2003 4/6
挿絵 市川笙子さま

再会 [




「オスカル!」
 マントから滴る水滴がホールの床に溜まる。全身ずぶ濡れでジャルジェ家に駆け込んだアルベールはオスカルの姿を探した。
「アルベール」
 不意にオスカルの声が聞こえ、振り向いた彼の目の前に普段着のオスカルが現れた。彼女はあまりにも普通で、昨日も一昨日もここにいたように思われた。
 蒼い瞳が驚いたようにアルベールを見つめる。一瞬、現実感の薄い心許ない感覚が彼を襲った。オスカルはまたどこかに行ってしまいはしないか。手を伸ばして捕まえなければ…
 オスカルは雨に濡れ息を切らせたアルベールを見つめていたが、その後にいる人物を認めると厳しい声で言った。
「ジャコブ、知らせるだけで良いと言ったではないか! こんな雨の中連れて来る奴があるか」
「で、でもアルベール様が‥」
 ジャコブも同じように激しく滴をたらしながら困ったように小さな瞳を瞬かせた。フードを外した彼の頭からは湯気が立っていた。
「オスカル」
 アルベールはオスカルに近づくと頬に手を触れた。蒼い瞳が僅かに見開かれ、唇が小さく開き息を吸う音が聞こえたが彼女は身を引かなかった。彼は両腕を彼女の体に回した。
「良かった。無事で…」
 薄いブラウスの背を抱きしめ金の髪のかかる肩に額を乗せた。ずっとこの姿を待っていた。よく無事で帰って来てくれた。オスカルの背中は柔らかくしなりアルベールの腕に添った。強く抱きしめ彼女の存在を確かめる。オスカルからいつも感じる甘やかな匂いが彼を包んだ。
「アルベール、心配かけたな」
 オスカルの声が優しく響いた。彼はオスカルの肩から顔を上げた。
「すまない、オスカル、お前が濡れる…」
 彼はオスカルから体を離した。
 オスカルは、うつむき前髪から雨の雫をたらしているアルベールを見た。彼の顔にも雨粒が沢山付いていた。そのうちの一つが頬を伝い流れて落ちた。
 オスカルはジャコブを振り返った。
「ジャコブ、悪かった。お前が一刻も早く知らせたいと馬で行ってくれたのに… 着替えて今日はゆっくり休め」
 オスカルは彼の苦労をねぎらうよう静かに言った。
 アルベールはうつむいたままだった。何も言わない。オスカルは彼の手に巻いた包帯に気がついた。
「アルベール、その手はどうした」
 オスカルがアルベールの手を取った。彼はオスカルに手を預けた。オスカルは何か大変なものでも見るような目をして彼の解けかかった包帯を見ていた。アルベールは不思議だった。オスカルお前はこんな傷を気にしている。サベルヌで命をさらす危険な目に合ったのではないのか。オスカルの指が傷を確かめるように血の付いた包帯を解きかけた。
「何でもない」
 アルベールは手を引っ込めた。
「でも血が出ている」
 オスカルは隠すように後に回された手をもう一度取った。
「手当てしなければ‥ それから着替えだ。ばあや!」
 オスカルは奥に呼びかけ彼の側を離れた。アルベールは波のように襲ってくる感情に飲み込まれた。床に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。オスカル、お前の姿が今ここにこうしてある事、それ以外の事には耐えられそうにない。お前の存在を脅かすもの、お前を傷つけたり冒涜するもの、お前を愛し奪ってゆくもの、それら全てのものに耐えられない。お前は不意に居なくなり不意に現れた。お前がいない世界を体験した。空虚で恐ろしかった。世界が死んだように動きを止め、吸い込む空気さえ命を縮めてゆくような気がした。戻ってきた日常はもう昔に戻れない。アルベールは泣いた。寒さからではない感情の渦に巻き込まれ震えた。お前の無事な姿を見ることが願いだった。でも、もうそれだけではきっと我慢できない。

