2003 3/16

再会 Y




 ジョゼットが茶といく種類も取り揃えた菓子を運んできた。
「お兄様はお出かけになった?」
 アンジェリーヌはジョゼットに聞いた。
「はい、先ほど。急いで用事を済ませてすぐに戻るとおっしゃっていました」
 懐かしいジョゼットの手つきを眺めていると子供の頃を思い出す。
「ジョゼット、もういいわ。あなたも忙しいのだからこちらはかまわなくて大丈夫よ。私、フロランスとゆっくりお話ししているから。お兄様が帰ってきたら知らせてね」
「はい」
 何もかも心得たようにジョゼットは返事をし部屋を出た。
「ごめんなさい、フロランス。ジョゼットはずっと家にいたからつい‥ お手紙ありがとう」
 アンジェリーヌは長椅子に座るフロランスの隣に腰をおろした。フロランスは何も言葉を出さず罪を犯した人のように黙りこくっていた。
「嬉しかったわ」
 アンジェリーヌは優しく言うとフロランスに体を近づけた。
「ごめんなさい、直ぐに来てくれたのね」
 フロランスは下を向いたままだった。声が固く強張っている。
「いただくわね」
 アンジェリーヌは湯気のたつカップに口をつけた。菓子を二つ取り、一つをフロランスに手渡した。フロランスは菓子を見つめたまま動かない。
「赤ちゃんの様子はどう? 順調なの?」
 フロランスはかすかに頷いた。
「楽しみだわ。赤ちゃんが生まれたら皆で見に来るわね。兄も喜んでいるでしょう」
 アンジェリーヌの言葉にフロランスが顔を上げた。目の中に涙が溢れてくる。
「アルベールは私のことなどもう何とも思っていないのよ!」
 堰を切ったようなフロランスの感情をアンジェリーヌはしっかりと受け止めた。
「兄はあなたを一番愛しているわ」
「違うのよ、もう違うの!」
 フロランスは首を振った。
「手紙は読んだわ。でもあなたの思い過ごしよ。兄を信じてあげて」
 アンジェリーヌはフロランスの興奮を静めるように抱しめた。
「あなたも私が思い違いをしていると言いたいの? 妊娠したから気が高ぶっていると言いたいの?」
 フロランスはアンジェリーヌの腕の中で顔を上げ、濡れた瞳で彼女を睨みつけた。
「違うわ」
「私はあの人の妻よ。わかるわ、あの人が変わってしまったのがわかるのよ!」
 フロランスの目に悲しみが広がっていく…

 ――涙をたたえた蒼い瞳… あの人と同じ…

 アンジェリーヌはフロランスをしっかりと抱きしめた。
「兄は絶対あなたや子供達を悲しませる事はしない。信じてあげて。お願い、兄を信じて」
 アンジェリーヌの腕の中でフロランスが身を動かした。
「ねえ、教えて。宮廷に何があるの? 宮廷に行くようになってからあの人は変わってしまったの」
「宮廷に…」
「そうよ、突然だったわ。今まで一度も行った事が無かったのに、今は毎日のように‥ あの人は宮廷で何をしているの? わからない、私にはわからないのよ」
 フロランスの目に新たな涙が溢れる。
「兄には兄の思惑があるのだわ。宮廷に伺候するように父が兄に言っていたわ」
「そうではないの、あの人の心は空っぽなの。何かに心を捕えられていて他のことには気持が入っていないのよ」
「男に人には仕事もあるし‥」
 アンジェリーヌの言葉にフロランスはひきっつったような笑みを浮かべた。
「アルベールは仕事のことなど頭にないわ」
「さっき仕事で出かけると‥」
 アンジェリーヌへ向けたフロランスの目には蔑んだような自嘲的な光が浮かんだ。
「私、あの人の大切な書類や本を隠したのよ。そんな事にもアルベールは気づかないの」
「フロランス、あなた‥」
 アンジェリーヌは驚いてフロランスを見つめた。
「アンジェリーヌ、あなたはアルベールととても仲が良いわ。何か知らない? あの人が変わってしまった理由を知らない?」
 フロランスのすがりつくような瞳が心を圧迫してくる。アンジェリーヌは静かに首を横に振った。
「知らないわ」
「ごめんなさい、アンジェリーヌ。あなただってアルベールには久しぶりに会ったのに… でもあなたに聞けば何かわかるかと思ったのよ…」
 フロランスは顔を覆って泣き出した。指の間からすすり泣く声が聞こえる。
「フロランス…」
 アンジェリーヌはもう一度フロランスを抱き寄せた。
「私は何も知らないわ。でも兄がどんな人間かは知っている。兄はあなたや子供達を決して不幸にしたりしない。それだけは言えるわ」
 アンジェリーヌは腕につかまって泣くフロランスの髪をなでた。

