2003 3/25

再会 Z




 アルベールに連れられフロランスは馬車に乗った。馬車の中、目を閉じ腕を組みアルベールは無言だった。気まずい時間が流れる…。フロランスは彼の様子をそっと窺った。

 昨夜のアルベールの剣幕は見たことも無いくらいだった。なぜ私に聞いてくれなかった。私を信じていないのか! 辛そうな彼の表情はフロランスを後悔させた。折れるほど腕をつかまれながらきつく抱きしめられもした。息もできないほど抱しめられフロランスは言った。なぜオスカル様が女だと教えてくれなかったの? 彼は苦しそうに首を振りながら答えた。隠していたわけではない。
 あなたはずっとオスカル様を愛していたの? フロランスは心の中で彼に問うた。聞きたくても聞けなかった。聞けばそこで何もかも終ってしまうように感じた。
 私が誰を愛しているかわからないか? フロランスに何かをわからせようと絞り出すようなアルベールの声や強い腕はフロランスに彼しかいない事を再認識させた。この胸につかまって泣きたい。心につかえた苦しみを全て吐き出してしまいたい。
 怒らないで、アルベール。苦渋に満ちた彼の横顔は暗い未来を予測させる。私はそんなに悪い事をした? 辛くて、恐くて、愛しくて、フロランスは涙が出た。愛している。あなたを信じたい。もう一度あなたにすべてを委ね一点の曇りもないほどその愛を信じていた頃に戻りたい。
 アルベールは厳しい態度を崩さなかった。フロランスから手を離し彼女の涙を見ても無言だった。隠れて聞かずに堂々と聞くことだ。お前もこれからは一緒にジャルジェ家に連れてゆく。


 彼を誤解していたかもしれない。馬車の中、フロランスは無言のアルベールを見つめた。ずっとパリにいながら彼はジャルジェ家を訪ねようとはしなかった。それ以前にもオスカルやアンドレに会っていなかったとすればアルベールは彼らに強い関心がなかったのかもしれない。久しぶりに会った幼馴染と旧交を温めていただけかもしれない。それを私が誤解して… 
 一緒に行かないか。いつも彼は誘ってくれた。気後れしたり気分がすぐれなかったりで訪問を控えていたのはフロランスの方だった。今から彼に謝れば許してもらえるだろうか。これから私も一緒にオスカルやアンドレと付き合う事ができたなら、わかり合えてゆくのだろうか。

