2005 3/21

すみれ



「姉上、もう戻りましょう」
 オスカルは心細くなり、思わず前を行くオルタンスに声をかけた。川沿いに延びる道は川と離れ、深い森の中に入っていく。
「大丈夫よ、ずっと一本道だから。ここを登ったらまた川が見えるわよ」
 オルタンスが道の先を差し示す。
 ジェルジェ家の姉たちの中で最も活発なオルタンスは、淑女らしくドレスの裾を馬の腹の片方に垂らし、横乗りで器用に手綱を操っている。もうおてんばをする年ではないにもかかわらず、彼女の旺盛な好奇心は先へと馬を進めたいらしい。
 フランス有数の渓谷地を歩いていた。雪解けの水を流れに加えた川は美しかったが、圧倒的な水量は恐ろしくもあった。姉と二人で見知らぬ土地にいる。心細かった。
 オスカルは手綱に目を落とし、昨夜ドルニエ侯爵から贈られた馬のたてがみを撫でた。アンドレもくれば良かったのに… 心細さを少しでも紛らわそうと馬の首を何度も撫でた。


 オスカルは三人の姉達と共に、父の友人の家に招かれていた。近衛隊の将軍を務める父の士官学校時代の友人、ドルニエ侯爵。大柄で背の高い侯爵は髭だらけの顔に満面の笑みを浮かべ歓待してくれた。
「レニエ、これがお前の息子か。良く似ている」
 彼はオスカルを抱き上げようと両手を伸ばしながら、考え直したように手を引いた。
「レニエの息子に馬を用意しておいた。子馬くらい持っているだろうが、この馬もいいぞ。気立ては優しくて足は強い。後で見てくれ」

 食後の語らいに出されたブランデーは父がいつも飲んでいる物と同じだった。
「もうお休みなさいませ」
 寝室に案内しようとするドルニエ家の侍女を拒みながら、早く休むようにとの父の叱責をかわしながら、オスカルは父から離れた椅子に座り男達の話を聞いていた。
 厳格で威厳に満ちた将軍同士とは思えぬ態度で父達は昔話に興じる。見たこともない父の側面だった。彼らは訓練や教科だけでなく、派手な喧嘩や巧妙に仕組まれた悪戯の話をしては大声で笑った。
 士官学校の生徒達の間には熾烈な競争があった。若い男達は人より秀でる為にあらゆるもので競い合っていた。教練の成績は勿論だが、頭脳や腕力や人気や容姿。それらが最も重要視された。だがそれで適わないとなると、財力や身分の高さ、父親の地位、母親の家柄までもが持ち出された。或いはいかに数多くの女をものにしたか、またはどれほど特異な経験をしているか、そんな自慢をする者もいた。
 二人の将軍は大声で笑ってから、年端もいかない子供に聞かせるには相応しくない話をしてしまったと気がつく。父親は振り返り我が子の様子を確認する。オスカルは長椅子に横になった姿勢で目を閉じ、父に応えた。
 
   
 朝、目覚めると見慣れぬ天井が目に入った。昨夜は長椅子で寝てしまったらしい。
 オスカルは着替えを済ませ朝食のテーブルについた。父と侯爵は昨夜と同じように熱心に話をしている。だが今朝の話題は馬と銃だ。
「お父様、川が見たいわ。食事の後に行ってもいい?」
 男の話に飽き飽きといった風情のオルタンスが聞いた。
「それはいい考えだ。馬車を出そう」
 侯爵の申し出をオルタンスは辞退した。
「馬で行きたいの。いいでしょう、お父様」
「馬で?」
「そうよ。オスカルと一緒に行くわ。すぐに帰ってくるから二人だけで行かせて」