 ――あの人と同じ金の髪…

 フロランスの震えが腕に伝わってくる。アンジェリーヌは想いを込めてフロランスの髪を撫でた。アルベールを信じて欲しい。兄の気持ちをわかってあげて。
 アンジェリーヌに髪を撫でられフロランスの震えがおさまってきた。フロランスは体を離した。
「ごめんなさい、アンジェリーヌ。私あなたが羨ましいわ。いつも優しくて落ち着いていて…」
 フロランスはうつむいたままアンジェリーヌの手を取った。その手に何かを探すような素振りが痛々しい。
「クリストフはどう? 優しくしてくれる?」
 半ば独り言のようにフロランスは聞いた。
「ええ」
 アンジェリーヌの返事にフロランスは頷いた。
「彼、とても優しそうな瞳をしているわ」
「探したもの…」
 アンジェリーヌの言葉に何かを感じたのかフロランスは顔を上げた。アンジェリーヌは穏やかな目をして静かに微笑んでいた。
「アンジェリーヌ、あなたはいつも満ち足りているわ。幸せそうで… きっと私みたいに泣いたり悩んだりする事などないのでしょう」
 フロランスの声には力がなかった。アンジェリーヌは添わせてくるフロランスの手を握りしめた。
「私にだって悲しい事や辛い事はあるわ」
 フロランスは不思議そうにアンジェリーヌを見つめた。
「信じられないわ。私、あなたが羨ましかった。幸せそうにいつも微笑んでいる‥」
 フロランスの涙で濡れた瞳は露をたたえたように潤んで大きく見えた。その下に見える蒼い湖。
「私は心の中に大切な宝物を持っているの。それがある限り私は強くなれる、優しくなれる…」
「宝物…?」
 フロランスの瞳ははうっとりとしたような光を放った。
 アルベールがフロランスのどこを好きになったかわかるようだ。探して、探して、探し抜いた。兄とは同志だもの… 彼の気持がよくわかる。
「そう、心の中にしまって鍵をかけるの」
 アンジェリーヌはフロランスの指を折り手を閉じさせた。伏せたフロランスのまつげに涙のしずくが残っている。
「私にはそんなものありはしない… 私にあるのはアルベールだけ…」
 フロランスは握った手を開いてみた。その中には何もない。彼女はアンジェリーヌの肩に頭をもたせかけもう一度泣いた。


 アンジェリーヌを迎えての賑やかな晩餐がようやく終った。小さな甥と姪はアンジェリーヌ叔母様が大好きでなかなか離れなかった。今度従兄妹になる子供達に引き合わせてあげたら皆どれほど喜ぶだろう。アンジェリーヌは幸福な想像に心が満たされてくるのを感じた。
 寝るのは嫌だとごねる甥と睡魔に勝てず陥落した姪は子供部屋に連れていかれた。フロランスとジョゼットがジェルマンをを寝かしつけにかかっている。
「ジェルマン様、すぐお眠りにならないと明日眠くてアンジェリーヌ様と遊べなくなります。さあ、目をつむってください。まあ、大変だ。奥様の方が先にお眠りになってしまう」
 彼らの様子を窺っていたアンジェリーヌは子供部屋の前をそっと離れた。居間に戻ると兄がいる。
「アンジェリーヌ、お前も疲れただろう。もう休みなさい」
 アルベールの声が懐かしく響く。聞きなれた声の中に兄として気づかなかった男を感じた。
「ええ、ありがとう。でも、私もう少しお兄様とお話がしたいわ」
「私と?」
 アルベールが笑った。
「ええ、そうよ」
 屈託のない彼の微笑みに、アンジェリーヌは兄を取られてしまったように感じたデンマークでの結婚式を思い出した。
「言ってごらん」
「ここじゃ嫌よ。二人きりで話がしたいわ。お兄様の部屋へ行ってもいいかしら」


