2004 4/10
挿絵 市川笙子さま

移り香 Z




 闇の中に浮かぶ白い肌。薄青く浮き出る血管を指で辿りその側に口づける。吸われた肌は濃く色を変えるが、それは月光の元では蒼く見えた。
 フェルディナンは顔を上げ窓の外に目をやった。そこから見える森のように黒々とした木立と寂しげな月。それらのものが女をさらっていきそうで怖かった。
 彼は立ち上がり、蝋燭に火をつけるとそれを床に置いた。一瞬で闇は遠ざかり、窓には部屋の壁と身体を起こしたレイアの肩が映った。
 足元から照らす明かりが彼女の羞恥を煽るのがわかる。闇に慣れた目には一本の蝋燭の光でさえ眩しい。明かりに浮かんだ困惑顔の頬が紅く染まっていくのが見えた。
 口づけながら女を覆う布を取り上げる。
「私に見られるのは嫌ですか?」
 彼女は何も言わない。言えないのだ。
 顎に手をかけ上向かせ口づける。フェルディナンはレイアの結った髪の中に手を入れ、髪を留めているピンを抜き取った。渦を巻くように落ちてくる髪は彼の手を撫で、彼女の肩に広がり、背中に波打った。その艶やかな感触を指で梳く。髪を肩に垂らしているとレイアはまるで少女のようだ。だが潤んだ瞳や濡れて開きかけた唇は官能を知った女の顔だった。
 女を寝台に横たえる。蝋燭の明りは女のからだの起伏を深い陰影の元に映し出す。影が触れるようにそっと指を触れた。耳の後から胸の頂きまでを指先で辿る。首筋から鎖骨にかけ触れる面積を大きくしながら手を広げ、肌に押し付けた。胸の膨らみが手に添うことを確めながら、脇腹へかけゆっくりと力を入れ撫でつける。
 女の肌は男の手が触れると美しくなる。手の通らぬところは無いように、何度でもくり返す。力を入れる。慈しむように… くり返すほどに女の肌は応えていく。柔らかさも、暖かさも、艶やかさも、すべてこの手に覚え込ませるのだ。
 腕を上げさせ、互いの腕の内側が触れ合うように掴み、密着させ、徐々にさげていく。強く握り捉えていく。冷たかった肌から香りが立つ。しっとりと潤う感触は男に何かを教える。
 両腕を背に回し胸を重ね、唇を、唇から顎へ、首から胸へと女のからだの正中に沿わせていく。両手は強く皮膚を捉えたまま、からだを徐々に動かす。胸を両の手の中に包みながら、舌は柔らかな腹へと辿っていく。
 愛が欲しい。抱えきれない程の愛が欲しいのだ。
 女の体中に刻印を刻んでいく。蒼い肌は嫌いだ。白い肌に薔薇色の印。柔らかい肌には簡単に付く。腹に胸に散らしたような淡い色。だがそれもすぐに消える。肌全体が色づくからだ。
 女に足を開かせ、その間にからだを滑り込ませる。高い位置から見おろしながら滾り痺れるような感覚を制御し口づける。
 丹念に、ゆっくりと、互いの唇の感触が全てになるほど貪欲に… レイアの腕が肩に添い首に回るのを感じる。彼女が唇を動かす。欲しいとでも言うように…
 息をつきながら、うっすら目を開けると紅く濡れた唇の中に求めるような舌先が見えた。呑み込むように、焦らすように続ける。もっと求めてこい、気が遠くなるほどに…
 口づけながら手を腿から膝へ、膝の裏側から内腿へと滑らせた。レイアが声を上げる。
「もっと‥キスを」
 レイアの反り返った顎を戻し、離れた唇を捕える。彼女に唇を預けたまま、もう一度腿の内側の深いところを探る。
 女の口から声がもれる。彼は彼女の顎を押さえ小さく左右に振った。レイアが目を開けた。彼女の瞳は潤みきって縁に涙がたまっていた。フェルディナンは顔に笑みを浮かべるとそっとささやいた。
「愛している」
 彼女は何か言おうとして声を上げた。彼は内腿にやった手を動かすのをやめず、首を傾けて答えを催促した。
「私‥も‥」
 彼の指の動きに抗うように吐息と共にレイアが言った。
「私を愛していると? 誰よりも? 何よりも?」
 レイアが頷く。
「信じない」
 彼女の唇を舐め彼は言った。
「愛しているなど信じない」
 再び彼女のからだの中心に向かって手を動かす。こらえ切れないようにレイアが声を漏らす。
「愛しているのならずっと側にいたいと思うはずだ。ずっとこうしていたいと思うはずだ。違いますか?」
 大胆に動きを大きくしていく指を迎え入れるように女の身体が変化していく。
「フェルディナンさま、もう…」
 彼女の指が肩に食い込んだ。
「愛しているなら見せて欲しい。私にわかるように見せて欲しい」
 女の官能はもっと深い。こんなものではない。それをレイアに教えたい。最初の晩のような無理は絶対にしない。ゆっくりと徐々に慣れさせ神が与えた最高の悦楽を教えたい。男に女が必要なように女にも男が必要だ。それに思い至って欲しい。一人の男の為に生きる生き方を選んで欲しい。
 もう何度か重ねた夜。
 強い押し戻すようだった抵抗は絡みつき締め付ける躍動に変わる。どの女にも感じた事のない歓喜が彼を襲う。止まらない。溺れそうだ。今まで感じていた肉の快楽と何が違うのだ。終りたくない。生涯にただ一人の女というものがきっといる。今自分はそれに巡り合ったのかもしれない。
 吐息混じりの声が彼の名を呼ぶ。彼は寝台に肘をつき、彼女の上に倒れこみながら、その声を聞いた。



