2004 5/11

serpent
− 蛇 −



 アンドレはベットの上に身体を起こした。夢を見ていた。目覚めてなお身体に残る感触は覚醒するほどに苦い自己嫌悪に変わる。
 夢の中でオスカルを捕まえていた。白い靄に包まれたような何の抵抗もない世界。彼は捕えた腕を引き寄せるとオスカルの服を脱がせた。オスカルは笑っている。夢の中でオスカルはいつも笑っていた。オスカルは自分で服を脱ぐ時もあった。アンドレの目には見た事もない異性の裸体がはっきりと浮かんだ。
 窓から差し込む朝の光と木の葉の陰が床の上で戯れる。彼はベットから降りると服を着替えた。覚えたように何度も同じ夢を見る。そしてその度に快感を感じてきた。シャツのボタンをとめる。何故こんな夢を見るのか。それは自分が男だから。アンドレは部屋の戸を開けると階段を降りて行った。夢の中の白く細い腕が彼を捉えにくる。
 早く下に行って仕事を片付けよう。彼は庭を横切ると髪をかき上げ空を見た。朝日を浴びても頭の中の靄が晴れていかない。アンドレは馬屋に行くと彼のいつもの日課である馬の世話と厩舎の掃除を始めた。男である事を否定しようとは思わない。男なら皆女の身体に興味があるはずだ。だがそれをどこに向けてよいか分からない。男の欲望は醜くてとどまるところを知らない。それを自分はオスカルに向けている。

 一仕事終った後で朝食。朝は忙しい。アンドレは片付けを済ませると部屋に戻り紙挟みの束とラテン語の辞書を持って階段を降りた。今日はラテン語と歴史の教師が来る。
 彼の両親は彼が幼い頃相次いで亡くなった。彼は祖母が長年仕えてきたジャルジェ家に引き取られた。彼を引き取ってくれた情け深い当主は近衛隊の将軍。由緒ある伯爵家。そこには彼と年の違わない跡取息子がいた。それがオスカルだった。
 相対しすぐに分かった事だが跡取は女であった。彼女は我がままで頑固で恐ろしく活発だった。頭も良く、全ての能力が同じ年頃の子供では太刀打ちできないほど優れていた。だがそれは子供の世界では単なる異端に過ぎなかった。彼女に付き合いきれる友人というものはいなかった。
 アンドレはジャルジェ家に来てからというもの常にオスカルに付き従ってきた。馬屋の掃除と馬の世話の他に彼にはオスカルの家庭教師が来ている間部屋の隅に控えている事も義務づけられていた。オスカルの母である夫人が彼にも専用の紙とペンを用意してくれた。
 午前中でほぼ日課は終り午後は大抵自由時間になった。だが剣の教師が来ていると午後一杯剣の稽古に費やされることもあった。もっとも使用人である彼には他にも様々な用事が控えていた。召使達の中で一番年若い彼は言いつけられた事を全てこなさなければならなかった。彼の祖母はこの家の女中頭であったが彼女は彼を甘やかしたりはしなかった。彼女はじっとしている事が苦痛であるかのように働き、動き回り同じ事を彼に要求した。
 何かというとオスカルはアンドレを呼びつけ剣の稽古にかこつけた遊びに誘った。アンドレも誘いに乗るのは決して嫌ではなかった。彼も遊びたい盛りの子供だった。幸いな事に彼の任務はもう一つあった。オスカルの剣の相手。オスカルの相手であればどんな仕事でもおおっぴらにサボれた。
 彼らは屋敷内や庭だけでは飽きたらず館を抜け出し森に入ったり草原を駆け巡ったりして遊んだ。ジャルジェ家の跡取息子の気に入りは入れ替わり立ち替わりやって来る貴族の友人達でなく彼女の乳母の孫であるアンドレ・グランディエだった。