 アンジェリーヌは部屋を見渡した。本とインクの匂いのするアルベールの書斎。この部屋は彼自身のようだ。この部屋で自由に思索にふける兄の様子が想像できる。
「何だ? アンジェリーヌ」
 アルベールは机の前の椅子に座り、アンジェリーヌと向かい合った。茶の入ったカップを膝にのせ、長椅子に座った妹は何も言い出さない。気持をほぐすようなよい香りのする暖かい飲み物は、今日最後の仕事としてジョゼットが運んで来た。
 アンジェリーヌは美しい青の模様の入った白い陶器のカップを見つめた。不思議なものだ、これと同じ物が我が家にもある。僅かに模様が違うが、美しい白に深い青。晩餐の席に出たジャンデリアの光を跳ね返すほどの見事な白磁器や、デザートをのせた薔薇色の地に白地の窓をとった優雅な食器達。誰の為に誰が選んだのだろう。この部屋もそう。この家は兄の好きなもので埋め尽くされている。
「お兄様」
 呼びかけて顔を上げると懐かしい瞳に見つめられた。大好きな兄。からかわれもしたがいつも一緒に遊んでくれた。ベットの中で本を読んでくれ、同じ布団にくるまって物語を聞かせてくれた。明るくてやんちゃで、それでいて頑固で、いつも意思を貫き通した。綺麗で、母の自慢で、どこへ行っても人気があった。新しい世界に興味を持ち、理想を語る兄は眩しかった。アルベールお兄様… 誰よりも近い大切な存在…
 アンジェリーヌは目を伏せた。私達は同じ思い出を持っている。きっと兄も同じ想いを抱しめている…。
「お兄様、オスカル様に会ったのね」
 もう口にする事もないと思っていた、この名前。唇に登らせるだけで懐かしさに胸が締めつけられる。
「ああ、そうだ」
 アンジェリーヌの問いかけにアルベールは明るい声で答えた。
「お前に手紙を書こうと思っていた。オスカルがお前に会いたがっている。ちょうど良かった明日、訪ねていかないか」
 アンジェリーヌはゆっくりと首を横に振った。
「お兄様、お願い、フロランスを苦しめないで」
 アンジェリーヌの言葉にアルベールは眉を寄せた。
「大丈夫だ」
 アルベールは立ち上がりアンジェリーヌの側へ歩み寄った。兄の中の男が見えた。アンジェリーヌはカップを脇机に置いた。陶器のたてる音が小さく響いた。長椅子の側に立ち、見下ろしてくる瞳に誘われるように彼女は立ち上がった。この目の中にある深い想い、それを私は知っている。
 アンジェリーヌはアルベールの体に両手を回し、抱きしめた。
「お願い、お兄様。オスカル様なんてだめよ、やめて、お願い」
 兄を両腕ごと抱きしめ懇願した。アルベールは何も言わなかった。アンジェリーヌはすっかり悟った。フロランスの涙と、先ほど会いに行こうと言った明るい兄の声がすべてを物語っていた。
「お兄様、不幸になるわ。皆が悲しむわ」
 アルベールは腕を動かしアンジェリーヌから逃れた。彼は心の中に鳴る微かな警鐘を感じた。それを聞くまいとアンジェリーヌには答えず問いかけた。
「ジャルジェ家に行かないのか?」
 アンジェリーヌの瞳から涙がこぼれて床に落ちた。長年秘めた兄の想いがわかる。懐かしさで胸が締め付けられる。
「オスカルが会いたがっている。オスカルはお前の宝物をまだ持っていると言っていた。木に隠しただろう、覚えているか?」
 アンジェリーヌの涙は止まらなかった。
 懐かしい。覚えている。忘れるはずなどない。オスカルと兄とアンドレと光の中で過ごしたあの遠い日々。それ以前の記憶はぼんやりしているのに、育まれた六才の時の記憶は不思議なほど鮮やかではっきりとしていた。あれが私の一番古い記憶。あの時の匂いや感触。光の暖かさまぶしさ。優しい声。五感がすべてを覚えている。その日から私の記憶は培われ、動きだした。そしていつも戻る家のようにそこに戻り、記憶を新たにする。あの時の思い出は私を育て、幸せにしてくれた。
 アルベールはアンジェリーヌの顎に手をかけた。顎に手をかけ、くすぐるように優しく撫でる。それは泣いた妹の機嫌を取る時にするアルベールの癖だった。
「アンドレもいる」
 アンジェリーヌは首を振った。涙がはじかれたように左右に広がってゆく。アンジェリーヌは子供のようにそれを拭いながらもう聞かないと思っていたその名前を抱しめた。その名前は心に深くしまい鍵をかけた想いを簡単に開けてしまう。兄の口から出た彼の名前。会いたい。もう一度会いたい。会いたくない訳がない。会えば封じ込めた記憶や五感が生き生きと脈打つだろう。
「どうする?」
 兄にあのような事を言いながら自分が彼らに会う事などできはしない。
「帰ります… 明日、フロランスにパリを案内してもらって、帰るわ」
「来たばかりではないか」
「ええ、でも、子供達が・・ジョルジュとアリスが待っているもの」
「後悔はしないな?」
 アンジェリーヌは頷いた。
「ではオスカルには、お前が来たことは黙っていよう」
 アルベールは妹をそっと抱しめた。