 冷たい小雨の降る夕暮れだった。いつもより少し早い時間に彼は診療所の石段を登った。戸のたたき方で自分だと教える。
「まあ、雨が」
 戸を開けたレイアはマントから滴をたらしたフェルディナンを見ると診察室の戸棚から布を取り出し、彼の髪を拭いた。
「途中から降り出した。小雨だ。いくらも濡れていない」
 彼はレイアから布を受け取ると自分で肩を拭きマントを脱いだ。目線を階段に通じる戸に向ける。彼女が頷く。
 二階の小部屋の窓には雨粒が沢山付いていた。雨は嫌いではなかったが今は嫌いだ。雨は季節の変わりを意味する。
 階下で戸を叩く音がした。すでに診療所は閉まっている時刻だった。フェルディナンは部屋から廊下に出ると下を見下ろした。二階の廊下からは一階の様子はわからない。だが声は聞こえる。レイアの声に混じりかん高い女の声が聞こえた。笑い声もする。怪我人か病人かと思ったがそうではなようだ。声の調子が明るい。
 戸が閉まる音がして階段を上がってくる足音が聞こえた。レイアは両手に湯気の立つ小鍋を持っていた。
「隣のバルトさんが作ってくれるのです」
 彼女は嬉しそうに微笑むと煤けた鍋を机の上に置いた。さらに隣の部屋から脇机ほどの小さなテーブルを運ぶとそれを寝台の側に置いた。狭い部屋はそれだけで一杯になる。彼女はもう一度階下に降りて行くと今度は皿とナプキンの包みを持って上がってきた。
 夕食時に診療所の明りが灯っていると棟続きの隣家から婦人が食ベ物を届けてくれるという。レイアはそう説明しながら、彼の前にナプキンを広げ皿を用意しスープを盛った。
 椅子は一脚しかなかったので彼は寝台の上に腰をおろした。パンとスープと煮込んだ野菜の皿。小さなテーブルの上は隙間なく並べられたがそれは夕食と言うにはあまりにもささやかだった。ワインも無ければ肉も無い。
 レイアは椅子に座ると手を組み、祈りを捧げ、彼に食事を勧めた。
「どうぞ」
 彼女は恥ずかしそうな笑みを浮かべながらも屈託なくスプーンを取った。フェルディナンもそれにつられるように銀器に手を伸ばした。だが違和感を感じ、それをよく眺めてみた。使い込んだような鈍い色。光沢もない。銀ではないようだ。
 彼は家での食事を思い浮かべた。大きなテーブルにいくつも並んだ皿の数、輝く銀器とグラスの列。花が飾られ蝋燭も置かれる。
 彼はスプーンを皿に入れ、スープを飲んでみた。銀器同様それは決して上等とは言えなかった。だが暖かく長い時間煮込んだようなコクがあった。それに今は額が付くほど目の前にレイアがいる。嬉しかった。それは広いテーブルでは考えられないほど睦まじい食卓だった。
 時々彼女が目を上げ彼を見る。彼が食事を口に運ぶのを確めてもいるようだ。はっきり言うと、パンも小麦で作ったとは思えない味だった。食感も悪かった。だが彼はひとかけらも残さずそれを食べた。
 彼にとって食事とは美味を追求し、舌を満足させるものでしかなかった。贅を尽くした食材と腕の良い料理人と最高級のワイン、それが食事に必要なものすべてだった。だがそれらがなくても満足できると知った。舌を満足させ腹を満たすことができなくても、心を満たすことができるのだ。 
 フェルディナンは空の皿を見ながら初めて感じる感慨に浸っていた。食事とは本来こうあるべきではないのだろうか。飢えを満たし、少ない量を分け合い、神が与えてくれた糧を大事に食べきる。
 だが、初めて芽生えた想いに幾ばくがの感動を覚えながらも、レイアが毎日このようなものを食べているのかと思うと悲しくなった。
「貴女はいつもここで夕食をとるのですか?」
 皿を片付けるレイアに彼は問うた。
「いいえ、バルトさんの家には赤ちゃんと小さな子供が三人もいるのです。私のパンなど本当はないのです。彼女の優しさに時々甘えますが‥」
 目を伏せ、恥ずかしそうに、レイアはナプキンをたたんだ。
「彼女にはどうか貴女からお礼を‥ 明日は私が家から持ってきます」
 隣家の食卓に思いを馳せ罪の意識を感じがらも、彼は気持ちが高揚していくのを感じた。明日からは家の料理人に作らせた食事を自分が運ぼう。彼にとって狭いテーブルと寄り添って食べる食事は何よりの贅沢だった。