 アンドレは紙とペンを持ち図書室の扉を開けた。
「アンドレ」
 すでに席に座っていたオスカルは扉の開く音に振り返ると片手を上げて笑いかけてきた。その圧倒的な生気の前にそれまで彼の頭の中を占領していた夢の中の像は溶けたようになくなっていった。いかに自分が有り得ないほど理不尽で勝手な偶像に夢中になったかを突きつけられたようで彼は目を伏せた。
 アンドレはオスカルから離れた部屋の隅に腰をおろした。彼は勉強の邪魔にならないようにする必要があった。オスカルは一瞬怪訝そうな表情をしたがまた笑いかけてきた。だが彼は笑い返すことが出来なかった。
 直ぐに教師がやってきて授業が始まった。オスカルは前を向いた。彼は幾分ほっとした気分でペン先をインクに浸した。初夏の風が窓から入り込み彼の頬を撫でていった。
 いくつかの机と椅子を隔てた向こうにオスカルの肩と背中が見える。いつも着ている白い絹のブラウスに伸びかけた金髪がかかっている。それは柔らかい癖を持ち肩の上で巻いていた。オスカルが顔を上げたり伏せたりする度に髪が肩先で踊る。

「オスカルさまがお呼びよ」
 アンドレは日に何度もオスカルに呼ばれた。
 彼は二階に上がると金の装飾の施された白い扉を叩いた。部屋から返事はしなかった。彼はそっと扉を開けてみた。オスカルは窓を開けバルコニーと部屋の境目に立っていた。開け放した窓から風が入り白いカーテンを揺らしている。オスカルは彼が入ってきたのに気づかないのか伸び上がるようにして外を見ていた。
 アンドレはゆっくりと部屋の中央に歩いていった。オスカルが振り向き笑いかけた。彼女は何も言わずそっと手招きするとまた顔を外に向けた。
 差し込む太陽の光がオスカルのブラウスを透けさせている。オスカルは素肌の上にブラウス一枚しか着ていない。日の光は薄い絹を透かし横を向いた身体を浮かび上がらせていた。窓から入り込む風が柔らかい布を肌に張り付かせている。それは膨らみかけた胸の形をはっきり見せていた。
 オスカルはもう一度笑いかけ彼に向かって手招きをした。
「あそこに鳥が巣をかけた」
 囁くような小声はくすぐるようだった。彼は何故夢の中でオスカルがいつも笑っているかがわかった。オスカルは何も知らないのだ。自分がどんな気持ちでオスカルを見ているか。
 無垢な横顔は笑みを浮かべたまま庭に繁る木に顔を戻した。彼は部屋の中央に立ったままそこを動けないでいた。いつもなら一緒に窓辺に立って鳥の巣を見るのだろう。だが彼はそこに立ったままオスカルを見ていた。
 伸び上がるように反らせた横顔から胸へ‥ もっと日の光がブラウスを透けさせてくれないか、もっと風が絹を張り付かせてくれないか‥ そう念じながら、オスカルを見ていた。
「アンドレ」
 オスカルがもう一度手招きをした。彼は急いで背を向けると部屋の扉に向かって歩き出した。身体の中に生まれる耐えられない疼き。それは罪悪感を伴う異様な興奮となり彼を慌てさせた。これ以上ここにいられない。
「アンドレ!」
 呼びかける声を背に聞き彼は部屋を出た。


 将軍である父親の前では引き締まった表情と大人っぽい口調で完璧な少年のオスカルもアンドレと一緒にいると単なる無邪気な子供になった。泣き言を言ったり弱音を吐くことは許されない訓練にも溌剌とした笑顔と機敏な動作でこなしていたオスカルが一旦その監督下から離れると真っ直ぐにアンドレのところへかけてくる。彼の前で見せる屈託のなさや甘えや悪戯好きは彼女本来のものだった。
 彼女は確かな剣や射撃の腕を持ちながら鳥や虫や花といった小さなものが好きだった。兵法や軍事の勉強をしながら海の向こうの国を舞台にした物語も好きだった。
 幼い頃は噴水でずぶ濡れになったり草原の坂を抱き合って転がり落ちたりした。庭先で折り重なって寝てしまった事もある。
 オスカルは女で、ジャルジェ家の跡取で、自分が護るべき対象で… 八歳だった自分はこんなにも複雑な事柄をたやすく理解し心の中で見事な折り合いをつけていた。我ながら素晴らしいと思う。だが今はその見事なバランスが崩れ始めている。
 アンドレは陽光を跳ね返す目の前の窓を見ながら物思いに耽っていた事に気がついた。窓は全て開け放たれて中の鉢も出されていた。彼は温室の窓を全て拭いてしまうように命じられていた。冬場は恰好の遊び場になった温室。オレンジやレモンの香りがして大好きだった。毎年この季節に温室も木も手を入れる。新たな木がくるものこの頃だった。温室はオスカル気に入りの場所だった。冬場は凍らないという程度で寒かったがここは隠れ家に相応しく秘密をもった場所だった。
 