 道は平坦かと思うと時に登り、川は下になった。
「ロワール川よ。素敵ね。オスカル、フランスにはこんなに美しい自然があるのよ」
 オルタンスは淡い春の日差しを受けるように、手を空に向け微笑んでいる。オスカルは前を行く姉に頷きながら川を見た。川幅は広く、動かぬように見えた川の流れは真近で見ると激しく速かった。それは全てを流し尽くしてしまうようだった。人の力では抗うことのできないものの存在に出会い、オスカルは畏怖した。
 道は森に入っていく。オスカルは道の左右に目をやりながら馬を進めた。もう相当歩いてきた。この辺りは家屋敷もなく人通りもない。見知らぬ土地。姉と二人。何かあったら自分が姉を護らなければならない。気概はあったが、自信はなかった。
 うっすらとかかる靄のせいか、森に計り知れない奥深さを感じた。王宮を戴くヴェルサイユの街に生まれたオスカルにとって、川沿いの幽玄な自然に触れるのは初めてだった。勿論、ヴェルサイユの郊外には森もあったし、年に何回も訪れる領地のアラスまでの道には自然が溢れていた。だがそれらは皆、明るく、伸びやかで、開放されていた。
 だが、この森は… 道の両端から森が呼んでいるような気がする。道はそこに吸い込まれていく。ここから出るにはどれほどかかるだろう。
「姉上」
 オスカルは不安になりもう一度、オルタンスを呼んだ。道はまだ登っている。オルタンスの歩みが早い。
「オスカル、早く」
 オルタンスは振り返りオスカルに微笑みかけた。
 春にはまだ早い季節の空気は澄んでいたが、冷たかった。ここはヴェルサイユよりも寒い。
「オスカル! 来てごらんなさい!」
 オルタンスの高揚した声がオスカルを呼んだ。早くこの森を抜けたい。オスカルはオルタンスに追いつくつもりで馬を走らせ坂を登った。
 勾配を上りきり、オスカルは目を見張った。
 視界は開け、どこまでも遠くが見渡せた。高い位置から見下ろす川面に光が溢れている。遠い位置で見ると川はゆったりと流れている。悠久の時を感じさせるように…
 川の向こう岸には畑や木々や家々が広がる。一際高い教会の尖塔。薄い色の澄んだ空。
 目の前に広がる風景の大きさにオスカルは息を呑んだ。高い位置から見下ろす景色の広がり、雄大な川の流れ。川から吹いてくる風。どれもが初めての経験だった。
「綺麗ね、オスカル」
 オルタンスが馬を寄せてくる。
 突然目の前に開けた風景に驚き、オスカルは来た道を振り返った。先ほど恐ろしげに見えた森はどこにいったのか。
 下る道の両端から枝を伸ばす木々の群れが誘うように緑のトンネルを作っている。高みから差し込む光のせいで緑は薄明るく見えた。振り返るだけでこんなにも景色が違う。オスカルは顔を戻し、川面を見た。光が踊る。
「アンドレ…」
 オスカルは昨年家に来た少年の名を呟いた。
「アンドレにも見せたかったな」
「残念だけれど、しょうがないわ。また機会があるわよ」
 オルタンスの手が肩に触れるのを感じながら、オスカルは川を眺めた。川面を渡る風に春の匂いを感じた。
「オスカル」
 すぐ側にいたと思っていたオルタンスの声が小さく、遠くで聞こえたようでオスカルは振り返った。オルタンスが道から外れ、小さな脇道に入っていく。
「姉上! どこへ行くのです!」
 オスカルは驚いてオルタンスを追った。ここで帰りの道を見失ったら大変なことになる。オスカルは恐かった。
「見て。あそこに家があるわ」
 脇道は川沿いの道を折れ、森の中へと登って行く。
「姉上」
 オスカルはオルタンスを追った。森に入った脇道は黒い頑丈な門へと通じていた。門の両端には鉄柵が連なっている。高い柵の先端は尖り、天を突き上げている。
 オルタンスは柵を見上げた。
「姉上、ここは人の屋敷です。帰りましょう」
 冒険好きの姉が次にどうするか不安になり、オスカルはオルタンスの袖を引いた。
 深い自然の森を切り開いた土地に館はつくられていた。森の造形美を生かした庭の向こうに、木々に見え隠れして瀟洒な館が小さく見えた。手付かずの自然の向こうに見える垢抜けた建物。
 柵の根元を支える数段ほどの石組みの塀が敷地を取り囲んでいる。柵の内側と外側は綺麗に整備され、鉄柵は延々と続いていた。オルタンスは石垣に沿い、柵の内側を眺めながらゆっくりと馬を歩かせた。
 木々が動くと館の表情も変わる。柵に沿ってオルタンスが馬を進める。館がさらに遠くになった頃、柵と石垣は直角に折れ曲がった。
「オスカル、見て」
 潜めたような、それでいて何かを見つけたような囁きがオスカルを呼んだ。
「あんなところにスミレが咲いているわ」
 オルタンスは柵の根元の一角を指差している。
「何て可愛らしいのかしら」
 オルタンスはオスカルを手招きした。
「オスカル、あれを取ってちょうだい」
 姉の側に行くと、鉄柵の内側に小さなスミレが咲いているのが見えた。まだ春には早い庭の隅に、ほっそりとした茎の先に小さな蕾をつけたスミレは、積み重なった枯葉を持ち上げるようにして咲いていた。
「姉上、ここは人の庭です。そんなことできません!」
 オスカルはオルタンスに向かい、きっぱりと言った。
「あら、大丈夫よ」
 オルタンスは事も無げに言ってのけた。
「あのスミレはこのお屋敷の人が丹精込めて咲かせた花ではないわ。人の咲かせた花は取ってはいけないけれど、あのスミレは違うわ。あれは神様が咲かせてくれた花よ。神様は子供達に花をくれるの。神様が咲かせた花は、子供ならいくら取っても構わないのよ。さあ、オスカル」
 オルタンスに背を押され、馬から下りながら、オスカルはオルタンスに提案を試みた。