「明かりを消してください」
 レイアはいつもそう言った。
「男とは見て興奮するものです。私に一本の蝋燭も許してくださらないのですか?」
 彼は燭台を寝台の陰に移動させた。
「明るすぎるというのなら少し絞りましょう。貴女も御自分のからだをご覧になったらどうです。綺麗ですよ」
 彼は寝台の柵に背を預け、レイアを膝の上にまたがらせた。
「教会も病院も学校もない場所というのはそんなに魅力的ですか?」
 明かりは彼女の背を照らしている。逆光は女を安心させるのか、彼女は彼の動作に素直に従った。頭の位置は彼女の方が高い。彼はレイアの胸に顔を埋めた。
「エドワールも広い世界を見たいと言った。貴女もそう望むのですか?」
「エドワール?」
 聞き返す声に彼は顔を上げ答えた。
「従兄弟です。今はイタリアに住んでいる。彼とは‥ 一緒に色々な国をまわった。高い山、美しい谷、小さな村を見た。王宮や遺跡、廃墟も見た。どことして同じ国はなかった」
「空は?」
「空は‥ 同じだった」
 彼は自由だった旅の頃を思った。レイアも自由が欲しいのだろうか。
「貴女は貴族社会を嫌っている」
 彼の言葉に彼女は首を横に振った。
「隠す事はありません。嫌いなら嫌いで構わない。私は正直な女が好きです」
 膝の上の無防備な女の姿態は男の欲望をそそる。彼女のからだは彼の自由だ。足を動かし女のからだを開かせる。遮るものはない。彼の愛撫を彼女は恥らいながらも素直に受ける。
 フェルディナンはからだを徐々に下にずらしレイアを腹の上に乗せた。女の腰に手をかけ誘導する。
下から見上げる女の裸体に遠い空が重なった。どこまでも澄み渡った空だった。
 柔らかい波が彼を包む。フェルディナンは目を閉じ快感に身を委ねた。


 一瞬どこだかわからなかった。フェルディナンは目を開けると急いでからだを起こした。窓から寂しげな月が見えた。レイアのベッドだった。眠ってしまったのか。
 彼は上掛けをどかすと髪をかき上げた。女と夜を共にして眠ってしまったのは初めてだった。月はまだ高い位置にあった。夜は明けてはいない。だが蝋燭は燃え尽きていた。
 机の上に鍵が置いてあった。レイアの物かと思ったが違っていた。彼女がいつも持っている鍵には珊瑚の飾りがついていた。だがこれには紫水晶がついている。
 彼は窓を開けてみた。雨はすっかり上がっていた。開いた隙間から夜の空気が流れ込んでくる。冷たかった。外気に触れ、部屋の空気の暖かさを感じた。
 季節はすっかり秋になっていた。



