2006 8/1
ゆかりんさま作

1778 夏の誓い

B恋情



 「おまえがついていながら、たいじなお嬢様を!」
事件翌日、ばあやは泣きながら、小さな拳で、何度も孫の胸を叩いた。
ジャルジュ家の主治医は、オスカルの傷の状況を説明するなかで、アンドレの迅速な止血処置が適切であった、と付け加えることを忘れなかった。よく救った、とジャルジュ家当主は厳粛に褒め、夫人はアンドレの手を取り、こころからの感謝を伝えた。ふたりとも、彼に非難の言葉を向けることはなかった。
いっそ強く叱責され、しかるべき罰を下された方が、どんなに楽だろう。アンドレはいたたまれなかった。

主治医の診察通り、オスカルの高熱は続いた。手厚く看護するばあやは、奥様と旦那様、医師以外の部屋の出入りを差し止めた。唯一、ロザリーは例外だった。オスカル様に償いたいと必死に頼み込んだ彼女は、看護の手伝いという名目で、精神誠意を尽くしていた。
あとは何事もなかったように、屋敷の日々は、過ぎていった。


「おばあちゃん、今日のオスカルの様子はどうなの?」
朝日の射す屋敷の廊下で、すれ違いざま、新しいシーツを抱えた祖母に、アンドレは声を掛けた。

「昨夜も微熱が下がらず、熟睡されなかったようだね。」
「おれ、オスカルの顔を見に行ってもいいかな。」
ばあやは、しょうがないという表情を浮かべた。
「 言っただろう。いろんな人が出入りしたら、疲れてしまわれるって。旦那様、奥様、ラソンヌ医師、わたしとロザリー以外は面会謝絶だよ。」

アンドレは、深くため息をついた。
いろんな人って・・・。おれだって、オスカルの身近な存在なのに。
ばあやは険しい表情で、アンドレを見据えた。

「アンドレ、何度も言うけどね、今回のことで、旦那様も奥様も、お前を一言もお責めにならないし、罰しもされなかった。その恩を忘れるんじゃないよ。ほんとだったら、屋敷からお暇を出されたって、おかしくないんだからね。そんなおまえが、お嬢様の見舞いに顔を出したら、ほかの使用人に、示しがつかないじゃないか。」
「分かっているよ。おばあちゃん。」

分かっている。おばあちゃんの立場として、孫のおれに、厳しく接するのが当然だって。
・・・だけど、オスカルに、もう一週間も会っていない。

肩を落として、足取り重く階下へ向かうアンドレに、ばあやは厳しい言葉をなげかけた。
「アンドレ!若いのだから、もっとしゃきっとおし。てきぱき働かなかったら、承知しないよ!」」
口ではそう言いながらも、彼女は少しやるせない思いに浸りながら、孫の後姿を悲しげに見送った。


 緑生い茂る楢の木々に囲まれたジャルジュ家の裏庭で、アンドレは黙々と薪を割っていた。
彼は、屋敷内でのあらゆる雑用を進んで引き受けて、オスカルに逢えない長い1日をやり過ごしていた。ひとり仕事に打ち込みながらも、泥土のように奥底を覆う悔恨の念が、アンドレの胸に、重く淀んでいた。
 
あのとき、もっと身を挺して、飛び込めなかったのか? いや、それより刺客の動きを、先に止められなかったか?
 胸をかき乱す繰言と分かっていても、あの日から、何度も自問自答を繰り返す。

 初夏の日差しは、容赦なく彼に降り注ぐ。腕まくりしたシャツの背中は、じっとり汗ばんでいた。
小さい頃から、オスカルは生傷が絶えなかった。しかし突然、他者に奪われそうな命の危機に直面したのは、今回が初めてだった。突然襲い掛かる死ほど、残酷なものはない。急所が外れたのは不幸中の幸いと、誰もが口を揃えた。

だが、俺はオスカルを、護りきれなかった。
そのうえ・・・・弱っているおまえに、どうしようもなく女を感じた。

 あのときの、力なく横たわった彼女の汗ばんだ顔、潤んだ瞳、無防備に開きかけた唇、
かすかに上下した白い喉、整った白い歯、濡れた舌、乳白色の華奢な素肌・・・・・。
 思い起こすだけで、喉のあたりが息苦しくなる。あのとき理性に関わりなく、女の肌を求める男の性が、たまらなく疼いたのだ。そんな自分自身が、アンドレは情けなく腹立たしかった。
 上気した顔から、汗が流れ落ちた。彼は一定のリズムを保ちながら、ひたすら斧を振り下ろし続けた。最後の一本に、おもいきり斧を入れる。丸太はあっさりふたつに割れて、彼の足元に力なく倒れた。
 
おまえのこころと身体を、求めてやまないおれの恋が、身分違いの、どうしようもないものだって、とっくに分かっているんだ。
 
アンドレは手を止め、ひろがる青空を仰いだ。そよいできた風を、胸の奥深くまで吸い込んだ。
 
護れなくて、なにが恋だっていうんだ。乗馬事件で、おれを庇ってくれたオスカルのために、命をかけようと、誓ったはずだったのに。

 左肩からざっくり切られた無残な傷が、脳裏に鮮やかに蘇る。たまりかねて瞼を開くと、夏の日差しが、容赦なく視界に飛び込んだ。一瞬、アンドレは目が眩んだ。愛するひとを救えなかった男としての情けなさと、それでも諦めきれない、切々と湧き上がる恋情とで、アンドレの心は千路に乱れていた。
 
オスカル・・・。おれは、おまえに会わす顔がない。だからといって、離れたくない。いまだって逢いたい。おれの名を呼ぶ、おまえの声が聞きたい。オスカル、逢いたくて、逢いたくてたまらないんだ。

アンドレは、洗いざらしのリネンで、額に浮かんだ汗を無造作に拭くと、散らばった薪をてきぱきと束ね始めた。一匹の黒アゲハ蝶が、音もなく近づいてきて、日焼けした腕に止まった。もの言わぬ蝶は、初夏の光に瞬きをするように、羽根をゆっくり動かした。羽根模様の鮮やかな碧色にさえ、せつなさを見出してしまう。アンドレが静かに吐息を送ると、蝶はふわりと舞い上がった。 

軽やかに舞いながら、花々が咲き溢れる庭園へと、可憐に去っていく姿は儚げで、ゆらゆら漂う陽炎のようだった。夏日の下で、アンドレは届かぬ願いを見届けるかのように、蝶の姿が無くなるまで、いつまでも、せつなく見つめ続けた。



    




































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