2004 3/13
挿絵 市川笙子さま

移り香 Y




 フェルディナンは居間の長椅子に体を横たえたまま耳を澄ませた。家の中は誰もいない。今日はヴィクトールが宮廷に初めて出仕する日だった。本来なら彼も宮廷に行くべきだったがとてもそれどころではなかった。明け方母が起こしに来た。いや、あれは朝だったか。ひょっとすると昼近かったかもしれない。
 彼は半身を起こし脇机に置かれたカップを取った。エレナが何種類ものハーブを使い茶をいれてくれた。それはすっかり冷めていたが香りはそのままだった。
「旦那様にはこれが一番効くのです。フェルディナンさまもどうぞ」
 エレナは大きなポットにずっしりと茶を入れてきた。
「少しぬるい方が良いのです」
 彼女はカップに茶を入れると彼が一杯飲み干すまで側にいた。
「いかがです?」
 不思議な感覚だった。渇いた身体の隅々にまで水分がしみ込んでいくようだ。何杯水を飲んでも癒されない渇きだったのに…
 ロドリグの家にいた。途中までは記憶があるがその後は覚えていない。起き上がると頭が割れそうに痛かった。
「なるべく沢山お飲みください」
 エレナはカップに茶を注ぎながら言った。
「エレナ、ハーブは効くのか?」
 フェルディナンは彼女の手つきを眺めながら言った。
「さあ、わかりません。私は教わった通りにやっているだけですから」
 酒に酔いつぶれる事があろうとは… 彼は情けない気分でエレナからカップを受け取った。酒は強かったはずだ。友人達と飲み比べても彼が負けることはなかった。毎晩前後不覚になるまで飲んでも意識を失う事はなかった。彼は酒に対しては自信を持っていた。だが昨晩はどの位飲んだかも覚えていなかった。
 失態だ。彼は苦い思いで長椅子の上に体を倒した。救いはそこがロドリグの家で彼の他には誰もいなかったという事だ。
 長椅子の脇を通る度にエレナが茶を注ぎ足していくのがわかる。
「兄上」
 いやに明るい声がして居間に弟が入ってきた。フェルディナンは肘をつき体を起こした。少し眠ったようだ。ヴィクトールは宮廷から戻ってきたところか‥白い軍服姿が眩しかった。
「お顔の色が悪いようです」
 ヴィクトールは心配気に寄ってくると長椅子の端に腰をかけ顎を引き上目使いで彼の顔を見た。
「昨夜はよく眠れなかったのですか? 美貌が台無しですよ」
 ませた弟の口ぶりに思わず笑った。何より気分が違っていた。ハーブか効いたのだろうか。ヴィクトールは最近ますます大人っぽくなった。フェルディナンは肘掛に体を預けながら整いすぎるきらいのある弟の顔を眺めた。いつの間に弟はこんな表情をするようになったのだろう。口の端で笑いながらの上目使い。これを女にやってみろ、どんなことになるか想像がつく。だがまだ弟は自分の武器に気づいてはいないようだ。
「悪かったな。今日は行かれなくて」
 フェルディナンは弟の晴れ姿を見なかった事を素直に詫びた。
「構いませんよ。これからいくらでも宮廷で会えます」
 ヴィクトールはあっさりと言った。
「母上は?」
「まだ宮廷です。父上とご一緒です。夜の舞踏会までいらっしゃるそうです」
「そうか。お前はもう帰ってきていいのか?」
「ええ、初出仕といっても顔見せだけですから」
 弟は涼しげな顔で微笑んでいるがその表情に隠しきれない喜びが見て取れた。
「何か良い事でもあったのか?」
 彼の問いにヴィクトールの顔が僅かに赤らんだ。
「…国王陛下にお会いしました」
 ヴィクトールの顔と言葉が噛み合っていない。フェルディナンの含み笑いにヴィクトールが緊張するのがわかった。
「近衛隊も暇だな。こんなに早く帰ってきて‥」
 弟を追求するのは止めよう。面白い秘密を持っていそうだが…


フェルディナンはヴィクトールの頬に手をやった。近衛の軍服が良く似合う。宮廷ではさぞ評判を取った事だろう。
「近衛隊が何人いるかご存知ですか? それより‥」
 ヴィクトールはフェルディナンの側に体を寄せてきた。
「兄上が最近宮廷に出ていらっしゃらないのでどうしたのかと沢山のご婦人に聞かれました」
 彼は息を吐いた。その通りだった。宮廷行事にはここしばらく行っていなかった。
「病気なのかと‥皆様ご心配でした」