 馬車が大きく揺れて着いたとわかった。アルベールは目を開け窓の外を見た。いつもなら前庭の先から馬車を認め出迎えに走る使用人の姿が見られなかった。彼は玄関正面に着けた馬車からフロランスに手を貸して降ろすとエドモンに馬車を車庫に戻しておくよう言いつけた。いつもジャルジェ家の手を煩わせることはない。
 ホールにも出迎えの者がいなかった。今日はどうしたのだ。彼の靴音がいつもより大きく響いた。
「アルベール様」
 ホールをせわしなく走り抜けようとした侍女が彼に気がついた。彼女はすぐに引き返すと奥に入り込み、代わりにマロン・グラッセが姿をあらわした。
「まあ、アルベール様」
 彼女はアルベールを嬉しそうに、だが困ったように見つめ胸の前で握りしめた両手を組みなおした。
「申し訳ありません。アンドレは今いないのです」
 彼女は沈んだ様子で彼に詫びた。
「どうした?」
 アルベールは彼女に歩み寄りながら何かあったと感じた。いつもと様子が違っていた。
「それが…」
 彼女は口ごもった。
「オスカルは?」
 口に出しながら嫌な予感に鷲づかみにされた。
「オスカル様はジャンヌとニコラスを捕えると出発されました」
「何だって!」
 アルベールは声を上げた。彼の声にマロン・グラッセは驚いたように大きく身を震わせた。
「どこに行ったのです」
 彼はマロン・グラッセの肩をつかんだ。
「アンドレも一緒なのですね」
 彼女は頷いた。
「どこに行くと言っていましたか?」
 努めて冷静さを装いながらアルベールはマロン・グラッセに問いかけた。年老いた彼女の肩に力が入ってはいけないと思い彼女から手を離した。
「それが…」
 困った様にマロン・グラッセは言葉を濁した。彼女は知らないのだろうか。
「サベルヌとか…」
 言っていいものかどうか迷っているようだった。
 サベルヌ――
 不吉な響きがした。アルベールは頭を抱えた。心配していた事がついに起きてしまった。
 サベルヌ。パリの東、国境沿いの小さな町。今までどんな情報の中にもその地名は出てこなかった。アンドレにジャンヌとニコラスについてわかった事があったら教えて欲しいと言っておいた。極秘の情報が聞きたいわけではない。オスカルとアンドレがどのような行動をとるのか推察したいだけだ。アンドレはそんな事を心得ていて大事な情報は伏せながら、今の感触を教えてくれた。彼は「言えない」という事はあっても嘘はつかなかった。昨日までサベルヌはおろかジャンヌとニコラスの話さえ出なかった。突然すぎる。不自然だ。目立たぬひっそりとした田舎町、しかも国境沿い。何かの役目の為に用意された場所ではないか? 降ってわいたようなその地名は限りない陰謀の匂いを感じさせた。
「サベルヌはどこの情報かわかりますか」
 そんな事この老女が知る訳はないと思いながら口にしていた。落ち着け、落ち着くのだ。アルベールは自分に言い聞かせた。
「それは…」
 彼女は首を横に振った。
「オスカルは軍を率いて行ったのですか?」
 マロン・グラッセは瞳を揺らすように動かした。怯えて不安気な彼女の目には落ち着くどころか慌てているアルベールの様子が映っていた。
「あの子が、どこかに連絡をとっていたようですが詳しいことは… あまりに突然のことで‥何が何やら‥」
 マロン・グラッセは首を傾け困り果てたように言った。突然のことか… それは昨日の夜遅くか今朝になって飛び込んできたに違いない。多分今日になってからだろう。不吉な地名、サベルヌ。ジャンヌとニコラスはただの泥棒ではない。その後に巨大で邪悪な影がついているのだ。それは国家を相手にするほどの力をもっているはずだ。そんな物にまともに戦いを挑むのか、オスカル。
 罠かもしれない。彼らはジャンヌとニコラスをおとりに罠を仕掛けたのだ。黙りこくったアルベールにマロン・グラッセが心配そうに聞いた。
「アルベール様、大丈夫ですよね。あの子達はきっと帰って来ますよね」
 彼女はアルベールの服につかまり伸び上がるようにして言った。この年老いた優しい女を心配させてはいけない。
「勿論です。心配いりません」
 彼女に言いながらアルベールは一つの事に気がついた。そうだ、ここにはロザリーという可愛い娘がいた。ロザリーが何かを知っているかもしれない。
「ロザリー嬢にお会いしたい。お願いできますか」
 彼の申し出にマロン・グラッセはますます困ったように顔を曇らせた。
「あの子は‥ポリニャック家に養女に行きました」
 小さな、聞き取れないくらい小さな声だった。アルベールは目まいがした。決定的だ。ポリニャック家…。役者は揃ったようだ。あまりの衝撃に彼は立っているのがやっとだった。これも突然の事だった。昨日ロザリーを見かけた。彼女はいつもと変わらぬ愛らしい笑みを浮かべていた。そんな彼女がポリニャック家に行った‥。ジェルジェ家とポリニャック家は犬猿の仲だったはず。オスカルがそんな所にロザリーを養女にやるはずはない。何かある。絶対に何かある。
「アルベール様」
 マロン・グラッセに手をかけられ彼は我に返った。使用人達はきっと今朝起こった出来事に驚き、訳もわからずに立ち往生し、そして落ち着くようにお互い思いやっていたのだろう。それを乱してしまった。だがアルベールにはそんな彼らに気を使ってやる余裕はなかった。
「将軍は何と言っておいでですか。将軍は軍を出したのですか」
 思いつくと同時に口にしていた。
「旦那様はオスカル様に任せておけと‥」
 マロン・グラッセは消え入りそうに小さく見えた。アルベールは膝を曲げ彼女の下に入り込むようにして顔を見た。暗い不安を彼女の心に落としてしまったことを詫びたかった。
「将軍がそのように言っておられるのなら何も心配いりません。大丈夫です。オスカルとアンドレのことです。きっとすぐに帰ってきます」
 アルベールは踵を返した。確かめたい事がある。急がなければ‥ 彼が振り返るとそこには顔面を蒼白にしたフロランスがいた。彼は初めて彼女の存在に気がついた。フロランスは何も言わず向きを変えると歩きだした。何かを振り切るように彼女は歩を進め、その急ぎ足は段々速くなった。
「フロランス」
 アルベールはフロランスを追った。フロランスがバランスを崩す。アルベールは駆け寄り転びかけたフロランスの体を助け起こした。彼女は体勢を整えると取られた手を邪険に振り払った。横顔に涙が滲んでいた。フロランスは馬車の中に逃げ込むかのように走ってゆく。そんなに走ってはあぶない。
「フロランス」
 アルベールはフロランスに追いつき手を取った。振り返ったフロランスは蒼い目に怒りを込め彼の胸を押した。
「どうした、フロランス、あぶないではないか」
 アルベールはフロランスの体に腕を回し振り向かせた。フロランスは顔を強張らせ体を硬直させていた。
「あなた、オスカル様の事が好きなのね」
 無機質な顔に無機質な声だった。彼は腕の中で他人を見たような気がした。
「何を言うのだ」
 アルベールの言葉に触発されたようにフロランスの目に小さな光が揺らめいた。
「あなたはオスカル様が好きなのよ。ずっと、ずっと愛していたのよ」
 フロランスは彼の腕の中から逃れようと身をよじった。
「やめろ、フロランス、人に聞かれる」
 押さえつけようとするアルベールにフロランスは言った。
「オスカル様などサベルヌで死んでしまえばいいのよ!」


