2006 8/10
ゆかりんさま 作

1778 夏の誓い

F菩提樹



  今朝、オスカルに会ったとき、「久しぶりだな。どうして来なかった。」と、皮肉っぽく挨拶されて、アンドレはこころから落胆した。
そうだよな、熱のせいで悪夢を見ていたのだし、覚えていなくても仕方ない・・・。

あの夜以来、3日ぶりの再会だった。胸のなかで肩を震わせ、涙していた儚い面影は微塵もなかった。公務の書類に軽く目を通すオスカルの姿は、仕事で見せる防御の鎧を取り戻していた。
それでよかったのかもしれない。と彼は思い直した。近衛連隊長に昇進して以来、泣き言を素直に吐露しなくなったオスカルにしてみれば、夢のなかで泣いた、と思っていた方が、たぶん気が楽だろう。それよりもアンドレには、ずっと気に懸かっていることがあった。

おれはまだ、オスカルに謝っていない。
彼女を護れなかった罪の枷が、彼のこころをいまだに縛り付けていた。午前中、せっかく仕事で、オスカルとふたりきりになれた。それなのにアンドレは、いざとなると謝罪する機会をなかなか掴めずにいた。



 旦那様に頼まれた用事を済ませ、オスカルの私室をノックしたアンドレは、中から返事がないので、ゆっくり扉を開けた。フェルゼンは既に帰ったようだった。午後の日差しで、やや熱の籠る空気を入れ替えようと、アンドレは窓を大きく開け放った。レースのカーテンが、しなやかに揺れる。頬をなでる微風に、まどろんでいたオスカルは目を覚ました。
 「オスカル、起こしてしまったか。」
 いつもと変わらぬやさしい声の方へ視線を送ると、青空に広がる白い積乱雲を背に、窓辺に佇むアンドレの姿があった。オスカルは目を細めた。それは、夏空の眩しさのせいだけではなかった。

「夢か・・・。」
目覚めたばかりのオスカルは、うつろな記憶を辿るように、呟いた。

「どうした? オスカル。」
彼女は、口元に柔らかく笑みを浮かべた。
「窓の外のティユール(菩提樹)の花が、満開に咲いていて・・・。アンドレ、おまえが困った顔をして、<明日には実になるから、今日中に花を全部摘まないといけない。>って嘆いているのだ。<全部か?>って呆れると、<当たり前じゃないか。 おばあちゃんに叱られる。>って。」
「なんだよ。それ。」
「まあ、怒るな。おまえは枝に登って、両手で摘んだ花を、どんどん部屋へ投げ入れる。
わたしの寝台も、床も、菩提樹の羽毛のような花に埋めつくされて・・・まるで、花園みたいだった。」
あの甘く麗しい薫りに満たされた気がしたのは、枕元の花がもたらした幻想だったのかもしれない。

「オスカル、もう咲き始めているぞ。」
アンドレは窓辺に手を掛けて、生い茂る菩提樹を眺めた。ゆらゆら揺れる蕾たちに隠れて咲く花々を、目で数えてみた。

「満開になったら、どっさり摘んで、干してみようか。昔みたいに。」
「ティユールの花のハーブティ・・・いいね、久しぶりだな。」

ジャルジュ家を、代々見護り続ける菩提樹の大木は、今年もまた、命輝くときを刻み始めていた。アンドレはもう一度、近いうちにすべて花に変わるだろう無数の蕾を見やった。あのハーブティには、安眠をもたらす作用があったはずだ。彼は、すぐさま新たな仕事の段取りを考えてみた。

「アンドレ、ちょっとここへ来てくれ。」
オスカルの呼ぶ声に、彼は思考を中断して振り向いた。
「オスカル、仕事だったら、今日の分は午前中に済んだだろう。」
「いや、そうじゃなくて・・・。いいから来い。」
近づいたアンドレは、サイドテーブルの前で足を止めた。
 「ここに座れ。」
オスカルは顎で、寝台を示した。
「いいよ、立っている。」
なんとなく気後れして、アンドレは拒んだ。
「いいから座れ。」
 オスカルは言い出したらきかない。彼は仕方なく冷静を装い、寝台に手を附いて浅く座った。途端にその手を、彼女の右手が掴んだ。アンドレの驚く目線を外しながら、オスカルはぶっきらぼうに問いかけた。
 「アンドレ、傷の手当てのとき、わたしのこの手を、ずっと握っていただろう?」
 突然の質問に彼は唖然とした。返答が来ないのにむっとしたオスカルは、更にたたみ掛けた。