 フロランスは鏡の前で最後の仕上げに取りかかった。ボルドーから来てくれたアンジェリーヌは子供が生まれたら一家で来ると約束し帰っていった。
『オーストリアにいるお父様とお母様もぜひ呼びましょう。皆でここに、パリに集まりましょう。もうすぐまた会えるのだからさよならは言わないわ』
 明るく馬車から手を振ってアンジェリーヌは行ってしまった。
「まあ、奥様なんて素敵なのでしょう! これなら女王陛下の前へお出になっても大丈夫でございます」
 イヤリングの具合を確かめるフロランスをジョゼットが大袈裟に褒め上げる。
「いやね、カトリーヌの所に行くだけなのに」
 フロランスはジョゼットに明るく微笑んだ。
 今日の奥様は上機嫌だ。ジョゼットはほっとした気持でフロランスを見た。友達の所へ行く気になったのも嬉しい。アンジェリーヌ様のお陰だろうか。ジョゼットはフロランスを満足気に眺めた。


 馬車が通りに出るとフロランスは手綱を握るエドモンに言った。
「ヴェルサイユ宮にやってちょうだい」
 エドモンは馬車を止めると驚いたようにフロランスを振り返った。
「何ですと? 今日はカトリーヌ様の所へいらしゃるのではありませんか?」
「違うわ。ヴェルサイユ宮よ」
 フロランスは事もなげに言った。エドモンは困ったように首を回した。
「そんな、旦那様にもおっしゃらずにヴェルサイユ宮になど‥」
「アルベールは気晴らしして来いと言ったのよ」
「でも、ヴェルサイユ宮になど‥」
「ヴェルサイユ宮くらいいつでも行けるわ」
「でも‥ お一人でそんな‥」
「あなたがいるじゃないの」
 エドモンのモタモタした言い方に苛ついたようにフロランスは言った。
「いいから早く出してちょうだい」


 一人フロランスはヴェルサイユ宮殿に入った。アルベールと何度か来た事があるので勝手は知っている。アルベールは短い間に色々な人と知り合いになっていてフロランスも多くの男女に紹介された。フロランスを見る彼女らの目には、はちきれんばかりの興味が溢れていた。セシェル伯爵の妻という立場は女達の関心を引いていた。フロランスに抑えきれない好奇心を抱いていた女達は一瞬にしてフロランスの頭から足の先までを見る。
 フロランスには確信があった。アルベールといた時は耳に入らなかった話も、噂好きで親切な夫人達が何か忠告してくれるに違いない。何々侯爵が二晩続けて帰らなかったとか、何々伯爵夫人の新しい恋人は十歳年下だとかの話を真剣にする彼女達がきっと何かを教えてくれる。
 顔見知りの夫人達に午後のお茶やサロンに誘われた。彼女らはドレスで隠したフロランスの体にはすぐ気づいたのに大切な情報は教えてくれなかった。身重の妻に同情しているのか。それとも‥ 
 アルベールを誉めてくれた話好きの侯爵夫人があまり見かけないフロランスが一人でいる事に興味を引かれたらしく、話しかけてくれた。彼女こそ、身重の妻に夫の行状を知らせてくれる人物に他ならないのに、侯爵夫人は詮索好きな目を光らせフロランスにいくつか質問しただけで何も教えてくれなかった。
 あてが外れた。鏡の回廊にたどり着いたフロランスはぼんやりと窓の外を見渡した。誰も私たちの事に興味は無いのだ‥ 目新しい新参者が次々噂の的に上っていったのを聞いていたのに‥ フロランスはそんな噂好きな女達に噂され彼女らから何かを聞き出そうとしている自分に嫌気がさした。私はここまで落ちぶれてしまった…。情けなくて涙が出る。