 フロランスを家に送りとどけアルベールは馬でヴェルサイユに戻った。はやる気持を抑えヴェルサイユ宮に向かう。宮殿内に駆け込み必死に人を探す彼に優雅な身振りの貴婦人や打ち解けた様子の男達が声をかける。アルベールは彼らを微笑みでやり過ごし目的の人物を探した。彼の焦りとは程遠く宮廷は華やかでゆったりとした時間を過ごしている。アルベールは不自然にならぬよう動きを合わせ瞳だけで素早く辺りを見回した。彼はどこだ。今日は宮廷にいると聞いてきた。アルベールの目が彼をとらえた。彼も回りに漂う緩慢な時間の流れに逆らわず落ち着き払っていた。国王陛下と一緒だった。アルベールは彼を視界の隅に入れながら彼が一人になるのを待った。
「ジェルジェ将軍」
 アルベールは彼が国王陛下の側を離れた時すかさず声をかけた。
「セシェル伯爵」
 彼は威厳に満ちていながら義を尽くした丁寧な態度でアルベールと向かい合った。彼は子供の時から知っているアルベールに対し敬意と尊厳を示してくる。最高の地位と高い身分を持つ彼の人に接する時の態度だった。
「将軍、オスカルとアンドレがジャンヌとニコラスを捕えに行ったと聞きました」
 アルベールは物陰に隠れ小さな声でささやいた。この話をこのような所で話すのはきっと危険なのだろう。わかっていながら聞かずにはいられない。不用意なアルベールの発言に将軍が怒っても無理はなかった。
「はい」
 将軍は挨拶を返すかのような気軽さで答えた。
「昨夜、オスカルもアンドレも何も言っていませんでした。今日突然サベルヌという地名が出ました。将軍は何もかもご存知ですね」
 アルベールは安心したかった。これは充分吟味され尽くした出来事なのだ。オスカルとアンドレの後には軍隊が控えていて将軍が全権を担っているのだ。それが確認できればよかった。
「将軍は軍を派遣なさったのですか」
 ジャルジェ将軍は可笑しそうな表情でアルベールを見た。
「セシェル伯、なぜ一介の泥棒に軍が必要なのですか?」
「ジャンヌとニコラスはただの泥棒でしょうか」
「そうです」
 将軍の落ち着きにアルベールは焦れた。将軍ともあろう人間が彼らの背後に気づかぬはずはない。
「私は軍の機密を聞き出そうとしているのではありません。オスカルとアンドレが心配なのです。サベルヌという情報に胡散臭さを感じます。将軍が何もかもご存知ならそれで良いのです」
 ジャルジェ将軍は体の向きを変えアルベールを正面から見つめた。
「セシェル伯、ジャンヌとニコラスの件についてはオスカルが国王陛下から全権を任されています。私の出る幕ではありません」
 将軍の目には子供の頃のアルベールを見つめるような親しげな光があった。だが言葉は厳しいものだった。
「そんな」
「セシェル伯、親子とはいえ仕事では完全に別です。軍の機密は信用できる部下以外、親子、夫婦といえ漏らすわけにはいきません。私は何も知りません」
 アルベールは足元が崩れてゆくような気がした。将軍は何も知らない。ジャンヌとニコラスの背後にいる者に注意を払ってもいない。アルベールは絶望した。サベルヌに行きたい、今直ぐにでも行きたい。でも自分が行ったからといって何になる。冷静になるのだ。
「将軍、私にはジャンヌとニコラスがただの泥棒には見えません」
 将軍に彼らの背後にいる者を進言してみよう。アルベールは慎重に言葉を選んだ。ジャルジェ将軍は彼から視線をそらし呑気そうに遠くを見つめもう一度言った。
「ジャンヌとニコラスはただの泥棒です」
「もしその泥棒に‥」
 アルベールが言いかけた時だった。ジャルジェ将軍が言葉を挟んだ。
「罠ですか」
 将軍は視線を戻し片頬に笑みを浮かべた。アルベールの心配を見透かしたような言葉だった。アルベールは息を呑んだ。
「セシェル伯、心配いりません。情報戦も軍隊においては重要な作戦の一つです。もしそれに負けるような事があればオスカルもそれまでの者だった、それだけの事です」
 ジャルジェ将軍は先とは別の笑みを浮かべ彼に言った。
「アルベール、オスカルとアンドレを心配してくれてありがとう。でも大丈夫です。彼らを信じて帰りを待ってあげてください」
 ジャルジェ将軍は片手で顔を覆ったアルベールの肩に手をかけた。