 アルベールは着替えを済ませ客間の椅子に座った。彼の為に暖炉に火が入れられた。
「アルベール、たまにはこんな物も良いと思う」
 オスカルはアンドレから受け取った飲み物を一つは自分の方へもう一つをアルベールの方へ差し出した。それは温かそうな湯気を立て心の中を溶かしてゆくようなとろりとした甘い香りを放っていた。オスカルの白い指が彼の前に白磁器を押し出す。
 湯気で顔を隠すようにオスカルがカップを口に運ぶ。揃ったまつげが下を向いている。アルベールはカップの淵につけられた唇の動きをじっと見ていた。オスカルのカップから昇ってくる甘やかな香りは彼を魅了した。オスカルは甘い匂いを持っている。それは子供の時から感じていた。男の格好の中に閉じ込められたオスカルの性。どんな格好をしていようとオスカルは女でその姿は美しいドレスや薄絹よりも男の本能を刺激した。
 オスカルはカップから口を離し舌先で唇を拭った。アルベールはオスカルを見ながらカップを取り上げ甘い香りのする液を口に含んだ。それは目まいがするほど甘く口の中に広がり喉をくすぐるように落ちていった。胸の中にまで香りが広がった。ショコラは魔法のように固まった心をほぐしてゆく。苦しく辛かった待つ日々を柔らかく過去にしてくれる。
 オスカルがアルベールを見て微笑む。極上の美を彩る艶やかな微笑み。その瞳に見つめられ顔を上げてはいられない。彼はカップに口をつけもう一度香りを感覚に刻みつけた。

 オスカルに馬を置いて馬車で帰るよう言われ、アルベールはジャルジェ家の馬車に乗った。彼は不思議な感覚を拭い去れないでいた。オスカルは昨日まで、いや、今朝まではサベルヌからの帰還の途にあったはずだ。危険な任務をやり遂げながらいつもと変わらぬたたずまい…。
 アルベールは馬車の中でショコラの香りを思い出した。めったに飲まない飲み物だった。彼がいつも飲むのはカフェ〔コーヒー〕だった。それは脳を覚醒させる。それに比べてショコラはどうだ。心を甘く懐柔し眠気さえ誘う。甘い飲み物という印象しかなかったショコラ。だが今日飲んだものは忘れられないほど魅惑的な香りだった。甘すぎないのに濃厚だった。カップを持つオスカルが脳裏に浮かんだ。
 帰路は、無事帰還の知らせを聞きながらも不安で馬を飛ばしてきた同じ道だとは思えない。あの飲み物のせいか。ショコラの香りとオスカルの指がアルベールの眠りを誘っていった。


 家の車庫に見慣れぬ馬車が止まっていた。見た事があったが思い出せない。アルベールが家に入るとジョゼットがリネンを片手に水差しを持って二階から降りてきたところだった。
「アルベール様」
 ジョゼットは彼に気づくと不安げに眉を寄せた。
「デュアン先生がいらしています。奥様が熱を出されました」
 思い出した。あれはフロランスの主治医の馬車だった。フロランスはずっとデュアン医師の診察を受けていた。彼女は老練なデュアンをとても信頼していた。
 アルベールは二階に上がりフロランスの部屋に入った。丁度医師が彼女の上にかがみ込み様子を見ているところだった。フロランスは眠っていた。
「デュアン先生」
 後から呼びかけるアルベールの声に医師は振り向き唇に人指し指を当てた。彼はそっと立ち上がると寝台の側を離れ廊下に出た。
「先生」
 医師に従い部屋を出たアルベールに彼は部屋の扉を閉めるよう目で合図をした。アルベールは扉を閉めデュアン医師に向かい合った。
「先生、フロランスはどうしたのですか」
 医師に問いかけながら皮膚を戦慄が走った。ずっと不安定だったフロランス。今までの彼女にありえない不健康な様子はずっと気になっていた。
「お風邪でしょう」
 医師は両手を後で組み静かに言った。
「熱が少し高いようです。薬を出しておきます。水分を切らさずに美味しい物を食べて養生なさってください」
 医師の言葉は平静だった。
「デュアン先生、フロランスはここのところ食欲がなくてほとんど物を食べていません。食べても吐いてしまうようです」
 アルベールはずっと心配だった事を医師に告げた。フロランスは最近特に腹が目立ってきた。だがそれに反し彼女の体はほっそりしてきたように見える。
「アルベール、子供は順調に育っている。フロランスには宿った命を育て、生み出すしなやかな強さがある。それに子供は親の体をかじってでも生まれてくる。子供は心配いらない」
 子供は心配いらない‥ ではフロランスは‥? アルベールは嫌な予感に捕らわれて医師を見た。彼は一人で何か頷き廊下の端に目をやった。
「フロランスは‥」
 アルベールは小さくつぶやきうつむいた。まだ乾ききっていない彼の髪は湿気を含んで癖のある柔らかい曲線を描いていた。
「アルベール、フロランスには何か気にかかる事があるのではないか? 心痛は体を弱らせる。フロランスの心を辛くしているものがあるとすればそれを取り除いてやる事だ」
 アルベールは廊下の壁に背中をつけた。伏せた彼の目に組んだ医師の両手が見えた。   