 「そうだろう?答えろ、アンドレ」
「・・・ああ、握っていた。」

別に恥じることをしたわけではない。でも、つい歯切れの悪い返事をしてしまう。あのとき、声を押し殺し、必死に耐えるオスカルが痛々しくて、何かせずにはいられなかった。弱っていた彼女の手を、じっと握り続けたのが、気に障ったのだろうか。
「アンドレ。」
オスカルは、真面目な顔で彼を見据えた。彼は、次に来るだろう叱責の言葉を、覚悟した。


「おまえに、感謝している。」 
予想外の言葉に、アンドレは間の抜けた表情を浮かべた。オスカルは躊躇いがちに、視線を落とした
 「こどもの頃も、なにかあると、こうやって手を握ってくれたな。いつも、アンドレがいてくれたから、わたしはこうしていられるのだ。だから・・その・・・・・」
 彼女は僅かに眉を寄せて、少しきまり悪そうに、付け加えた。
 「これからも、頼む。」

 黒い瞳を見開いたアンドレは、息を呑んだ。彼は、彼女の華奢な手に、もう片方の自分の手を重ねた。オスカルは、彼のぬくもりが、手肌全てに沁みてくるのに戸惑いを感じて、長い睫を伏せた。シーツのうえで、自分の指と重なる彼の力強くしなやかな男の指が、目に映った。

 「いいのか、オスカル。おまえを護れなかった、おれでもいいのか。」
アンドレが上擦った声で、問いかけた。
「いくら詫びても、詫びたりないと、分かっている。おまえの傷にも、どう償えばいいか、ずっとずっと考えて、でも、答えが見つからない。そんな不甲斐ないおれでも、いいのか。」
 「アンドレ、聞いてくれ。」
 オスカルは顔をあげて、彼をじっと見つめた。

 「この傷は、わたしの生きている証だ。信頼すべき友がいたからこそ、こうして、命を永らえることができた証なのだ。友情の印とさえ、思えるくらいだ。」
 言い含めるような、強い口調だった。アンドレの全身に、震えが走った。頑なに固まっていた胸の澱が、嘘のように緩んでいく。

赦すというのか。こんなおれを。

オスカルの澄んだ碧い瞳に、自分の姿が映っていた。アンドレは、たまらなくなって眼を伏せ、彼女の滑らかな手肌を、そっと撫でた。その指は丁寧に手入れされ、つややかに光沢を放つ爪に縁取られていた。アンドレは少しの間、それに見とれた。
オスカル、おまえの強さも、美しさも、涙する弱さも 神からの賜物だ。おれは自分の命と代えても、惜しくはない。

「おまえに誓う。おれの前でもう二度と、危険な目に遭わせはしない。おれの命をかけて、護ることを誓う。」
 アンドレのよく徹る声が、部屋に響いた。彼は誓いを刻みこむように、オスカルの右手を、もう一度しっかり握った 柔らかな手の、しっとりした感触や、体温や、重さが、アンドレの手肌に、じんわり伝わった。許されるなら、この手に頬擦りをして、熱く口づけたいくらいだった。
 「オスカル。」
彼女を見つめる黒曜石の瞳に、愛おしげな眼差しが溢れる。彼は、ゆっくりとした口調で言った。

 「オスカル、こうして生きてくれていることに、おれは、なによりも、神と、おまえと、そして全てに、感謝する。」

不意をついたその言葉に、オスカルの頬が、僅かに染まった。ブロンドの幼馴染みは、一瞬言葉を失ったあと、慌ててそっけなく言い返した。
「アンドレ、その、“全て”、から、襲撃一味は外してくれ。あいつらは、地獄行きだ。」
 「あ、あははっ、もちろんそうだ。」 
 そう言って、アンドレは笑った。彼の澄みきった笑顔に、オスカルもつられて、笑みが漏れた。

