2003 3/6

再会 X




 フロランスは書斎の暖炉で見つけた本を手に取った。アルベールの書斎から持ってきてしまった。彼女は隠していた本を前に逡巡した。

 数日前のことだ。フロランスはきれいに掃除され火の気のない書斎の暖炉に何かを燃やした跡を見つけた。それは本だった。これは何? アルベールが本を焼くなんて…。あの人はそんな事はしない。フロランスはそれを手に取ってみた。本は二つに裂かれ半分以上灰になっていた。夫の書斎に見つけた不審な物。本能的に不吉なものを感じた。フロランスは焼け残った本を開いてみた。焼け焦げてはいたが所々内容を確かめるには充分だった。
 それはなんと言ったらいいだろう。女同士の性の営みが書かれたいかがわしい本だった。フロランスは内容に思わず本を取り落としそうになった。アルベールがこんなものを読むなんて‥ それは男だから官能小説の一つや二つあってもよいのかもしれないがそれにしてもこれはひどい。フロランスはもう一度本を開いてみた。女同士がどのようにして快楽をわかち合うかそこには克明に書かれてあった。フロランスは顔がほてり心臓が音をたてるのがわかった。なんていやらしい。アルベールの趣味だとは思えない。妻としてそうあってほしくないという願望だろうか。男は皆このような物が好きなのだろうか。汚らしい。彼は燃やしてこの本をどうするつもりだったのだろう。
 夫に情けなさと怒りが込み上げてくる中、フロランスは一つの名前に気がついた。マリー・アントワネット。もしかしたら… フロランスはもう一度本をめくってみた。表紙は焦げていたが表紙をめくったページの表題が残っていた。『ジャンヌ・バロア回想…』これは首飾り事件のジャンヌ・バロアだろうか。アルベールは首飾り事件の裁判をずっと傍聴していた。だとしたらこれは裁判の資料だろうか。フロランスは少しほっとしながらも不審を拭い去れないでいた。ではなぜ燃やされているのだろう。おかしい。燃やす理由がわからない。
 フロランスは暖炉の前に座り込んだ。不安で押しつぶされそうだ。家の中にあってはならない物が持ち込まれ彼は変わってしまった。何が彼を変えてしまったのだろう。この本に関係しているのだろうか。フロランスは使用人に見つかる前にその本を持ち去った。


