2005 9/22

誕生日のドレス

−前編−



 私が初めてジャルジェ家を訪れたのは1760年の春だった。ジャルジェ家のご長女、マリーアンヌさまが結婚を控えられていた。ジャルジェ家は古い家柄の由緒ある伯爵家で、美しく整えられた前庭と重厚ながらも洗練された館との調和も美しい、ベルサイユでも有名な家だった。
 マダム・コルディエに連れられて、見上げるほど高い天井のホールに立った時の感動を、私は忘れない。それまで漠然と思い描いていた私の夢が、ここではっきり姿を現したからだ。
 店の片隅で針を動かしながら、いつも私の心の中に宿っていたもの… いつか自分の手で美しい貴婦人のドレスを縫いたい。マダムや先輩職人から言われる通りに縫い取っていくのではなく、自らデザインし、目の前にいるその人の為に一着のドレスを仕立て上げる。それが私の夢だった。 
 婚礼真近のマリーアンヌさまはそれは美しかった。マダム・コルディエがドレスの腰に針を留めていく。私はマダムが仕事がしやすいように回りを片付けながら、マリーアンヌさまの結い上げた髪を見た。ほっそりとしたうなじから流れる背中のライン。それにドレスの背の大胆なカットが沿っていく。このラインが最も美しく女性の背を見せると私は思う。
 だが、それまで仮縫いを見ていたジャルジェ夫人から、背中が開きすぎていると指摘が入った。もう少し慎み深く。だがそれにはマリーアンヌさまが反対だった。このドレヌにはこのカットが似合う。私はこれでやって欲しいと。
 いけません、そのスタイルはもっと年のいった女がするものです。若い新妻には合いません。夫人も強行だった。
「この部分をオーガンディーで覆ってみたらどうでしょう」
 思わず口にしてから、しまったと思ったが遅かった。ジャルジェ夫人とマリーアンヌさまとマダム・コルディエ、三人の瞳が私に注がれた。
「申し訳ありません。余計なことを…」
 恥じ入る私にマリーアンヌさまが言った。
「良い考えだわ。そうして頂戴」
 未熟な私の折衷案は思いもかけず受け入れられた。ジャルジェ夫人も賛成してくれ、私はマダムからデザインの変更を任せられた。
 店に戻った私は大急ぎでやりかけの縫い物を片付けると店の片隅の小さな自室にこもり、紙にドレスのデザインをおこしてみた。背中のカットをオーガンディーで覆うとなると、胸のカットも変えた方が良いだろう。オーガンディーの襟がくる分、カットはもう少し深くできる。
 本来のカットであれば素肌に大きな宝石を乗せるところだが、代わりになるよう、襟ぐりを真珠で囲ってみたらどうだろう。糸は綺麗な光沢のある銀の糸。慎みを失うことなく、新妻の初々しい華やかさが出せると思う。
 一枚書き終わっても高揚した気持ちは静まるどころか、より高まり、私は次々デザイン画を描いた。その中の何枚かをマダムに選んでもらい、私はジャルジェ家にそれを持っていった。マリーアンヌさまも奥様も大層喜んでくれた。そして、次の仮縫いの時、針を持っていたのは私だった。
 仮縫いのドレスはマリーアンヌさまが婚礼先にお持ちになる何着かの一つであった。彼女がいくつドレスを持っていくのかは知らないが、店には三着の注文が来ていた。私は針を留めつけていきながら、婚礼衣装の注文を賜ったのはどこの仕立て職人だろうと考えていた。


