」
 彼は遠慮がちに部屋に入ると今日は夜勤だから直ぐに帰ると言った。
「顔を見に来ただけだよ」
 シルビーに笑いかけながらフランソワはテーブルの上に広げてあった紙に目を遣ると肩から銃をおろしテーブルに歩み寄った。
「シエイエスだ。シルビーもシエイエス好きなの?」
 フランソワはそれを手に取り喜びを押さえたような声でシルビーを振り返った。
「あ、あたしは難しい事は何もわからないんだよ」
 シルビーはフランソワから急いで紙を取り上げるとそれを筒状に丸め暖炉の上の置物の間に押し込んだ。
「シルビーもシエイエス読んだんだね!」
 フランソワは大股で彼女に歩み寄ると暖炉の上に手を伸ばし紙を引き出した。そしてそれを広げ顔の前に掲げ演説するかのように高揚した声で言った。
「第三身分とは何か、それはすべてである!」
 もう一度伸びてきたシルビーの手を避けるように彼は別の方角を向いた。そして掲げたビラに心酔するような表情で言った。
「すごいよ、シエイエスは! 彼は他にも色々書いているんだ。読んだ?」
 フランソワの声は弾んでいた。
「だ、だから、私は難しい事は何もわからないんだよ」
 シルビーは首を左右に振りながらシエイエスに顔を輝かせるフランソワを見つめた。彼は少年のようだった。汚れを知らない無垢な光に溢れていた。
「彼ならきっとフランスを変えてくれる! ああ、早くパリも選挙が始まらないかな」
 フランソワはビラをテーブルに置き、撫でつけるように眺めるとシルビーに向き直り嬉しそうな表情で彼女の両肩をつかんだ。力が入っていた。
「そして俺達が彼らを守るんだ。俺達フランス衛兵が! ああ、ワクワクするな。俺達がフランスの代表を守るんだ!」
 フランソワの目はどこまでも明るかった。
「ああ、そうだね」
 シルビーは彼を見上げた。何と彼は明るい瞳をして未来を語るのだろう。フランス代表を守る誇りに満ちている。彼はどこまでも眩しかった。



 フランソワには溌剌とした男らしさがあった。若い彼の体はシルビーにとって魅力的だった。彼は部屋に来て話をする事はあっても決して自ら親密な付き合いを求める事はなかった。誘うのはいつもシルビーの方だった。
 彼の首に腕を回しほんの少し唇に触れただけで彼の体に変化が起きるのがわかる。彼女はその素直さを可愛いと思い彼を翻弄してやりたい衝動に駆られる。彼はどこまでも真っ直ぐで正直だった。
 シルビーが誘えば彼は拒まなかった。
 ベッドの上での彼の愛撫はぎこちなかったがひどく新鮮だった。今までこんな風に扱われたことは無かったと思う。 
(あたしが何でも教えてあげる)
 シルビーは自分の言葉を反芻しながらフランソワの愛撫に声を漏らした。陶酔には程遠いが彼の純粋さが嬉しかった。彼をうんといい男に育ててみようじゃないか。シルビーは心に芽生えた企みに胸をときめかせた。
「だめよ、フランソワ、女を扱う時はもっと優しく、そっとね」
 女の敏感な部分を探る彼の手に手を添え甘く吐息と共に言う。
「こう?」
 見つめる彼と目が合った。彼の瞳に頷くように恍惚の表情を浮かべる。
「そう、上手よ」
 シルビーはフランソワの動きに反応するように背を反らせていった。


「今度の非番はいつなの? 空けておくわ」
 軍服に袖を通し靴を履くフランソワの耳にそっと囁く。それだけで彼の表情が変わる。
「あさって‥」
「近すぎるわ」
「じゃあ‥ 五日後‥」
 シルビーはベッドの端に腰掛けた彼を後から抱きしめ、彼のまだ閉じていない軍服の胸に手を滑り込ませ耳朶に口を付けながら言った。
「いいわ」
「遠すぎるよ。待てない」
 先ほどまでの行為の生々しさを引きずるようにフランソワはシルビーの腕をつかんだ。
「だめよ、年上の言う事は聞くものよ」
「年上?」
「そうよ、あたしの方があなたより二つばかり上だわ」
「…」
「フランソワ、あなた、女は初めてだって言ってたけど違うわね」
 後から耳元に囁く彼女から顔を離すように彼は振り返った。
「何故?」
「だって、キスは上手いもの」
「シルビー、意地悪だ」
 彼はベッドから立ち上がると軍服の釦をはめた。
「あら、本当よ。フランソワ、さよならのキスはしてくれないの?」
 シルビーは胸の前に上掛けを引き寄せるとフランソワに顔を向けた。彼はかがみ込み半分裸のシルビーの頬に軽く唇をつけた。
「それだけじゃ嫌」
 彼の仕草が大人っぽく感じられ彼女は笑った。フランソワはシルビーの唇に人差し指を置いた。
「男はキスだけじゃ済まないんだよ」


 フランソワの出て行った戸を見ながらシルビーは体の奥から幸福な笑いが込み上げてくるのを止められなかった。あたしがキスをねだるなんて‥ 自分の心が可笑しかった。互いに口をつけたり舌を吸いあうなど、なんて気持が悪い。ずっとそう思っていた。男達が唇を求めるのを何とかかわし行為に没頭させ早く終るようにあらゆるテクニックを駆使する。そうしてきた。だがフランソワは違う。何故だろう。何よりも彼に口づけられると気持が満たされ落ち着いた。何と言う感覚だろう。大切にされているように感じるのだ。
 シルビーは半裸のまま上掛けを体に巻きつけ笑った。彼とだったら半日だってキスしていられる。唇を重ねる事がこんなに安らぎそして官能を誘うだなんて、知らなかった。



