2003 2/22
挿絵 市川笙子さま

再会 W




 鞭打たれ両肩にVの焼きごてを押されたジャンヌ・バロアはサルぺトリエール牢獄へ収監された。そして僅か数週間を経ずして彼女はそこから脱獄した。その鮮やかな脱獄劇は後ろで糸を引いている大きな影を思わせた。事実サルぺトリエール牢獄は一介の泥棒が脱獄できるほどたやすい牢獄ではなかった。建物も堅牢で警備も強固だった。
 人々の目の前で繰り広げられたジャンヌの刑。彼女の髪を振り乱し荒れ狂う姿や無実を訴え王妃の裏切りを呪う叫び声、衣服を引き裂かれ肩と胸に焼印を押され気を失い引きずられてゆく様は人々の同情をかった。ジャンヌを脱獄させたのは誰か。サルぺトリエールに見舞いに行った多くの貴族達の顔ぶれから憶測が誰が手引き者かをささやき始める。
 サルぺトリエール牢獄には平民だけではなく貴族の馬車が列を連ねる。彼らは一体どのようなつもりでそこに行くのだろう。単なる見物か、王室に楯突きたいのか、或いは安っぽい博愛主義にかぶれたのか、それともジャンヌの無実を本気で信じているのか。有罪の判決を受け収監された泥棒に貴族の婦人が見舞いを届け涙する。その中には王妃と親しい者もいた。だだの泥棒にこんな事はありえない。人々はそれは何故かと考える。そんな彼らの行為が手引き者は王妃だとささやく。そしてささやきは公然の事実となり人々はそれを信じていく。
 脱獄した女詐欺師は首飾り事件の真相と高等法院の裁判のでたらめぶりを暴露した本を出版した。その素早さは脱獄劇以上に見事だった。ジャンヌの暴露本はたちまちベストセラーになった。そこには首飾りを注文したのは誰か、どのように王妃の手に渡したかが克明に書かれてあり自分は王妃の名誉の為無実の罪を着せられたが友情からあえてそれを承服したと書いてあった。人々は自分達の憶測が正しかったと納得する。少しでも注意力のある者ならずさんな暴露本の中に時間的空間的にありえないいくつもの事柄に気づくはずだ。だが人々はあえてそれを見ようとはしない。
 大衆が暴露本出版の興奮のただ中にいるうちに女詐欺師はさらに第二巻を出す。『ジャンヌ・バロア回想録』ジャンヌ・バロアが王妃と親しくなった「レスボス風の流儀」の事や王妃のローアンあての手紙の数々、王妃の恋人達の目録などそこには大衆が求め夢中になって読むであろう様々な醜聞がつまっていた。大衆の要求がジャンヌにはよくわかるらしい。次々出版される本はますますどぎつくあけすけになっていく。
 大衆は愚かで無責任で逞しい。国民の不満が形を変えて噴出しているようだ。王妃の人格が神聖であるどころか王妃は国民の卑猥な空想を満足させる対象物に成り下がっている。



『ジャンヌ・バロア回想録 第二巻』
 アルベールは店から溢れ出し街頭に積まれ飛ぶように売れていく本を一冊買った。
「貴族の旦那、あなたもこういうのがお好きですか。ジャンヌの本は最高でさ」
 好色そうな笑い顔の売り子が本を手渡す。街中の混雑の中、我先にと本に群がり手に入れた人々はその場ですでに読みふける。本を手にした男の回りに人の輪ができる。人は皆ジャンヌの本を読みたがっていた。輪の中がら下卑た笑いが聞こえる。それを聞いて他の男が本を取り上げ読み始める。彼もどこが気にいったか卑猥な笑いを顔に浮かべる。たちまちそこで本の奪い合いが始まる。男達だけではない女達も恥ずかしげもなくその輪に加わる。黄色い叫び声が上がりどよめくような笑い声が聞こえた。