 フロランスは書斎の前に立った。アルベールは出かけている。侍女達に子供達を外で遊ばせるように言いつけておいた。部屋で休んでいるからノックをしないように、お客が来ても取り次がないようにとも言っておいた。フロランスは書斎の扉を押して中に入った。アルベールに黙ってここに入ることはない。使用人達は勿論子供達もここには入れない。彼は誰が入ろうとかまわないようだがフロランスがそうしていた。掃除をする時も使用人達はフロランスに伺いをたててからする。あの本はそんな中でみつけた。
 書斎に入るとフロランスは窓に寄り庭で侍女達に遊んでもらっているジェルマンとコンスタンスを見た。ここからは距離があって小さくしか見えない。でもその方が好都合だ。フロランスは窓を閉めるとカーテンを隙間の無いようきっちり閉めた。
 きちんと整頓されたアルベールの机。ここは彼の精神の砦。フロランスは高まる心臓の鼓動を抑え机の中央の引き出しに手をかけた。カタンと引き出しの鳴る音が聞こえフロランスは慌てて手を引っ込めた。止めよう。とてもできない。フロランスは手を離し胸の前で祈るように両手を組んだ。手が冷たい。彼女は指が白くなるほど力を込めた両手を離しもう一度引き出しに手をかけた。引き出しは徐々に開かれ中の物が見えてくる。インク壺、封筒、封をする為の蝋と印章、数本の羽ペンと吸い取り紙。重ねた書類の上に書簡箋を見つけた。フロランスは震える手でそれをめくってみた。ヴァルキエル宛の書きかけの手紙。一枚目の途中でそれは終っていた。フロランスはそれを戻しその下にある書類をめくってみた。裁判の傍聴の記録だろうかアルベールの筆跡で走り書きがしてある。フロランスはそれらをどかしてその下に何かないか調べてみた。何もない。
 次にフロランスは右側の引き出しを開けてみた。ぎっしりと詰まった書類はどれもきちんと綴じられていた。めくってみる。何の書類か詳しい事はわからないが大切な書類なのだろう。所々色のついた紙が挟まっている。フロランスはそれらを一冊ずつ出し、引き出しの奥を覗いてみた。ここにも何もなかった。
 次の引き出しにはバラバラの書類の切れ端と一緒に手紙がしまってあった。フロランスは一つ一つ差し出し人を見ていった。知っている人物も知らない人物もいたがほとんど仕事関係の手紙のようだった。女名の物、宛名のない物、特に注意を引く物は一つもなかった。ここまでで彼女はぐったり疲れてしまった。夫の留守中に夫の机を盗み見る後ろめたさに耐えきれなかった。もう止めようかと思いながらあと一つだけ開けてみようと次の引き出しに手をかけた。手前にはやはり書類が入っていたが奥の方になにやら束ねた手紙のようなものを見つけた。あった。フロランスは机につかまり泣きそうになるのをこらえた。こんなものを見つけ出して私はどうしようというのだ。知らない方がいいのかもしれない。知ったからってどうなるものでもないのに…。
 それでもフロランスは引き出しを開き奥に手を入れて取り出してみた。綺麗にリボンで束ねられた手紙の束だった。全部同じ封筒、同じ筆跡。それを見てフロランスは涙が出た。それは彼女がアルベールに宛てた手紙だった。毎日彼と会っていながら手紙を書いた。こんなに沢山。それを彼はまだ持っていたのだ。こんなに大切に…。もう一つの束はアンジェリーヌとアルベールの母からのものだった。これにもリボンがかかっていた。
 フロランスは次の引き出しに手をかけた。許さない。幸せな生活を奪おうとする者を私は許さない。アルベールを誰にも渡さない。あの人は私のもの。私の大切な人。あの人がいなかったら私は生きていけない。フロランスは引き出しの中を全部開け不審な物がないか調べていった。彼女には確信があった。アルベールの心を捉えている女が必ずいる。左側の引き出しに手をかけた。見つけ出してやる。もうフロランスには夫の机を引っかき回す良心の呵責よりも何かを見つけ出す方が重要だった。きっと彼を取り戻してみせる。
 机の中には何もなかった。手紙の一つも出てこない。フロランスは息を整え部屋の中を見渡した。どこかに隠しているに違いない。彼女は本棚を開けた。机の両わきに天井までの高さに設えたアルベールの本棚。びっしりと本が詰まっている。フロランスは一冊づつ本を取り出し奥に何かないか調べていった。本の間に何か挟まっていないかも注意して見ていった。判例集、法の歴史、法思想史、ローマ法、カノン法、それぞれの教区における事例集… どの本も皆重くフロランスは汗びっしょりになった。汗は重労働の為だけではなかった。きちんと元あったよう戻してゆく行為は何ともうしろめたかった。フロランスの背中をしたたり落ちる汗は罪の意識からだった。それでも彼女はやめなかった。あの本をアルベールに渡した女がいるはずだ。黒焦げになったあの本。彼をたぶらかし、篭絡し、変えてしまった女がきっといる。身重のフロランスは脚立に乗り一番上の本まで取り出してみた。こんなところにこそ何かがあるような気がしてならなかった。
 丁寧に調べたはずなのに何も出てこない。フロランスはもう片方の本棚に取りかかった。締め切った部屋はむっとするほど暑かった。汗で貼りついた服が気持悪い。ペチコートが足に纏わりつくのも煩わしい。フロランスは額に玉の汗を浮かべながらもう一つの本棚を制覇していった。ラテン語や外国語の本、辞書、聖書、天文学の本に画集、そして百科全書。どこにあるの、アルベールの心も体も奪ってしまった女はどこに隠れているの!
 本棚の隅、机の一つ一つまで調べ上げたが何一つみつけられなかった。フロランスは泣いた。何もなかった安堵の為ではなかった。ほつれた髪をかきあげ彼女は泣いた。アルベールは変わってしまった。でも変わったのは彼だけではない。私も変わってしまった。私は夫の留守に夫の物をだまって見るような女ではなかった。汗にまみれてこんな恥知らずな行為をする女ではなかった。フロランスは床に座り込み悔恨の涙にくれた。