 アルベールはフロランスの部屋に入れなかった。部屋を出入りするジョゼットに聞くだけしかできない。ジョゼットはいつも「奥様は眠っています」と答えた。ジョゼットが水差しや着替えを持って部屋に入る。彼女は部屋を出るとアルベールに「まだ熱が高いようです」「お薬を飲みました」と教えてくれた。フロランスが私を呼ばないか。聞こうとして聞けなかった。
 書斎の椅子に体を落としアルベールは雨の音を聞いた。
『オスカル様など死んでしまえばいいのよ』
 フロランスの声は耳から離れない。フロランスの心を辛くしているもの‥ アルベールは机に肘をつき髪の中に手を差し入れた。
『あなたは誰を思って私を抱こうとするの!』
『誰かが私達の事を見ているのよ』
 怯えた顔のフロランス。頭を支える手で髪をつかみながら彼は右手の痛みに気がづいた。白い布に浮き上がるように血が滲む。ふさがりかけた傷は開き新たな血を滲ませていた。


 雨は三日降り続いた。フロランスの状態が気になった。アルベールは部屋に入り寝台の脇に膝をつきフロランスの顔を覗き込んだ。彼女は一度もアルベールを呼ばなかった。まだ熱は下がらないのか。フロランスは赤く上気した顔をして目を閉じていた。いつもより顔色が良い気さえしたがそれは熱のためだった。その証拠に唇は乾いていた。
 アルベールはフロランスの額に触れようと手を伸ばしてやめた。彼女を起こしてしまう。それにフロランスと目を合わせたくなかった。フロランスの瞼が微かに動いた。アルベールは顔を近づけた。彼の気配を感じたかのように彼女は目を開ける。うっすらと開いた瞳はもやがかかったようにゆらゆらと動いていたが焦点を結ぶとはっきりとした色を示した。
「アルベール」
 フロランスは乾いた唇で、汗で張り付いた髪で起き上がろうと肘をついた。
「フロランス」
 アルベールは彼女の肩を押さえ寝台に戻した。
「まだ寝ていなければいけない」
「帰っていたの‥  アルベール」
 フロランスは上掛けから手を出すと宙に上げた。その手は彼に向かい途中まで差し上げられたが力なく落とされた。
「…アルベール」
 フロランスは熱に潤んだ目をして彼を見つめ口を動かした。何か言いたそうだ。アルベールは彼女の口に耳を向けた。
「オスカル様は‥無事‥サベルヌから‥お戻りになった…?」
 アルベールの胸で何かが弾けた。それは堰を切って熱く彼の胸を満たし体の中をかけめぐった。彼は頷いた。フロランスの蒼い瞳、そこに熱を帯びた小さな光がきらめいた。光は目の中に溢れ雫となってころがり落ちた。彼は言葉を発することが出来なかった。フロランスの瞳にただ頷いた。
「お怪我も‥なく‥?」
 彼はもう一度頷いた。フロランスは何も言わず向こう側に顔を向けると泣き出した。細くなった肩を震わせいつまでも泣いていた。