 書斎の机に書類を投げ出しアルベールは椅子に座った。ジャンヌの本など読みたくもなかったが首飾り事件に関係している以上読まない訳にはいかない。それに彼には読まなければならないもう一つの理由があった。人の噂は容赦なく耳に入ってくる。『ジャンヌ・バロア回想録』に男装の近衛連隊長の名前がある。裁判でレズ発言が出た時は冗談にもならない荒唐無稽な説明に失笑したが彼女はその説明に真実味を加えるべく本を刷り上げたのだろうか。
『ジャンヌ・バロア回想録』 本を買った時少し開いてみたが見るだけで気が滅入るようだった。だが見過すわけにはいかなかった。アルベールはページを開いた。
 そこは嘘とでっち上げに満ちた下品な世界だった。官能小説として読んでもその下劣ぶりは目を覆いたくなるほどだ。官能のかけらもない。享楽的な乱痴気ぶりばかりが目立ち気分が悪くなる。色に狂ったマリー・アントワネットに大衆はかぶりつく。世界が倒錯すればするほど人々は喜ぶのだろうか。王妃の名さえ出ていればそれでよいのか。内容が三流だろうかそれ以下だろうが色欲に満ちていればそれでよいのか。
 「レスボス風の流儀」が微に入り細にわたって書かれてある。大衆が聞きたい事を聞きたいように説明するのが彼女は得意なようだ。本来ならこのような本、読まずに打ち捨てて構わないのだがアルベールにはそれが出来なかった。王妃の恋人の目録にオスカル・フランソワの名前を見つけた。
 オスカルが王妃と同様大衆の玩具になっている。たまらなかった。この本を読む事こそ彼女を冒涜しているようで苦しかったが無関心ではいられなかった。
 ジャンヌの本がこれほど人々の心をとらえたのは単に色欲が充満しているからではない。アルベールは気づいた。この本には毒がある。その毒が主人公である王妃にたっぷりと塗ってある。うっかり下品で低俗な性の饗宴に入り込むと、その毒は読んだ人間に回ってくる。裁判での経過が彼の胸によぎった。人々はこの本を買い、読む事で王室に敵意を示しているのではないか…。
 風が吹いている。それは枯葉を一箇所に集めるように吹いている。吹きつけられた葉はどこへ行くのか…。
 アルベールは本を閉じた。
 オスカル、お前はこの本を読んだだろうか。自分の名前を見つけただろうか。オスカルが人々に踏みつけられ蹂躙されていくようだった。たまらない。何よりも清く崇高なお前が足についた泥で汚されていく…。
 アルベールは立ち上がりその本を力任せに二つに破り捨てた。火の気の無い暖炉に投げ捨て火を点けた。ゆらゆらとした炎が表紙をなめてゆく。それを見ていることしかできなかった。


「アルベール、今度の休みに遠乗りにいかないか?」
 宮廷ですれ違いざまオスカルに言われアルベールは立ち止まった。
「遠乗り‥? それはかまわないが‥」
 アルベールの返事を聞くとオスカルは頷き、彼の腕に言い足りない言葉を残すように手をかけ足早に立ち去った。
 遠乗り‥ 何もこんな時期に‥ オスカルの後姿を見つめるアルベールの回りに何人もの貴婦人達が集まって来た。
「アルベール様はオスカル様ととても仲がよろしいのね」
「本当に羨ましいですわ」
「オスカル様は王妃様はじめごく親しい方にしかあのような瞳をお向けにはなりませんのよ」
 貴婦人達の粉白粉や香水の匂いがアルベールを取り囲み親しげな手が彼のからだに触れた。
「いやいや、ジャルジェ大佐は女ですが男に興味はないはずですよ」
 しわがれた声が聞こえ鷲鼻に重そうなかつらを被った男が近づいていた。男は咳払いをし、組んだ両手の親指を立てそれを擦り合わせながら貴婦人達を眺めまわした。
「まーあ、グルジー侯爵、ごきげんよう」
「グルジー侯爵、お元気そうでなによりですわ。それではまた」
「グルジー侯爵、失礼します。アルベール様、あちらにまいりましょう」
 婦人の一人がアルベールの袖を引いた。
 もう噂になっている。ここに居る誰もがあの本を読んでいるのだ。つまらぬ噂など気にする事はない。アルベールは自分に言い聞かせた。噂によってどのような評価が下されようとその者自身が変わる訳ではない。オスカルはオスカルのままだ。噂に振り回されるとは愚か者だ。わかっている。だが自分が醜聞の俎上に乗っている方がよほど楽というものだ。自分自身で評価できない人間を哀れだと思う。人間の中には評価できる立場にいながら噂を信じる者もいる。わかっているが我慢できない。アルベールは男を振り返った。しなびた顔の覇気のない初老の男だった。その顔が薄ら笑いを浮かべている。アルベールは男にありったけの軽蔑をこめ睨みつけた。