「どうした、フロランス、具合が悪かったのか?」
 帰ってきたアルベールに肩を抱かれてフロランスは身を固くした。彼に自分の行為を悟られてしまう。彼女はアルベールを見ないよう顔をそむけガウンの前をかき合わせた。
「な、なんでもありませんわ」
「一日部屋で休んでいたというではないか」
「何となく‥ 気分が塞ぐのです」
「気分が?」
「ええ」
「フロランス、家にこもりすぎるのではないか? カトリーヌやオルガの所には行っているのか? 少し話でもしてきたら気分も晴れるのではないか?」
 アルベールの腕に力がこもりフロランスは彼に引き寄せられた。
「私、カトリーヌやオルガはあまり好きではありませんの」
 恋愛と結婚は全くの別物と考えている彼女達と話が合う訳ない。フロランスはアルベールの腕から逃れるように体をよじった。
「そうか」
 アルベールはフロランスの顔を覗きこもうとした。彼女はは首を曲げて彼の視線から逃れた。
「ジョゼットを連れて買い物にでも行ってきたらどうだ。ずっと買い物もしていなかったではないか」
 アルベールの視線から逃れれば目の前に肩をしっかりと抱く彼の手が見える。
「今、ヴァルキエルが厄介事を抱えていてちょっと忙しい。それが済んだらどこか気晴らしにでも連れていこう」
 フロランスはアルベールを見た。彼はいつもと変わらぬ瞳でフロランスを見ていた。その瞳には怒りも不信も見当らなかった。彼は私を愛している。許している。私を好きでいてくれるのだ。
 フロランスはアルベールの首に両腕を回した。
「愛しているわ、アルベール」
 愛しているのよ、貴方しかいない。体の力を抜いて彼が支えてくれるのを待った。アルベールはフロランスを抱きしめると体を離して顔を見た。
「気分はどうだ」
「ええ、大丈夫よ。明日ジョゼットと買い物に行ってきますわ」

 女中頭のジョゼットがフロランスが怒りっぽいとこぼしていた。ジョゼットはアルベールが子供の時からセシェル家に仕えていた女だった。母は相談相手としても頼りしていたジョゼットを心許ない新婚家庭の為アルベールとフロランスに付けてくれた。彼女は使用人の立場でありながら実に軽快に物事を言う。だがそんな言動に限りない愛がこもっていている事は誰にでも伝わった。子供の頃ジョゼットは恐かった。だが彼女は他の侍女達のように口やかましくはなかった。ジャルジェ家にも彼女はついてきた。彼女は遊ぶ子供達を遠くで見ているだけで遊びに介入してくる事はなかった。
「フロランスが?」
「はい、奥様はご自分のおっしゃった事を忘れる時もございます」 
 彼女が言うとは事態はそうとう進展しているのかもしれない。フロランスが怒りっぽいとは思わないが気分が変わりやすいような気はする。妊娠中にはよくある話でアルベールは気にしていなかった。
「そうか。他に何か気づいた事はあるか?」
 アルベールは彼女に聞いた。
「他には特に‥ ただお食事の好みがお変わりになりまして…」
「子が出来るとよくある事ではないか?」
「はい、その通りでございます。お食事の時は野菜の酢漬けとグラス〔アイスクリーム〕を欠かしません。酢漬けは付け合せにお出ししただけでは足りず肉でも切るようにナイフとフォークでぼりぼりお食べになります。そしてグラスを何皿も‥」
「酢漬けとグラス?」
「はい、交互にお食べになります。それから山盛りのトリュフと塩漬けの肉などがお好みでございます」
「なんという食べ方をしているのだ」
「奥様のお好みでございます」
「それより食事はきちんと取っているのか? まさか酢漬けとグラスとトリュフだけというわけでは‥」
「はい、食欲はおありで他の物もお召し上がりになります。ただお子様が‥ グラスだけという場合がございます。この間はコンスタンス様がグラス・ア・ラ・シャンティを三皿お召し上がりになりお腹をこわされました」
「そうか、明日は家で食事を取る。それからジョゼット、明日フロランスの買い物に付き合ってくれないか」