 ジャルジェ家にはマリーアンヌさまの他に四人のお嬢様がいらした。二番目のお嬢さまであるクロティルドさま、三女のオルタンスさま、そしてカトリーヌさま、ジェセフィーヌさま。
 マリーアンヌさまが嫁がれると同時に、ジャルジェ家からクロティルドさまとオルタンスさまのドレスの注文を頂いた。お二人とも夏至祭のパーティーに着ていく為のドレスだった。私はお二人からどんなドレスにしたいかお聞きして、その場でデザインを描いてみた。お二人は目を輝かせ、私の手元見つめ、描きあがるやいなやそれをジャルジェ夫人の元へ見せに行った。ジャルジェ家のお嬢様達は皆明るく、素直な方ばかりだった。
 次第にジャルジェ家のドレス作りは私に任されるようになっていった。私が生地やリボンやボタンの見本を持ってジャルジェ家を訪れると、お嬢様達は皆一斉に歓声をあげ、歓待してくれた。クロティルドさまやオルタンスさまはもちろん、一番小さなジョセフィーヌさまも私の手からリボンを見ようと抱きついてきた。
 その頃ようやく二十歳を過ぎた私はジャルジェ家のお嬢様達と年が近かったのが幸いしたかもしれない。彼女達に私のデザインするドレスは評判となり、ジャルジェ家のお嬢様方のドレスは私を名指しで注文を頂くようになった。

 ジャルジェ家には五人のお嬢様の他に跡取りである男の子が一人いた。輝く金の巻き毛が可愛い活発な少年だった。ジャルジェ家の末っ子はまだ小さかったが、五歳にも満たない彼は父である将軍からすでに剣の手解きを受けていた。
 お嬢様方のドレスを縫いながら、私はオスカルさまが気になって仕方がなかった。彼はあまりに綺麗な少年だった。薔薇色の頬に蒼い利発そうな瞳、金色の巻き毛に活発で身軽な身のこなし。
 私はジャルジェ夫人にオスカルさまの普段着のシャツを縫わせて欲しいと願い出てみた。跡取少年にはそれに相応しい旦那さまがお選びになった職人が付いているに違いないのに、恐いもの知らずの若さが私に味方した。奥様は鷹揚に微笑むと私にオスカルさまのシャツとキュロットを手渡してくれた。
「あの子は少しもじっとしていないのよ。採寸などとてもできないと思うわ。これを見て同じように作ってちょうだい」
 私は小さなシャツとキュロットを胸に抱え店に戻った。マダムに事の次第を話すと彼女は目を丸くして息をついた。
「あなたって人は‥ 驚いたね。オスカルさまの服まで任せてもらえたら大したもんだ」

 店の仕事が済んだ夜に自室で小さなシャツを縫い上げていった。夫人から貸してもらったシャツは子供のものであったが、大人と同じデザインだった。それは年少であっても伯爵家の跡取としての品位を保つには必要なのかもしれない。だが普段着はもっと動きやすく、軽くて良いのではないか。これは注文ではない。試作品だという気楽さがあった。私は思う通りに仕上げ、それをジャルジェ家に持っていった。

 次の週ジャルジェ家に行った時、夫人が私に言った。
「あなたに縫ってもらったブラウス、オスカルはとても気に入りました。これからはあの子の服も縫ってちょうだい」
 この時私は初めてオスカルさまと正面から顔を合わせた。
「さあ、オスカル、あなたの服を縫ってくださった方ですよ。ご挨拶なさい。それが済んだら採寸です。じっとしていないと着心地の良いシャツは着られませんよ」
 床に膝をついた私の目を見つめ、オスカルさまは小さく微笑んだ。ジャルジェ夫人にシャツを借りてほんの一週間かそこらの出来事だった。思いもかけない事態に私はうろたえた。私は目の前に立つ小さなオスカルさまの身体の寸法を測りながら、手が震えるのを感じていた。オスカルさまは瞳を輝かせながら興味深そうに紙に数字を記していく私の手元を見つめていた。
 それがオスカルさまと私の出会いだった。そしてこの時、私はオスカルさまが女の子であることを知ったのだ。