 首飾り事件解決の功績を認められオスカルは准将に昇進した。ジャルジェ家には昇進の祝いに駆けつける者が引きも切らず押しかけていた。軍服が多かったがそうで無い者もいた。皆一様に彼女の手柄を褒め称えていた。
 アルベールはアンドレに事の顛末を聞いていた。ジャンヌとニコラスは爆死したという。
「オスカルはジャンヌとニコラスを生きて捕えられなかった事を悔やんでいる」
 アンドレは自分達を危険な目に陥れた罪人に温情を見せていた。なぜそこまで‥と思う。オスカルは国王陛下に、部下だったニコラスを自分の手で捕えてやりたいと直訴していた。それは成敗の為ではなく深い情けから出た言に感じられたが、アルベールには理解できなかった。
「それにジャンヌは…」
 そこまで言いかけアンドレは言葉を切った。
「とにかくこの件にかけてオスカルは満足していない。アルベール、オスカルにこの事は聞かないでやってくれ」
 爆死とは穏やかではない。オスカルは危険な目に合ったのではないか。彼はそれが心配だった。オスカルに怪我はなかった。でも苛酷な状況が心に傷を作る事もある。オスカルは彼らの死を見たのだろうか。
「アルベール」
 階段を下りるオスカルの身のこなしはとても軽い。アルベールが目で追いかける間もなくオスカルは彼に気づくとなめらかな動作で人波をぬって近づいてきた。
「オスカル、昇進おめでとう」
 アルベールの祝辞にオスカルは頷いて応えると彼の腕に手をかけた。
「取り込んでいてすまない。もうしばらくしたら落ち着くから」
「オスカル、せっかくの祝いの席だが私は‥」
 彼は言葉を濁した。
「わかっている。必要があって設ける席だ。義理の席にお前が出る必要はない。余計な招待をして悪かったと思っている」
 アルベールはオスカルの昇進の知らせを聞いてやって来た。准将への昇進は誇らしい気持だ。
 オスカルの手柄はアントワネット王后陛下は勿論、国王陛下も大喜びで宮廷中はその話で持ちきりだった。だが、ジャルジェ家では祝いの席を一席設けて終りにしたいらしい。祝いの言葉を携えてやって来る者を丁重にさばいてゆくのにはこれが一番手っ取り早い。それはどんな栄誉にも奢ることのない将軍家の必要最小限の儀礼だった。
 祝宴は明日だというのに今日のジャルジェ家は客が多い。近衛隊ばかりでない軍服姿を多く見た。オスカルはずっとこのような世界で過ごしてきたのか。軍服、サーベル、軍人、男ばかりだ。男しかいない。
 アルベールは自分を見つめる視線に気がついた。オスカルと話をしている時からずっと感じていたこの視線…。どうやら私を見ているようだ。アルベールは顔を上げ、ぶしつけな視線の主を割り出した。


 近衛隊の軍服を着ている。階級章から見ると大尉だ。彼はアルベールの視線を歓迎するかのように真っ向からそれを受け止めた。恵まれた体を誇示するかのように胸を張り自信に溢れた目で相手を見据える。アルベールの心の中を見透かすような容赦ない瞳は高慢とも見て取れた。
 何が言いたいのだ。アルベールもその瞳と対峙した。言いたい事があれば言えばいい。アルベールは一歩そちらに歩を踏み出した。微動だにしない視線。秀麗な額の下の瞳は高飛車で攻撃的だった。
 彼は口の端を小さく歪め笑みを作るとアルベールから視線を外した。背中を見せても隙がない。フランス王室を守る近衛隊としての誇りが滲み出ている。それによく集めてくるものだと思うほど際立つ容姿だった。オスカルの部下だろう。アルベールも彼から背を向けた。軍の中にいて誰がオスカルを守るのだろう。ジャルジェ将軍の厳しい言葉がよみがえった。
『親子とはいえ仕事では完全に別…』
 オスカルを守りたい、自分には叶わぬその望み…。アルベールは唇を噛んだ。血の匂いがした。
 今日はもう辞そうと思う。彼は人込みのホールを抜け庭に出た。華やかな喧騒を背にしてアンドレの言葉を思い出していた。
『オスカルは悔やんでいる、満足していない…』
 オスカルも暗い顔をして言った。
『私は昇進になど値しない…』


 フロランスは熱も下がり起き上がることができるようになった。アルベールは時々フロランスの部屋に様子を見に行った。彼女は病み上がりの体を起こし窓から外を見ていることが多かった。寝台の上に座って、或いは窓辺に寄り飽きもせず外を見ていた。一度だけひざまずいて祈っているところを見た。物音に気づきもせず、一生懸命何かを祈っていた。
 フロランスが窓辺に立っている。開けた窓から風が入り彼女の柔らかい部屋着の中にまで入り込んだ。アルベールは急いで窓に近づくと窓を閉めた。窓が閉じられ初めてフロランスはそれを閉めた人物を見る。
「風は体に毒だ。窓を開けてはいけない」
 フロランスは素直に頷くとおとなしく寝台に戻った。
 髪を肩にたらしいつも柔らかい部屋着を着て同じ方ばかり見ているフロランス。部屋の扉が開いてもこちらを見ない。寝台の上に座ったフロランスの肩は細く、輪郭は弱々しく見えた。白い光が彼女の髪に落ち金髪が光に溶けそうに薄く見えた。フロランスが空気に溶けてしまう。アルベールは恐くなって後からフロランスを抱きしめた。突然抱きすくめられ彼女は驚いたようにアルベールを見る。フロランスの瞳はあどけなく出会ったばかりの頃を思い出させた。
「何を見ている」
 空気を抱いているわけではない。アルベールはフロランスの体を感じたくて腕に力を入れた。
「空よ」
 少女のような声でフロランスは答えた。
「空?」
「そうよ。それから鳥」
「鳥?」
 アルベールは空を見た。鳥などいない。
「フロランス、お休み」
 アルベールはフロランスに腕を回し彼女の体を寝台に横たえた。