「これは皆ドレスか?」
 アルベールは寝室に続くフロランスの居間に山と積まれた包みを前に声を上げた。
「これはコンスタンスの物とガウンや寝間着ですわ。あ、それから帽子も‥ ドレスは手直しが必要なので後から届けてもらいます。だって私、このままでは着られませんもの」
 フロランスは顔を赤らめ幸福そうに微笑んだ。フロランスはジョゼットに手伝わせて包みを開けていった。中からはおびただしいほどのレースや絹やリボンが溢れ出てきた。薔薇色や薄紫、水色やクリーム色、どれもフロランスの好きな淡い色ばかりだ。薔薇の花飾りが沢山ついた白いコンスタンスのドレスと帽子。フロランスは嬉しそうにそれを広げアルベールに見せた。
「あの子に似合うかしら」
 今も昔も女の買い物は変わらぬらしい。でもこれでフロランスの気が晴れれば安いというものだ。
「そのうち奥様がパリ中のお店を空にしてしまいますよ」
 ジョゼットの物言いにフロランスが睨みつけた。
「ジョゼット、お前がもう馬車に入りきらないというから途中で帰ってきたのよ。まだまだパリには美しい物が沢山あるわ。空になんかなりっこないのに」
 フロランスはもう一枚のコンスタンスのドレスを広げて眺めている。薔薇色の愛らしいドレス。
「その通りです。後からこの三倍のお品が届いてもまだまだ大丈夫でしょう」
「何だって!」
 ジョゼットの言葉にアルベールは思わず声を上げた。
「アルベール、私買いすぎたかしら…」
 フロランスは小さなドレスを胸に抱き気落ちしたように言った。広げた品々を見やった表情が怯えている。
「そんな事はない。買い物は久しぶりだったはずだ。まとめて買ったと思えばいいさ」
 アルベールの声にフロランスはほっとした様子で頷いた。

