2006 8/1
ゆかりんさま作

1778 夏の誓い 

C抱擁



「アンドレは、どうしている?」
寝台に横たわるオスカルの問いに、ばあやは取り替えたシーツを無造作にたたみながら、やれやれ、という顔で答えた。

「薪を割っていますよ。あんなどうしようもない子に、気を遣うことなんてないんですよ。」
「ばあや、アンドレをあまり怒らないでくれ。あれは、突然の事故だったのだから。」
「たいせつなお嬢様をお護りできないあの子を、お庇いになるなんて。いざと言う時に、役に立たなくて、ほんと情けなくて、申し訳なくて。あんな不甲斐ない孫とは、思いませんでしたよ。」

アンドレの様子を尋ねる度、ばあやは、孫への怒りと、オスカルへの謝罪の言葉を繰り返した。オスカルは口をつぐんだ。自分が叱られているみたいで、辛かった。アンドレを庇護すれば、ますますばあやは、アンドレを否定する。だが、毎日必ず、彼の近況を聞かずにはいられなかった。

「あの子に会えば、仕事のこともお話になるでしょうに。それじゃ、気が休まりせんよ。お嬢様の微熱が下がって、お食事がしっかり取れるようになられて、落ち着かれたら、でございます。」

ばあやのこの一言で、アンドレを呼んでほしい、というオスカルの希望は、却下されるばかりだった。ロザリーも言い含められているらしく、いくらやさしく頼んでも、首を横に振る。オスカルは、屋敷でのばあやの力を、あらためて思い知らされていた。孫の失態を補うかのように、普段よりも、甲斐甲斐しく立ち振る舞うばあやは、ときどきロザリーに任せはしたものの、こどもの頃のように、オスカルの身の回りの世話を、すべてこなしていた。

「 さあ、体を拭きますよ。」
てきぱきと、清拭の湯とリネンの用意を整えると、ばあやは手際よく、オスカルの衣服を脱がせていった。オスカルは、言われるままに大儀そうに、身体の向きを変え、こころのこもった清拭を甘受した。左腕を動かぬようにギブスで固定され、なにかと不便さが否めない彼女にとって、ばあやの介護ぶりは、感謝に余りあるものだった、身内の孫への厳しい態度が、ばあやとしてのけじめであることも、オスカルは痛いくらい分かっていた。
彼女は諦めきれぬ面持ちで、右手に視線を落とした。
アンドレに、逢いたい・・・。
掌をじっと見つめても、あのときのぬくもりの余韻は、どこにも残っていなかった。どんなときも、名を呼べば、傍に来てくれたアンドレがいない。子供時代から、毎日を共に過ごしていた彼に会えない日々は、オスカルにとって、どこか不自然で、不完全な世界だった。自分の一部を、どこかに置き忘れたような空虚さを拒絶するように、オスカルは静かに手を握り締めた。



オスカルは、眠っているだろうか・・・・。
今夜もアンドレは、暗闇の寝台に仰向けになりながらも、逢えないオスカルのことを思うと、なかなか寝つけないでいた。 

「アンドレ、起きているかい。」
突然、扉の向こうからばあやの小さな声がした。アンドレは、すばやく起き上がった。
オスカルに、なにかあったのか?
「どうしたの?」
「おまえに、頼みがあってね、」
扉の前に立つ彼の祖母は、水差しと灯りを手にしていた。

「これに水を汲んで、お嬢様の部屋へ運んでおくれ。それから、あたしはすこし休ませてもらいたいから、明け方までアンドレ、おまえがお傍に付いていておくれ。」
「え? だ、だって、おばあちゃん。いいの?」
「今夜、だけだよ。皆の手前もあるからね。お嬢様のお顔を見れば、おまえの気持ちも、少しは落ち着くだろう。髪は束ねて、きちんとしておゆき。仕事なんだからね。」

そこには今朝、自分を厳しく諌めたばあやではなく、たったひとりの孫への情が溢れた祖母の顔があった。アンドレは、ちいさな祖母をぎゅっと抱きしめて、耳元で囁いた。
「ありがとう、おばあちゃん。愛してるよ。」
「・・バカだね、おまえは。」