 オスカルの部屋からバイオリンの音が聞こえる。澄んだ音色はこの世の邪悪や悪徳の存在を忘れさせてくれる。世界がどれほど変わろうともオスカルは変わらない。あの崇高な佇まいを乱すものは何もないとこの音色が教えてくれる。
 アンドレからオスカルは部屋にいる、直接部屋に行けと言われて来た。准将への祝い事は滞りなく終り屋敷に静けさが戻ってきた。
 アルベールは部屋の扉をノックした。バイオリンの音が止みオスカルの声がした。
「アンドレか、入れ」
 アルベールは扉を開けた。
「アルベールか」
 オスカルの弓を持つ手が止まる。
「中断させてすまない。続けてくれ」
 アルベールは部屋に入り、入り口近くの椅子に腰を下ろした。オスカルは彼を見て微笑むと楽器を持ち直した。部屋に夕闇が迫っている。窓を背に木立の深い緑がその姿を浮き上がらせる。アルベールはその姿をしっかりと目に刻み付けた。空気を震わせ、共鳴するものを浄化するように響く音。弦を押さえる白い指、しなやかな腕。忘れない…。
「アルベール、そんな所にいないでこちらに来たらどうだ」
 オスカルが途中で演奏をやめ彼を呼んだ。
「いや、音を聞くにはこの方がいい」
 アルベールは腕を組み離れた場所の椅子から答えた。
「そうか、それなら私の大切な聴衆の為にリクエストを聞こう」
 オスカルは弓を持つ手で彼をうながした。
「それでは、オスカル‥ お前の一番好きな曲を…」
 オスカルは深く頷くと同じ曲を最初から弾き始めた。アルベールは目を閉じ演奏に聞き入った。奏でる音を聞きながらバイオリンを弾くオスカルを思い浮かべる。その姿をいつでも思い浮かべられるように脳髄の深いところに焼きつける。演奏が終ったらもう一度リクエストしよう、この曲を…。
 お前の奏でる音、お前の好きな曲、お前を知っておきたい。忘れないように…


 フロランスの部屋は湿った匂いがした。アルベールは締め切られた暗い部屋に入り、扉を僅かに開け廊下の明かりでフロランスの様子を窺った。規則正しい息づかいに安心する。熱のある時はもっと苦しそうだった。アルベールは廊下に戻り燭台を手にするとそれを枕元に置いた。フロランスは目を開けなかった。彼は上掛けの中に手を入れフロランスの手を探った。柔らかい手を取りそっと上掛けから引き出し口付けた。フロランスは目を開けた。
 天井を見上げるフロランスの瞳には力がなかった。彼女は眠そうに目を閉じかけた。アルベールはフロランスの手のひらを頬にあて顔を動かしそこに唇を付けた。彼女の目に柔和な光が宿った。
 アルベールは妻を見た。薔薇色だった顔は青白く尖り、隈ができ、目ばかりが大きかった。艶のあった唇は乾いて色を失っていた。首も腕も手首さえ細くなり腹ばかりが異様に大きかった。
 アルベールはもう一度フロランスの手に口づけた。彼の唇を感じるのかその度に彼女は閉じかけた目を開ける。だがその目は天井を向いたまま動かなかった。
 アルベールの目に涙が滲んだ。目頭に充満するものは自分でも驚くほど熱かった。彼の涙は溢れフロランスの手を濡らした。
 アルベールは何度も何度もその手に口付けた。私が見つけた大切な宝物…。遠いデンマークの地でやっと見つけた。世界中を探しまわり見つけた私だけの宝…。
 幼い頃から抱き続けた宝もあった。
 抜けるような青い空、光を受けて輝くサファイヤの瞳と深い森の中で人知れず水をたたえる青い湖。燃え盛るほど眩しく、光を呼びながらひるがえる金の髪と木漏れ日のような細いきらめき。どこまでも透き通り、光しか通さない清冷な金剛石と貝の体内で育ったまろやかな粒。
「フロランス、デンマークへ帰ろう。お前は母上の元で子供を産むのだ」
 アルベールは涙で濡れたフロランスの手を額に押し当てた。身を削って命を生み出す女の前にひれ伏したい気持ちだ。
 フロランスは悟ったように微笑んだ。生気のなかった彼女の目に優しそうな光が浮かんだ。
「私は一人で帰るのね…」
 彼女は真上を見たまま全てを赦(ゆる)した顔で頷いた。
「違う、フロランス、私がいる。皆で帰るのだ。皆で一緒にデンマークへ帰ろう」
 アルベールはフロランスの手を置きその上に顔を伏せた。