 夕食の席にアルベールはついた。家で食事を取るのは久しぶりのような気がする。勧められるまま宮廷やジャルジェ家での晩餐に甘えいつしか外で食事をするのが当たり前のようになっていった。
「久しぶりだわ」
 フロランスが嬉しそうだ。ジェルマンとコンスタンスも顔を輝かせてはしゃいでいる。
「今日は旦那様のお好きなものばかりお作りしました。ジェルマン様、コンスタンス様、お食事の時はお行儀良くなさってください」
 ジョゼットがジェルマンの手を膝の上に導き食卓を整えた。食事が運ばれてくる。アルベールはフロランスの様子に注意した。彼女がきちんと食べているか。子も育つ大切な時期だ。酢漬けにグラスにトリュフ‥ ジョゼットの言葉が頭に浮かんだ。考えただけで食欲が失せるような食べ合わせだ。きっと大層偏食の子供が腹にいるのだろう。
 フロランスは食欲旺盛だった。彼女は子供ができ最初のつわり症状がおさまると食が進み、太る事もなく腹の子を育て、易々と産み落とした。妊娠したフロランスはとても美しく髪も目も輝くように艶が出た。旺盛な食欲も肌の色艶をよくするのかと思わせるほどしっとりとなめらかになり顔つきも体もふっくらとして命を生み出す女の神々しさを感じさせたものだ。
「フロランス様、アーティチョークの酢漬けはどの位お持ちいたしましょう。一番大きな瓶にビネガーとおっしゃるように胡椒もたっぷりいれて作りました。瓶ごとお持ちしましょうか」
 ジョゼットが声をかけた。
「まあ、ジョゼット、言っている事がわからないわ。酢漬けなんていらないわ」
 フロランスはジョゼットに目をやり慌てたように言った。ジョゼットはすぐに引っ込んだがしばらくするとまた出てきて言った。
「フロランス様、七面鳥にトリュフを沢山詰めて焼きましたが足りますか? トリュフはあとどの位必要でしょうか。必要なだけ皿に盛ってお持ちします」
「ジョゼット、トリュフはいらないわ。これだけで充分よ」
 フロランスはジョゼットに急いで下がるよう手で合図をした。
「変ね。ジョゼットったら」
 顔を赤らめフロランスが言った。
 食事は進みデザートが運ばれてきた。梨のコンポートとさくらんぼのババロワ入りシャルロット。クリームが添えてある。
「フロランス様、グラスは何皿お持ちしましょう」
 ジョゼットが声をかけた。フロランスはこらえたように静かに言った。
「いらないわ」
「僕三皿」
 ジェルマンが手を上げ大きな声で言った。
「ジェルマン、お前が決めることではない」
 アルベールがピシャリと言った。
「お母様やジョゼットの言う事を聞きなさい」
 ジェルマンは首をすくめ口をおさえ恥ずかしそうに笑った。
「これ以上食べたら食べすぎではないかしら」
 フロランスは心配そうにアルベールとジョゼットを見比べた。
「いーえ、そんな事はございません」
 ジョゼットは首を横に振った。
「今日は少ないくらいでございます」
 彼女の言い方に他意はないか。フロランスはアルベールの方に視線を向けたが彼は二人のやりとりを聞いていないようだ。代わりに父に叱られながらも嬉しそうだったジェルマンの瞳と目が合った。
「そう、じゃあ‥ 一皿だけいただこうかしら」
「はい、今お持ちいたします」
 ジョゼットは大袈裟にお辞儀をするとジェルマンに瞳で笑いかけ引き下がった。

 フロランスは今日買ったばかりのガウンを着込み鏡の前にいる。満ち足りた表情で髪を梳く様子は落ち着いている。アルベールはフロランスの後に近づくと彼女の肩に手をかけた。鏡の中のフロランスがアルベールを見た。彼は身をかがめフロランスの耳元にささやいた。
「フロランス、ジョゼットに言ってグラスを持ってこさせようか」
 フロランスが振り向いた。
「まあ、ジョゼットがあなたに言ったのね。何ておしゃべりなのかしら。アルベール、ジョゼットの言う事など本気にしたらだめよ」
「わかった。でもフロランス、お前は子供ではないのだから何皿食べようと構わないのだよ」
「ひどいわ、あなたまで。私はそんなに食べたりしないわ」
 フロランスは顔を赤らめアルベールを睨みつけた。
「お前が食べるとは言っていない。腹の子が食べるのだ。そうだろう」
「そうね。でももう充分よ」
 アルベールはフロランスに口づけると彼女を抱き上げた。
「きゃ、アルベールやめて、重くない?」
 フロランスは彼の腕の中で体を動かした。
「そうだな」
 アルベールはベットに近づきながらフロランスの重さを計るように腕を動かした。
「グラス一皿分重いかな」
 寝台に横たえられフロランスは笑った。ろうそくが吹き消され体に乗りかかるアルベールの重みを感じた。大好きなアルベール、愛しているわ。彼の首に腕を回し目を閉じる。アルベールの手がガウンをはだけ首筋に胸元に彼の唇を感じた。
 フロランスの頭に何かが閃いた。彼女は目を開けた。彼が抱いているのは私ではない! 部屋の隅の暗がりから誰かが見つめている。
「やめて!」
 フロランスはありったけの力でアルベールを突き飛ばした。
「やめて、アルベール! あなたは誰を思って私を抱こうとするの!」
 フロランスの剣幕にアルベールは驚いて彼女を見つめた。
「何を言っているのだ、フロランス」
「いやよ、いや」
 フロランスは泣いた。誰かの身代わりに抱かれるなんてそんなのは嫌。
「しっかりしろ、フロランス。何を言っているかわかっているのか」
 アルベールはフロランスの肩に手をかけた。
「いやよ!」
 フロランスはその手を跳ね飛ばしてかぶりを振った。
「いやよ、いや」
「わかった、フロランス。嫌ならやめよう。無理強いはしない」
「ごめんなさい、アルベール、恐いのよ。私、恐いの」
 フロランスは怯えたようにアルベールの胸にしがみついてきた。
「どうしたのだ」
 アルベールはフロランスの顔を上げさせ瞳を見つめた。
「恐いの。誰かが見ているわ。誰かが私達の事を見ているのよ」
 フロランスは本当に怯えていた。
「誰が見ているというのだ」
 フロランスは体をピッタリと押し付けてくる。アルベールもその力に応えるように腕に力を込めた。
「あそこよ」
 フロランスは部屋の隅の暗がりを指差した。