「アンドレ、オスカルから遠乗りに誘われたのだが」
 アルベールはジャルジェ家に寄った。
「遠乗り? いいじゃないか、都合が悪くなければ付き合ってくれ。オスカルももう帰ってくる頃だろう」
 アンドレはアルベールを客間へ案内した。彼の訪問をアンドレは歓待してくれる。それは決して大袈裟さではなかったがいつも心がこもっていた。
「今何か飲み物を持ってくる」
 部屋を出ようとするアンドレをアルベールが止めた。
「アンドレ、嫌な噂を聞いた」
「何だ?」
「ニコラスがオスカルの部下だったというのは本当か?」
「本当だ」
 アンドレは事も無げに言ってのけた。
「ジャンヌを逃がした者がオスカルだと言っている者もいる」
 アルベールはこれ以上宮廷でオスカルを非難中傷する言葉を聞きたくなかった。
「知っている。ポリニャック一味の仕業だ」
 アンドレの声は冷静そのものだった。アルベールは唇を噛んだ。ポリニャック一味… 王妃を操り宮廷で思うまま振舞っているポリニャック伯夫人。オスカルは宮廷を取り巻く陰謀の渦の中にいるのだ。
「アンドレ、このままでは…」
 アルベールは焦りアンドレを見た。なんとかしたい。でもどうすれば良いのだ。自分に出来る事は何かないか。
「オスカルだって何もしていない訳ではない。オスカルはジャンヌとニコラスを捕まえる気でいる」
 アンドレの声はどこまでも冷静だった。
「なんだって」
 初めて聞く事ばかりだ。アルベールはテーブルに目を落とし顔を上げた。
「ジャンヌの版元をたどれば何か分からないか?」
「調べた。版元はイギリスだった」
「ではジャンヌはイギリスに‥?」
「わからない。イギリスにはオスカルが部下をやって調べさせた。原稿は送られてくるそうだ。版元は何も知らないと言っているがどうだか…。たいした悪党かもしれない。ジャンヌと引き合うものがあるのだろう」
「版元がジャンヌを隠しているのか?」
「わからない。どうも版元とジャンヌの間に何か入っているようだ。版元はジャンヌの原稿が欲しいものだから無駄な事には知らん顔でいる。このままで良いとは思っていないが今は膠着状態だ。どこからか有力な情報でもない限り彼らの居所はつかめない。オスカルにだって休みは必要だ。アルベール、オスカルがそう言うのなら付き合ってくれないか」

 アンドレは遠乗りに行くなら馬を選んでくると厩へ行った。客間でアンドレが運んできたリキュールを飲みながらアルベールは考えた。
 ジャンヌの後ろに見える黒い影。それは巷で言われているような王妃ではない。裁判での証言や経過、ジャンヌの本の内容から常識的に考えてそれが王妃であるはずない。ローアン派の私怨というほどちっぽけな影でもなさそうだ。王室対反王室。彼の胸に確固たる確信を築いているのはこの構造だ。大きな力がジャンヌを利用し自分自身の企みを遂げようとしている。嫌な予感がする。オスカルやめろ。ジャンヌとニコラスを追わない方がいい。ポリニャック一味よりもっと巨大で陰険なものを引きずり出してしまうぞ。オスカルを邪魔に思う勢力がいつオスカルに手をかけるかわからない。オスカルの首筋に光る鋭利な刃物が見えたようでアルベールは立ち上がった。