「アンドレ、キスしてみないか?」
 何年前のことだか覚えていない。季節は秋だったような気がする。何を話していたかも覚えていないが場所は覚えている。温室だった。
「大人がするみたいに、唇にさ」
 オスカルはいつになく真剣な表情で秘密の相談でも持ちかけるようだった。オレンジの鉢の間に腰をおろしていた。南国の植物の木の葉陰が秘密めいた陰影を作っていた。突然持ちかけられた提案は彼を驚かせたがそれは非常に興味深いことでもあった。
 彼はオスカルの肩をつかむと目の前にあった唇に口をつけた。湿った感触が唇に伝わった。一瞬のキスの後オスカルが笑い出した。
「変な感じ、ちっとも良くないや」
 ひとしきり笑うとオスカルは彼に顔を近づけて言った。
「大人っておかしいね」

 余計な事は考えずにやらないと終らない。彼は力を込めガラスを拭いた。窓は全て二重になっている。ガラスは太陽の光を跳ね返し眩しく輝く。だが、磨き込むほどに透き通るガラスに映るのは柔らかい巻き毛や時に大人っぽい表情を見せるようになった唇だった。
 アンドレは目の前のガラスに目を凝らした。オスカル、お前は俺にキスを仕掛けたことがあるんだぞ。だがオスカルはそんな事は忘れているに違いない。だからいつも笑っていられるのだ。俺は思い出すだけであの時とは別の感情を揺り動かすことができるというのに…
 彼が次の窓に移ろうとした時だった。突然後から誰かが抱きついてきた。彼の胸に両腕を回し走ってきたのか息を弾ませていた。
「アンドレ」
 声が彼の名を呼んだ。息が首筋にかかり暖かい匂いが彼にまとわりついた。背中に息遣いが伝わった。だがそれよりも彼を慌てさせたのは背中に感じる柔らかい膨らみだった。薄いシャツを通してそれははっきりとした感触を背中につけた。
「やめろよ!」
 彼は大声で叫ぶと身体を振りほどいた。彼の脳裏に今日見た光景が浮かんだ。日に透けた淡い陰…
 大声を出してから自分の取った行動の愚かしさに気がついた。今までオスカルがアンドレの背中に抱きついてくることは何度もあった。それは彼を探し見つけた時いつもオスカルがする仕草だった。オスカルの身体の重みや彼女の匂いを感じることは彼にとって喜びだった。嬉しくて、それを合図にオスカルを捕まえに走ったのに…
 あやまろうとしてアンドレは後を振り返った。彼の目に腹を押さえうずくまるオスカルが映った。オスカルは目を上げて彼を見た。苦しそうな表情だった。オスカルは両手でみぞおちを押さえ首を垂れた。
 彼の肘に殴った時と同じ感触が残っていた。オスカルはもう一度顔を上げて彼を見た。蒼い目に怒りか非難でもあればよかった。だがそこにはそんなものはなかった。それは驚いたように見開かれ戸惑ったように沈んでいった。
「オスカル、ごめん」
 それだけ言うと彼は足早にそこから立ち去った。