 見慣れた天井が目に入り夢だったと気づく。アルベールは体を起こし頭を振った。
 オスカルの夢を見た。自由で束縛されず二人でウィーンにいた。オスカルは男の格好をしていたが彼のものだった。こんな夢は何度も見た。アルベールはどんよりとした自己嫌悪を抱え寝台から下りると窓に歩みよった。早く忘れようこんな夢。自分の頭の中を映し出す鏡のようだ。忘れたい。アルベールはカーテンを思いきり引き絞った。日の光を浴びてなお生々しく残る夢の中の感触。白い光が届かず残るその断片。古い夢の中の記憶が新しい夢を作るのか。そして現実は手枷足枷のようにまとわりついてくる…。

 アルベールと顔を合わせたくなくてフロランスはしばらく寝台の中にいた。昼近く起き上がってみるとジョゼットに顔に隈ができているといわれフロランスは鏡を覗いた。泣いたせいか目がはれぼったく肌がそそけ立っている。嫌だこんな顔。アルベールに見られなくてよかった。
 昨夜の彼の要求は妊娠してからは初めてだった。妊娠した妻を遠ざける夫もいるがアルベールはそうではなかった。ジェルマンの時もコンスタンスの時も産み月の直前までそういった行為があった。腹の出た不恰好な体が気になったが彼は女としてフロランスを求めてくれた。彼に愛され大切にされる喜び。アルベールの言動はフロランスに女としての自信と誇りを植えつけていった。幸せの絶頂だった。
 あの時確かに見えた見据える目は明るい部屋のどこにもなかった。フロランスは召使いに言って徹底的に部屋を掃除させた。もうあんな影に惑わされはしない。天井や壁の埃を払いカーテンを付け替えさせた。鏡台の位置を換え寝台のリネンも一変させた。これでいい。これできっと大丈夫。明るく美しくなっていく部屋を見ながらフロランスはなぜか泣きたくなった。


 アルベールはジャルジェ家に行った。ジャンヌとニコラスの事についてあれから何か進展はあったのだろうか。新しい情報でも入ってはいないか。彼は心配だった。出来ればオスカルに彼らを追う事をやめさせたかった。嫌な予感がつきまとって離れない。他の誰かが彼らを捕まえてはくれないか。アルベールは祈る事しかできない自分が腹立たしかった。