「痛っ!」
「大丈夫か、オスカル。」
アンドレはすぐさま身を乗り出し、左手でひと回り小さくなった右肩をそっと抱き支えた。消毒の匂いと共に、彼女のやわらかく甘い肌の香りが、彼の鼻孔をくすぐった。
「久しぶりに笑ったら、ちょっと響いた・・・。」
情けなさそうな潤んだ瞳で、オスカルは弱弱しく微笑んだ。オスカル、なんて顔をするんだ。
抱きしめたい甘美な誘惑に、こころが震える。
幼馴染みとして彼女に接するには、これからも、まだまだ忍耐が必要だ。
それでもいい、とアンドレは自分に言い聞かせた。
オスカル、おまえが望むままに、おれは傍にいるぞ。

「夕食まですこし時間がある。もうしばらく休むといい。」
そのままオスカルの肩を支えながら、ゆっくりと、羽根枕に横たわらせる
これは、幼馴染みの、キスだ。
アンドレは、ブロンドの前髪を指先で掬い上げると、彼女の額に、やさしく唇を落とした。



再びひとりになった私室で、オスカルは窓に視線を送った。いつのまに、雲が流れたのだろう。菩提樹の上を、紺碧の空がどこまでも広がっていた。
空の雲とは、違うのだ。どこにも動けぬ身で、抗うわけにはいくまい。今は考えるのはよそう。
アントワネットさまのことも、フェルゼンのことも、宮廷権力や、刺客のことも。

オスカルは、さきほどアンドレに手を握られたときのことを、思い返した。

頼りがいのある手に包まれると、なんともいえぬ安堵感に、浸りそうになる。こころの奥で、いつも誰かにすがりたいと、声を挙げる弱さが、露見しそうで怖くなる。譲れない使命感には、言い知れぬ不安や恐れが絶えずつきまとっていた。孤独の深淵に足が竦まぬよう、その度に己を奮い立たせる。強がっていなくては、立っていられない。進んでいけないのだ。弱さを見せられない苦痛は、もう随分続いている。

ほんとうは、夢のときのように、アンドレの胸に顔を埋めたかった。彼の胸に、弱くたよりない自分を委ねて、すべてを受けとめてもらいたかった。
もう大人だというのに。宮廷では軍を統括する近衛兵連隊長であるというのに。そんなことを望んでいるわたしは、なんと愚かなのだろう。

窓からの風が、オスカルひとりの寝台の上に、打ち寄せる波のように吹き抜ける。その度にサイドテーブルの花々が頷くように小さく揺れ、香しい薫りが流れた。 夢のティユールの花の風景が、淡くよみがえる。気だるさに促されるように、羽根枕に顔を埋め、長い睫を静かに閉じた。幼馴染みから受けた額の唇は、懐かしい感触だった。

おやすみのキスには魔法がある、と言ったのは・・・・・アンドレだったな。
幼い頃、毎晩交わしたささやかな習慣。あのとき、どんな魔法だと教えてくれたのだろう、遥か遠くの思い出は、どこかおぼろで頼りない。オスカルから、ふと笑みがこぼれる。

 こうして、生きてくれていることに、おれは、なによりも神と、おまえと、そして全てに感謝する。

  アンドレの声を、舌の上で転がすと、こころがふんわり温かくなる。
いつだっておまえは、真正面からわたしを受け止めてくれるのだな。
弱さも、脆さも、それを隠そうとする気負いも、全てやわらかくなだめてくれるような言葉に、目頭が熱くなり、涙が溢れそうになった。
 そんな、優しい言葉など掛けるな・・・。こころが、萎えてしまいそうになるではないか。

護られている安堵感に包まれるような気持ちだった。しばらく味わっていなかったなごやかな感覚は、オスカルのこころを、ゆり籠のように心地よく揺らした。知らず知らずに、涙が頬をつたった。

「オスカル・・・」
アンドレの声が聞こえた気がした。涙顔のまま瞳を上げると、寝台に腰掛けて自分を見つめる、幼馴染みの顔があった。 
「な、なんでいるのだ!」
オスカルは、咄嗟に右手の甲で乱暴に涙を拭い、ぎこちなく上半身を起こした。
泣き顔を見られた恥ずかしさを隠すように、顔をそむけて、言い放った。
「なんの用だ!」
彼女は照れ隠しに、軽い咳払いをした。アンドレはあわてて申し訳なさそうに言った。
「オスカル、起こすつもりはなかったんだが・・・・。機嫌を直して、周りを見て。」