「ほら、オスカル様よ」
 横から聞こえた声にフロランスは窓に近づいた。彼女のすぐ横で二人の婦人が下を見下ろしていた。窓の下には近衛兵の小隊が整列し、その一番手前に真紅の軍服に身を包んだ人物が馬に乗っていた。こちらに背を向け顔は見えないが見事な金髪ですぐにオスカルだとわかった。
「素敵ね、いつ見ても」
「ふふ、あれで男の人だったらと、どうしても考えてしまうわ」
「だめよ、オスカル様は女だから素晴らしいのよ。考えてもごらんなさい、あれで男だったらあそこにいる近衛隊員と変わらないのよ。オスカル様の奇跡は彼女が女だからよ」
 フロランスは横を見た。若い女が二人、窓の下を見下ろしている。一人が自信たっぷりに言い切った言葉…
 何と言った? フロランスの耳の中で何かが弾けるような音がした。

 ――オスカル様は女だから…

 そうだったのか…! なぜ今までそれに気づかなかったのか… すべての謎が解けていく…
 フロランスは初めてオスカルに会った時の事を思い出した。アルベールに連れられ夜会に来ていた。オスカルに手を取られ、口づけされた。フロランスは自分の手を目の前にかざしてみた。
 あの時の手は… 白くて美しい手だった。長い指に形のいい薔薇色の爪。細くて柔らかかった。あれは男のものではない。そして唇。そうだ、あれは男のものではない!
 フロランスは窓に両手と額をつけ真下にいるオスカルを眺めた。アルベールの言葉が頭によぎる。
『急なお客だった… フランス時代の古い友人… 近衛隊のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ大佐… 偶然会った…』
 そうだったのか。不思議な事など一つもない。あの日からだった、アルベールが変わったのは。私だけが知らなかった。手紙など探しても出てくるはずがない。そしてアルベールは幻に捕えられたのでもなかった。そうだったのだ。
 フロランスは食い入るように下を見つめた。その時オスカルが振り向いて上を見た。途端に横から女達の嬌声が上がる。フロランスは驚いて窓から離れた。まるで自分の思考を見透かされたように感じた。心臓が音をたてて鳴る。なぜオスカルは私の考えている事がわかるのだろう。だがそれは思い過ごしだった。二人の貴婦人のさらに向こうにいる男が片手を上げた。オスカルは彼の方を見ていた。オスカルに気づかれたのではなかった。フロランスは安堵すると、窓から少し離れ、もう一度オスカルを見つめた。彼女は手を差し上げた男を見ただけですぐに顔を戻した。小隊長を先頭に隊が移動する。オスカルはそれを見ていたがその場を離れる時にもう一度彼を振り仰いだ。

 フロランスは窓から離れ歩き出した。オスカルという名前。軍人という立場。近衛連隊長をいう地位。そんなものが気づくのを妨げた。
 上背のあるオスカルの体型は男とも女ともつかなかった。それは彼女の腰や足に女らしい肉付きが足りなかったせいかもしれなかった。軍服を着ていると肩章で肩幅の様子がわからない。キビキビとした動作や広い歩幅などは女の動作ではなかった。
 ジャルジェ家での晩餐をフロランスは思い出した。あの時のオスカルは美しかった。神話から抜け出てきたようだった。見つめられると震えた。オスカルに見つめられ、その声を夢の中にように聞いた。彼女の声は低く落ち着いていたが、良く通り、人の心をくすぐるような甘やかな響きがあった。だがそれも男の声ではなかった。
 フロランスは喉に手を当てた。もう一つ気がついた。あの時のオスカルはクラバットを結んでいたが、あの喉に男の象徴である隆起はなかった。それどころかその首は細く白かった。
「失礼! マダム」
 突然フロランスは手を取られ、胴に腕を回され、引きとめられた。
「失礼をお許しください、マダム。お気づきですか? ここから段になっています」
 フロランスは目の前の床を見た。階段になっていた。気がつかなかった。
「まあ、私ったら‥」
 フロランスは手を取ってくれた人物を確かめた。先ほど窓にいた男だった。オスカルに手を上げ、オスカルは彼を見た。フロランスの胴に回された腕はすぐに解かれたが、手は取られたままだった。フロランスは自分の手を見つめた。
 フロランスの手を取るその手。男の手だった。大きくて、フロランスの手をすっかり包んでしまう。これが男の手だ。その手もそっと離された。
 フロランスは彼を見た。祖国のデンマークを思い出した。懐かしい祖国。美しい国。なぜそんな事を思ったのかはわからない。彼のフランス語は完璧だった。フロランスに見つめられ、彼は彼女の言葉を待ったようだった。彼からはどこか懐かしい香りがした。故国を同じにするような‥ あるいはもっと北の兄弟国の人だろうか。フロランスは礼を言うのも忘れ彼を眺めた。
「どうぞお気をつけて」
 夢から覚めたようにフロランスは頷いた。いたわるような彼の瞳に見つめられ彼女は階段を降りて行った。