 ――待つ身の何と辛い…。
 アルベールは書斎にこもって時間が過ぎてゆくのを待った。ジェルジェ家に何か知らせが入ったら教えてくれるように頼んでおいた。自分に出来る必要な事があればそれも教えて欲しい。彼らはすべてを心得ていて何かあれば直ぐに知らせると約束してくれた。
 一日一日がのろのろと過ぎてゆく。オスカル、今どこでどうしている。アンドレ、オスカルを守ってくれ。アルベールに出来る事はただ祈る事だけだった。


 フロランスは目を開けた。眠っていたようだ。半身を起こしかけ彼女は寝台の上に体を倒した。だるくて仕方がない。窓の外は暗かった。
 フロランスは体の力を抜いて寝台に横たわった。オスカルとアンドレはジャンヌを捕える為にサベルヌに向かった。あの日のアルベールは友人として彼らを心配していたのではなかった。愛する人の安否を狂いそうな程気にかけていた。あの日から彼はどこにも出かけない。書斎でジャルジェ家からの伝言を待っている。フロランスは暗闇でそっと微笑んだ。あれほど毎日出かけていたのに…。彼がどれほどオスカルを愛していたかこんなにわかるなんて…。
 長い間フロランスを悩ませていた物がはっきりと正体を現した。それがわかることが願いだった。正体の見えない影に怯えるのは嫌。姿を見せろ。そうすればこの得体の知れない不安や恐怖から解放される…
 アルベール、あなたはいつからオスカル様を愛していたの? 私に会うずっと前から? いつから彼女を愛し始めたの…?

 アルベールはフロランスの部屋の前で立ち止まった。入って様子をみようと扉に手をかけ躊躇った。
 ジャルジェ家から戻ってからのフロランスは魂が抜けたようにうつらうつらと眠ってばかりで食事も忘れたように取らなくなった。食事に起きても青い顔をして何も食べない。腹が減らないそうだ。
「私、眠いので横になってきます」
 スープを数口飲んだだけで体を動かすのも大儀そうに部屋に戻る。そして昼も夜もなく寝続けた。
「お子が出来ると眠くてたまらないものです」
 アルベールの心配顔をジョゼットが思いやる。彼女の心使いをありがたいと思うがそうではない。アルベールはフロランスの手を付けてない皿を見た。確かにフロランスはジェルマンの時もコンスタンスの時もよく眠った。でもそれは健康的な眠りで目覚めた後のフロランスは満ちたりていてアルベールはその美しさに目を見張ったものだった。輝くようだったフロランスが今はもういない。
『あなたはオスカル様が好きなのよ。ずっと、ずっと愛していたのよ』
 フロランスの声が耳に響く。冷たい女の声だった。アルベールは目の前の空席を見つめ目を閉じた。

