2006 5/8
イラスト 市川笙子さま
文 マリ子



 闇の合間を縫うように女の吐息がもれる。
 天蓋から垂れ下がる厚い織物が空間を遮断し、内側に重ねられた薄絹が重なりの濃淡を作り出す。少し離れた所には蝋燭が何本か立てられ、寝台を照らすには若干明るすぎる光を投げかけている。
「愛しているわ、ヴィクトール」
 女の声は何度も同じことを囁く。私もです。愛しています。同じことを言いながら、男は決して女の名を呼ばない。
 男の端正な指は女の身体(からだ)の隅々までを愛しむように愛撫する。仰向けになっても豊かな隆起を見せる両の胸や、触れるほどに立ち上がり固さをますその先端や、そこからなだらかに落ちて腹につながる線を確かめるように辿る。
 明かりに浮き上がる白い裸体。神の創りし女の身体は見事だといつも思う。
「愛しているわ」
 女は囁き、口づけをねだる。開いた紅い唇の間に舌が覗いている。そこに唇を付けながら、男は女の下腹部に手を伸ばす。下半身への刺激に反応するように女は身体を動かしたが、貪るかのように口づけに没頭する。女の細い指が男の顔に触れ、手入れの行き届いた彼の長い髪に触れる。
 男は伸ばした手を女の腿の間に割り入れると、指先で肉の襞を開いていった。女の神経は唇に集約されている。口づけを誘うように女は繰り返す。ゆくりと舌先でそれに応えながら、指で襞をめくり上げていく。ぬめりのある内側はすでに濡れていて、固くなった小さな芯が指先に触れた。
 口づけが終わることを拒むかのように、女は動きを止めない。その様子を眼の端で観察しながら、指の動きを徐々に大きくしていく。女の最も過敏な部分を探り当て、その変化を愉しむ術を彼は知っている。
 耐えきれないというように漏れる声。一時の休息を求めるかのように女が腰を引く。男はそれに逆らうように腰を引き、より深い愛撫を加えていく。
 離れた唇を追いかけ、塞ぎながら、指を滑らせ移動させる。浅く指し入れるだけで、たくわえられた液が溢れだす。引き出した指で周囲をなぞり、再び今度は深く差し入れる。中心から周囲へ、そしてまた中心へ、繰り返すほどそこは熱を持ち湿った音を立て始める。
「…ヴィクトール」
 懇願する声で囁き、女は膝を緩め足を崩した。男は女の両足の間に身体を滑り込ませ、固く充血したものを押し当てる。男の欲は正直だ。欲望ではちきれそうなものを埋める場所がいる。女の腕が背に回り、彼を抱きしめる。女の身体でしか癒されない肉体の欲を持ち続ける男の性。膨張しきったものは捌け口を求め、男を支配する。まるで怒りにも似た怒張を埋めていく快感。押し入るほどに女は切なげに声を上げ、息を漏らす。
 熟れた果実のような柔らかさに密着させ、女の感極まったような声を聞きながら彼は考える。こんな時あの人はどんな声を上げるのだろう。
 背に回される腕に力が入り、女の爪が皮膚に突き立てられる。ゆっくりとした深い動きを繰り返すほどに果肉は溶けだしてゆく。合わせる胸から立ち上る甘い匂い。知った香水は彼の匂いと混じり合い、いつもと違った匂いがした。彼は肘を伸ばし、微かな香りを探すように顔を上げる。すれ違った時に香る髪の匂い。それを思い出せ。
 幾度も名を呼ぶ女の声を聞きながら、寝台に散らばる髪を見る。そこに手を這わせ、それをつかみながら、閉じた目の中に金の髪を思い浮かべる。この腕に、この手にそれを絡め、口づけたらどうだろう。
 身体を起こし、女の膝を左右に押し開き、激しく欲望の源を出し入れしながら、想像する。剥き出しにされた肌。男に貫かれ、その肌はどんなふうに色づくのだろう。
 女は要求するままに様々な姿態をとる。恥じらいながらも徐々にそれを脱ぎ捨て、大胆になってゆく。最初から本能として植え付けられ女を求める男とは違い、女は男に触れて開花する。一旦知ればその欲は男と同じか、それ以上だ。
 男は女を愛しながら、犯したい。いつも涼やかな佇まいを見せるあの人が乱れることがあるのだろうか。教えたい。男の中にいて、きっと何も知らない無垢なあの人を‥快楽に溺れさせてみたい。女の淫らな姿に興奮しながら、心の中で、まだ見ぬ姿を思いのままに動かしてゆく…
 愛している。誰に呼びかけるのでもなく彼は何度も声にした。律動がもたらす快感の波が彼を包む。近くにいて、なぜ今まで手に入れることをしなかったのだろう。
 あの人はあまりにも清く美しかった。男の欲望で汚してはいけないような気さえした。だが男によって女は汚れたりはしない。女は男を知ってこそ、より美しくなれるはずだ。何度かの絶頂を迎えた女の身体は溶け出すかのようだ。だがまだ飲み込む余地はある。女の身体とはそういうものだ。身体を入れ替え、最後の頂点に向かいながら彼は最愛の女に愛を叫んだ。