 それから私はオスカルさまの服を任されることになった。1760年のノエルに私は心を込め、オスカルさまにブラウスをキュロットを贈った。
 ジャルジェ家では二番目のお嬢さまのクロティルドさまが嫁がれたが、店には三人のお嬢様のドレスとオスカルさまの服と下着の注文を頂いてた。店は繁盛した。だがその絶頂期の最中にマダム・コルディエが急逝した。有能なお針子は沢山いたが、皆、散り散りになっていった。私は身の振り方を思案した挙句、パリの裏に小さな場所を借り、そこで仕立物をすることにした。
 私の蓄え程度で場所を貸してくれる人が見つかったのは幸運だったし、伝を頼っていくらかの借金もできた。だが… 私は埃だらけの煤けた壁を見ながら泣いた。私に針の運びを教えてくれ、注文主のところへいつも連れていってくれたマダム。
「私はおまえに期待しているんだ。いつかきっとパリ一の職人になるに違いない」
 優しく、時に厳しく仕込んでくれたマダム。私は壊れたテーブルに腕を乗せ、顔を伏せて泣いた。マダムの死は私に悲しみだけでなく、深い絶望と落胆をもたらした。もっと色々教えて欲しかった。父を亡くし、母を亡くし、故郷を捨てた私には、マダムだけが頼りの全てだったのに… 
 私は足元に置いた鞄を机の上に置き、そっと蓋を開けてみた。有り金をはたいて買った絹の布地が入れてある。私はそれを取り出しながら、描いていた夢が遠ざかるのを感じていた。こんなうらぶれた場所に高貴な身分の方は来ない。私は今日からパリのおかみさん達の仕立物をするのだ。
 食べていければ良い。そう腹を括りながらも、私は最上級の絹を店の一番目立つ所に飾った。布地の前に何点かのデザイン画も置いてみた。だがそれだけだった。他にこの店には何もなかった。
 世の中の温情は私を飢え死にさせることはしなかった。看板も置けない「仕立物の注文賜ります」の張り紙だけの店に仕事がポツポツ入りだした。だが最も私を驚かせたのは店にマロン・グラッセさんが姿を見せたことだった。
「やれやれ、やっと見つけたよ」
 マロン・グラッセさんは私を見ると懐かしそうに微笑んでくれ、抱きしめてくれた。
「マダムは気の毒なことをした。元気を出して」
 彼女の胸に抱かれながら私は泣いた。母に抱かれた遠い記憶が蘇る。暖かい胸に顔を擦りつけ、そこに涙を落としながら、私は思いもかけない言葉を聞いていた。
「今日はあなたを迎えにきたんだ。奥さまがオルタンスさまとカトリーヌさまのドレスを縫って欲しいとおっしゃっている」


 私は以前のようにジャルジェ家に出入りし、再びお嬢様方のドレスを縫うようになった。誰のものでもない私の店に頂く注文。小さな店はパリのおかみさん達に重宝がられ、繁盛していたが、貴族の家からもらう金額は桁が違っていた。私は奥様のドレスさえ縫わせてもらった。
「あなたがこの前作ってくれたドレス、とても評判が良かったの。どこで作ったのか聞かれてね」
 私が店を持ったと知ったジャルジェ夫人は私にお客を紹介してくれた。


 質素な店を見て注文を止める客もいたが、物珍し好きな貴族の奥様方が私に仕事をくださった。次第に私の店は“貴族の仕立物もする店”として評判を取っていった。


 しばらくぶりのジャルジェ家にはマロン・グラッセさんの孫の少年が引き取られていた。両親を無くした彼は幼い頃の私と重なった。初めて会った時の彼のはにかんだような笑顔。私はそれが忘れられない。悲しみの中にいるであろうに、限りない愛を感じさせるような笑みだった。黒い髪の利発そうな少年。その彼にオスカルさまは夢中だった。
 平民である彼にオスカルさまが夢中というのは変かもしれないが、二人を見ているとどうしてもそう見えた。私はオスカルさまから、初めて服のデザインについて具体的な注文を受けた。彼女は一枚のシャツを取り出し、こう言った。
「これから僕のシャツは全部これと同じにして」
 私は差し出されたシャツを手に取った。木綿生地の粗末なシャツだった。私は顔を上げた。
「僕はこれと同じ物が着たいんだ」
 それはマロン・グラッセさんの孫のアンドレ少年の物だった。私はオスカルさまに微笑みかけ、頷いた。
「はい、わかりました。これからはそのようにいたします」