 コンスタンスが泣きながらフロランスの寝台に入ってきた。ジェルマンと喧嘩したに違いない。フロランスはコンスタンスを布団の中に入れてやった。ジョゼットが追いかけてきた。
「まあ、コンスタンス様、こんな所にいてはいけません。奥様がお休みになれません」
「いいのよ、ジョゼット」
 フロランスはコンスタンスを抱しめた。冷たい小さな足を温めてやる。奥様は今日は少し気分がいいようだ。ジョゼットはコンスタンスをフロランスに預け部屋を出た。
 フロランスの気分が良さそうだったのでジョゼットは彼女に食事を勧めてみた。フロランスは何日もろくな食事を取っていなかった。アルベールも心配気にフロランスを見ていた。フロランスはジョゼットの婉曲的な懇願とアルベールの視線に追われるようにフォークを口に運び何とか一皿胃の腑に収めたが、たちまち全部をもどしてしまった。
 自室にたどり着き寝台の上に倒れ込みフロランスは情けない思いで天井を見上げた。宿った命を育てなければならない大事な時期にこんなざまの自分が情けなかった。部屋の中は暗く、廊下にともした灯りが眩しかった。
 アルベールと森の中にいた。明るい木漏れ日を浴び二人きりだった。恐いくらいの静寂、澄んだ空気、頬に触れる彼の指。フロランスは自分が泣いているのがわかった。浅い眠りの中で夢だとわかって夢をみていた。夢の中から自分を引き戻してやる。うっすらと開けた目には僅かな光でも眩しかった。逆光の中にアルベールが見えた。彼に手を取られ現実の世界を認識するも束の間、意識は彼方に飛んでゆく。
「ごめんなさい‥」
 意味もわからず呟いてフロランスはまた目を閉じた。彼女はアルベールの指を目尻に感じ眠りの淵に落ちていった。