「アンドレ」
 アルベールは厩に行った。
「アンドレ、ジャンヌとニコラスは追わない方がいい。嫌な予感がする」
 アンドレに言いながらアルベールはもどかしくてたまらない気持をどうにも出来ずにいた。
「アルベール」
 アンドレは彼の不安を見透かしたように肩に手をかけた。
「大丈夫だ。オスカルだって慎重にやるだろう。俺も気をつける。ジャンヌの後に何がついているか見当くらいつく。ただの泥棒だとは思っていないさ」
「そうか」
 アルベールは息を吐いた。少し安心した。オスカルもアンドレも思っている以上に色々な事を考え手を回しているのだろう。アルベールはただ保身のみを考えてジャンヌとニコラスを追うなと言った自分を恥ずかしく思った。きっとオスカルはそんな事であきらめたりはしないのだ。わかっていたのに… わかっていながら言ってしまった。長く離れていると想い続けた人の心ばえを忘れてしまうのか…。
 アルベールは目の前の馬に気がついた。
「これは… ネージュか?」
 アルベールは手を差し伸べて白い馬の顔をなでた。
「お前元気でいたのか」
 白馬に顔を擦りつけながら話し掛けるアルベールをアンドレはじっと見ていた。
「マロンもネージュもおととし死んだ」
 アルベールが声に驚き振り返るとオスカルがいた。オスカルは彼に近づくと白馬の額をなで白馬の首に腕を添わせた。その馬が愛しくてたまらないというようにオスカルは白馬に並びかけアルベールを見た。
「それは… ネージュに見えるが…」
 アルベールはオスカルと白馬を見ながら言った。記憶がよみがえる。『ネージュは僕の馬。さあ、乗ってごらんよ』
「これはネージュの子供だ。ネージュは二頭の子馬を生んだ」
「ではこれが…」
 そっくりだ、毛の色もたてがみも目の様子もネージュにしか見えない。
「アルベールには見分けがつかないと思ったよ」
 アンドレが笑いながら言った。
「ではもう一頭はどこにいる?」
 アルベールはアンドレの指差した方を見た。栗色の大きな馬がそこにいた。
「マロンもネージュも一度に死んでしまった。何日も置かずにほとんど同時に…」
 オスカルはネージュの子供の額を何度も何度も撫でた。どれほどオスカルが彼らを愛していたかわかるようだ。白い指を白馬に添わせ慈しむオスカル。顔を上げているため真っ直ぐに流れる金の髪が真紅の近衛服に波をうつ。掘り込んだように端正な横顔の線を見せながら慈愛に満ちた瞳でネージュの残した子を見つめる。
 アルベールは胸が苦しくなった。オスカル、お前がそのままの姿でいることを望む。私は小さな人間だ。保身と言われようがお前が無事でいる事が願いだ。彼はオスカルの横顔から指に視線を移した。しなやかにたゆたうように揺れる指先。誘っているようにも見える。その指を掴んで言いたいことがある。アルベールは目を閉じ両手を固く握りしめた。


 快晴。秋の訪れを感じさせる風。四頭の馬が緑の中を走ってゆく。
「オスカル、早すぎるぞ。ロザリーがついていかれない」
 オスカルの馬に並びかけアンドレが怒鳴った。
「先に行く。ほらあなの木のところで待っている」
 オスカルが馬を飛ばす。オスカルの馬はみるみる他の三頭を引き離す。アルベールは血がわくような興奮を覚えオスカルを追った。追いかけるアルベールに気づいたのだろう、オスカルが振り返る。オスカルがスピードを上げる。アルベールは身を屈め前傾姿勢を保ちながらオスカルを狙う。風が耳元でうなる。景色が飛ぶ。視界が狭くなる。アルベールにはオスカルしか目に入らない。