 いくら同じ物といってもオスカルさまのシャツを同じ生地でつくるわけにはいかない。私は柔らかい絹の生地を使いながらも、デザインは全く同じに仕上げていった。
 女の子であるオスカルさまを思い遣り、奥様は襟や胸元にフリル寄せたり、清楚なリボンで縁に飾りを入れたりと、控えめでありながら心をくだいた心遣いをしていたが、オスカルさまがお選びになったものは飾りの全くない簡素なものだった。
 新しいシャツを手にした時のオスカルさまの嬉しそうな顔。お揃いのシャツを着た二人の少年は本当の兄弟のように見えた。

 部屋にはお嬢様方の歓声が聞こえ、庭には呼び合うオスカルさまとアンドレの快活な声があった。ジャルジェ家は愛と慈しみに溢れた家だった。



 活発なオルタンスさまが嫁がれるとジャルジェ家は少し寂しくなった。きっかけを作ったのは部屋に流れる秋の日だったかもしれない。主のいない部屋に佇み、床の陽だまりを見つめる奥様の横顔にマロン・グラッセさんが言った。
「奥様、これからはオスカルさまにもドレスが必要です」


 もちろんそれは秘密だった。ジャルジェ家の当主がお決めになった養育方針を変えることはできない。だが常に備えは必要である。そういう理論で事は進んでいった。
「いずれはオスカルさまも宮廷にお出になるわけですし」
 一着目のドレスは今までドレスを着たことのないオスカルさまの為に部屋着から入ってみた。胸の下で軽くしばるデザインのふんわりした愛らしいドレス。色は薔薇色。もっともそれがオスカルさまや旦那さまの目に触れる事はない。これは女三人の密かな楽しみであった。
 私がオスカルさまの為に作った初めてのドレス。甘やかな色の薄い絹を手にし、奥様はそれでも嬉しそうに微笑んでくださった。
 それはちょうどオスカルさまの誕生日でもあるノエルの晩だった。


 それからは、毎年春先になると私は新しい布地の見本を持ってジャルジェ家を訪れた。奥様の居間で、夫人とマロン・グラッセさんと三人で新しいドレスの構想を練る。最も心躍る楽しい時間だった。
 奥様の希望やマロン・グラッセさんの提案を受け入れ、デザインを起こす。出来上がったものを持って再びジャルジェ家を訪れる。ああでもない、こうでもないと奥様達とドレスのデザインを考える時間が至福だった。デザインが決まれば、後は私の作業だった。私は店の仕事が終わってから、それを仕上げていった。急ぐことはなかった。納めるのはノエルの日と決まっていた。
 ノエルに納められたドレスは多分、誰の目にも触れず、そのまま衣装部屋の片隅に仕舞われる。一年に一着だけのドレス。それで良かった。これは楽しみでしていること。奥様からは充分な報酬と一緒に、来年はこうしたいという希望をいただいた。


 昨年は春のドレスを作ったから、今年は夏の色で‥ 女達の密やかな楽しみは続いていった。オスカルさまは成長なさる。その変化に沿いドレスを作る。
 私は美しい花を見たり、新緑や空の青さに感動した時に、よくスケッチをした。花飾り、流れる緑、爽やかな風、木漏れ日、美しいもの、オスカルさまにふさわしいものを捕まえたかった。だが最も想像力を刺激してくれるのはオスカルさまだった。
「ほら、鳥をつかまえたんだ」
 私に小さな雛を見せてくれるオスカルさま、アンドレの頭に吹雪のような花びらを散らすオスカルさま、手にした剣に落ちてくるきらめく日の光。
 私は大急ぎで戻り、今見た光景をデザインに置き換えてみる。アイディアはいくらでも湧いてきた。