 気まずい距離を埋めようもなく何日か過ぎた。馬屋から馬を出したところにオスカルが立っていた。
「どこにいく?」
 問いかける顔はいつもより白く見えた。大好きな顔をこれほど近くで見るのは久しぶりだった。しばらくみないうちにオスカルは頬から顎にかけて幾分ほっそりとしようだった。心なしか目に力がないように感じる。彼はそれが蒼い瞳に加わったもう一つの色合いであることを直ぐに察した。物憂げな瞳。鬱陶しげな翳り。今まで見たこともない表情。それは変わっていくオスカルの顔に似つかわしいようでもあった。
「おばあちゃんの薬草を摘みにさ。おばあちゃん腰痛が出ちゃって」
 アンドレは持っていた籠を差し上げて見せた。
「そうか、私も行く」
 オスカルの返事はいつものように気軽だった。
「いいのか?」
「なぜ?」
 オスカルの目がたちまち引き締まった。見慣れた表情、オスカルらしい、アンドレは気持ちが高揚してくるのを感じ笑った。
「いや、別に」
「部屋になどいたら腐ってくる」
 オスカルは吐き出すように言った。アンドレは肩をすくめた。どんな言いつけもオスカルの前では無効だった。オスカルの意思が何よりも優先する。
「馬を出してくる」
 アンドレは馬屋に入った。
「腰が痛くて動けないのはばあやじゃないか」
 背中でオスカルの憎まれ口を聞いた。オスカルは元気じゃないか。
「オスカルを連れ出したと分かったらまたおばあちゃんに怒られる」
 手綱を渡しながら彼は笑った。
「ばあやの言う事など聞くものか」
 手綱を受け取るとオスカルは馬に跨った。


 萌え盛る緑を蹴散らして馬を走らせる。見渡す限りの平原。遠くに見える森を目指しオスカルが前を走る。
「オスカル!」
 アンドレは大声で叫んだ。オスカルには聞こえない。聞こえない方が都合がいい。風のうなりに任せ何度も何度も名前を呼んだ。