「アルベール様、申し訳ありませんがアンドレは出かけております」
 ジャルジェ家に着くとジャコブが出迎えてくれた。ジャルジェ家に長く仕える使用人だ。
「そうか、では出直してくる」
 アルベールは馬車に戻ろうとした。
「アンドレはオスカル様のお供で宮廷に行っています。そちらにお出かけになれば…」
「ありがとう、ジャコブ。そうしよう」
 アルベールは馬車のステップに足をかけた。
「アルベール様、車輪の様子がおかしくないですか」
 ジャコブが声をかけた。
「そういえば、少し揺れたかな」
「私でよければ見ましょうか」
 ジャコブはセシェル家の御者に目をやりながらアルベールに聞いた。
「そうだな、頼もうか」
「ではこちらでお持ちください」
 ジャコブが客間に案内しようとした。
「いいのだ、ジャコブ、ここにいる」
「でも、アルベール様、多少お時間がかかると思いますが…」
 ジャコブが困ったように言った。
「いいのだ、お前の仕事を見ていたい」
「‥そうですか?」
 ジャコブは困惑しながらも嬉しそうに顔を赤らめた。

「アルベール様はアンドレがとてもお気に入りですね」
 ジャコブは馬車を車庫に運び入れると工具を取り出した。
「そうか」
「お小さい頃一緒に遊ばれたとか」
「そうだ」
「アンドレは幸せものだ、皆に可愛がってもらって‥ あいつは子供の頃からお屋敷にお世話になっているからか何か私達とは違っていて‥」
 ジャコブは車輪の下にもぐりこむようにして車軸の様子を眺めた。
「ずっとオスカル様がお相手だったせいですかね。アルベール様にそれほど気に入られるものをあいつは持っていますか」
「そうだな」
 返事をしながらアルベールは使用人仲間からアンドレはどのように扱われていたのだろうと気になった。ジェルジェ家がアンドレを大切にしているのはいいとしてそれが特別待遇として使用人仲間から反感をかったりしてはいないだろうか。彼はアンドレを自分達貴族側からしか見ていなかった事に気がついた。
「アンドレはいいやつだ」
 アルベールはジャコブの顔をさり気なく眺めた。
「そうですね。それは皆そう言います。働き者ですし、旦那様やオスカル様にあれほど重宝がられても奢ったりするところがないし、誰に対しても親切ですからね」
「そうなのか」
 ジャコブの表情に無理はなかった。
「ええ、それにあれでなかなかいい男ですしね」
 ジャコブは人のよさそうな笑みを浮かべてアルベールを見た。
「あ、無駄話が過ぎました」
「かまわない。ジャコブ、アンドレは‥ 結婚しないのか‥?」
 アルベールの質問にジャコブは気をよくして話し出した。
「そうですね。あいつは変わったところがありましてそんな話は皆断ってしまうのですよ」
「なぜだ?」
「さあねえ、それも会ってみてこの娘では‥と断るのではなく始めから断っていましたか‥」
「結婚する気はないのか‥」
「そんなことはないでしょうが、わかりません。一時は色々な話があったのですよ」
「ジャルジェ家がアンドレを手放さないのではないか?」
「それはありません。旦那様も奥様もアンドレの為ならその位は我慢してくださいます。それに夫婦で働かせてもらう事だってできますからね」
「そうだな」
「女遊びもしないし変わったやつですよ。あ、これはまた失礼を‥ どうもアルベール様は私らのような者にもお声をかけてくださるせいかついしゃべり過ぎてしまいます」
 ジャコブは顔を赤らめ頭に手をやった。
「かまわない。アンドレは皆に好かれているのだな」
「まあ、若い者の中にはそりの合わない者もいるようですが、それはアンドレの方が相手にしません。彼らもそのうち分かると思いますがね。さあ、これでいいようです」
 ジャコブは汚れた顔で立ち上がった。
「ありがとう、ジャコブ」
 アルベールは善良そうな彼の顔を見つめた。マロン・グラッセといい他の使用人といいジャルジェ家は隅々にいたるまで暖かい雰囲気に満ちている。アルベールが知っているほど長く勤めている者が多いいのも特徴だ。幼い時に感じた心地よさが変わらず続いている。ここに来ると永遠に変わらぬものの存在を信じたくなる。そしてそれを確かめるためまたここに来る。