 嫌な予感がした。
「ルイエル伯爵令嬢など泣きそうでしたよ。もしかするとお見舞いのお客さまがどっさりいらっしゃるかもしれません」
「何と‥言ったのだ?」
 フェルディナンは瞳に険を含ませ弟を見た。
「何も‥」
 ヴィクトールは素知らぬ顔で彼から目を反らせた。
「出かけてくる」
 フェルディナンは立ち上がった。気分はすっかり回復していた。
「兄上、どちらへ?」
 ヴィクトールは顔を上げて兄を見た。
「今日は父上も母上もいない。お客があったらお前が相手をするのだ。わかったな?」



 小さな石段のある診療所に明りは灯っていなかった。扉には錠が掛かっている。フェルディナンはヴェルサイユのデュルフォール家に寄らず真っ直ぐここにきた。辺りはもう暗かった。彼は建物の裏手に回ってみた。闇の中に沈んだような小さな教会。その窓の一つに微かな明りが見えた。辺りが暗いからかろうじて見えるだけの小さな明りだった。
 フェルディナンは木戸を押し明りの灯る窓に向かった。
 教会の入り口は手で押すだけで簡単に開いた。中は暗く狭かった。中央の通路を挟み両脇に長椅子が数列。正面の祭壇もキリスト像が掛かっているだけの質素なものだった。明りはそこに灯っていた。最前列に人がいた。彼は音を立てないよう気をつけながら壁際の通路を通り前に進み出た。蝋燭の明りに照らされながら胸の前で手を組み祈りを捧げる人。穏やかで優しい表情。神々しさを持ちながら寂しげな横顔。
「何を、祈っているのです」
 人の気配がしても彼女は祭壇を見つめたままだった。だが胸の前に組んでいた両手を膝の上におろした。一本だけの蝋燭の灯。それは祭壇と祈る人を照らしている。何本もの蝋燭で煌くシャンデリアより雄弁な灯りを初めて見た。
 フェルディナンは祭壇前に歩み寄ると彼女の隣に腰を下ろした。その時初めてレイアは彼を見た。
「邪魔をするつもりはなかったのですが‥」
 蝋燭の明かりの下で蒼い瞳は昼間とは違った色に見えた。
「貴女が行ってしまったらお父上はさぞ寂しがるでしょう」
 本当はこんな事言いたくはなかった。だがどうしてもレイアにマルセイユ行きを止めてもらいたかった。会った事は一度もなかったが同胞を無くしたデュルフォール男爵の心情は察する事ができた。もし今自分がヴィクトールを失ったなら心は永久に凍って感覚を無くしてしまうに違いない。
 レイアの顔に笑みが浮かんだ。それはどこまでも優しかったが儚くすぐに消えた。彼女の微笑みは彼の心を焦燥に駆り立てる。
「父はマルセイユ行きを許してくれました」
 小さなはっきりとした声だった。
「なぜ?」
「お前の好きなように生きろと…」
 フェルディナンはその言葉に冷たいものを感じた。デュルフォール男爵はレイアを修道院に入れたいのだろうか。
「あの家から貴女がいなくなったらどうなります? お父上や年老いた召使い達は…」
 家の為に彼女の人生があるのではない。わかっていながら言わずにはいられなかった。デュルフォール家はかろうじてレイアで持っているような気がした。彼女がいなくなったらあの家はきっと寂れて打ち棄てられていく。
「弟がいます。弟の代になったらきっとあの家は不幸から立ち直るでしょう。あの子はあの家の不幸に染まっていない。とても明るくて強い子です」
 彼女はフェルディナンを見て微笑んだ。信念に裏打ちされたようなしっかりした微笑みだった。
「フェルディナンさまが私の事を心配してくださる気持ちはありがたいです」
「心配? 私の気持ちは同情からだと言いたいのですか?」
 フェルディナンは拳を握り締めた。レイアには自分の気持ちが伝わっていないのではないかと思う。
「いいえ、フェルディナンさまが愛してくださっていると信じています」
 彼女の瞳は真っ直ぐ彼を見つめていた。レイアは無駄な事を言わない代わりに必要な事は相手の目を見て言うに違いない。
「貴女も私を愛していると言った」
 フェルディナンは身を乗り出した。あの日、問いかける彼にレイアははっきりそう答えた。だが聞くまでもなく彼女は自分を愛してるという確信があった。決して自惚れではないと思う。オペラに誘った時も受けてくれたし口づけた時も拒みはしなかった。だが大事なのはそんな事ではない。彼女は彼女自身の事や家の事、秘密といったようなことを話してくれた。それは心を寄せる相手に対する信頼ではないのか。それは愛ではないのか。