 馬から降りると一斉に汗が流れ落ちてくる。
「ばあやの森だ」
 オスカルは先に立つと走りながら森に入った。ここを教えてくれたのはマロン・グラッセ、アンドレの祖母だった。マロン・グラッセは幼いオスカルとアンドレを連れ御者を供に何度かここをを訪れていた。地面に生えている草を摘みながら彼女は孫達に薬草の名前を効用と共に述べ立てていった。だが幼い二人にとっては雑草も薬草も区別はなかった。オスカルにせがまれる度にマロン・グラッセはここに来たがやがて森の薬草園はアンドレが管轄するようになり祖母の要請に従って薬草を摘みにくるのは彼の仕事になっていった。
「アンドレ、お前はばあやの森に来る時はいつも一人じゃないか。なぜ私を誘わない」
 振り返ったオスカルにアンドレは困ったように首を振った。誘わない訳ではない。薬草摘みにわざわざオスカルを誘うほどのことはないと思うだけだ。
「そんなことにお前を付き合わせてみろ。おばあちゃんが怒るだろう」
 今日も彼は祖母からオスカルを連れ出したりしないよう厳しく言いつけられていた。
 オスカルは伸びかけた金髪を肩先で揺すりながら木の梢を見上げた。
「面白そうな事は私には秘密なんだな」
「ここが面白いのならこれから毎日でも来るさ」
 彼の言葉にオスカルが笑った。だがその笑みは直ぐに消えた。オスカルは身を屈めるようにして木の根元に腰をおろすと木の幹に身体を預け遠くを見つめた。それは今までオスカルが見せた事のない表情だった。何と言ったら良いのだろう、寂しげな‥ でも悲しみとは違う。馬屋の前で一瞬見せた鬱陶しそうな表情もこんなだった。
 オスカルは首を回すとアンドレを見て言った。
「アンドレ、あの家でお前と一番年が近いのは私だ。だが、もしお前と年の近い男が来たら、きっとお前は私より彼と遊ぶだろうな」
 オスカルの憂い顔にあったのは諦めとも言える表情だった。彼の胸に微かなざわめきが起こった。諦め悟ったような表情はオスカルに似合わない。だがその物憂げな様子は心のどこかを溶かすような美しさも持っていた。
「そんな事は‥ ないよ」
 男だとか女だとかそんな事は関係ない。オスカルが一番好きだ。言いたい事も言えず彼は木の根元に腰を下ろした。
「女なんて嫌いだ。大っ嫌いだ!」
 オスカルは手元にあった石をつかむと目の前の草むらめがけて投げつけた。
「アンドレ、お前は男で良かったな」
 オスカルは新たな石を掴むと手の上で転がしながら彼を見た。
「羨ましいよ」
「男なんて‥ ちっとも良くないさ。最悪だよ」
 彼は打ち消しても打ち消しても脳裏から消えない像を思い出しながら言った。
「父上の命令がなかったらお前は私の側にいるだろうか」
 オスカルは持っていた石を手から落とすと独り言のようにつぶやいた。
 その時、頭上で葉が動く音がしたかと思うとドサリと重みのあるものが降ってきた。
「うわっ!」
 オスカルは声を上げると腕で顔を覆った。茶色の塊。それは大きな蛇だった。蛇はオスカルの膝の上で跳ね上がると身体を伸ばしもぐり込もうとする隙間を探すかのようにオスカルの足に絡みつき這いずり回った。中央部分が異様に太くざらついた表皮は不気味な色に光っていた。
 オスカルは腕で顔を覆ったまま彼の方へ身体を倒した。アンドレは咄嗟に蛇を掴むと遠くの草むらめがけて投げつけた。
「大丈夫か? オスカル!」
 顔を上げたオスカルは目を大きく開けると自分の膝の上を見遣りアンドレを見た。身体を震わせながら何かを探すように頭を巡らせた。オスカルの手はアンドレの袖を固くに握りしめている。その手に力を込めるようにしてオスカルが言った。
「おい! 蛇くらいで騒いだと思うな!」
「分かっているよ」
 オスカルは掴んでいた手を離すと腿の下に両手を回した。
「どうした?」
 アンドレの声にオスカルが顔を上げた。
「噛まれたみたいだ」
 アンドレは屋敷の方角に目をやった。オスカルが蛇に噛まれた。早く帰らなければ‥ だがここからだと随分距離がある。もしあの蛇が毒を持っていたら…
「オスカル、噛まれた所を見せろ」
「大丈夫だ」
 オスカルは首を横に振った。
「もし蛇が毒を持っていたらどうする」
 脅かすつもりはない。だが‥
「こんな所に毒を持った蛇などいるものか!」
 オスカルは上気した頬で叫んだ。
「そうだな、でも…」
 アンドレは持っていたナイフを取り出すとオスカルのキュロットに裂け目を入れた。
「どうするつもりだ」
 彼はそれには応えずにキュロットの裂け目に指を入れると一気に引き裂いた。布が音を立てる。裂かれた布の間に真っ白な皮膚が見えた。白い皮膚の上に二箇所傷があった。僅かに血が滲んでいるが目を凝らさないと分からない小さな刺し傷だった。噛まれている。
「何をする」
 問いかける声は上ずっている。アンドレはオスカルの腿を両手でしっかり押さえつけるとそこに口をつけた。隙間のないように傷を塞ぎ強く吸った。口の中に嫌な苦味が広がった。彼は口を離すと吸い出したものを地面に吐き出した。血の混じった黄色い液だった。舌に刺すような刺激を感じる。アンドレは服の袖で舌を拭うともう一度傷を吸った。今度は血の味がした。地面に吐き出す。
「もういい、大丈夫だ」
 オスカルが制するように手を出した。それには応えず彼はくり返した。
「やめろ、アンドレ、もうやめろ」
 起こそうとする膝を押さえつけ外側に倒した。彼は白く柔らかい皮膚を今度はゆっくりと吸っていった。
「やめろと言っているのが聞こえないか!」
 声に怒りがこもってきた。たが彼はやめなかった。小さかったと思っていた傷は吸うほどに広がり、はっきりとした穴が見えた。力を入れなければ出なかった血は彼が口を離しただけで滲むように流れてきた。
「痛いか、オスカル。もう少しだ、我慢しろ」
「違う。やめろアンドレ‥ もういい」
 オスカルの声は怒りから懇願に変わっていた。
「オスカル、どんどん血が出てくる。出したほうがいいんだ」
「血が出るなんて‥ 血なんて言うな!」
 オスカルの声は涙混じりになっていた。
「ごめん」
 アンドレは服の袖で唇を拭いた。袖にうっすらと血がついた。もう舌に刺すような刺激は感じない。彼はオスカルの傷をそっと舐めた。
 顔を上げるとオスカルと目が合った。怒っているような痛みをこらえてるような目には涙がたまっていた。
 危機感が去ると別の感情が押し寄せてきた。行為を反芻するほどに押し寄せてくる息詰まるような焦燥と罪悪感。自分はどこに口をつけていた。アンドレはそれらを振り払うように邪険にシャツの袖を引き千切った。罪悪感はいつも甘美な香りを伴ってやってくる。彼は何も言わず切った布をオスカルの足に巻きつけると固く縛り上げた。
 まだ安心はできないというのに… アンドレは唇を噛んだ。