 レイアはいつも迎えの馬車で帰って行った。窓は表の通りに面していない。馬車の止まる位置は診療所の入り口や裏手の細い道ではなく木立と建物の間、レイアの部屋の窓を横に眺める位置だった。どれほど仲睦まじい時間を過ごそうとも、音も無く通りに止まっている馬車を認めると、彼女は服を整え髪を結い上げ、それに乗り込み帰っていった。彼女のそんな仕草に一抹の寂しさを感じる。
「これからは私に送らせてください」
 フェルディナンの申し出にレイアは静かに頷いた。



 レイアがマルセイユに立つという日が迫ってくる。だがまだ彼女は予定を変えない。神の加護も届かぬような未開の地になぜ行こうとするのか。彼女が求めるのは何なのか…
 フェルディナンは銀のゴブレットにワインを注いだ。いつものように小さなテーブルをはさみ二人で食事をした。母が引き抜いたジェローデル家自慢の料理人が一食二人分を綺麗にまとめ上げてくれる。彼は園遊会から遠征の為の野外用まで、様々な目的や用途に従い、あらゆる形態の食事を準備するのが得意だった。フェルディナンは彼に二人分、外に持っていきたいとしか言わなかったが、料理の彩り、デザートの量や種類を考えると女性好みに出来ていた。ただワインだけは彼の好みになっている。
 ゴブレットの脚を指で挟みながら、彼はそれを傾けた。食事は終り、ワインだけが残っている。暗い蝋燭の光を受け中のワインは濃い色に見えた。透明なグラスに入れると透き通った赤だが、光を通さぬ銀の中では粘性さえ感じられるほどそれは濃かった。
「女なのに貴女には度胸がある。恐れるものが何もない」
 フェルディナンはワインから目を上げレイアを見た。
 膝の上に揃えた手。真っ直ぐに伸ばした背と細い肩。彼女は男の庇護欲を掻き立てる姿をしている。だが可憐な姿の中に不似合いな剛毅さも感じた。そこに惹かれもしなかったか。
「貴女は果敢で、人の為に身を犠牲にする事を厭わない。でも、なにもフランスから出ることはない。この国にも貧しくて医療や教育を受けられないものが沢山いる。彼らの為に尽力しようとは思いませんか?」
 もう何度同じ事を言っただろう。レイアは目を伏せ笑った。
「私は人の為に何か出来るような女ではありません。ただ自分の居場所を探っていたら行き着いた。それだけです」
 もう一つ彼を捉えて離さないのはその微笑だった。優しい微笑み。だがそれにはいつも寂しさの影がつきまとった。
「貴女は少年を助けたではありませんか」
 あの時のレイアは寂しさの影など微塵も無く、神々しいまでにきらめいていた。彼女が何をしたいのか、何をするべきなのか、その時はっきり理解した。もう一度あの時の彼女を見たい。
「私は誰も助けることが出来ません。私が助けたいと思う人は、誰も‥誰も‥助けられないのです」
 レイアの顔に自嘲とも取れる笑みが浮かんだ。
「私は血が恐いのです」
 彼女は目の前にかざすように両手を広げた。
「貴女は医学を志すべきではないですか? ご自分のやりたい事がわかっているでしょう。あの時、馬車の側で貴女はとても美しかった」
 彼はいつになく自虐的な様子のレイアに戸惑いながら精一杯の慈愛を込め微笑んだ。彼女は自分の価値に気づかない。いつも控えめだ。それに血が恐いなど‥ 彼女は血など恐れない‥
「私は血を見るのが恐いのです」
 レイアはもう一度繰り返した。両手を見つめる固い表情。フェルディナンは続けようとした言葉を呑み込んだ。
「…あの部屋で母は死にました。私が十五の時でした」
 抑揚も無くレイアは言った。その声は静かだったが不穏な響きがあった。
 あの部屋で死んだ? どういう意味だ? あの部屋とはデュルフォール男爵の部屋を指すに違いない。そこでレイアの母親は死んだ。一体‥なぜ、どうして‥事故か‥?
「母上は‥」
 言ったままフェルディナンは言葉が継げなかった。
 彼は森の中に隠れたようなデュルフォール家の、さらに奥まった場所にある書斎を思い出した。時間を止めた部屋。空気はかび臭かったが明るい部屋だった。日差しが注ぎ、窓からは盛夏の緑が見えた。
『母は亡くなりました。もう随分前に…』
 レイアの言葉が頭をよぎった。
 部屋には二枚の肖像画が掛けられていた。いや二枚ではなかった。デュルフォール少尉の肖像画は一枚だったが、少女のイレーヌは成長していた。後の壁に掛かっていた三枚の肖像画。少女は美しい大人に成長していた。
『あれはこの絵を元に父が描かせたものです』
 声が頭にこだました。
 広げた両手をレイアは見つめている。
「私は血を見るのが恐い。でも‥人が死ぬのはもっと恐い」
「‥伯母が‥」
 喉の奥から出た声は自分のものとは思えないほどかすれていた。レイアの瞳が彼を捕えた。
「あの家の不幸はあの家が生み出したもの! フェルディナンさまやイレーヌさまには関係ありません。どうかそれだけは…!」
 彼女は喘ぐように言うと彼の腕に手をかけた。弾みでゴブレットが倒れた。ワインが流れ出し、白いクロスに紅い染みを作った。
 レイアの見開かれた瞳にデュルフォールユ男爵夫人の死が見えるようだった。あの部屋の床はどんな色をしていただろうか… 思い出せない。だがフェルディナンには床に倒れる女の姿が見えた。デュルフォール男爵夫人の死はキリスト教徒に有るまじき死だったのだろうか。十五才のレイアはそれを見たのだろか。
「母が死んでからあの部屋はずっと閉じたまま… 閉じられたあの部屋を開けてくれたのはフェルディナンさま、貴方です。あの部屋はちっとも変わっていなかった。明るくて‥ 机も壁も椅子も昔のままだった。あの部屋に潜んでいたはずの苦しみも、憎しみも、狂気もなかった。そんなものはどこにもなかった。モーリス叔父の軍服とジルベールの椅子と‥ 何一つ変わっていなかった…」
 レイアは彼の腕から手を離し、静かな面持ちに戻って言った。
「私は憎しみや呪いから自分を解放してやりたいのです。悲しむのも嫌。そんな感情には耐えられない… フェルディナンさま、お分かりですか。貴方に会って私は救われました。人を恐れ、自分を呪う苦しみから貴方は救ってくれたのです」
 フェルディナンはゆっくり立ち上がるとレイアの前に立った。
「フェルディナンさま、私を愛して…」
 彼女も立ち上がった。見上げる瞳に影はなかった。背に腕を回し抱きしめる。抱きしめたまま後ずさり後向きに寝台の上に倒れ込んだ。
「私を愛して… フェルディナンさま、私を愛して…」
 胸の上で繰り返す小さな声は叫びのようだった。