 宮殿を出ると外は眩しかった。エドモンの待つ馬車までの道を歩きながらフロランスは目の前の景色がひどく不安定に見え目を凝らした。視界がゆらゆらしている。自分の体が右に左に揺れているようで、真っ直ぐ歩くのが難しい。揺らめく視界の中にオスカルの顔が見えた。
 オスカルは女でありながら女達の心をとらえ男達をも虜にしているのか… 女から見ても美しいオスカル。男は彼女をどう見ているのか。あの軍服姿をどう思っているのだろう。女でありながら男の世界で軍を指揮するオスカル。あの髪や目や肌を女のものとして愛してしまったら… 化粧をしない肌や紅を差さない唇を男はどう見るのだろう。
 フロランスは立ち止まり息を整えた。妊娠中だというのに胸を上げる為胸元を締め付け過ぎたのがいけなかったか。ドレスがきつくてたまらない。
 フロランスは自分を着飾り戦いに赴いたのだ。どんな女であっても負けはしない。アルベールを取り戻す為なら何だって出来る。プライドを捨ててもいい。相手を傷つけても、自分が傷ついても構わなかった。
 派手なドレスに流行の髪飾り、意味ありげな付ぼくろやあでやかな頬紅、豊満な肉体と下品で奔放な技巧で男を虜にするような女に負けはしない! 決して負けはしない…
 馬車が見えているのになかなか前へ進まない。足に何か絡みついているようだ。フロランスはドレスの裾をばたつかせ慎重に裾を上げ歩き出した。ようやく馬車に戻りほっとする。ぐったりと座席に座ったフロランスは馬車を出そうとするエドモンに言った。
「今度はジャルジェ邸にやってちょうだい」