 オスカルは鬱蒼と繁った木立にさしかかった場所で馬を止めた。
「アルベール」
 木立の手前で馬を繋ぐとオスカルは彼を誘うように手招きをした。アルベールもオスカルに倣い馬を降り木立の中へ入る。馬を降りてなお早まる鼓動をひんやりとした空気でおさめようとしたが無理なようだ。オスカルは先に入りながら何かを探すように上を見上げた。顔を上げている為より長く豪華に白いブラウスの上に広がる金髪。背を覆い隠すほどそれは豊かでオスカルが頭を動かすたびさらさらと波うち揺れる。その金の光を撒き散らすようにオスカルが振り返った。
「アルベール」
 もう一度オスカルが手招きをした。彼の鼓動は早くなる一方だった。
「この木だ」
 オスカルは一つの大木の前で立ち止まった。
「この木が‥?」
 アルベールはオスカルの顔を覗き込んだ。オスカルは嬉しそうに微笑んでいたがその意味がつかめなかった。彼は木を見上げた。不恰好なほど大木で老木と思われたが特に変わった木だとも思えない。
 オスカルが木の後に回った。彼は反対側から木の裏側を覗いた。
「あっ」
 アルベールは声を上げた。そこには人がすっぽり入りそうな空洞が開いていた。
「秘密の隠れ家にちょうどいい。アルベール、覚えているか。お前が見つけた木の洞に宝物を隠した」
「覚えている」
 オスカルの可愛い無邪気な声はまだ耳に残っている。『ここに四人の宝物を隠そう。アルベール明日何か持ってきて。アンジェリーヌも分も』
 そうだ、そして庭の木の秘密の隠し場所に秘密の宝物は隠された。あれは今どうなっただろう。オスカルが皆が大人になるまで見てはいけないと言った。
「オスカル、あの宝物はどうなった。皆大人になった。もう出してもいい頃ではないか」
 アルベールは木に肘をつきもう一歩オスカルに近づいた。オスカルは近づく彼との距離を離そうともせず瞳をあわせもう一度微笑んだ。アルベールのすぐ目の前にオスカルはいる。息もかかりそうなほどすぐ目の前にある薔薇色の頬。艶のある唇。この瞬間オスカルを捕らえてはどうか。力一杯折れるほど抱しめてその肌に口づけてしまったら…。オスカルは彼の気持になど気づく様子もなく笑いかけている。まるで口づけてくれとでも言うように…。その姿によりそそられることに彼女は気づいていない。庭の芝の上にオスカルを押し倒した時感じた後ろめたいときめき。それに彼女は気づいていない。無邪気に笑っていた。口が利けないほど“怒った”アルベールにオスカルは気づいていない。
「そうだな、誰も取り出していなければな」
 オスカルの言葉が空気を動かし風のようにその瞬間は去る。アルベールは自分の決断力の無さを不甲斐なく思った。
「誰が取り出すのだ?」
 心とは裏腹に言葉だけは口をついて出る。オスカルはアルベールの前で目を伏せた。そろったまつげが目を閉じたオスカルの美しさを見せつける。
「お前達が行ってしまった後、寂しくて私が取り出した」
「何だって」
 意外な返事だった。オスカルが寂しがっていた? 私達がいなくなった事を寂しく思っていた…?
「お前とアンジェリーヌの宝物、それとアンドレと私の物も私が持っている」
 オスカルは下を向いたまま笑った。オスカルが同じように自分に想いを馳せてくれた事があったのだろうか。アルベールは食い入るようにオスカルを見つめた。返事をする蒼い瞳は閉じられたままだ。
「これはアンドレが見つけたのだ」
 オスカルはしゃがみこんで木の根元に開いた空洞を覗き込んだ。
「昔はここに二人で入れたのに… 雨宿りをするには格好の場所だった」
「そうなのか…」
 アルベールはオスカルと同じように木の根元に膝をついた。オスカルとアンドレ、二人にはまだまだ続く物語があったのだ。自分はそこにいなかった。あのままずっとオスカルと共にいられたら何か変わっていただろうか。
「ここから眺める雨はとてもきれいだった」
 空洞から目を移し振り仰ぐように木漏れ日を見つめるオスカル。どうしても手に入れたい。ほんの一瞬だけでいいから…
「雨は好きだ。音も匂いも皆きれいだ」
「オスカル」
 アルベールは手を伸ばした。美しいのはお前だ、何とかしてそれを伝えたい。
「オスカル!」
 アンドレが呼ぶ声がした。
「ここだ、アンドレ」
 オスカルが勢いよく立ち上がった。