「玄関に回ってスミレを取らせくださいと頼んでみたらどうでしょう」
「まあ、オスカル、そんなことは嫌よ。恥ずかしいわ」
 いくつも年上の姉の言う事に釈然としないものを感じながら、オスカルは柵に向かった。冷たい二本の鉄を両手で握り、石段の窪みに足をかけ、オルタンスを振り返る。姉は贈り物を貰う時のような笑みを浮かべ頷いてみせた。
 花好きの姉にスミレを取ってあげたい。オスカルの心に、応えたいという欲求が生まれた。
 オスカルは窪みに足をかけ、段の上に腹ばいになった。鉄柵の間に腕を伸ばす。近くで見るとスミレの蕾はいくつもあってその中の一つは咲きかけていた。
 オスカルはさらに手を伸ばした。繊細な茎が空気の微かな揺れにさえも震えているのが見えた。だがスミレには手が届かなかった。
「だめだ、届かない」
 オスカルはオルタンスを振り返った。
「肩まで入れてみて。そうすれば届くわ」
 オスカルは石の段を登りきり、オルタンスの言うように顔を道側に向け、身体を低くして肩を柵の間に差し入れてみた。伸ばした手に枯葉が触れる。柵の間隔とオスカルの身体の厚みは同じくらいだった。庭の中に入り込んでしまわないよう、オスカルは柵を握る手に力を入れた。
 スミレは見た目より遠くに咲いている。オスカルは柵の内側に半身を入れるようにして手を伸ばした。手に冷たい葉の感触が伝わった。だが、それと同時に枯葉を踏む靴音も聞こえた。
 オスカルは急いで手を引き、顔を庭の方角に戻した。スミレの先に黒い靴先が見えた。背に戦慄が走ると同時に後悔の念が襲ってきた。
 ―――正面に回って許しを請うのだった。
 だが、もう遅かった。オスカルは顔を上げ靴の持ち主の顔を見た。
 彼はスミレを両足で挟むようにして立っていた。足を開き、両手を後ろに組み、顔をこころもち上げながら、目はオスカルを見下ろしていた。彼は少しばかり年上に見えたが、オスカルと幾つも年の違わない少年だった。同じ年の者に見咎められたという事は、大人に見つかるよりもオスカルにとって辛かった。
 オスカルは手を引き、柵に触れないよう狭い石段の縁に片膝をついて座った。視線を地に落とし、両手を膝に乗せ、彼が口を開くのを待った。こんな恥ずかしい思いは初めてだった。だがこれは自分の責任。今できることは静かに彼の叱責を浴びる事だけだった。
 小鳥がさえずる声が聞こえた。遠くで木を打つような音も‥ だが頭の上から声はしなかった。オスカルは顔を上げ少年を見た。
 彼は肩先まで届く栗色に波打つ髪を揺らしながら、髪と同じ色の瞳でオスカルを見下ろしていた。色の薄い瞳は表情がよく読み取れない。
 非難や叱責を受ける覚悟はあったが、彼の目に軽蔑を見るのが何よりも辛いかった。だが無断で花を取ろうとした罰は受けねばならない。オスカルは彼を見上げたまま、黙って彼の言葉を待った。
「この花が欲しいのか?」
 抑揚のない声は大人びていた。だがその中に非難や軽蔑の色は感じられなかった。
 彼はその場に膝をつくと、片手でスミレの根元の枯葉をどかし始めた。一体何をしようとするのか。オスカルは彼の指先を見詰めた。
 彼は子供のものとは思えないほど端正な指を二本、スミレの根元に立てると、ゆっくり指を土中にめり込ませていった。森の葉が作った土は柔らかく、彼の指は難なく地中に埋まっていった。オスカルはそのさまをじっと見詰めていた。土中に埋まった指はスミレの根元で何かを探るように動いている。やがて彼が手を引くと、スミレの根が掘り上げられていた。
「土がついていないとすぐに枯れる」
 彼は指についた土や細かい枯葉を気にするでもなく、胸のポケットから幾重ものレースで縁取りされた絹を取り出すと、それでスミレの根を包み、土で汚れてない方の手を柵から出した。
 オスカルは同じ高さになった彼の目を見た。淡い色の透き通った瞳は綺麗に澄んでいて、瞳と同じ色のまつげがそれを囲んでいる。彼の瞳に写し出されるものが何なのか、それが知りたくて、オスカルは彼を見詰めた。
 彼は腕を伸ばし、見詰めるだけのオスカルの手を引くと、絹に包んだスミレをそこに乗せた。絹の柔らかさと土の冷たさがオスカルの手に伝わった。
「…ありがとう」
 手に乗せられたスミレは花は勿論、茎も葉も少しも傷ついていなかった。森に春を告げる最初の色を、彼は摘み取ってくれたのだ。
 オスカルは戸惑いながらそれを受け取ると、登った時と同じ向きで石の段を降りていった。スミレを傷つけないよう胸に抱き、慎重に地面に足を下ろした。一息つき、馬を探す為に身体の向きを変えると強張った顔のオルタンスが小さく息を吐くのが見えた。
「オスカル」
 オルタンスは握りしめていた手綱をオスカルに手渡した。オスカルはそれを受け取るとスミレを抱いたまま馬に跨り、それを鞍の上に置いた。振り返ると鉄柵の向こうに少年が立っているのが見えた。彼は立ったままこちらを見ている。
 本の中で見た王子のようだ。オスカルは思った。
 長いマントで肩を包み、少年は立っている。背に流れるマントを留める二つの留め金。緑の綺麗な石がついていた。彼が身に付けていたものは歴史の中に出てくる衣装ではなかったが、彼の佇まいや仕草からは支配する運命にある者が持つ鋭利と寛容が感じられた。
 白い顔や淡い色の瞳。たった二言、声を発した唇。彼は完璧なまでに美しかったが、完璧でありすぎる為に硬質だった。だが、肩まで届く髪は柔らかく春のそよ風に揺れていた。
 オスカルは角を曲がる時にもう一度振り返った。少年は姿勢を崩すことなくいつまでも立ち尽くしていた。