 寝台に力なく横たわり、それでも満ち足りた表情で女は彼を見上げる。
「なぜ貴方は結婚しないの?」
 美しい伯爵夫人は重たげに腕を伸ばし彼の肩に触れた。
「女嫌いで通すつもり? 近衛連隊長ともあろう人が外聞悪いわ」
 彼は横を向き伯爵夫人に微笑むと肩から手を外し、身体を起した。
「今日は泊まっていくでしょう。この屋敷は私の許可無くしては誰も入れないから、ゆっくりしていってね」
 情事の後にいつも感じる煩わしささえなければ、どんなに楽だろう。彼は長い髪をかき上げると、そこから何かを振り落とすようにニ、三度首を振った。伯爵夫人のご機嫌を損ねないように、身体を屈め、軽く口づけ立ち上がる。
 天蓋の外に出るだけでいくらか心地良い。彼は一息ついて部屋を見渡した。窓を開けたいと思うが、部屋の窓はどれも覆いがかけられ、まるで封印されたかのようだ。吐息と香水の入り交じったような部屋の匂いに我慢が出来ない。彼は化粧机の上に置かれた水差しから水を汲むとそれを飲み干した。
「ヴィクトール」
 覆いの内側から呼ぶ声がする。彼は薄絹を掻き分けながら女の方に顔を出した。
「近衛の宿舎に戻ります」
「なんですって!」
 伯爵夫人は驚いたように身体を起こした。
「こんな夜中に?」
「はい。大切な用事を思い出しました」
「なんてこと! 明日でも良いでしょう?」
 伯爵夫人は裸の胸に薄絹のガウンを押し当てながら寝台から降りようとした。
「どうかそのままで」

 彼は身を乗り出して女の額に唇をつけ女を制した。椅子にかけた服を取り上げる。彼は急き立てられるように身支度をした。
 不夜城のような宮殿も今の時間は闇の中に沈んでいるだろう。夜勤の者の靴音だけが廊下に長く響く様子は容易に想像できる。夜半の交代はもう済んでいる時間だ。宿舎も静まりかえっているに違いない。
「また来ます」
 再び絹を掻き分け、寝台の上の半裸の伯爵夫人を抱きしめ、別れの長い口づけを交わす。情事の前の官能を引き出す口づけではなく、あくまで別れを惜しむ惜別の口づけ‥
「あてにならない人」
 吐息と共に吐き出された言葉は捨て鉢であったが、声は怒ってはいなかった。
「こんな夜中に行かなければならないなんて、きっととても大切なことなのね」
 伯爵夫人の皮肉交じりの非難をもう一度唇で塞ぎ、彼は部屋を出た。



 とても大切な用事… そんなものは何もない。ただ触れたかっただけ…
 馬に乗り、夜気に髪をなぶられながら闇の中を進む。夜中の空気はひどく冷たかったが、熱を帯びた身体を叱責するかのように差し込む風はむしろ心地良かった。
 近衛隊の司令官室。無性にそこに行きたかった。近衛での見慣れた自分の部屋。窓から見る風景も家具の配置も知リ抜いた部屋…
 近衛隊の司令官室は、入る人間が変わると調度を一新するのが常だったが、彼は以前の部屋を全く変えることなくそこを使った。家具はもちろん、カーテンや小物に至るまで同じ部屋。違うのはあの人がいないだけ。だが、あの人が残した残り香がそこにはある。それに触れたかった。そして抱きしめたかった。
 闇に沈む部屋。優しい香りに触れるため、彼はそこを目指した。




Fin




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