「私の申し出を受けていただきたい」
 体の中に溜まる衝動を押さえきれない。レイアが結婚を拒む理由は何だ。愛し合っているのならどれほどの障害があっても乗り越えていく自信があった。
「私はずるい女です。フェルディナンさまの側で飽きられて暮らすより貴方の心の中に一生住み続けられる方を選びます」
 レイアの横顔は固く視線は膝の上に落ちていた。彼女は膝の上で指を一本一本切り取るように折っていった。
「貴女は私を愛している。それがわかっていながらなぜそんなことが言えるのです!」
 彼女の言葉は彼を怒らせた。フェルディナンはレイアの肩を掴んでこちらを向かせた。時々レイアがひどく残酷に思える。
「貴女は私を愛している。それを分からせてやる!」
 フェルディナンはレイアの背に腕を回すと力を込めて引きつけ乱暴とも言える動作で彼女の唇に口をつけた。
 眼差し一つで女を落としてきた。口づけて心を奪えない女はいなかった。だがもうそんなことはどうでも良かった。欲しいから口づける。重ねる唇の感覚が全てだった。
 感じるものは吐息のみ‥ フェルディナンはレイアの息を呑み唇を動かした。自分の中で餓えて叫ぶものが満足できるまで柔らかい肉を貪りつくしたい。だがそれは貪欲に次を求めてくるものだと知っている。
「キスを‥返して」
 彼女の口づけを誘いたい。フェルディナンはレイアの唇の形を探るように舌を動かした。唇の内側の粘膜を舐め前歯に舌を絡める。だが彼がどんなに口づけても彼女が返してくることはなかった。
 彼から逃れるようにレイアが首を後ろに倒した。彼女の喉から息を吸い込む音が聞こえた。目の前に白い喉が晒される。それはより一層彼を刺激した。彼はレイアの頭を横に向けると髪をかき分け耳の下の皮膚に唇をつけた。暖かさとしっとりとした感触。温もりと共に感じる彼女の匂い。餓えた獣が水を飲むように肌を吸った。
 抗うようなレイアの腕さえ彼の衝動を後押しするものでしかなかった。フェルディナンは背中に回した腕に力を入れた。彼女の背がしなり胸が押し出される。首から胸に唇を移そうとした時だった。レイアが強く彼を押した。
「お止めください、フェルディナンさま! 神の御前です!」

 蝋燭を持ってレイアが前を歩く。彼女は急ぎ足で教会を抜け中庭を横切ると診療所の石段を登った。そして身を屈めると錠に鍵を差し込んだ。
 祭壇前ではたらいた狼藉に後悔がない訳ではなかった。彼女の意思に反して無理な事をしたと思う。レイアは彼の力を振り切ると乱れた髪を素早くまとめ立ち上がり蝋燭を持った。そして彼をうながすような動作で先に立った。その様子は怒っているようにも怯えているようにも見えなかった。
 開けられた戸から香ってくる匂いに覚えがあった。これは薬の匂い。彼が良く知る香水や白粉や湯気のたつ贅沢な料理とは明らかに違う。だがそれは不快ではなかった。むしろ人の心を和ませ安堵させる匂いだった。
 レイアは木で作られた椅子の上に蝋燭を置くと今度は内側から鍵をかけた。
「こんなに遅くまでここにいるのですか?」
 フェルディナンは蝋燭の光の届かない暗闇に目をやった。
「モランド先生が診察に見えるのは午後です。私はそれまでに掃除や薬の用意をします。先生がお帰りになってからは言い付けられた薬の準備と後かたずけ、洗濯などもします」
 彼女は頷き、笑って答えたがフェルディナンの胸は潰れそうだった。貴族の娘の仕事ではない。彼女はきっと平民の女でもやらないような汚い事もするに違いない。
「貧しい者の為に力を貸したいという貴女の気持ちは立派だと思います。母も伯母も慈善には力を入れている。でも慈愛とは金を出す事ではない。必要としている人に手を差し伸べる事だ。貴女を見ているとわかります。でも‥」
 イエスは手を触れ病を治した。それはわかる。だが彼女にはもっと相応しい道があるはずだ。彼女の意思を通すに相応しいやり方。それはこんな小さな診療所の下働きや修道会に入る事ではないはずだ。だが矛盾した気持ちをうまく説明できない。