 深まる秋を感じさせぬほど暖かな日だった。アルベールは馬でジャルジェ家に向かった。彼の愛馬はあの日ジャルジェ家に世話になりその後ジャコブがきちんと届けてくれた。彼は走りたそうな愛馬を律し、何度も通った道を確かめるように辿った。風は穏やかで心地よく彼の髪を撫でてゆく。木々の姿、遠くに見える風景、風の匂い、忘れないよう心に留めてよく見るのだ。ヴェルサイユに通じる道…。どこまでも懐かしい道…
 首飾り事件解決の労をねぎらってのオスカルの休暇は今日が最後だった。明日からオスカルは准将として新たな勤務につく。
「客間よりオスカルの部屋がいいだろう」
 アンドレはアルベールの訪問を当然のものとして受け止める。
「先に行っててくれ。今飲み物を持っていく」
 アンドレの背中に二階から声がかかる。
「アンドレ、部屋に運んでくれ」
 二人は同じ事を考える。いや、感じるのか。
 アンドレはオスカルを振り仰ぐと片手を上げた。
「アルベール、入れ」
 オスカルが部屋に迎え入れてくれる。この部屋に入れる者は何人もいないはず。それは彼女に信頼されている証。何よりも誇れる証だった。ジェルジェ家に出入りでき、オスカル・フランソワと遊べるのは自分だけ、子供の頃感じた得意な気持もこんなだった。
「せっかくの特別休暇だが何も出来ず終ってしまった」
 オスカルは残念そうに笑ったが休暇明けを待っているようにも見えた。机にアルベールの本が重ねてあった。
「もう少し貸しておいてくれ。いいか?」
 オスカルは本を手に取った。
「ああ」
 アルベールはオスカルに本を貸していた事を思い出した。不意によみがえる鮮明な像。
『庭の木に隠したお前の宝物は私が持っている』
 森の中で聞いたオスカルの声。澄んだ空気の中でお前は告白した。つい最近の事だった。それが遠い昔に聞こえるのは一体なぜだ。

「アルベール、どうした」
 オスカルの声にアルベールは我に返った。何を見ていた今‥ テーブルの上にはアンドレの淹れてくれたカフェがある。アンドレもこちらを見ている。そうだ、カフェを飲みながら取りとめのない話をしていた。
「変だぞアルベール、私の話を聞いていたか」
 オスカルに問われて彼は返事が出来なかった。
「すまない。何だ」
 アルベールの様子にオスカルは首をかしげアンドレの方を見た。アンドレは表情を変えず軽く目を伏せた。
「フロランスの様子はどうだ」
 オスカルは質問を繰り返した。
「ああ」
 短く返事をしたきりのアルベールを見てオスカルは再びアンドレを見た。アンドレは目を伏せたまま黙っていた。
「実はデンマークに帰る事になった…」
 アルベールの言葉にオスカルは振り返りアンドレは顔を上げた。
「デンマークへ?」
「なぜ?」
 二人が同時に声を上げた。
「遠すぎる」
「フロランスには無理ではないか」
 オスカルとアンドレは顔を見合わせた。カフェに目を落としたアルベールには深い憂いが見てとれた。僅かな沈黙が流れた。
「そうなのか‥もう決めた事なのか‥?」
 オスカルが口を切った。俯いていたアルベールが不意に顔を上げた。
「オスカル、送ってくれないか」
「それは構わないが‥」
 オスカルは意味が呑みこめず怪訝な表情をした。
「今日は馬で来た。オスカル、途中まで送ってくれ」
 突然のアルベールの懇願だった。
「わかった、それなら‥」
 オスカルはアンドレを見た。アンドレは首を横に振った。
「オスカル、お前に送って欲しい」
 アルベールは静かに立ち上がった。