 カトリーヌさまが嫁ぎ、ジョセフィーヌさまが嫁ぐと、女達の道楽はより本格的になっていった。
 思春期を迎えたオスカルさまの成長ぶりは目を見張るものがあった。十四歳になったオスカルさまはオーストリアから輿入れされたアントワネットさまの警護に付くため軍服を着ていた。将軍のお導きの元お育ちになったオスカルさまの凛々しい近衛隊員ぶりは宮廷中の令嬢や夫人の心を虜にしたようだが、私は軍服姿の彼女の表情の裏に普段は隠れる女としての顔を見ていた。
 私は宮廷に上がったことはなかったが、何度かお勤めからお帰りになったオスカルさまを見たことがあった。負わされた重圧。その責任感から開放された時、オスカルさまは実に魅惑的な表情をされた。
 軍服を脱ぎ、髪を揺する。ほっとしたような柔らかい表情の中に、まもなく開花する大輪の花を思わせる艶やかさ…
 オスカルさまがお館にいる時はいつもアンドレと一緒だった。マロン・グラッセさんの大切な孫。こちらも大きな瞳の愛くるしい少年が、実に魅力的な、少年と呼ぶには躊躇われるような男に成長していった。
 その頃から私のドレス製作における主題は大きく変化していった。日の光や水の清らかさを織り込んできた妖精の服から、男性といてこそ映える舞踏会用のドレスに。或いは歴史や神話の中に出てくる二人を思わせる衣装。
 私はデザインを考える時に必ずオスカルさまの側にアンドレを置いていた。なぜそうなったのかはわからない。だがそうすることで、私の中からはおびただしいほどの数のデザインが溢れ出ていった。
 一年ごとに二人は美しく成長していく。数ヶ月会わないだけでアンドレは背が伸び、オスカルさまの凛々しさとあでやかさは一層増していった。私の中で創作の意欲が尽きることは無かった。



 その頃ヴェルサイユでは、マリー・アントワネット王侯陛下お気に入りの新進デザイナー、ローズ・ベルタンが宮廷中の貴婦人の注目を集めていた。
 彼女のデザインするドレスを王妃さまがお召しになる。それはたちまち最先端の流行になり、貴婦人達は競って同じものを求めた。私の店にも「王妃様と同じものを」と注文が入る。だが私は単なる流行を追うだけのドレスは作りたくなかった。服はあくまで人を引き立てるもの。その人にあった色やデザインがあるはずだ。それがドレス製作における私の信念だった。
 宮廷から次々生み出される流行は一種独特の熱気を帯び、拡散していく。パリの仕立て屋はベルタン風のドレスを作ることに躍起となる。街中にノミ色のドレスが溢れ返り、女達のスカートの張り出しは膨張の一途を辿る。華美を競う貴婦人達。彼女達の憧れはアントワネット妃殿下であり、仕立て屋やデザイナーやお針子達の目標はローズ・ベルタンであった。
 ローズ・ベルタンが才能に恵まれたことは幸運だったと思う。だが最も彼女にとって幸運だったのは、アントワネット妃殿下という最高のモデルに恵まれたことだった。デザインをする職人というものは全てを捧げ尽くしたいと願う対象が欲しいのだ。全身全霊を込めるに価する対象。それは自己の中にあるであろう才能を引き出してくれる。持っているものが流れる出るような快感。類い稀なるモデルというものがこの世にはある。宮廷から遠く離れたパリの店にいて、私はその点においてローズ・ベルタンに負けていないことを強く確信していった。私にはアントワネット妃殿下に優るとも劣らないモデルがいた。