 レイアは困ったように笑った。
「フェルディナンさま、私はそんなに立派な人間ではないのです」
「貴女は人の役に立っている」
 彼は顎を上げ言い切った。何者も彼女を非難する事は出来ないはずだ。
 レイアは首を横に振った。
「最初は私も人の役に立ちたいと思いました。誰かの為にちょとした手助けが出来ればと考えました。でも助けられていたのは私だったのです。私がしたことの何倍もの恵みを彼らは返してくれます。そんな時私は生きている、生かされていると実感できます」
「これは貴族の娘のする事ではない」
 フェルディナンはつぶやくように言った。言葉にすれば自分の気持ちと離れていくように感じるのはなぜだ。
 彼の耳に静かな声が届いた。
「私が私でいる為に彼らと神の力が必要なのです」
「だから一生を神に捧げると…?」
 彼は拒否するように首を振った。信仰を蔑ろにするつもりは無い。だが彼女の選ぶ道はあまりにもむごい。
「フェルディナンさま、どうぞこちらへ」
 レイアは椅子の上に置いた蝋燭を持つと部屋の奥にある戸を開けた。そこからは急な階段が二階へと伸びていた。彼女は蝋燭を高く掲げ先に登って行く。フェルディナンも後に続いた。
 登りきった正面の窓からは月光に蒼く塗られたような木立ちが見えた。廊下は階段を囲うようについている。扉は一箇所。
 レイアは廊下に灯を置くと扉を開けた。部屋が明かりを吸い込んで浮かび上がる。四つ並んだベットが目に入った。
「重い病人がいる時はここで看護することもあります」
 彼女は蝋燭を持つと部屋の中に入っていた。灯が無くなった廊下は闇に覆われた。彼は窓の方を振り返った。暗闇に浮かび上がる静寂を描いたような蒼い空、月明かり。それは飾りのない家に掛けられた絵のようにも見えた。
「ここが私の部屋です。狭くて物が沢山置いてありますが」
 レイアの声に彼は部屋を覗き込んだ。右奥にカーテンが掛かっている。彼女が蝋燭を置いたのだろう。カーテンで仕切られた入り口の向こうが暗闇の中に明るく浮き上がった。
 フェルディナンは廊下に立ったまま部屋の中を見渡した。この家は入り口の石段や外壁は勿論、階段も天井も壁も床も彼の家と違っていた。どこも剥き出しのままの粗末な作り。それにひどく狭かった。だが飾りも覆いもないのにどことなく暖かさが感じられるのは何故だろう。先導する灯の色のせいだろうか。ここにいると包み込まれるような安らぎを覚えた。狭さが安息を生み出すのだろうか。
 カーテンを引き絞る音がして部屋の中が僅かに明るくなった。彼は躊躇いがちに部屋の中に足を踏み入れた。しんと静まり返った家の中で奥の部屋が誘うように瞬いている。
 フェルディナンは引いたカーテンに手をかけた。二間続きというよりは衣裳部屋か化粧室といった広さだった。部屋の正面に大きく窓が取ってある。そこからは廊下で見たのと同じ木立ちと空と月とがあった。窓に沿ってベットが置かれている。入り口の左右の両壁には棚が設えてあり綺麗にたたまれたシーツや枕などリネンの類が整然と並べられていた。もう片方の棚には幾つもの缶や箱が積み重なっている。さらにベットの足元には本棚のついた机がありその隣に小さな衣装箱が置いてあった。
 レイアがフェルディナンの正面に回り彼を見上げた。何か言いたそうだ。彼は黙って彼女が何か言うのを待った。
「私はブロイ神父の元で自分の居場所を探したいと思います。私は自分が生きるだけで精一杯の女です。フェルディナンさまにお心をかけてもらいながらそれを受けることはできません。それでもよければ、私を愛してくださっているのなら‥ どうぞ‥ 一度だけで良いのです… 私を抱いてください」
 思いもかけない言葉だった。彼はその意味を探ろうとレイアの顔を見つめたが彼女の真意は読み取れなかった。
「私に‥情けをかけてくれるつもりですか?」
 彼は口の端で笑いながら言った。女に拒まれ憐れみをかけてもらうとは‥ 彼は笑いながらも眉根に力が込もるのを感じた。
「私が欲しいのは貴女のからだではない。先程の無礼はお許しください。私は貴女の全てが欲しい。その為にはどれほどの我慢でもしてみせます。どうか私と一緒に生きる道を選んでください」