 今日、アルベールは出かけて行った。ヴァルキエルが迎えに来ていた。フロランスは窓からアルベールが行くところを見ていた。ジャルジェ家からの使いはまだ来ない。日が経つにつれ彼の心配が深まってゆくのがわかる。フロランスは耳を澄ました。ひずめの音が聞こえないかと思ったのだ。窓を開けたが風が冷たい。フロランスは窓を閉めた。
 食事を吐いてしまってからはジョゼットは無理に勧めなくなった。そのかわり毎日違ったスープを運んでくれた。フロランスが食べられるのはスープだけだった。
「このスープ美味しいわ」
 フロランスはジョゼットの運んだスープを一口飲むなり言った。よかった、奥様は気に入ったようだ。ジョゼットはスプーンを口に運ぶフロランスの様子を嬉しそうに見ていたが慎重に答えた。
「モーリスに言って野菜も肉も挽かせて裏ごししました」
「そう」
 フロランスは半分ほど飲みほっとしたように一息つくとスプーンを置いた。
「これからはそうしてちょうだい」
 微笑むフロランスはやつれてはいたが穏やかな顔をしていた。ジョゼットはフロランスの乱れた髪を梳き整えてやった。ブラシに抜け落ちた細い髪がいくらでも絡みついてきた。
 フロランスは寝台に横たわりスープで満たされた腹の辺りに手をやった。物が食べられなくて焦る気持ちがあった。でもこのスープならおさまりそうだ。食べられるものはスープだけだはなかった。ミルクも飲めるし柔らかいチーズも食べられた。あれほど食べた酢漬けやトリュフは考えただけで吐き気がするがグラスなら大丈夫だ。好き嫌いで食べられないのではない。固形の物がおさまらないのだからこうやって挽いてもらえば良いのだ。フロランスは長く息を吐いた。あの人の為にこの子を立派に産むことだけを考えよう。今はそれだけ‥ 今考えて良いのはその事だけ…
「パリに行ってみたいわ。パリはどんなに素敵でしょう」
 マリアンヌ嬢がアルベールと話をしている。アルベールは文化の中心地フランスをその身で語る美しさを持っていた。皆が彼に群がり彼の話を聞きたがった。彼は面白そうにパリには数度しか行った事がない。ヴェルサイユは知らないと答えた。
「まあ、ご冗談を」
 マリアンヌ嬢の媚態をべネディクト嬢が遮る。
「アルベール、あなたのフランス語をもっと聞きたいわ」
 彼は数ヵ国語に堪能であらゆる国に精通していた。
「その国にいればその国の言葉を覚えるのは当たり前だ」
 アルベールはそう言って笑う。
「フロランス」
 名前を呼ぶ声にフロランスは目を開けた。アルベールがフロランスの上にかがみ込んで見ていた。部屋が暗いせいか彼の瞳はひどく暗く見えた。
「アルベール」
 フロランスは体を起こした。いつ帰ってきたのだろう。
「具合はどうだ」
 彼は心配そうに聞く。彼女は布団の上に掛けてあるガウンで寝乱れた体を隠し急いで髪を撫でつけた。
「大丈夫よ、病気ではないのだから。横になっていると体が楽だからそうしているだけ」
 フロランスはアルベールを見た。彼はあの頃から少しも変わっていない。
「今日は何か食べたか」
 彼はは寝台の横に膝をついてフロランスと目の高さを合わせた。
「ええ、モーリスがとても美味しいスープを作ってくれるの。今日はそれを沢山飲んだわ」
 彼は目を伏せた。
「大丈夫よ。赤ちゃんはとても元気に動くの」
 彼は何も言わずに部屋を出て行った。フロランスは横になった。
 アルベールは私のどこを好きになったのだろう。彼に愛を告げられてからずっと不思議だった。フロランスの回りには美しい女が沢山いた。彼ほどの男だったらどれほどの美も望み通りだろうに…。
 私があの人と同じ髪の色だから…? マリアンヌ嬢も見事な金髪をしていた。オスカルほどではないにしろ美しい青い目は他にもあった。彼は私の中にあの人を見ることがあったのだろうか。アルベールは下ろしたフロランスの髪を持ってよく口付けた。
 眠い。フロランスは体の向きを変えた。寝返りをうつだけで簡単に眠りの扉の入り口に立てる。
 フロランスは何かを必死に探していた。誰かが言っていた。探した‥ 何をそんなに探したの‥? 探しているのは私… 見つからずに泣いている。早く探さなければいけないのに… 部屋を出て野を駆け森の中までさ迷い歩いた。目の前にあるのは湖。この中にきっとある。潜って底までたどり着いたらきっと見つかるだろう。
 じっとりと汗をかいてフロランスは目を覚ました。まだ暗い。夜中だろう。胸が苦しい。フロランスは水差しから水を入れて飲み、横たわった。
 思い出した。あの湖はアルベールと遠乗りに行った時に見た湖だった。彼は水辺が好きだった。デンマークで一番美しい季節を彼と過ごした。湖や森、木漏れ日や夕日、芽吹く草の匂いやそれらを運ぶ風、彼は自分の好きな物をフロランスに教えてくれた。彼の好きな物は他にもあったのだ。強い意思、正義感と責任感、深い慈愛の心、自己に恥じない清冽な生き方…。
 フロランスは寝台から起き上がると窓に歩み寄った。今夜は月が出ていない。もし、私と離婚したらアルベールはオスカルと結婚できるのだろうか。彼はセシェル家の跡取だしオスカルもジェルジェ家を継ぐ身だ。それよりオスカルはアルベールを愛しているのだろうか。彼の想いに気づいているのだろうか。
 悲しかった。あの人の全てを奪った女。憎いと思った。でも今はただ悲しい。彼は一生こんな想いを抱き続けるのだろうか。
 無事でいて欲しい、オスカル様。フロランスは祈る言葉を口にできないでいた。なんと言う事を言ってしまったのだろう。死んでしまえばいいなんて… 人の死を願うなんて… しかも彼がこれほど大事に思っている人を… 呪われた唇に祈りの言葉は似合わない。