 オスカルさまのドレスを作る時、私は全く同じ物を二つ作った。一つはジャルジェ家に納めるもの。そしてもう一つは私自身の為に… オスカルさまのドレスに使う布地は店に出さないことにした。なぜならそれを一点物にしたかったからだ。
 オスカルさまは近衛連隊長に昇進していた。真紅の軍服がとてもお似合いだった。私は毎年オスカルさまを採寸していたが、成人してからのオスカルさまは身体のサイズが変わることは一度もなかった。


 相変わらず秘密の会合は続いていた。この頃はもっぱら舞踏会用のドレスばかりを縫っていた。教会用の服やくつろぎ用の部屋着も作ったが、作って楽しいのは豪華な夜会用のドレスだった。
「私はオスカルさまのドレス姿を見ないうちは死ねませんから… お優しいオスカルさまは、いつかきっと、この乳母の願いを聞き入れてくださるに違いありません」
 マロン・グラッセさんの岩をも通しそうな悲願が私に勇気をくれたことは間違いない。だが、たとえオスカルさまが一度も袖を通されなくとも、私は構わなかった。オスカルさまのドレスを縫えることが満足であり、それは私に職人としての力を確実につけてくれていた。
 私はドレスのデザイン画を起こしながら、傍らに男の服を書き足すことを忘れなかった。頭に浮かぶ像はいつもアンドレ。私は密かに彼を観察した。彼ほどオスカルさまの側にいて似合う者はいなかった。私の独りよがりの思い込みかもしれない。だが彼には存在感があった。決して出過ぎない控えめさを持ちながら、彼は女の心を落ち着かなくさせる何かを持っていた。
 彼に手を取られ、踊る。抱き取られる… 別に彼である必要はないのかもしれない。だが私の頭には確固たる像が浮かぶのだ。
 私はドレスを作りながら、女としてのオスカルさまの人生を見ていた。
 ただ綺麗なだけの服は作りたくない。女をより美しく見せ、時に官能さえ感じさせる。清楚でありながら妖艶な… そんなドレスが作りたい。
 軽やかな足の運び。傍らにいる男に手をとられ、音楽にのる。絹がひるがえる… 女としての魅力を存分に発揮でき、同時に男の心を乱し‥掻き立ててゆく…


 採寸しながら垣間見るオスカルさまのうなじ… 髪を片方にまとめようとする指の動き… そういった全てのものが私を刺激した。私はオスカルさまのうなじが見たくて、髪を上げてくださいませんかと頼んでいた。オスカルさまは両腕を使い豊かな髪を掻き揚げてくれる。ほのかに香る薔薇の香り。そこから私は想像する。結い上げた髪の美しさ、真っ直ぐでしなやかな背、剥き出しにされた腕…