 ほんとうにバカだよ。
 久しぶりの孫の笑顔に、ばあやは泣き笑いしそうな表情で俯いた。


燭台の小さな灯りが、布団にくるまったオスカルの姿をぼんやり映し出していた。アンドレは、高鳴る鼓動を抑えるように、呼吸を整えた。それから靴音を潜めて室内へ進むと、寝台横のサイドテーブルに、水を汲んだ器を慎重に置いた。すこし汗ばんだ額。熱で寝苦しいのだろうか。ときおり美しい眉がぴくりと動き、険しく眉間を寄せる。
アンドレは、水を注いだ洗面器にリネンを浸して、軽く絞った。そばの椅子に腰掛けて、オスカルの汗ばむ顔を、丁寧に拭いていった。額や頬にかかる金髪を、掬い上げるようにそっと払うたびに、絹糸のようなつややかな感触が、指先に柔らかく絡みついた。
オスカル、やっと逢えたな。久しぶりの再会にこころが穏やかになごんでゆく。と同時に、すこしやつれて痛々しい幼馴染みの寝顔を、彼は複雑な気持ちで眺めた。

ふいにオスカルが、苦しげに顔を歪めた。なにかから逃れるように、彼女が顔を仰け反らせる。アンドレに緊張が走った。うなされる彼女の唇がもの言いたげに、かすかに動いた。
「どうした、オスカル、オスカル」
見ていられなくなったアンドレは、抵抗する彼女の頬を、両手で包むこみ、耳元で名を囁いた。オスカルの体が、びくりと震えると同時に、突き動かされたように、彼女の長い睫が見開いた。

「ア、アンドレ・・・?」
「大丈夫か、オスカル。」
大きく見開いた碧い瞳孔は、室内を見渡したあとに、安堵したように軽く閉じた。柔らかな唇からは重い吐息が漏れた。オスカルは、乱れた前髪をけだるく掻きあげた。
「・・・アンドレ、水をくれないか。」
彼は、クリスタルのグラスに水を注いだ。オスカルの肩を支えて、手際よく上半身を起こす。それから寝台に腰を下ろして、グラスを手渡した。顎をあげ、長い睫を閉じて、水を飲む度に、白いのどが小さく動く。オスカルは満足げに溜息をついた。アンドレは、空のグラスを受け取ると、サイドテーブルに戻しながら、世間話をするかのように、なんでもない口調で話しかけた。
「だいぶ、うなされていたぞ。」
オスカルは、額を右手で押さえながら、苦々しく呟いた。

「動かなかった。 刺客が襲ってくるのに、足が鉛のように重くて、動かせなかった。近くにあった剣にも、手が届かない。必死になって、腕を伸ばしているところに、剣が振り下ろされそうになって・・・・」
苦しみは、オスカルの安眠を蝕み、夢のなかまでも、執拗にまとわりついていた。アンドレの心臓を、後悔の念が鷲掴みした。
体の傷と、こころの傷と、おまえを救えなかった俺の罪は、重過ぎる。なんといって、おまえに謝ったらいいのだろう。
オスカルは顔をあげ、言葉を失っているアンドレを見つめた。

「おまえの声がしなかったら、夢で死んでいた。」
オスカル、おれは・・・。
「酒が飲めぬ、というのは辛いな。水は旨いが酔えぬ。おまえとも、話しができない。毎日、気が滅入るばかりだ・・・・・。すこしは、わたしの身にもなってくれ。」

オスカルは、逢えなかったいらだちと、寂しさをぶつけるように、目の前のアンドレの胸に、強く顔を埋めた。
「・・・・・どうしていままで、顔を見せなかったのだ。」
ばあやのせいと分かっているのに、久しぶりのアンドレの姿に、オスカルはついなじりたくなる。
「ごめん、オスカル。」
アンドレは、力いっぱい抱きしめたい気持ちを抑えて、そっと左手を背中に回した。彼女の肩が、小さく震えている。
オスカル、泣いているのか・・・。
彼は幼子をあやすように、大きな掌で、ゆっくり背中を撫でた。服を通して、彼女の柔らかい肌が指先に甘く伝わってくる。