 見晴らしのよい丘の上で食事をした。
「後でここを駆け下りて行こう」
 オスカルが眩しそうに遠くを見つめる。
「まったくいい気なもんだ。あんなにすっ飛ばして」
 アンドレが馬から降ろしたバスケットを開ける。そこにはマロン・グラッセが丹精込めて作ってくれた昼食が芸術的センスで詰め込まれていた。
「ごめんなさい。私が遅いものだから…」
 ロザリーがそこから手際良くナプキンに包んだ皿を取り出し並べてゆく。
「いや、ロザリー、あんなのについていったら今頃おばあちゃんが作ってくれた食事は粉々になっていただろう」
 アンドレが別のバスケットからワインを取り出した。
「オスカル、馬の背にワインを飲ませるところだった」
「すまなかったな、アンドレ。でもここまではあっという間だ。昔は大冒険だったな」
 オスカルが笑いながら栓を開けた。アンドレが銀の盃を配りオスカルがワインを注ぐ。ロザリーがパンにナイフを入れ肉や野菜を挟みこんで皿にのせる。豪華な草上の食事だ。マロン・グラッセが馬が動けなくなるほど支度をしてくれた。
「アルベール、今日はフロランスも来ると思っていたのにどうした。奥方は乗馬はしないのか?」
 オスカルはロザリーが切り出したチーズに手をのばした。
「ああ、妻は子供ができたので乗馬はちょっと…」
 アルベールの言葉にオスカルとアンドレが同時に顔を上げた。
「アルベール」
「子供が…?」
 オスカルの手が宙で止まった。意外そうな表情の二人に見つめられアルベールは困惑した。
「まあ、おめでとうございます」
 ロザリーの声にオスカルもアンドレも呪文が解けたように表情を和らげた。
「それはおめでとう」
「おめでとう、アルベール」
「赤ちゃんが生まれたら私達にも見せてくださいね」
 ロザリーが言いながら皿をアルベールの方にそっと差し出す。
「それでは‥ 乾杯だな」
 オスカルが盃を上げた。
「アルベールの三人目の子供に乾杯」
 盃の合わさる音を聞きながらアルベールは取り残されたように感じる自分に戸惑った。オスカルとアンドレから自分だけ大きく離れてしまった、そんな気がした。彼は皿に目を落とした。
「そうだ、アルベール、アンジェリーヌに手紙を書いてくれたか? 私が会いたがっていると書き送ってくれたか」
 オスカルの問いに彼は顔を上げた。オスカルは彼の様子を窺うように首を傾けて見ていた。
「どうした?」
「いや、まだ‥」
「なんだまだ書いてくれていないのか。もうアンジェリーヌから返事が来る頃だと思っていたぞ」
 オスカルの言葉が空しく響いてゆく。さっき木立の中で見たオスカルはどこにいってしまったのか…。アルベールの胸に寂寞が広がってゆく。オスカルと自分にはもう埋められないほど距離が開いてしまったのか。オスカルを自分のものにしたいと考えれば現実は容赦なく鞭を打つ。
「フロランスが来られないのだからアルベールが二人分たいらげてくれないと困るぞ」
 光の中で屈託なく笑うオスカル。オスカルには光がよく似合う。オスカルを見ながらアルベールはワインを喉に流しこんだ。
 オスカルの恋の相手はついにわからなかった。何度認めよう、納得しようと思ったがオスカルが他の男を恋するなどどうしても考えられない。彼女を他の誰にも渡したくないというエゴだとわかっていながら釈然としない。オスカル、お前はアンドレの事をどう思っているのだ。お前とアンドレの間に愛は生まれなかったのか…? アルベールは注意深くオスカルとアンドレを見つめた。
 オスカルは昔からアンドレを特別なものとして扱ってきた。他の誰にもアンドレを渡さないと強い意志を感じさせたのはオスカルの方だった。彼女の激しさはアンドレは特別なのだという思いを刷り込ませるのに充分だった。オスカルが自分自身の性を認識した時、熟した実が落ちるように彼に寄せる親愛の情が愛に変わっていくと考えたが…。
 オスカルはアルベールの正面にいる。彼はパンを噛むことでいつも陥るこの堂々巡りから脱却しようと試みた。アンドレがオスカルの指についたチーズをナプキンで拭った。彼の試みは一瞬で消し飛んでしまう。アンドレはオスカルを女として愛している。オスカルに向けるアンドレの瞳は友愛の情しか映さないようだがそれは違う。オスカルが知らないだけでアンドレはオスカルを捕えるべきものとして欲している。男とはそういうものだ。彼は男の性(さが)を注意深く隠している。アンドレの瞳に表面上現れている穏やかな光は多分彼が長い時をかけて習得してきたものなのだ。オスカルや他の誰かに彼の心の内を悟られないようにする為の…。オスカルとずっと共にいてオスカルに恋をしてその想いが届かないとしたら… それでも真近に居続け彼女が他の者を愛するようになっていったら…。愛する女を奪いたい。男なら誰でもそう思う。それを少しでも見せたら破綻する事がわかっているからアンドレはそれを隠している。そしてオスカルは… 
 アルベールはオスカルも同じように見てきたつもりだがオスカルが他の誰にもそんな目は向けないように、アンドレを見つめる瞳に信頼以上のものを込める事はなかった。願望に惑わされないよう気をつけたつもりだ。アンドレの気持が手に取るようにわかるのにオスカルの気持は見えてこない。見えない事が答えなのだ。オスカルはアンドレを肉親のように近い存在と考えているが一人の男として性愛の対象として見てはいない。