「シルビー‥」
 フランソワが何か言っている。
「何?」
 シルビーは振り向いて彼を見た。彼はテーブルに両肘をつき何か言おうとしていた。
「お、俺‥」
 彼は赤い顔をして言いよどんでいる。
「何よ」
 シルビーはテーブルを回り込んで彼の側に来た。彼の顔はますます赤くなり彼は下を向いた。
「どうしたの?」
 シルビーは椅子に座ったフランソワを見おろした。彼は床を見つめながら居心地悪そうに背を丸めている。
「お、俺‥」
 彼は台の上から手を下ろし片手で腕をさすりながら言いにくそうに言った。
「金払った方がいいのかな‥」
 シルビーは両手を腰にあてフランソワを見ていたがテーブルの端に腰をかけると何も言わず彼の手を取った。そしてその手を自分の膝の上に乗せた。フランソワが顔を上げた。彼の目は微かに潤み顔は赤かった。
「フランソワ、あたしだって女だよ」
 シルビーはフランソワの手を取り直し今度は両手で挟み込みもう一度膝の上にのせた。
「何で好きな人に抱かれるのに金を貰わなくちゃならないんだい?」
「好き‥? 俺を‥?」
 フランソワは驚いたように言った。
「そうさ」
 シルビーの返事を聞いてフランソワは下を向いた。彼女は彼の顔を覗き込んだ。下を向いた彼は手をシルビーに預けたまま怪訝そうに瞳を巡らせたが顔を上げると明るく頷いた。彼の顔は明るかったがどこか切なげな様子が見て取れた。
「僕もだよ、シルビー」
 優しい小さな声でフランソワは言った。


 フランソワが好き…
 嘘じゃない。フランソワには客と違う態度で接している。客商売であるからには男達を上手く乗せいい気分にさせなければならない。彼らの好みを知り彼らの欲する様を演じなければならない。だがフランソワにはそんなことは無用だった。彼は客じゃない。彼に奉仕する必要はない。彼に体を預け、彼がどんな事をするのか、何に興味があるのか知るだけでよかった。それが楽しかった。
 彼からはどこか懐かしい香りがした。ずっと昔、もう忘れてしまったような昔の記憶を彼は思い出させる。暖かい陽だまりや草の露の匂い、日に干した新鮮できれいな敷きワラの上で遊んだ思い出。田舎の柔らかい土のような、雨が降った後の空気のような清々しさが彼にはあった。
 フランソワ… もっと早くあなたに会いたかった。もっと早く、出来れば恋さえ知らない少女の頃にあなたに会いたかった…。
 シルビーは飾った花に目をやった。水差しにいけた花は花びらが散りかけていた。シルビーが手を触れるといくつもの花びらがこぼれて落ちた。
 フランソワ、花が欲しいわ。この部屋に花が絶えないようにまた花を持って来てちょうだい。あたしはあなたが持って来てくれる花が欲しいの。シルビーは落ちた花びらを手に取りつぶやいた。



 戸を叩く音で目が覚めた。外はようやく明るくなってきたところだった。こんなに朝早く一体誰? シルビーはねまきの上に古ぼけたガウンを羽織ると戸に向かって声をかけた。
「誰?」
「ごめん、俺だよ、フランソワ」
 シルビーは戸を開けた。
「どうしたの、こんなに早く」
 そこには銃の代わりに大きく膨らんだ雑嚢を背負ったフランソワがいた。
「ごめん、起こしちゃったね。でもどうしても会いたくて。俺、これから家に帰るんだ。隊長から特別に休みがもらえて‥ じいちゃんの具合があまりよくないのと‥」
「まあ、心配ね」
「年だから‥ 隣のおばさんからは心配ないって返事だったけど三部会が始まったら帰れないから‥ 良かったよ、一泊だけでも隊長に許してもらえて」
「そう」
 フランソワは素早く部屋に入ると戸を閉めた。シルビーは彼の肩に手をやった。彼の体は朝もやをついてきた事がわかるように僅かに濡れ冷たかった。
「ミシェルにも会えるわね。もうすぐ誕生日じゃなかった?」
「そうなんだ」
 シルビーの言葉にフランソワは嬉しそうに頷いた。
「本当は休みを取ってずっとシルビーと一緒にいたいけど」
 フランソワは両腕を彼女の背に回し抱きしめた。
「まあ、何を言っているの。早く行きなさい。遅くなるわ」
 フランソワに抱かれながら彼の腕をたたくシルビーの頬に彼は唇をつけた。
「ごめん、君もエミールに会いたいね」
 フランソワは思い出したようにそっと言った。
「いいのよ、私は遠いから、それに‥」
 彼女はうつむいた。
「慣れているから‥」
「シルビー」
 彼はシルビーの顎に手をかけると上を向かせ彼女の唇に口づけた。
「早く行きなさい」
 シルビーは彼の胸を押した。
「うん」
 フランソワは背を向けた。
「フランソワ」
 シルビーは彼の背に声をかけた。彼が振り向く。
「ミシェルをうんと甘えさせてあげて」
「うん、そうする」
 フランソワは笑って頷くと薄い朝もやの中、階段を降りていった。



銀の月と小さな花 W に続く




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