さきほどの、夢のなかにいるのか・・・。

オスカルは、思わず瞬きを繰り返した。布団と枕のうえには、羽毛のように淡いティユールの花々が、天から降り注がれたように、美しく撒かれてあった。花のひとつを指ですくい、透き通った花びらに唇を押し当てる。花肉はひんやりして、生気を湛えていた。

「オスカル、ティユールの花束、とはいかないけど。」
アンドレは控えめに微笑みながら、オスカルの目の前にそっと両手を差し出した。両手いっぱいのティユールの花。掌から、はらはらとこぼれ落ちる天使の羽。彼の掌に溢れる花々に、彼女は顔を近づけた。
「オスカル、この薫りが好きだっただろう。」
オスカルは、初夏のふくいくとした薫りを、おもいきり嗅いだ。なんの迷いもないかぐわしい薫りだった。
ティユールの花をこんなにも・・・。アンドレ、おまえってやつは・・・。
アンドレのやさしさも、まぶしい夏の命も、オスカルの心の琴線を、軽やかに爪弾いた。 

「どうした、オスカル?」
黙りこんだ彼女を、アンドは心配気に覗き込んだ。オスカルは鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなった。潤んだ目を見開き、瞼を瞬かせる。やがて長い下睫に膨らんだ水滴が、こらえきれなくなって、静かに溢れ出した。薔薇色の頬にこぼれる真珠のような涙は、アンドレを戸惑わせた。

「ど、どうした、オスカル。」
「・・・薫りが、目が沁みただけだ。」
「え?」
「おまえのせいだ。どうしてくれる。」

オスカルはほっそりした指で、下睫に掛かった涙をひと粒拭った。涙に濡れた指の爪が、つややかな光沢を放つ。潤んだ碧い瞳が、上目遣いで彼を睨んだ。そのひとつひとつの彼女の仕草への強烈な愛おしさに、アンドレの胸がずきんと疼いた。彼女の後頭部に手を伸ばし、自分の胸へとそっと抱き寄せた。あまりにもごく自然な振る舞いだった。オスカルはされるままに、おとなしく身を委ねた。
「すまん、おれのせいだ。おれの胸を使ってくれ。」

アンドレの両手いっぱいにあったティユールの花が、オスカルの髪に、背に、胸に、音も無くいっせいにこぼれ落ちた。降り注ぐ花のしずくは、思いやり深い薫りで、ふたりを包みこんだ。

これは、デ・ジャ・ヴュ か・・・・?
オスカルは不思議な心地で、アンドレの胸に頬を埋めた。彼から生じる、太陽の光と草原に似た懐かしい匂いは、花の薫りと共に、オスカルの心を明るく染め上げていった。
「おまえは、よく眠っていると言ってある。しばらくは、誰も、こないから・・・」
アンドレは、それ以上何も言えなかった。花をまとった彼女の髪を、ただ繰り返し撫で続けた。

遠くから、パリの寺院の鐘が、夕風にのって聴こえる。夏日がまたひとつ、ゆっくりと暮れようとしていた。
オスカルは、アンドレに無防備に甘えてしまっている自分が、不思議だった。
おまえの温かさがたまらなく沁みてくる。いくら病で弱気とはいえ、こんなに素直に涙が溢れるなんて。これはやはり、逢魔が時の黄昏のせいだろうか。
オスカルは涙しながらも、分析している自分が、可笑しかった。

やがて、アンドレが口ずさむ懐かしい旋律が、抱かれた胸からここちよく響いてきた。昔、ばあやがよく歌っていたオスカルの好きな子守唄だった。

わたしが安らぐものを、おまえはちゃんと解っているのだな。
オスカルは深く呼吸をしながら、全身の力を抜いていった。

なんだかこのまま、眠ってしまいそうだ。
いまだけ・・・・全てを忘れた振りをして、眠ってしまいたい。
いいよな、アンドレ。
オスカルは彼の胸に、安らかに浸った。

アンドレが、歌がうまくてよかった・・・・・。

オスカルは、花を持った右手を、鼓動する胸にそっと重ねると、夢見るように微笑んだ。


FIN


































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