 夜更けの空気は冷たく濡れていた。フェルディナンは愛馬の背にレイアを乗せるとあぶみに足をかけ、後に跨った。馬が動き出さないよう片手で手綱を引きながら、彼女の額を押さえ胸につける。顎の下にくる髪を感じながらマントを引き寄せ彼女を包んだ。
 馬をゆっくり歩かせる。闇の中にレイアの持つランタンの明りが白く浮かび上がる。石畳を叩く蹄の音が空に響く。彼は空を見上げた。
「時々、貴女はあの肖像画に恋をしているのでないかと思う時があります」
 正直に言った。白い光が闇に吸い込まれていく。だが闇は深く、明りは天に届かない。
「そうかもしれません」
 彼女は梢の先を見るような遠い目をして笑った。
「きっと私は叔父の部屋で恋を育んでいたのです。いつか出会うことを夢みて、あの絵を見ていたのでしょう。あの絵は叔父であり叔父ではなかった」
「叔父上と伯母は幸せにはなれなかった…」
 レイアの髪に頬を付けながら彼は次に言いたいこと言えないでいた。デュルフォール家とジェローデル家は深い縁(えにし)があるのではないか…
 彼女は彼から頭を離すと首を向け笑いかけた。
「私はイレーヌさまにお会いした時からこの出会いを予感していました。不思議です。診療所の手伝いも薬草を摘んだのも、死の影を追い払うつもりでしていたのに‥ それがいつの間にか喜びに変わっていた…」
「貴女は叔父上の血を引いているのでしょう。ロドリグの家で本を見ている貴女に会わなかったらきっと私は貴女に恋をしていなかったかもしれません。あの時の貴女は、美しかった。貴女はご自分が最も美しく見える時を知っている。何者にも惑わされず魂の命ずるままにいる時、人は最も美しい」
 高い窓から差し込む光が見せた横顔、今もはっきり覚えている。
 レイアは再び彼にからだを預けた。
「私の中には憎しみが渦巻いていました。父を呪い、母を呪い、人を呪い、自分を呪いました。誰を憎んでよいかわからず、獣のように泣いたり怯えたり‥」
 レイアは言葉を切り、ランタンを持ち直すように高く掲げた。
「私はジルベールに慰められ、ブロイ神父に助けられ、イレーヌさまに会い、貴方に会えました。人は決して一人でいるのではないと知りました。貴方といると心の澱が洗われていくようです」
 レイアは長く息をつくと明りを膝に置いた。
「貴女は私を買い被っている。私の心の醜いものをお見せしたい。私は自分の事しか考えた事がないのですよ」
 フェルディナンは揺れる明りを見つめながら言った。レイアはもう一度彼の方を見ると微笑んだ。
「私もそうです。私は貴方に抱いてくださいと頼みました」
「貴女は神のものになろうとしている」
 フェルディナンは目に怒りを込め、憮然と言い放った。
 レイアは彼を見つめると秘密を打ち明けるように密やかに言った。
「神に仕えようとする女が毎晩貴方に抱かれたいと願っているのです。私はたとえ毎日神に懺悔しなくてはならなくとも、貴方にずっと愛されていたい。神の教えよりも、あなたの瞳や唇や指が欲しいのです」
 フェルディナンは両の手綱を片方の手で持つと、空いた手をレイアのからだに回し、胸を掴んだ。
「貴女を家に送ろうと思ったけれどできそうもない。このまま連れて帰りたい。一晩でいいから私の部屋で…」
 もう片方の手で彼女の顔を捕えた。手綱が落ちる。馬の背で揺れながら口づけを交わした。目を開けると蒼い瞳が彼を見つめていた。
「貴方の部屋に入る女は私ではありません。でも私の永遠の恋人はフェルディナンさまです。たとえ誓願を立てようと、私の心と身体から貴方が消える事はありません」