 オスカルはアンドレの手を借りることなく馬に乗って館まで帰った。足に布を巻きつけたオスカルを見つけたのはマロン・グラッセだった。
「まあ、お嬢様、どうなさいました!」
「蛇に噛まれた。アンドレが手当てしてくれた」
 オスカルの返事を聞いたマロン・グラッセの顔が真っ青になった。
「お医者さまを! 早く! 誰か、お嬢様をお部屋に!」
 ホールに残されたアンドレは右往左往する使用人達を尻目に一人二階に上がっていくオスカルを見つめていた。


 その後、オスカルは熱を出し二日ばかり寝込んだ。
「君がアンドレ・グランディエかい?」
 ジェルジェ家の侍医がアンドレに声をかけてきた。彼はオスカルを噛んだ蛇は毒を持っていた可能性があったと言った。
「咄嗟によく判断した」
 そしてアンドレの処置は適切だと言った。


 熱も下がり起き上がったオスカルは元気で彼を安心させた。オスカルは以前と同じように馬にも乗ったし腕が鈍ると剣も取った。言いだしたら聞かないところは相変らずだしおばあちゃんの小言は休む暇がない。
 以前と変わらぬ毎日。日々の日課も変わる事がない。だがオスカルは変わった。少し痩せたせいか大人っぽくなった。瞳の奥に時々見せる小さな揺らめきも以前はなかったものだ。
 そしてもう一つ‥ オスカルはこの日からコルセットをつけるようになった。薄いブラウスの下に見慣れぬ固い線が見えた。もうどれほど日の光が照らそうと風が吹こうとオスカルの身体が透けて見えることはない。彼は心の底から安堵の息をもらした。コルセットがオスカルの身体を護っているように思えたのだ。自分を含め誰にもオスカルの体は見られたくない。

 庭に出ていたアンドレの元にオスカルがやってくる。落ち着いた足取り。日差しは西に傾き大きさを増した太陽は重なった雲の向こうに落ちようとしている。雲間から差し込む夕日が金色の髪をいっそう輝かせる。オスカルは真っ直ぐに歩いてきて彼の正面に立つと言った。
「アンドレ、今日は暑かった。涼みに行きたい。馬を出してくれないか?」
 頷くアンドレにオスカルが言った。
「二頭だぞ」
「二頭?」
「そうだ」
「涼みに行って汗びっしょりで帰ってくるのはごめんだぞ」
「大丈夫、飛ばしはしない」
「付き合うよ」
 馬屋に向かうアンドレをオスカルが呼び止めた。
「アンドレ」
「何?」
「いや‥ 何でもない」
 振り返るアンドレにオスカルは言いよどみ目を細めて笑った。



Fin




Menu Back BBS

























inserted by FC2 system