「いつも着心地の良い服を作ってくれてありがとう」
 オスカルさまはいつもそう言ってねぎらってくれた。私は感謝の言葉を聞きながら、扉の向こうにアンドレの姿を認める。オスカルさまは振り返り、彼の視線に応えるように優しく頷く。目線と微笑みだけで二人は会話ができるようだった。
 オスカルさまは私が荷物を片付けるのを待ち、ホールまで見送ってくれることさえあった。私はホールを完全に辞する前に足を止める。
 ホールを横切り、軽やかに階段を上っていく二人の姿が見える。アンドレに話し掛けるオスカルさまの横顔。何て輝いているのだろう。そして、彼の手がオスカルさまの腰に添えられる。実に自然な仕草だった。彼らは快活に笑いながら二階に姿を消す。だが間もなくアンドレだけが降りてくる。
 彼はホールに佇む私の姿に気づくとやってきて、かつての悪戯っ子の笑みを浮かべ話し掛けてきた。
「マリアンヌ、いつもおばあちゃんの陰謀の片棒を担がされてお気の毒です」
 彼は知っているのだろうか。私の顔色を見たのか、アンドレは付け加えた。
「もちろん秘密は守っています」
 そう言いながら彼は唇の前に人差し指を立てた。先の笑みといい、この仕草といい、悪戯めいた表情の中に成熟した男の色香が漂う。少年だと思っていた彼の変貌ぶりに、私は今さらながら戸惑った。
「でも‥」
 彼は小さく首を傾け、打ち明けるようにささやいた。
「オスカルにドレスは似合わないと思います」
 彼の声には、女達が熱狂するあらゆる物に対して、鷹揚に眺めながらも揶揄を禁じえない、そんな響きが込められていた。これには私は反論したかった。
「まあ! 貴方は見たことがないからそんなことが言えるのよ。オスカルさまはきっとドレスも似合うわ」
 私の頭にはドレス姿のオスカルさまの像が鮮やかに浮かぶ。
「もちろん貴女の作るドレスは素晴らしい。毎年おばあちゃんはそれを撫でさすりながら、泣かんばかりに感動しています」
 彼はそう言うと私に顔を寄せ、実に魅惑的に笑いかけた。この微笑みといい、親愛を込める表情といい、これは彼の昔からの癖とも言える仕草だった。
「祖母のしつこくもささやかな願いの実現に手を貸してくださり、本当は感謝しています」
 彼は優しい動作で私の手を取るとそれを目の高さに上げ、唇を寄せ、もう一度微笑んだ。


 この頃の思い出が最も鮮明だ。彼らの姿を見るたびに私の胸は鳴り、気力は充実していった。ジャルジェ家にも私の身の上にも実に多くの事が降りかかった。だが一年に一度のドレス作りは途絶えることなく続いてきた。
 死に物狂いで働いてきた。独立し、結婚し、娘を授かった。夫に死なれ、女手一つで子供を育ててきた。幸せもあった。辛い事もあった。自分の手には余ると思うことでも乗り越え、ここまで来られたのは、店があり手に馴染んだ仕事があったからだ。そして、私に夢を与えてくれ、やりがいと至福を与えてくれた秘密のドレス作りがあったからだ。


 風が頬に当たる。この窓はベルサイユの方角を向いている。
 あの時のアンドレの顔、今でもはっきり覚えている。オスカルさまの姿は勿論、眼差しや指の表情、髪のきらめきの一つでさえ、私の記憶から消えることはない。



 1988年の事だった。突然オスカルさまの結婚話が持ち上がった。私は街中に広まった噂からそれを聞いた。
 ジャルジェ家でオスカルさまの伴侶を決める舞踏会が催される。パリ一番の仕立て屋に作らせたドレスを着て、オスカルさまが求婚者達にお会いになる。
 オスカルさまが結婚! その知らせを聞き、私は震えがくるのを止めることが出来なかった。私が長年思い焦がれていたことが実現する。何年もドレスを縫いながら、漠然と思い描いていたもの… 私の究極の夢はオスカルさまの婚礼衣装を縫うことだった。
 私は毎年恒例の作りかけのドレスを大急ぎで仕上げにかかった。お相手は誰だろう。ジャルジェ家の跡取りにふさわしい立派な方であるに違いない。忙しく手を動かす私の脳裏にふとアンドレの姿が映った。
 昨年ジャルジェ家でアンドレの軍服姿を初めて見た。彼は近衛隊からフランス衛兵隊に移ったオスカルさまに従い、フランス衛兵に入隊していた。長かった髪を切り、彼は一層精悍になっていた。いつも穏やかだった表情からは厳しさも垣間見え、より深みと陰影を増したようだった。
 いつジャルジェ家から要請があっても応えられるように、私は夜を徹して針を動かした。
 私が長年思い描いていたオスカルさまの相手はアンドレだった。でもそれは私の想像の域でのみの事… 身分の違う彼らにそれは有り得ない。私は幾ばくかの感慨に耽りながらも、針を動かす手を止めなかった。結婚が決まれば婚礼衣装がいる。それを縫わなくては… ジャルジェ家はそれを私にさせてくれるに違いない。自信があった。
 だがジャルジェ家からは何の沙汰もなかった。
 婚約者にお会いになる席で、オスカルさまは男の姿で現われたという。これも噂で聞いたことだった。オスカルさまは結婚をお望みではないのだろうか。わたしには何も分からなかった。
 私はドレスにもう一度手を入れた。婚礼衣装にもなるように…
 そしてそれを、その年のノエルにジャルジェ家に納めた。それが最後だった。



