2006 8/5
ゆかりんさま 作

1778 夏の誓い

Dふたつの薔薇


 
フェルゼンがオスカルと再会したのは、事件から10日後のことだった。ジャルジュ家の使いから、状態が落ち着いたとの知らせを受けた翌日、見舞いの花束を携えて屋敷を訪れた。

 負傷したオスカルを見舞うのは、これで二度目だな。
 窓からは、涼しげに揺れる菩提樹の木蔭が眺められた。フェルゼンは、客間のソファでくつろぎながら、4年前を思い起こした。
 あのとき、彼女を女性と知ったのだ・・・。分かっていたはずだった。いや、彼女が女性だと、今ほどは意識していなかったな。

先日の事件で、フェルゼンは、異性としての彼女の肉体の魅力に、戸惑いと衝撃を受けた。抱きかかえたときの女性らしい腰のくびれと、身の軽やかさ。リモージュ磁器のような、なめらかできめ細かい柔肌。押さえつけたときの、オスカルの意外なほど華奢な腕と肩のライン。鼻先を掠めた、薔薇の香り漂うゆたかなブロンドの髪。すべて、異性を惹きつけるのにふさわしい魅惑を湛えていた。ソファに座ったフェルゼンは、長い指で腕を掴む仕草をして、ほっそりしていた彼女の腕周りを思い起こした。
 
そう、確か・・・このぐらいだった・・・細い。あんな細腕で、軍を指揮していたとは。
 並の男も声をあげる縫合にも、気丈に耐える強さも併せ持つ。じつに稀な女性だ。   

あの強さ、気高さが、彼女の女性としての美しさを、近寄り難い清冽な美にしているのだ。とフェルゼンは思った。
例えるならば、月光を想わせる夜露を含んだ、青みがかった白の薔薇、かな。
では、赤い薔薇は・・・・。

フェルゼンは、遠い目を空に向けた。ベルサイユの宮廷でもっとも、華やかにあでやかに咲き誇る麗しい大輪の薔薇を、彼は眩しく思い描いた。

マリー・アントワネット様・・・・・。わたしの名を呼ぶときの、銀鈴の音のような、涼やかで甘さを含んだ声。ときおり瞳の奥に揺れる、好意以上の熱いまなざし。気を引き締めていないと、愛と美の神アフロディナの祝福を受けた愛らしい美貌から、目が離せなくなる。逢う度に、早まる動悸を悟られぬよう、平静を装うのに必死だ。

宮廷での彼女の僅かな振る舞いは、王妃であるが故に、余りにも目立ち過ぎていた。もはや隠し切れぬ噂話となって、しめやかに語り囁く周囲の冷笑な空気を、最近のフェルゼンは、痛いほど感じ取っていた。
あの方の名誉をお護りするためにも、言い知れぬ不安と、甘美なしびれの間で翻弄する己を、どうにかしなくては・・・・・。
北欧の若き貴公子は、深く憂いながら、ベルサイユへの出仕の日々を続けていた。



 寝台側のサイドテーブルには、水差しとグラスの他に、仕事の書類らしい紙の束が積み重ねてあった。オスカルの私室に通されたフェルゼンは、すぐさまそれを見咎めた。
 「もう仕事をしているのか。」
身体を起こしていたオスカルは、不敵な笑みを洩らした。
 「やっと今日からだ。ばあやがなかなか許してくれなくて。わたしが読むと、体に触るというので、アンドレに読んでもらっている。疲れるのはアンドレのほうだ、な?」
 オスカルに、相槌を求められた傍らのアンドレは、全く・・・とあきれた表情で、肩をすくめた。
 「言ってやってください。これじゃ、早く治るものも、治らない。」
 「何を言う。こう毎日寝てばかりじゃ、頭が呆けてしまう。仕事復帰のリハビリだ。リハビリだから、ちゃんと付き合えよ、アンドレ。」
 
久しぶりのオスカルの表情には、すっかり血色が戻っていた。ばら色の唇に、艶やかなブロンドの髪に、なによりもアンドレを負かす威勢のよい台詞に、フェルゼンは微笑んだ。
アンドレは苦笑しながら、椅子を勧めた。改めてオスカルと共に、救出の感謝の言葉を丁寧に伝えた。それから、仕事があるからと一礼して、部屋を後にしたのだった。