 フロランスは鏡台の前に座るとガウンを手に取った。見違えるように変わったこの部屋はなんだか落ち着かない。彼女は手に持ったガウンをぼんやり見つめた。あの人が買ってくれた薄絹のガウン。お気に入りのラベンダー色。フロランスは絹に爪を立てた。鏡の中の青ざめた顔。これは誰? 爪を立てた薄絹は破れ小さな音をたてた。フロランスはゆっくりと絹を裂いてみた。裂かれた絹は悲鳴のような声を上げた。鏡を見つめたまま細く長く絹を裂く。繰り返すその度に聞こえる誰かの悲鳴。
 アルベールになんという事を言ってしまったのだろう。もう彼は私を抱いてくれはしないだろう。彼は私に向けていた愛を他の誰かに向けている。絹が音を立てる。もうあの人は二度と私に手を触れたりしないだろう。足元に散らばるラベンダー色の細い絹の切れ端。悲鳴が聞こえる。泣くような、か細い声が聞きたくてフロランスはゆっくりと絹を裂いていった。


「お兄様!」
 家中に響き渡る明るい声にアルベールは弾かれるように部屋を出た。ホールに向かうと旅行用の服に帽子を被ったままの人影がホールを真っ直ぐに突っきりアルベールの胸に飛び込んできた。
「ああ、お兄様、お会いしたかったわ!」
 外れた帽子を取ることもせず、子供のようにリボンを首にかけたまま後に垂らしその人物はアルベールにしがみついた。
「アンジェリーヌ、お前どうしたのだ?!」
 アルベールは驚いて彼女の両肩をつかんだ。
「ああ、お兄様お元気そうで、嬉しいわ、会えて嬉しいわ」
 アンジェリーヌは明るい笑顔で顔を一杯にしアルベールに抱きついて離れなかった。彼はつかんだ妹の肩に力を入れ彼女を胸から引き離した。驚きで一杯だった。アンジェリーヌは今度は首に抱きついてきた。
「誰がお前をここに呼んだのだ?」
 アンジェリーヌを抱き彼女の歓喜に応えながらアルベールの胸にオスカルの言葉がよぎった。『アルベール、アンジェリーヌに手紙を書いてくれたか? 私が会いたがっていると書き送ってくれたか』
「ああ、お兄様、お兄様」
 アンジェリーヌは首から離れない。
「アンジェリーヌ、お前まさか一人で来たのではないだろうな。クリストフはどうした。子供達はどこにいる」
 アンジェリーヌをようやく首から離しアルベールはホールの先を見た。
「私一人よ。ロジェとニーナが一緒だから大丈夫よ」
 アルベールを見上げるアンジェリーヌの瞳はキラキラと輝いていた。二人の若い純朴そうな召使いが長旅の疲れも見せず興奮した様子で荷を降ろし運んできた。
「一体どうして‥」
 アルベールには訳がわからなかった。アンジェリーヌはボルドーから一人で来たというのか。一体何の為に‥ 誰の為に‥
「今度はクリストフと子供達と一緒に来ますわ」
 アンジェリーヌはようやくリボンを外し帽子を脱いだ。息が弾んでいる。
「アンジェリーヌ、なぜここに来た?」
 アルベールにはアンジェリーヌ来訪の意味がわからなかった。
「お兄様に会いにですわ」
 アンジェリーヌは脱いだ帽子をニーナに渡すとつま先立ってアルベールの頬に顔をつけた。
「誰がお前をここに呼んだ」
 努めて冷静さを装いながらアンジェリーヌに聞いた。彼女はその質問には答えず兄の肩越しに声をかけた。
「こんにちは、フロランス」



再会Y に続く




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