「ヴィクトールさま! お風邪なにのにお庭にお出になったりして‥ 奥様に叱られます」
 甲高い侍女の声に彼は振り返った。
「まあ、こんなにお手が汚れて、一体どうなさったのですか」
「何でもない。部屋に入る」
 彼は目を道の先から庭の中に向けた。
 この辺で見ない顔だった。仕立ての良い服を着て、毛皮を纏った美しいドレスの女といた。真っ直ぐ見上げた蒼い瞳が忘れられない。印象的な… あれほど深い色は見た事がない。
 彼は庭の中ほどでもう一度道の方を振り返った。馬の姿はとうにない。
 庭の隅で聞こえた少女の囁き声。声の方に歩いていくと柵の向こうに小さな姿が見えた。金色の髪が真っ先に目に入った。もっと良く見たくて庭を足早に横切った。
 柵越しに見た金髪の少年は少女かと思えるほどに愛らしかった。金色の巻き毛は薔薇色の頬を縁取り、唇の色は驚くほどに濃かった。だが瞳には強い光が宿っていた。
 どこの子だろう。また会えるだろうか。
 彼は部屋に向かいながら柵の間から伸びてきた手を思い出した。小さな花をつかもうとして、あの子は手を伸ばした。あの手を引き、庭の中に引きずり込んだらあの子はどうしただろう。そんな想像をしただけで彼は気持ちが昂ぶった。

 春を告げるスミレが呼んだ。あの子は‥ 森の妖精だったのだろうか。



Fin




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