 普段着のブラウスの上から、絹のストールを羽織ったオスカルは、少し痩せて華奢に映った。
ブラウスの間から、ほっそりした首筋と鎖骨が、儚げに覗く。友人として訪れながら、フェルゼンの眼差しは、男としての審美眼を宿して、彼女をゆっくり鑑賞した。
 
「フェルゼンには、これで2度、命を救われたな。ふふっ、まるでわたしの守護神のようだ。」
 「はは、血の気の多いおまえの護り神なんて、命がいくつあっても足らん。パリの守護神、聖ジュヌビエーヴだって遠慮するぞ。」
フェルゼンは軽やかに笑い、侍女が注いだカフェを口に運んだ。濃厚な薫りが、辺りに漂う。久しぶりの再会を堪能するかのように、ゆっくりと喉を潤す彼を、オスカルはまぶしそうに眺めた。ポリニャック伯夫人一派に疎まれる恐れもあるのに、見舞いに来てくれる誠実さが嬉しかった。

 「花束を貰ったそうだな。気を遣わせてすまない。あとで部屋に飾らせてもらおう。」
 「気にするな、屋敷の庭の花だ。爺が花好きでな。それより、体のほうは大丈夫なのか。」
 「大丈夫だ。もうしばらく休養しろと言われているが。そんなことよりも、せっかく来たのだ。宮廷の様子を聞かせてくれ。アントワネット様はいかがされている?」


 フェルゼンは優雅に足を組むと、丁寧に語り始めた。
 大切な友人の見舞いにいけない身分がはがゆいと、涙を浮かべたアントワネット様のご様子のこと。自分の名を騙った襲撃犯を、王妃勅令で捜査されていること。オスカル不在を幸いに、ポリニャック伯夫人が王妃様から片時も離れない様子や、王妃様の傷心をお慰めする名目で、カルタ遊び会が連日興じていられることなど。
真摯に耳を傾けるオスカルの表情が、次第に憂いの色を帯びてゆく。遅かれ早かれ訪問客から聞かされるだろう。事実は隠しても仕方ない。フェルゼンは努めて冷静に状況を語るよう、こころを砕いた。

黙って聞いていたオスカルが、思い余ったように口を開いた。
「フェルゼン。わたしが宮廷に出られぬ間、アントワネット様が、ポリニャック夫人にこれ以上翻弄されぬよう・・・どうか、気に掛けてもらえないか。」
 オスカルは、たたみ掛けるように言葉を続けた。
 「メルシー伯爵も、ノアイユ伯爵夫人も、アントワネット様から遠ざかっておられる。他に頼める者がいないのだ。1日も早く出仕できるようにするから。」
慎重な口調から、オスカルが単なる思いつきで、言っているのではないのは、充分伝わってきた。フェルゼンは、口元を指で触れながら、静かに嘆息した。
「・・・・・分かった。心掛けよう。」
言い淀みながらも、彼は承諾した。フェルゼンは、友人の心痛をすこしでも軽くしてやりたかった。あの方の天真爛漫な言動を、大人の理性で対処してみせねばと、彼はようやく覚悟を決めた。
 「ありがとう。フェルゼン。」
 オスカルは、すまなそうな面持ちで礼を述べた。そんな彼女を見たフェルゼンは、気分を変えようと、明るく尋ねた。
 「なぁオスカル、前から聞きたいと思っていたのだか、その揺らぐことのない強さは、どこから来るのだ? 狡猾でなくては大人ではないと、うそぶきたくなる宮廷で、昔と変わらぬおまえの純粋なまっすぐさが、わたしには眩しくてしかたない。」
フェルゼンは、ほんとうに眩しいと言いたげに、目を細めた。

「・・・・・なにもそんな大層なことではない。アントワネット様をわたしの命にかえてもお護りしたい。それだけだ。」
オスカルは、あらたまって聞くことでもあるまい、という表情を浮かべ、きっぱりと言いきった。フェルゼンは彼女の率直な返答に、微笑みを返した。
「それだけ、か。おまえらしい。」

そこに迷いや恐れはないのか、と彼はあえて尋ねなかった。
彼女の忠誠心を揺さぶる問いかけなど、あえてするものではない。なにがあろうとも誠を信じる力こそ、素晴らしい。
静かにカフェを口にするたおやかな彼女の姿に、フェルゼンは毅然とした美しい魂を見る思いがした。彼もオスカルに倣うように、茶器を手に取り、ゆっくり喉を潤した。