 エドモンは何も言わなかった。おとなしく馬車をジャルジェ邸に向け、フロランスに言いつけられたように屋敷の外に馬車を停め、目的の人物を呼び出してきた。
 エドモンが呼び出してきた彼が来る。フロランスは馬車の窓からそっと覗いた。彼は怪訝そうな表情をしていたが、そこにあるのがセシェル家の馬車だとわかるととたん嬉しそうな笑みを浮かべた。フロランスは馬車の窓から顔を出した。彼女を見て彼は急いで言った。
「今日、アルベールは来ていませんが」
「ええ、わかっています。私、ちょっと通りかかったものですからご挨拶をと思って寄っただけなのです」
「ではどうぞこちらに」
 彼は柔らかく微笑むと馬車の戸に手をかけた。フロランスは開けられた馬車の中から言った。
「私急ぎますので申し訳ありませんがここで… あの、嫌でなかったら乗っていただけませんか」
 彼は考えるような表情をしていたが馬車の中に入ってくれた。フロランスはハンカチを取り出すとそれを握りしめた。自分で頼んだ事といえ彼と馬車の中で二人きりになると緊張した。馬車が狭く感じられるほど彼は存在感があった。長身や体躯のせいだけではないようだ。彼は強く異性を感じさせた。黒い髪や目のせいだろうか。デンマークでは滅多に見ない。フランスでもこれほどの色は珍しかった。
 フロランスはハンカチを揉み込むようにして手の汗を拭った。屋敷の方から見えないように窓のカーテンを閉めようかと思ったがそれはできなかった。彼と密室の中にこもるようでとてもできない。
「お忙しいのにすみません。ずっとアルベールがこちらにお世話になっていたのに私ったらお礼にも伺わなくて」
 フロランスの言葉に彼は安堵したように笑みを浮かべた。
「かまいません。アルベールとは古い友達です。彼の訪問はオスカルだけでなく旦那様も奥様も皆が喜びます」
 彼は強い異性を感じさせるほど精悍でありながら、黒い瞳には優しい光がこもっていた。アルベールが彼の事をいつも話す。
 アンドレ、アンドレ――
 アルベールがどれほど彼を信頼しているかこうして見ると良くわかる。彼はとても魅力的だ。
 ジェルジェ家での晩餐の席を思い出す。彼は自分を目立たせないよう気を使っているようだった。さり気ない注意は行き届いていて、何度も後から手助けしてくれた。そう、彼は召使いなのだ。でも彼には使用人の雰囲気がなかった。どんな殿方にも感じたことのないほどの魅力を彼は持っていた。それは決して派手ではなかったが、ゆっくりと人の心に染み渡り、しみじみと感じさせるものだった。
 フロランスはハンカチを揉みながらぎこちなく笑った。
「あの、こんな事聞いて変に思わないでくださいね。あの、アルベールとはどの位の付き合いなのです?」
 彼は首を微かに傾けた。怪訝そうな表情は見えなかった。フロランスはほっとした。
「アルベールとは子供の頃よく遊びました。まだ十かそこらの子供でした」
 アンドレは懐かしそうに目を細めた。フロランスは素直な彼の表情に何ともいえない呵責を感じた。
「その後はいつお会いになりましたの?」
「この間です。ご存知でしょう、偶然オスカルが裁判所で会いました」
「ええ、そうでしたわね。でもそれまでは全然お会いになっていませんの?」
「彼がフランスを離れた時は子供でしたから、数回手紙のやり取りをしたくらいで、私やオスカルにできることは地図を見て彼の行ったナポリとの距離を測ることくらいでした」
「そうでしたの。でも手紙のやり取りはずっと続いたのでしょう」
 彼は笑って首を振った。
「子供だったせいかどちらからともなく終りました。でもオスカルが宮廷に伺候するようになってからはセシェル伯爵の任地がわかりますから、今アルベールはポルトガルにいる、今度はスペインだ、デンマークだとオスカルと彼の軌跡を辿る事はしていました」
「本当に‥ それだけですの?」
「はい」
「オスカル様‥も…?」
 フロランスは顔が熱くなるのを感じた。彼に変に思われてしまう。
「同じだと思います。オスカルとはいつも一緒にいますからあいつだけ抜け駆けしようとしても多分できないでしょう」
 この人は私の聞きたいことがわかっている。フロランスは胸に手を当てた。ここに来た意図を見透かされていながら恥ずかしさも戸惑いもなかった。それは彼の誠実な瞳のせいだろうか。そこには好奇心も軽蔑も憐憫もなかった。付け足すように彼は言った。
「そうだ。十年ほど前ヴェルサイユに来ていたアンジェリーヌと会いました。でもその時も我々は知らなかった。アンジェリーヌもオスカルが見つけてきた」
 アンドレは笑った。フロランスは胸の奥がチリチリが痛んだ。アンジェリーヌは数日前パリにいた。
「あの人はなぜ貴方達に会おうとしなかったのかしら…」
 独り言のようにフロランスは言った。
「わかりません、彼は忙しかったのでしょう」
 フロランスはアンドレの言い方にいたわりを感じた。やはり同情されているのだろうか。彼女の表情に気づいたのかアンドレはつけ加えた。
「我々はアルベールに忘れられていたとは思いたくない」
 フロランスは顔を上げ社交的な笑顔で微笑んだ。
「お手間を取らせましたわ。今度は時間を取って将軍と奥様とオスカル様にお礼を申し上げに参ります。それから…」
 フロランスはしまいかけたハンカチをもう一度握りしめた。
「今日ここに来た事、アルベールには黙っていていただきたいのですが‥」
「わかりました」
 アンドレは丁寧に礼をすると馬車を降りた。


 オスカルは図書室で一人、本を読んでいる。アンドレはオスカルの前にワインを置いた。ワインを飲みながら寝る前のひと時を読書で過ごすオスカル。オスカルはグラスを置く音に気づくと瞳だけでアンドレに微笑み、すぐ目を本に戻した。
 アンドレはオスカルの側に座った。図書室の机の上に乗った数冊の本。今日の午後アルベールが持ってきた。オスカルが読みたいと言っていた本だった。この二人は本の話をしているだけで何時間でももつ。アルベールもジャルジェ家の図書室には興味があるらしい。
 灯をともした夕暮れの図書室。本を前に座るアルベールの後からオスカルが覗き込む。オスカルは彼に中断を断り表紙を確かめる。オスカルの髪が彼に触れる。指先が触れあう。そんな動作にアルベールの思考が寸断される。それにオスカルは気づかない。
 日が暮れるのも気づかず語り合う二人。その姿をどれほど見ただろう。
「オスカル」
 アンドレはオスカルの正前から呼びかけた。
「どうした?」
 本から目を離し、アンドレを見つめるオスカルにアンドレは意を決したように言った。
「アルベールがここに来すぎる」
 オスカルにはアンドレの言った言葉の意味がわからなかったようだ。
「何か、問題でもあるか?」
 今日も帰ろうとするアルベールをおばあちゃんが無理に夕食に付き合わせた。彼がくる事は家中が大歓迎だ。オスカルも彼が来ていたのに帰ったとわかると、なぜ自分が帰るまで引きとめておかなかったのかと怒る。
「その‥ あまり頻繁だと、ロザリーのことで、アルベールの奥方が誤解するかもしれない。だから、こちらから誘うのはどうかと‥」
 言いながらアンドレは顔が赤くなるのを感じた。
「アルベールとロザリーが?」
 オスカルの静かだった瞳に影が映った。オスカルの瞳をまともに見られずアンドレは視線をそらした。
 オスカルは本を閉じ考え事をするように机に両肘をのせた。アンドレは横目でオスカルを見た。笑い飛ばされるかと思った。下手したらアルベールに笑い話として告げられるかもしれない。アンドレはどぎまぎしながらオスカルの様子を窺った。
「だから、無用な誤解は避けたほうがいいかと‥」
 オスカルから返事はなかった。考えるように瞳を巡らすオスカルを見て、アンドレはアルベールやオスカルにひどい仕打ちをしているように感じた。だがこのままではいけないような気がする。
「わかった。無駄にこちらから誘うのはやめよう。彼に迷惑がかかってはいけない」
 決心したように言うオスカルにわからないようアンドレは息を吐いた。
「じゃあ、俺はおばあちゃんにそう言っておく。アルベールを一番引き止めるのはおばあちゃんだからな」

