2004 4/10

移り香 [




 客が来たようだ。使用人達が歓迎する声がホールに響く。母の声もする。
「ええ、そうなの、とても大切なお友達なの。マルグリット、貴女の許しが出て良かったわ。私一人ではどうしても心細くて」
 客は真っ直ぐホールを突っ切り、二階に上がってくる。
「まあ、旅慣れた方が何をおっしゃいますの」
 楽しそうな母の声も階段を上がってくる。
「それは話相手がいればこそよ。でないと旅なんて退屈なだけ」
 部屋の扉が開いて母と旅支度を整えた伯母が姿を現した。
「まあ、フェルディナン、まだそんな恰好をしているの? すぐ支度をして」
 母は笑っている。
「伯母上、私はどこにも出かけたくはないのです」
 フェルディナンは長椅子に座ったまま目の前の人物に言った。彼女は旅行用の帽子を被り、身軽だが暖かそうな服に身を包み、縦長の箱のような鞄を持ち、杖まで携帯していた。
 母がやって来て彼の肩に触れた。
「フェルディナン、最近ふさぎ込んでいない? 気晴らしが必要よ。伯母さまと出かけたらきっと気分も良くなるわ」
 彼は床に視線を落とした。
「伯母さまをお護りする人がいるのよ。行ってあげてね。マルセイユだったらここより陽気が良いでしょう。それに海が見られるわ。気に入ったらしばらくいてもいいのよ」
 伯母の算段に敵う人間はいない。彼は視線を徐々に上げた。
「マルグリット、フェルディナンを借りるわね」
 笑みをたたえたイレーヌと目が合った。


 高台にある宿からは海が見えた。フェルディナンは窓辺に立ち、風を受けながら遠くのきらめきに目をやった。沖に小島が見える。彼はかつてエドワールと共にパリを北上しイギリスを望む海峡を見た日を思い出した。今、目の前の海は抜けるような青を輝かせている。同じ海でありながらこうも色が違うものだろうか。
 彼は潮風に髪を預けながらバルコニーに出た。見下ろす街並みはヴェルサイユと違う。
 マルセイユ、明るい秋の日差しが降り注ぐ港町。同じフランスでありながら異国情緒を感じる町。彼は遠く水平線に目をやった。陽光の似合う深い青。風は南から吹いてくる。
 扉をノックする音が聞こえた。彼は部屋に戻り扉を開けた。イレーヌが立っていた。彼は目で伯母を招きいれた。
「レイアに会ってきたわ」
 彼女は部屋の中央に立ったまま静かに言った。彼は手で伯母に掛けるよう示した。
「元気そうだった」
 彼女は側の椅子に腰をおろした。
「会わなくていいの?」
 背にイレーヌの声を聞きながら、彼は窓辺に向かった。バルコニーから遠くにきらめく深い蒼を眺める。見事な景勝地だった。あまりに美しくて、明るくて、涙が出る。
「‥出航は明日よ」
 伯母が言う。
「祝ってあげなさいよ。あの娘(こ)の門出を」