母国スウェーデンの宮廷もベルサイユも、貴族の在り方は変わりない。所詮、貴族社会は、自らの地位の安泰を望む処世術に長けた者たちと、彼らにおもねる人々が虚虚実実の駆け引きを重ねて生きている世界なのだ。わたしも、父の利益のための結婚相手を選ぼうとしている。    
だからこそ、神の御前でも恥じないであろう彼女の清廉潔白な言動は、眩しく、より際立って映るのだ。
目の前のオスカルが、貴族たちのなかでうまく立ち回って勢力をつける器用さを持ち合わせていない性格であるのを、フェルゼンは充分熟知していた。
真面目な彼女のことだ。根回しという処世術なく、たったひとりで王妃様に諫言をされ、ポリニャック伯夫人に辛辣な言葉で応酬しているのだろう。その結果が、今回の襲撃事件だ。

<命にかえて>というおまえの言葉が、そのまま本当になるところだった。今以上に、オスカルの安全には、気を配らねばなるまいな。
彼は友人の置かれている危険な立場を思い、こころのなかで呟いた。

「ふふ、そういえば貴族たちの言うことには、どうやらわたしは大人げないらしい。宮廷の勢力図に同調することが大人の振る舞いというのなら、馴染めぬわたしは、いつまでもこども、ということなのかも、な。」
思い出したようにオスカルは口を開いた。彼女は皮肉っぽく口角を片方あげて、自嘲気味に笑った。
「正義で死ねると、かつて言っていたおまえだから、逆に聞きたい。大人になってもその思いを持ち続けるのは、青臭いことだろうか、フェルゼン。」
皮肉な笑みとは裏腹な、訴えかけるような碧い瞳がフェルゼンを見つめた。目を逸らすことなく、北欧の伯爵は真摯に答えた。
 「いや。むしろ稀有で貴重な存在だ。わたしもその思いは、いまも変わらぬ。オスカル・フランソワの友人であることを、わたしは誇りに思うぞ。できることであれば、なんでも言ってくれ。」

彼のグレイかかった澄んだ瞳は、どこまでもまっすぐで温かい。どんなときも誠実さを示してくれる彼の友情は、孤軍奮闘のオスカルにとって、なによりも心強い励ましだった。オスカルは素直に微笑んだ。

フェルゼン、わたしこそ友人である誇りを、いつも感じているのだ。

オスカルにとってフェルゼンは、虚勢を張らず心から語りあえる初めての貴族の男性であり、幾度も窮地を救ってくれる、たいせつな恩人でもあった。
そんな頼もしい彼も、異国の宮廷での戸惑いや、言い寄ってくる色香の伯爵夫人に戸惑う悩みを、正直に打ち明けてくるときがあった。彼の弱気な言動は、常に強気で構えているオスカルにとって、新鮮な驚きだった。ときに頼られる関係も、彼女は嬉しかった。

だが、と彼女は笑みを浮かべたまま、飲みかけのカフェに目線を落とした。

フェルゼン、ほんとうはアントワネット様をどう想っているのだ?
オスカルはこの一言を、自分からは、どうしても聞けずにいた。そして、彼の口からも、なぜか語られなかった。フェルゼンの真意を知りたいようで、知りたくなくて。オスカルはそのことを考えると、ちりちりと胸が焼けるような、なんともいえない焦燥感に陥るのだった。

フェルゼンは、アントワネット様のまっすぐな瞳を、平然と受け止めて振舞ってはいる。だが人影のないベルサイユの木蔭で、彼が途方に暮れた表情を浮かべていることに、オスカルは気づいていた。 口さがない貴族たちの噂のせいで、以前のように、気軽にいられない彼の心労は、うすうす察している。そのうえで、護ってほしいと頼む己の矛盾を、オスカルは恥じた。
フェルゼンは、自分の立場を判っているはずだ。だから、頼んだのだ。
彼女は、つきかけた吐息を飲み込むと、自由の利かない左腕を、疎ましく見やった。


「そういえばオスカル、先日、宮廷内で、ジェローデル大尉に呼び止められたぞ。おまえの様子を聞きたがっていたな。」
フェルゼンの言葉で、オスカルは我に返って顔を上げた。



 








































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