「すまぬ。勝手に涙が出てくるのだ・・・・・。しばらくこのままで・・・・。」
オスカルは嗚咽を押し殺して、静かに泣き続けた。シャツに沁みる涙の湿った温かさが、左胸の素肌にじわりと広がる。ばあややロザリーたちの前では、けして見せないであろう涙の温みが、アンドレにはせつなくいとおしかった。
もっと、おれに甘えてくれ、オスカル。ずっと傍にいるから。
アンドレはもう片方の指で、ブロンドの髪をなめらかに梳いた。
恋人同士ならば、全身全霊で、もっとおまえを慰めてやれるのに・・・。オスカルが、こうやって自分を求めているのは、親愛の情なのだ。
喉元にどうしようもなくこみ上げる苦いものに揺さぶられぬように、アンドレは静かに耐えた。

「オスカル。ずっと傍にいる。辛かったら、痛かったら、おもいきり泣いて、楽になってしまえばいい。」
オスカルにそう囁いた後、アンドレはそっと唇を噛んだ。
いざとなると結局、幼馴染みの立場に甘んじる自分がいる。オスカルの傍にいられるのであればと、恋愛感情をひた隠し、親愛の情を演じ続けることを選んでいる・・・・・。



夜更けの屋敷は、物音ひとつなく、海深い水底のように静まりかえっていた。ようやく眠りについたオスカルの頬には、幾筋もの涙跡が、うっすらと残っていた。アンドレは、哀しみを吸いとるように、頬に口づけを落とした。

アンドレは椅子の背もたれに体を預けて、寝台に横たわるオスカルを見つめ続けた。安らかな呼吸に合わせて、彼女の肩がかすかに上下する。穏やかな寝息に寄り添うように、自分の呼吸の速度を合わせてみた。彼女の鼓動と、自分の鼓動の脈動が、ひとつに重なるようなここちよさ。しかしそれは擬似でしかないのだ。彼は左胸を右手で抑え、天井を見上げて深く吐息を漏らした。そんな他愛ない自分の行為に、身体を、こころを、重ねられないせつなさを、余計思い知るばかりだった。
そんな彼の思惑など気づくことなく、深い静寂の中のオスカルの寝息は、永遠に続くようにすこやかに規則正しく脈打っていた。アンドレは、いつかの己の戯言を思い出し、胸の内で一笑した。

小夜鳴鳥の詩に惑わされて、死に憧れを抱いていたなんて。 どんなに辛くとも、生きていれば、オスカルがおれを必要としてくれるときがあるのだ。

封印しきれない熱い恋情に、ひとり慟哭する夜を抱こうとも、いまはまだこうやって傍にいられる。それこそが自分の幸せなのだと、若いアンドレは理性だけでなく、こころから悟りたかった。
夏の闇は短い。夜のとばりが、しらじらと明け始めていた。扉をそっと叩く音を合図に、アンドレは椅子からおもむろに立ち上がった。



オスカルが目覚めると、部屋にはばあやがいた。なにも変わらぬ、いつもの夏の朝だった。
「おはようございます。お嬢様。今朝は、ゆっくり休まれましたね。」
彼女は、オスカルの額に手を当てて、にっこり微笑んだ。
「熱っぽくないですし、お顔の色もよろしいです。お食事を、しっかり食べていただきますよ。」
いつのまに、寝てしまったのだろう。いつものように、ばあやが朝食を盛った盆を、甲斐甲斐しく用意していた。

「昨晩は、誰が看病についていたのだ?」
「わたしですよ。お嬢様。」
「そう・・・なのか。」
「はい、一晩中お嬢様の傍におりましたが、なにか?」

ばあやは毅然と答えた。孫のために嘘を突き通そうと、何事もなかった素振りを見せた。
「そう・・・だったか。いや、なんでもない。」

あれは夢だったのか。
オスカルは憮然とした表情で、首をかしげた。アンドレを許していないばあやが、寝室に彼を入れるはずはない。アンドレに逢いたいという気持ちが、夢に現われたというのか・・・。

夢だったとしても、事件以来の再会だった。アンドレの声を聞いた。アンドレの瞳に逢えた。昨夜のアンドレは、温かくやさしいアンドレだった。オスカルは口元を緩めた。不思議なほど、気分がすっきりと晴れ渡っていた。
「今日は、なんだかご気分がよろしいようですね。」
ばあやが、嬉しそうに笑った。開けた窓から、爽やかな朝の風が部屋に流れ込んできた。




  





































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