 この部屋の窓から、私はいつもベルサイユを見ていた。オスカルさまを想い、アンドレの姿を目に浮かべた。若かった。何かに引かれるように突き進んできた。
 空は夕日に染まり、雲は薔薇色に輝きを増す。美しい風景。だが私にはかつての情熱が訪れることはない。
 私は部屋の奥に続く衣装部屋の扉を開ける。そこには私が今まで作ってきた全てのものが納められている。私が生きてきた証ともいえるもの…
 私は寂しくなるとそこに佇み、それらのものを眺めた。全て梱包され、もう出すことはないだろう。だがそこに立つだけで、私はあの時に戻れる。一年ごとの思い出を追えるのだ。精を込めた一着一着が私の脳裏にある。
 私は包みの一つに手を触れる。
 オスカルさまに袖を通してもらえるとは思っていなかったドレスだが、一度だけオスカルさまはそれをお召しになってくれた。
「それはもうお美しくて…」
 マロン・グラッセさんは泣きながら私にそう教えてくれた。
 オスカルさまはドレスを着て舞踏会に出かけたという。私にはその姿がはっきりと目に浮かんだ。本当なら一目、見たかった。だが私には踊るオスカルさまの姿が見えた。どんな風にドレスが舞ったか、私にはわかった。
 手をかけるドレスの包みが、小さな音を立てる。
 オスカルさまに袖を通してもらえなくとも良いと思った。作れるだけで満足だと思った。だがそれは本心ではなかった。心の底ではオスカルさまに着てもらいたかった。着てもらいたかった…
 そして‥ 夢は叶った。私の全ては報われた。
 私は幸福な想像に浸る。あのドレスを着て、オスカルさまはどんな夜を過ごされたのだろう。幸せな夜であったのだろうか。
 私は何度もそれをなぞる。なぞるほどに思いは溢れ、切なくなる。今年はもうドレスが作れない。私の職人としての命は終わった。
 遠い空に私は語りかける。
 オスカルさま、貴女の人生は幸せでしたか? アンドレ、貴方は満足でしたか?
 二人は殆んど同時に神に召されたという。二人は愛し合っていたのではないか… 私の中にはそんな思いがいつもある。それが自分を慰める術なのかわからない。だが私にはどうしても、そう思えるのだ。

 部屋の扉の開く音で私の回顧は遮られた。手に小さな花を持ったエルネストがはにかんだ様子で立っている。私の孫。今年で五歳になる。彼はそれを私の方に差し出した。嬉しそうな顔。紅潮した頬は得意そうでもあった。
 私は両腕を伸ばし彼を抱いた。エルネストが持っているのはリボンで作った小さな花だった。
「これを私に?」
 エルネストは頷く。
「ありがとう。綺麗ね。これは薔薇? エルネストが作ったの?」
 彼はもう一度頷き、嬉しそうに微笑んだ。

 オスカルさま、この子達が大きくなる頃に、世界はどう変わっているでしょう。私はもうドレスが縫えません。でも貴女がやろうとしたことを命のある限り見つめていこうと思います。それが残された者にできる事…
 私はエルネストを抱きしめ、遠くの空に向かい、心に誓った。



後編に続く





























inserted by FC2 system