 港には何隻もの舟が泊まっていた。湾の最も奥まった所に泊まった大きな船から次々と荷が降ろされていく。さらにその向こうには接岸しようとする船に積み込むのだろうか、荷を満載した台車が列を連ねて待っている。魚を商う露天の店が並び、港は活気があった。
 フェルディナンは港の奥から海につながる湾の入り口に目を移していった。人々が行き交う場所から離れた所にまるで間借りでもしているようにひっそりと泊まっている小さな船があった。航海するには小さすぎると思えるような船だった。
 男の人足が一人で船に荷を積んでいる。せわしなく船との間を往復する彼の周りに何人かの修道女がいた。彼女らは別の場所に止めてある馬車から荷を運んでいた。修道服の長い裾は荷物を運ぶようにはできていない。女が一人で、或いは二人ががりで荷を運ぶ姿は何とも心許なかった。
 馬車から一人の少年が飛び出してきた。年の頃十かそこらの少年だった。彼は先を行く一人の修道女から荷を受け取るとそれを肩の上に担ぎ上げた。彼女が運ぶより確かな足取りだった。
 少年は人足の元にそれを置くとまた馬車の方へ戻って行った。馬車からもう一人女が降りてきた。レイアだった。彼女も大きな荷物を抱えていた。走り回る少年に笑いながら何か叫んでいる。彼女はまるで村娘のような恰好をしていた。質素で身軽な服。背に垂らした髪を一つに結んでいる。
 彼女は見慣れたレイアではなかった。貴族の娘らしい清楚で上品なドレスを着て、金髪を柔らかく結い上げたレイアではなかった。たおやかで優しい笑みを浮かべながら、どこか寂しげなレイアではなかった。
 彼女の優雅な物腰しは溌剌とした足取りに変わり、微笑みは南国の太陽を思わせるように輝いていた。
 先の少年が修道女達の間を走り回っている。修道服でない女はレイアの他に何人かいたが、彼の母親らしき人間は見当たらなかった。あの子供も船に乗るのだろうか。
 レイアは荷物を集めた場所に持っていた荷を置くとそれを解き始めた。中の状態を確めている様だ。子供がそれを覗き込む。レイアは数本の細長い物を包みの中から取り出した。彼女の取り出した物が何であるかわからなかった。だがそれは太陽の光を反射し、鏡のようにきらめいた。レイアはその中の一本を目の前にかざし、真っ直ぐに見つめた。
 真剣な横顔。この顔に見覚えがあった。彼女のどこに惹かれたかその顔は教えてくれる。
 そして今、もう一つの事に気がついた。自分がいつも見つめていたのはレイアの横顔だった。優しい微笑み、静かな佇まい、寂しそうな陰、そして燃え上がるような陽炎… どれもが横顔だった。彼女はいつも前を見ていた。
 元々少ない荷はすぐ船に積み込めたようだ。一人の修道女が走り回る少年を抱上げた。人足の男は辺りを見渡し積み残しがないか確めている。彼らの姿はこれから森へ遊びに行くかのようだった。そして彼らは一つの家族のようでもあった。それぞれが役目を持っている。各自が自由に動きながら統制がとれている。少年はこの教会の子供なのだろうか。そしてレイアもいつか彼女らと同じ修道服を着るのだろうか。
 高台から見ていた時は気づかなかったが風が強かった。日差しは注がれていたが風は冷たかった。秋も深まっている。これから冬を迎えようとする厳しい時に発たなくてもと思う。だがきっと彼女はこう言うだろう。冬こそ彼らに助けが必要なのです。
 レイアの髪が風になびく。彼女は額の上に手を掲げると空を見上げた。風になびくリボンに見覚えがあった。
 少年が走ってきて彼女の手を引いた。レイアは笑いながら船の方角に足を向ける。その時突風のような強い風が吹いた。彼女は肩をすくめると、髪に結んだリボンに手をやり、こちらを振り返った。レイアの顔に驚きの表情が走る。彼女は体の向きを変え、彼の方に向き直った。後からイレーヌが背中を押すのがわかった。だが彼はそこを動かなかった。レイアも動かなかった。彼女は懐かしそうな、泣きそうな顔をして、彼を見つめた。風が吹き抜ける。ただ見つめ合う。
 少年がもう一度レイアの手を引きに来た。桟橋の周りに集っていた人々は皆、船に乗り込んだようだ。彼女の他に人影はない。少年が船を指しながらレイアの手を引く。彼女は顔を徐々に海の方へ向けた。背に垂らした髪とリボンを風になびかせ、レイアは桟橋を歩いていった。
 船が動き出す。同時にレイアの姿が甲板に見えた。手すりにからだを押し付けるようにして前を見ている。フェルディナンは船の動きに従うように岸辺を歩いた。小さな船は陸に沿いゆっくりと進んでゆく。手を出せば届きそうだった。
 レイアは硬直したように前を見ている。岸に沿って進んでいた船が向きを変えた。離れていく。レイアが走りながら甲板の後に回ってきた。船は港を出て行く。彼は遠ざかる船を見ながらそれを追うように湾の突端まで歩いた。
 彼の視界に広がる真っ青な海。湾の中とは違う大海原だった。恐ろしい程の広さだった。船は水平線に向かう。甲板の後方ににしがみつくようだったレイアが突然手を上げた。大きく伸び上がるようにして手を振っている。弧を描くように左右に手を振り続ける。海は小さな波を立てながら光を反射する。船の上で動いていた姿は船と一体になり、その船も海と一体となる。波の一片となった船をどこまで追っても、もう水平線しか見えなかった。
 彼は地面の上に腰をおろした。海は眩しかった。光に溢れて眩しかった。彼方は空と一体になり、どこまでも続いていた。
 彼はいつまでも水平線を見つめていた。
「フェルディナン、もう帰りましょう」
 イレーヌの声がした。彼は髪を風になぶらせたまま呟いた。
「誰も私の事など愛していない…」
「まあ、何を言うの。誰もが貴方を愛していますよ」
 伯母のドレスの裾が視界に入った。
「フェルディナン、貴方はまた一ついい男になったのよ。そしてこれから、もっともっといい男になっていくのよ。誰もが貴方を愛してますよ」



Fin




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