 
 ホールで激しい音がしフロランスは飛び起きた。けたたましく扉が鳴ったかと思うと何かが倒れるような音がした。使用人達が騒ぎ立てる声もする。フロランスはガウンを羽織ると廊下に出た。階段の上からホールの様子を窺う。アルベールがホールの床に倒れていた。ヴァルキエルが彼の上にかがみ込み執事に何か言っている。
 アルベールはどうしたのだろう。フロランスは階段を降りかけた。彼はぐったりとして動かない。フロランスは体が冷たくなった。ヴァルキエルの怯えた目が彼女を見上げた。フロランスはアルベールの手に白い布が握られそれが赤く染まっているのを見つけた。フロランスの叫び声と同時にジョゼットが風よりも早く階段をかけ上がってきた。
「大丈夫でございます! 旦那様はお酒に酔ってしまわれただけです」
 ジョゼットは階段の途中でフロランスの体を押さえつけるのに成功した。もう少しでフロランスの体は階段から転がり落ちるところだった。フロランスは段にへたり込み手すりに体をもたせかけた。
「それほどお召し上がりになったとは思わないのですが」
 ヴェルキエルが言い訳するように言った。アルベールが床に肘をつき肩を起こし彼に何か言ったが聞こえなかった。アルベールの手から布が落ちた。
「割れたグラスをつかまれて‥」
 ヴェルキエルは泣きそうな顔をしていた。アルベールは苦しそうに体の向きを変えるともう一度ヴァルキエルに何か言った。ヴァルキエルは何度も頭を下げるとホールを出て行った。
 アルベールは酔っぱらっているのだ。フロランスは信じられない思いで彼を見つめた。今まで彼が酒に酔ったところを見た事がなかった。彼は酒を飲んだ。だが酔っぱらうなど一度もなかった。兄達と陽気に酒を酌み交わすことはあった。明るく饒舌になる様子を酔ったというのだろうか。ワインやシャンパンだけでなく彼は酒類について造詣が深かった。決して嫌いではないはずだ。だがこんな風に前後不覚になるほど酔った事など一度もなかった。食事の席や他の場でどれほど飲もうと彼が自分を失う事はなかった。フロランスは酔った男は嫌いだった。下品で恐かった。だが彼に関する限りそんな事はありえなかった。フロランスはそう信じていた。
 執事がアルベールの腕を取り肩に担ぎ上げようとした。だが細身の執事では無理なようで屈強なゴーチェが代わりにアルベールに肩を貸した。彼は一人で歩けないのだ。フロランスは階段の途中に座り込み使用人に肩を借り部屋に行くアルベールを信じられない思いで見ていた。

 昨夜の事をアルベールは何も覚えていないようだ。手を切った事もどうやって帰ってきたかも‥ フロランスは彼の手に巻いた包帯が気になった。怪我の様子が心配だ。だが彼は怪我の事にふれると不機嫌になった。
「大丈夫だ」
 短くそれだけしか言わない。
 フロランスはジョゼットに様子を聞いた。アルベールの傷はかなり深かったようだ。示指の付け根から手首近くまでザックリ切ってしまったらしい。医師に見せたが治るまでは相当かかりそうだということだ。あの日からアルベールは無口になり部屋にこもることが多くなった。


 朝から雨の降る寒い午後だった。
「アルベール様!」
 吹き込んできた雨粒と冷たい風が知らせを運んできた。フロランスはちょうど廊下に出ていた。階下から風が吹き上がりフロランスのガウンを煽った。ジャルジェ家からの使いは雨を滴らせホールに駆け込んで来た。書斎からアルベールが飛び出してくるのが見えた。彼は使いの者に一言二言、言葉をかけると手袋をつかみマントをはおって外に出た。
 フロランスは廊下を引き返し明り取りの窓へ上がる段を登った。廊下に明かりを取る為の出窓がありそこからヴェルサイユに向かう通りがよく見えた。
 駆けて行く二頭の馬が見えた。あんなに急いでアルベール、まだ手綱は握れないはずなのに…。 良い知らせか悪い知らせか… フロランスは雨粒が張り付く窓に顔をつけた。雨は激しくガラスを打ちつけていた。きっと彼は雨の冷たさも感じてはいない…。
 オスカル様、無事お帰りになって… フロランスは組んだ両手をガラスに押し当て額をのせた。アルベールは直ぐに見えなくなった。激しい震えが彼女を襲った。フロランスは両手をガラスに押し付けながら震える唇で呟いた。

 オスカル様、どうかご無事で… あの人を悲しませないで…



再会[ に続く




Menu Back Next






























inserted by FC2 system