 アルベールがオスカルを見ている。アンドレは彼の盃にワインを注いだ。彼はワインが空になっているのもアンドレがそれを満たしたのにも気づかない。アルベールのオスカルを見る視線。彼は何を考えあのような目でオスカルを見るのだろう。
 アルベールが巣から落ちた小さな雛を見つけた事があった。巣から落ちてよく無事だと思えるほど小さくうっすらと毛が生えたばかりの雛だった。巣に返すはずだった雛はオスカルが飼おうと言った為オスカルのものになった。どこから落ちたか一生懸命巣を探していたアルベールは手のひらに小さな鳥をのせたオスカルを見たとたん飼うことに賛成した。オスカルの手にのった可愛い鳥。子供達の注意を惹きつけるのに充分だった。だが彼は鳥でなくオスカルを見ていた。満足そうな得意げな彼の顔。それはオスカルの為なら何でもしてやろうと言っていた。
 長い間離れていたアルベール、そんな彼がオスカルの一瞬の動きを見逃さない。オスカルをいつも見ているわけではないのにオスカルの鮮やかな動き、意外な表情、禁欲的でありながら男をそそらずにはいられない仕草や近くにいる者にしかわからない開け放したように無防備な一瞬を彼の視線は逃さない。長い間、どれほど距離を隔てていても彼が誰を想ってきたのかわかるようだ。
 アンドレにとってアルベールはオスカルと同じ心を守る砦だった。大人の世界の決まり事を知り身分をわきまえなければならないアンドレにアルベールは子供のままで良いと言ってくれる存在だった。貴族の御曹司でありながら彼は綺麗な服を泥だらけにして遊び、活発で負けず嫌いで何でもオスカルやアンドレと張り合った。アンドレと張り合う。それは彼がアンドレを対等な存在と認めている事に他ならなかった。
 アンドレは視線を草の上に移した。視線を反らしても視界の隅に映る彼の心が見えてしまう。やめろ、アルベール。そんな目でオスカルを見るな。辛くなる。
 草の上をついばみにきた鳥を引き寄せるようにアンドレはパンくずをまいてやった。召使の子と言われて育った。貴族と平民では人間としての種族が違う。それはどれほど小さな子供でも本能的ともいえる感覚でお互いに知っている。アンドレの周囲でその感覚が無かったのはオスカルとアルベール、アンジェリーヌだけだった。身分が違っていても人間である事に違いはない。それを幼い自分にしっかりと教えてくれたあの遠い日々。奢ることも卑下する事もなくただ平静で平常でいる大切さ。そしてその難しさ。かけがえのない大切な友人―― 彼も同じ想いを抱いているのか…。やめろ、アルベール。お前には妻もいる、家庭もある、失ってはいけないものがある。