 狭い寝台の上で抱き合いながら天井を見ていた。懐かしい部屋。パリの外れの木立の中にある…
 レイアが行ってしまうのがわかった。どれほど望もうとも彼女は自分の選んだ道を辿るに違いない。もうパリには来ない。思い出になってしまった街にはもう来ない。 
 彼は腕を伸ばすと窓ガラスを指で拭いた。曇ったガラスの端から月が見えた。二人でいると暖かかった部屋も汗が乾いていくと肌寒かった。
 彼はレイアの肩を抱きながら、手を伸ばし、宙を指した。
「ヴェルサイユよりウィーンに住みませんか? 貴女と一緒にウィーンに住みたい。良い街です。自由で活気がある。大学もある。二人きりで住みましょう。楽しいですよ」 
「ウィーンへ?」
 レイアが指の先を見つめる。
「そう、ウィーンです。多少不自由があるかもしれませんがやっていける。そして夏になったらトスカーナにエドワールを訪ねて行こう。きっと驚く」
 彼は掲げた腕をおろした。
「貴方と一緒にそんな街に住めたらきっと素敵でしょうね」
 レイアの声が遠くから聞こえたようで、彼は彼女の肩に回した腕に力を込めた。
「出来ますよ」
 横を向くと見つめるレイアと目が合った。
「フェルディナンさま、これを私にくださいませんか?」
 彼女は彼の髪に結んだリボンに手をかけた。
「私にはそんなものよりもっと良い物を貴女に贈る用意があります」
 彼は身体を起こし肘をついた。レイアの指がリボンを解いた。彼の髪が彼女のからだの上に流れ落ちた。
「貴方からはもう沢山のものをもらいました」
 レイアは畳んだリボンを口元に当て微笑んでいる。たった一つのリボンで満足しないで欲しい。
 今夜を最後の夜にはしない。
 フェルディナンは女を探るべく手を伸ばした。彼の動きに反射するように、彼女が膝に力を入れる。彼はその力に逆らうように腿をこじ開けるとに敏感な部分に手をやった。状態を確めるように指を入れる。そこは先程までの行為を物語るように柔らかく濡れていた。
 膨張した肉は軽く触れるだけで再び熱を持ってくる。男を受け入れた事のない固い蕾のようだった肉体から湧いてくるものに指を濡らしながら、彼はそれだけで達しようかとするレイアの耳に唇をつけた。
「貴女はこんなになっているのに、神に一生を捧げられるのですか?」
 彼女のからだは彼をたやすく迎え入れる。女の感覚は男より深い。何度でも達することができる。何度でも… もっと求めて欲しい。どれほど貪欲に求めても応えてやる。
 からだを反らせる女の顔は至福に満ちている。彼女に自分の持ち得るもの全てを注ぎたい。愛も、命も、慶びも、全て。
 感じて欲しい、もっと、感じて欲しい。素直になれ、欲望を押さえるな、限界を作るな、求める姿こそが美しいのだ…
 愛して欲しい‥ 私を貴女を‥ 愛はどこまでも自由なはず…