 最後は喉の奥から搾り出すような声になっていた。何故レイアに気持ちが伝わらない。フェルディナンは顔を俯けた。女と話していて自分から目を反らせたのは初めてだった。
「貴方の愛を失ったらもう私は生きてはいけません。だから行くのです。幸せになってください、フェルディナンさま、あなたが幸せになるのなら私も幸せになれる」
 レイアの声は訴えるようだったがその意味はさっぱり分からなかった。
「貴女を失って私が幸せでいられると思うのですか?!」
 彼は顔を上げるとレイアのドレスの釦を外し邪険に両袖を下ろした。
「抱いて欲しいと言いましたね。女を抱くなど何でもない。好きなだけ抱いてあげます。私の気持ちが分かるまでいくらでも!」
 彼はレイアを後ろ向きにするとコルセットの紐に手をかけ手早く外していった。コルセットが床に落ちた。彼が肩に手をかけこちらを向かせるのとレイアが袖から抜き取った両腕で裸の胸を覆うのと同時だった。彼女は震えている。
 フェルディナンは彼女の両手首を押さえると胴に沿わせるように力を入れて下におろした。レイアが小さな悲鳴を上げた。
 彼は両手首を押さえたまま剥き出しの上半身をしばらく眺めていた。レイアの震えは大きくなる。彼は右手を離すと顎に手をかけ上向かせながら彼女の顔を見た。見つめるだけ。レイアは観念したように眼を閉じた。
 彼はさらにドレスに手をかけると音を立てそれを引きずりおろした。何の躊躇いもなく下着も一緒に脱がせた。叫び声を上げレイアがしゃがみ込もうとする。彼はそれを阻止するように彼女の膝に腕を回した。抜け殻のようになったドレスがらレイアを抜き取るように抱き上げる。
 燃え尽きようとする蝋燭が小さく揺れた。
「言い出したのは貴女ですよ。後悔はないですね」
 彼は月光の注ぐ寝台に女をおろした。


 レイアは生娘だった。彼のからだにはっきりとその証が残っていた。
「迎えの馬車が…」
 彼女はからだを起こすと窓から通りの方角を眺め急いで服を着始めた。フェルディナンは出て行こうとするレイアの腕を取った。
「明日の同じ時間‥ 教会でお待ちします」
 闇は濃さを増し月明かりが冴える。レイアが頷くのが見えた。



 レイアとからだの関係が出来ていた。だからイレーヌ伯母に呼ばれた時、緊張がなかったと言えば嘘になる。
「よく来てくれたわ」
 伯母はいつものように朗らかに迎えてくれた。
「ヴィクトールの閲兵式を見たわ。素晴らしいわね、あの子」
 イレーヌは顔に満面の笑みを浮かべ彼を客間に案内する。椅子を勧める伯母の様子にいつもと変ったところは見られない。
 席に着くと待っていたように侍女が茶を運んでくる。イレーヌ気に入りの茶道具から立ち昇る良い香りと沢山の種類の菓子。伯母はいつも珍しい菓子でもてなしてくれる。幼い頃、弟も自分もそれが楽しみで伯母の家を訪れたものだ。
 フェルディナンは目の前に並べられたとりどりの皿から一つを取り出した。もう甘いものにつられる年ではないし伯母に付き合うのも義務感の方が強かった。だが慈しんでくれた彼女の愛には応えたいと思う。
 彼は杏のジャムをたっぷり塗ったスポンジにフォークを入れた。イレーヌが満足そうに微笑む。伯母はどうも自分やヴィクトールに何かを食べさせそれを眺めるのが好きだ。多少見張られている気がしないでもないが期待には応えなければならない。それに彼は伯母の前では半分エドワールになったつもりでいた。
「そうだわ、アリーヌ、さくらんぼのブランデー漬けがあったわね。それも持って来てちょうだい。私にはコンポートを‥」
 イレーヌは侍女に呼びかけるとカップを取り上げ母の茶会の話を始めた。フェルディナンは伯母の話を片耳で聞きながら未来を思い描いた。
 レイアと結婚したら‥あの館を修理して大勢の召使いを雇い入れよう。彼女の家は裕福とはいえない。使用人は年老いたものばかり。それも何人もいない。弟は働いている。彼の頭にデュルフォール家で見た厩番や料理人の女の顔が浮かんだ。彼らはやつれてみすぼらしかったが善良そうな顔をしていた。彼ら古参の者にはそれ相応の待遇をしよう。