 アルベールが家に帰ると手紙の束を持ったフロランスが出迎えた。
「アルベール、お帰りなさい。今そこでヴァルキエルさんと会いませんでしたか?」
「ヴァルキエルと? いや」
 彼はホールを振り返った。
「いつあなたに会えるかとお見えだったのですよ」
「そうか」
「お手紙もきています」
 フロランスは一通の手紙をアルベールに渡した。
「この間きていたヴァルキエルさんのお手紙はお渡ししましたわね」
「ああ、もらった」
「こちらはシュナイデル教授とコルニ判事補からですわ。それから‥」
「ありがとう、フロランス」
 アルベールはフロランスから残りの手紙を受け取った。
「今日は早かったのですね。あら、背中に草が‥ まあ、髪にも‥」
 フロランスはアルベールの背中についた草をはらい髪から枯葉を取り除いた。
「あなた、一緒にお茶でもいかが? すぐ支度させます」
 フロランスは早いアルベールの帰りが嬉しかった。彼と久しぶりにお茶を飲み話がしたい。
「フロランス、ヴァルキエルに手紙を書かなければならない。悪いが部屋に運ばせてくれないか?」
 アルベールは手紙の代わりに手袋をフロランスに渡すと書斎へ向かった。

「フロランス、お前が運んできたのか?」
 書斎にカフェを運んできたのはフロランスだった。フロランスはカップを机の隅に置き手紙を開いてゆくアルベールを見ていた。
「何だ、フロランス、何か用か?」
 部屋を出て行こうとしないフロランスにアルベールは問いかけた。
「いえ、なんでもありませんわ」
 フロランスは首を横に振るとそっと部屋を出た。
 あの人は気づかない。フロランスは寂しい思いで書斎の扉を閉めた。今日久しぶりに髪をおろしてみた。フロランスが髪をおろしているのにアルベールは気づかなかった。彼はフロランスが髪をおろしているのが好きだった。だからフロランスはお客のない時や家にいて出かけない時は髪をおろすようにしていた。その方が彼が喜んだから…。髪をおろしたフロランスに気づくとアルベールは必ず言った。その方がいい。
 子供が生まれてからは結っている方が多くなった。でも回数が少なくなっただけにたまにおろすとすぐに気づいて言ってくれる。今日はどうした。綺麗だよ。
 彼はフロランスの髪と目と気立てをいつも誉めてくれた。フロランスは髪に手をやった。この髪はあの人のお気に入り。だから私は何度も髪を梳く。あの人に気に入ってもらえるように…。


 鏡の前で髪を梳いているとフロランスの後に回ったアルベールにブラシを取り上げられることが度々あった。私が梳いてあげよう。彼に、夫に髪を梳かれるのは身だしなみのために梳くのとは根本的に違っていた。触られるだけで感じるものがある。女の髪には神経も感覚もある。フロランスはその時の顔の火照りと胸の鼓動をいつでも思い出せる。アルベールはフロランスの髪を指にからませ彼女の官能を引き出していった。
 フロランスは書斎の扉に背中を預けた。彼はもう私を見ようとしないのだろうか。寂しい。どうしてしまったの、アルベール。フロランスは書斎の扉に寄りかかったまましばらくそこを動けないでいた。



再会X に続く




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