 レイアは身体を起こした。傍らで眠る男に顔を近づける。もう触れることは出来ない。足を滑らせ床に下ろす。裸の胸にリボンを抱きしめながら屈み、目の高さを合わせた。
 彼は上を向き寝台の縁に沿うように身体を横たえている。微かに開いた口元から規則正しい息遣いが聞こえる。仄かな明りが長い揃ったまつげの陰を映している。


 今は閉じられている美しい瞳。淡い透き通った緑色。誰も持ち得ない色。蝋燭の明りの元で妖しいまでにきらめいた。
 貴方にその瞳で見つめられ、懇願された。睨まれもし、そして愛された。
 彼女は唇に触れようとした指を引いた。起こしてしまう。彼女は彼の息が感じられるところまで顔を寄せた。
 今はもう彼女のものではない唇。それは動きと容にどれほどの色香を持っていただろう。彼が発音する時、息遣いさえ感じたく、ただ一点を見つめた。
 彼女は目を顔から身体に移していった。顎から首にかけての線が好きだった。肩も腕も胸も、男として完璧だった。彼は肉体の最高の美を神からもらっている。
 身体にも顔にも触れることはもう出来ない。彼女は寝台の上に投げ出された髪に手をやった。そっと撫でつける。艶やかな髪からはいつも芳しい匂いがした。
 フェルディナンさま、貴方に触れて恋をしない女はいませんわ。
 レイアはリボンに顔を埋めた。
 私はこの恋を永遠のものにしたい。人の心も命も永遠のものはない。ただ一つあるとしたらそれは想いだけ。貴方を想う永遠は私の中にずっとある。
 彼の髪を一筋取り口づける。
 フェルディナン、貴方は愛の神。貴方には全ての愛が溢れている。誰もが貴方を愛し幸せになりたがる。皆が貴方に触れたがる。愛は全てを浄化する力がある。
 彼女は愛しい男を見た。
 若い彼。永遠に愛すると信じているほどに…
 ありがとう、フェルディナンさま、貴方に力強く愛されて、私は生きていける。
 幸せになってください、フェルディナンさま、貴方が幸せなら私も幸せ。私に貴方の幸せを祈らせてください。私にできる事は祈ることだけ…
 レイアはフェルディナンの髪を撫で続けた。
 貴方に抱かれた夜は、私の肌に髪に、貴方の香りが移っています。私は自分を抱きしめ、その香りに浸ります。
 握りしめたリボンの上に落ちた滴が絹の色を変えた。
 フェルディナンさま、貴方の姿は忘れません。でも声や匂いはきっと忘れてしまう。この絹にいつまで貴方の香りが残るでしょう。側にいたい。本当はいつまでも側にいたい。

 彼女は絹を抱き、彼の髪を撫でながらいつまでも泣き続けた。



「移り香 [」に続く




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