 緑の美しい館だ。庭の手入れをしたらさぞ見事になるだろう。そして館の内装を一新し馬車や馬も替える。宮廷にも目通りがかなうように手を尽くそう。
 自分達は両親とは別に居を構え理想の館を作る。一流の技師に設計させ内装はレイアの好みに仕上げてもらう。家具も彼女に選ばせる。
 衣裳部屋をドレスで一杯にし誕生日や記念日には宝石を贈る。そしてレイアは大学に通う。図書室もいる。世界中の文献を集めガルダン家の二倍の図書室を作ってやる。そこで彼女は毎日笑って過ごすのだ。
「フェルディナン? 何を考えているの?」
 イレーヌの瞳が彼を見つめていた。
「別に、何も‥」
 彼は慌てて伯母を見た。
 イレーヌは侍女が捧げ持ってきた盆から皿を受け取るとフェルディナンの前に置いた。ブランデーの匂いが香った。
「貴方にはこちらの方がいいかもしれないわ。食べてみて。丁度いい具合だと思うの。さくらんぼは好きでしょう」
 伯母には幼い頃からの趣味嗜好を見抜かれている。逆らえない。フェルディナンはさくらんぼの茎をつまみあげると口を開け微かに色の抜けた粒を舌の上にのせた。果物の丸みを舌で確め歯を立てる。果汁の代わりに酒と果実本来の持つ甘味の相まった汁が口の中に広がり溶け出していく。
「レイアには会っているの?」
 伯母の聞き方は実にさりげなかった。
「はい」
 フェルディナンは皿の上に種を出すともう一つを取り上げた。さくらんぼは姿も愛らしいが締まった果肉が好きだ。ピンと張り切った皮は歯を立てると音を立てるように弾ける。初夏の頃出会うこの果実が彼は好きだった。
「ブロイ神父の教会はパリにあるの。そこには小さな診療所もあってね、あの娘(こ)はそこに良く行っているのよ」
 伯母の話を黙って聞きながら彼は舌の上で小さな粒を転がした。
「男の貴方にこんな話はどうかと思うけれど、ある人の娘さんが難産で苦しんでいた時、その先生の力を借りようとした事があるの。その先生は難産を安産に変えてしまうある技術に長けているのよ。けれど生憎彼は貴族は診ない主義でね。随分度胸のあるお医者様だわね。私は嫌いじゃないわよ」 
 イレーヌは胸に手を添わせ肩をすくめて言った。フェルディナンは果実を奥歯で噛み潰した。じわりと甘味のある汁がこぼれ出てくる。話に覚えがあった。ロドリグの家で聞いた話ではないか。
「レイアは彼と貴族の橋渡しだったのだけれど、どれほど頼んでも彼は来てくれなかった。このままでは娘も孫も死んでしまうと思った夫人はレイアに頼んだのだけれどそんな事素人にはとても無理なのよ」
 イレーヌがこのような話をするのは珍しかった。彼女は噂好きではあったがどれもが身内の事か他愛無いないものばかり。彼女は話が奥深くに踏み込みそうになるとおどけて話を反らすのが常だった。イレーヌの話が核心に迫る時はすぐわかった。そんな時の伯母はまるで痛みをこらえているかのような表情をする。
「女にとって大事でデリケートな話が噂になっているわ。もう随分経つのにね。でも私の言いたいのはこんな事ではないの。同じ風景でも観る人によって違って見えるという事なの。赤ちゃんは無事に産まれたわ。けれど牢に繋がれる覚悟でやったというあの娘(こ)を悪く言う人もいるの。レイアはそのあと三日寝込んだらしいわ。私は娘と孫を助けてもらった本人から直接聞いたのだけれど、人の噂は色々よ」
 イレーヌは目を伏せると小さく溜息をついた。
「人の手の届かない断崖の上で咲く花を、日当たりの良い花壇に植え替えたら‥枯れてしまうかもしれない」
 独り言のような伯母の言外に意味がこもるのを感じた。イレーヌは示唆する事があっても決して強要はしない。彼の心にいつもわだかまっている不安が頭をもたげた。
「大丈夫です、叔母上、ご心配はいりません。私は彼女を幸せにしてみせます」
 彼は不安を払拭するよう言い切った。イレーヌは優しく頷くと手を伸ばし彼の手に触った。伯母は自分の味方でもあるが同時にレイアの味方でもあるのだ。伯母の言動に不安を覚えながら彼はイレーヌがレイアに何か口添えをしてくれたのではないかと思った。



「移り香 Z」に続く


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