 一緒にワインを飲まないかというオスカルの誘いを断ってアンドレは仕事についた。雑用でもやっていた方が気がまぎれる。アンドレは雑貨商人が届けにきた荷物を解き、注文と合っているかつき合わせていった。
 アルベール、お前は何もかも持っている。貴族という身分も、お前を愛してやまない妻も、二人の子供も。もうすぐ生まれる子供もいる。暖かい家庭と才能と、それを傾ける仕事を持っている。失ってはいけない。
 荷の中に手を入れアンドレはため息をついた。アルベールの事を思って言ったような忠告だったが、それだけでない事を彼は知っていた。
 アルベールとオスカルを離したい。アルベールの視線に耐えられない。誰もあのような目でオスカルを見ないで欲しい。オスカルは俺だけのものだ。唱える度に暗闇に落ちてゆくようなこの言葉… 突きつけるエゴに焼かれ、落ちてゆく。アンドレは揺らめくろうそくの灯りを見つめた。



「フロランス!」
 アルベールの大声が家中に響き渡った。
「どうなさいました」
 使用人達が一斉に出てくる。アルベールは彼らを手で制すると階段を登った。二階のフロランスの部屋の扉を開ける。大きな音をたてた扉の音に驚いてフロランスが振り向いた。
「お前、今日ジャルジェ家に行ったな」
 アルベールは扉を閉めると真っ直ぐフロランスに歩み寄った。フロランスの驚きの表情が怯えに変わった。
「何しに行った」
 アルベールの声は静かで落ち着いていたがぞっとするような怒気を含んでいた。
「わ、私何も‥」
 フロランスは落としたブラシを拾い上げようとした。アルベールはフロランスの腕をつかんで体の向きを変えさせた。
「何しに行った!」
 アルベールはもう一度言った。
「私、お礼に‥ あの、いつも貴方が世話になっているからそのお礼に行ったのよ」
 フロランスは震えた。
「それから? それから何を聞いてきた?」
 見たこともないアルベールの表情だった。
「わ、私何も‥」
 フロランスは泣き出した。
「アンドレに何を聞きに行ったのだ?」
 アルベールはフロランスに顔を近づけた。
「あの人しゃべったのね」
 フロランスの物言いにアルベールの顔色が変わった。
「アンドレは余計な事を言ったりはしない!!」
 声を荒げたアルベールに腕を取られフロランスの体は大きく揺れた。
「私、ただ聞いただけよ。貴方とオ、オスカル様、アンドレはいつ会っていたのかって‥」
 フロランスは涙で頬を濡らしながら唇を震わせた。
「それで? いつ会っていたと言われた!」
 アルベールに手首を激しく揺さ振られフロランスは叫び声を上げた。
「なぜ、私に聞かない?!」
 アルベールに強く問い詰められフロランスは身を縮めた。
「私が信じられないか?!」
 アルベールも苦しそうだった。
「い、痛いわ。離してちょうだい」
 フロランスの懇願にアルベールは、はっとしたように手を離した。フロランスは手首を押さえ恐怖に震えていた。フロランスの手首にはつかんだ跡が残っていた。フロランスはアルベールにこれほど手荒に扱われた事はなかった。彼がこれほど怒った事もなかった。ただ、ただ、恐かった。
「悪かった、フロランス」
 アルベール自身も驚いたようだった。フロランスは手首を押さえ背中を丸め震えることしか出来なかった。



再会Z に続く




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