 オスカルと馬を並べながらアルベールは無言だった。オスカルも黙っていた。二つの影が揺れる。背中に傾いた日の光を感じた。
「ありがとう、オスカル。ここまででいい」
 パリへの道の中ほどでアルベールは馬を降りた。彼は馬を降りると来た道を戻るようにヴェルサイユの方角を向いた。オスカルも馬を降りた。オスカルは彼の馬と自分の馬を木に繋いだ。
「アルベール‥?」
 オスカルはアルベールに近づき彼の横顔を覗き込んだ。彼は真っ直ぐヴェルサイユの方を見ている。まだ高さを保っている太陽は重なった雲の間に隠れ雲の層を様々な色に染め上げていた。
「オスカル」
 アルベールは顔を上げ刻一刻と変化する雲を見ていた。雲の層は高い位置は朱く、中央に従うにつれ日の色を濃くし天の門を思わせる中心の重なりは薔薇色だった。空全体を染め上げる自然の大いなる芸術を彼は見ていた。
「私はずっとフランスを離れていた。フランス人でありながら故国を知らない外国人のようだった」
 アルベールは半ば独り言のように言った。オスカルは雲間を眺める彼の横顔を見つめた。蜜色の光が彼を照らしている。
「フランスは美しい。こんな美しい国があったのかと思うくらい美しい。どれほど距離を隔てていても私は愛する国を忘れたことは一度もなかった。フランスが美しいことを知っていたのにこれほど美しいとは思わなかった。どこに行こうとも忘れない…」
「そうだ、アルベール。フランスは世界で一番美しい国だ。誰もがそう思っている」
 オスカルの声にアルベールは彼女の方を見た。柔らかい光を浴びるオスカルは小さなきらめきと戯れていた。
「そうだな」
 彼は微かに笑いオスカルの言葉に賛同した。
「アルベール、子供が生まれたら帰ってくるな。お前の愛する国はお前を待っているぞ」
 オスカルは光に溶けそうな微笑で彼を見つめた。オスカルの髪に落ちてくる光が眩しくて時々涙がでそうになる。
 今日のアルベールは少し変だ。彼の瞳が悲しそうに見えるのは気のせいか。オスカルは注意深く彼を見遣った。彼は一度目を伏せ顔を上げた。空の朱は色をより濃くしていた。
「私が胸に抱いていたフランスは遠かった。手が届かなかった。焦がれて、想い続けて、いつも心に抱きしめていた。私の小さなフランスは私の心のより所だった。オスカル、世界で一番美しい国を私はずっと愛していた」
「アルベール、フランス人は皆そうだ」
 オスカルは満足そうに頷きアルベールの正面に回り込んだ。オスカルの指が彼の手に触れた。あの時と同じだ。春に出会って秋に別れた。アルベールは既視感を覚えた。
「オスカル」
 アルベールは彼に触れたオスカルの指を握り締めた。左手でオスカルの手首を引き寄せ右手で彼女の髪をかき揚げた。普段窺い見ることのない白い首筋、艶やかな素肌。苺の汁の滴り落ちる… 
 アルベールは身を翻そうとするオスカルをしっかりと捕まえた。引き寄せ、その首に想いの全てを込めて口付ける。
「何をするのだ! アルベール!」
 首を押さえ彼から離れようと身をよじるオスカル。体を離しながらオスカルの手首は彼に捕えられたままだった。蒼い目に広がる驚愕、だがその驚愕も去り彼女の目には悲しみと悔恨の色で溢れた。彼はオスカルの手をそっと離した。
「さようなら、オスカル、もう会わない」
「待て! アルベール、どうするつもりだ。どこに行く!」
 背を向ける彼にオスカルが鋭く言った。
「どこにも行くな!」
 アルベールは愛馬に走り寄ると跨り手綱を引き絞った。
「アルベール、お前はまた私の前からいなくなってしまうのか?!」
 駆け寄るオスカルを振り切るように彼は馬の向きを変えた。
「アルベール」
 オスカルの声がかすれている。彼は馬の腹を蹴った。
「アルベール!」
 オスカルの声が風に乗って追いかけてくる。彼は必死の想いでそれを振り切った。

 空の半分は薄墨色だった。雲間から差し込む薔薇色の光が静かに道を照らしていた。



Fin




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