2003 2/15

再会 V




 5月31日、首飾り事件の判決が下った。詐欺としての個々の判決は下りているも同然でありながら高等法院の裁判官達が早朝からまる一日かけて議論し頭を悩ませたのはただ一つ、ローアン大司教の王妃に対する「侮辱罪」である。実際この裁判は詐欺事件から彼の王妃に対する「侮辱罪」が成立するかどうかに焦点が移っていった。それはフランス王妃対ローアン大司教、王党派対反王党派、王室対宗教界の重鎮やその類型の貴族達、という構造になっていった。
 ローアンが詐欺罪について無罪である事は問題ない。問題なのは、王妃がラブレターを書いたり夜中にビーナスの茂みで密会したと彼が信じた点である。王妃の神聖にして侵すべからざる人格をどのように考えるのか。高等法院の下す判決によってフランス王妃の格が上下するのだ。ローアン大司教の官職剥奪、法廷での謝罪を要求する原告王室側に対し被告側は訴訟そのものを却下するように求めている。
 「侮辱罪」が成立すれば問題はないがローアン側が「侮辱罪」についても無罪だとするとこれは大きな意味を持つ。王妃のあのような行動が充分考えられるのであり王妃は神聖な人格どころかはなはだ軽率であると断定されるのである。不可侵と思われていた王妃が実は一般のフランス人民と変わらないと決められる。太陽王の時代と隔世の感がある。
 高等法院はローアン大司教の全面無罪を言い渡した。予想されたことではあったがその判決を最も喜んだのは国民だった。早朝から裁判所の回りを十重二十重に取り囲み夜半すぎまで待っていた人々は「ローアン大司教、万歳!」「高等法院、万歳!」と叫びながら法院に殺到しそれだけでは足りず大司教にならってバスティーユまでなだれ込んだ。道々に花がまかれ裁判や法律には無縁そうなおかみさん達までが抱擁し歓喜の行列に加わった。真に裁かれていたのは女詐欺師ではなく王妃だった。そして彼女は裁判に負け世論にも見放された。
 男にラブレターを書き、夜中に茂みで密会する。このような行為をあり得るとしたのは他ならぬ王妃の行動だった。長年王妃がしてきて下々の噂にまでなった王妃の行動。若いスウェーデン人に入れ揚げトリアノンに引きこもり芝居や農夫遊びに耽る。宝石を買い漁りドレスを作り取り巻きに好き放題やらせ賭博に手を染める。残念な事だが皆彼女がしてきた事だ。長年の蓄積が、夫である国王に内緒で高価な宝石を買う、ラブレターを書く、夜間の密会、借金の不払いもあり得ると判断されても仕方がない。
 彼女に悪意はない。ただ考えが足りず自身の立場よりも享楽を優先せてしまったにすぎない。貴族の奥方であればありがちな平凡な女性なのだろう。フランス王妃でさえなかったらサロンの花形で女性らしい楽しみを享受し、難しい事は何も考えずただ愛らしく美しく暮らしただろう。だが彼女の立場は無知である事を許さない。この事件が王室に突きつけたものは大きい。



 法廷での判決を聞いても以前ほどの昂揚感はない。アルベールは今日もヴェルサイユに向かった。パリでの判決の熱狂ぶりがここヴェルサイユには届かない。いつもと変わらぬ落ち着きをみせ首飾り事件など遠い別世界の出来事とでも思っているようだ。だが本当のところはどうなのか。仮面をつけ仮の姿を装っているのかそれともとただ無関心でいるだけか。
 アルベールはヴェルサイユにいると探してしまう。いや探しに来るのか、オスカルの恋の相手。吟味するように一人一人眺めている自分に気づくと嫌になる。もうやめよう、何度も思いながらまたくる事をやめられない。
 軍の指揮をとるオスカルを見る。夜会や園遊会でオスカルに会う。そんな時にオスカルの視線を探ってしまう。オスカルが誰を見ているか。誰かの姿を追いかけはしないか。
 恋をしている女の視線はわかる。常にその男から目が離れない。視線を反らし無関心を装っていてもその不自然さが透けて見えるものだ。わかり易い例を見たではないか。あのスウェーデン人を見つめる王妃の視線。アルベールはオスカルに気づかれないようオスカルの視線を追いかける。誰かをじっと見つめる事はないのか。誰かと瞳を絡ませ微笑み合う事はないか。
 近衛の中にそれらしい男はいないか、オスカルが心を動かされそうな男はいないか。アルベールは宮廷中の貴族とすっかり顔見知りになってしまうほど宮廷に日参した。しかしオスカルが誰かを見つめたり誰かの姿を追いかける事はなかった。これはアンドレに一杯食わされたかと思った。オスカルが見るのは王妃だけ。そして王妃が見つめるスウェーデン人だけだった。彼らを見つめるオスカルは痛々しいような悲痛ともいえる表情をしていた。オスカルには王妃自身さえわからない王妃の置かれた立場がわかるのだ。フランスは外国人に寛大な国だ。外国人というだけで珍重される。だからといってフランス王妃がそれを率先してよいはずはない。自由な恋愛を謳歌している国民も国の母である王妃については厳しい。オスカルはこの二人の事をどう思っているのだろう。


 ここのところアルベールの帰りがいつも遅い。フロランスは子供達を寝かしつけ居間で一人彼の帰りを待った。アルベールは夕食はいつも家で取った。用事で遅くなる時はお客を家に連れて来たし他の家に呼ばれる時はいつも夫婦揃っていた。こんな風に彼が夜遅くまで留守にする事は今までなかった。
「貴女の夫は学問と結婚したのね」気兼ねのない友人はフロランス達の事をこう言った。アルベールは他の男達のように妻以外に恋人を持つ事はなかった。フロランスはアルベールと結婚する時に、夫の恋の手練手管を試すような一時的な付き合いや、男の人にありがちなちょっとした事には寛大な妻でいようと決心していた。アルベールが自分を一番愛してくれればそれでよい。魅力的な夫なのだから仕方がないし私達は世界一の歓楽街に住んでいるのだから。
 フロランスの決心は結婚して何年もなるのに一度も試されることなく過ぎていった。アルベールは法律の勉強をする為に大学に通っていたが大学と、友人や教授の家と我が家を往復するだけでほとんどの時間を家で過ごした。書斎にいる事が多かったが子供達と遊んだりフロランスに本を読んでくれたり夕方には散歩に誘ってくれたりした。
「貴女の御主人どうなっているの?」口さがない友人達はアルベールの堅物ぶりを笑った。「あんな素敵なご主人に恋の相手もいないなんて、そうとう貴女が締め上げているのね」そう言われて戸惑うフロランスには彼女達が多くの恋愛をしながらもフロランスの事をどことなく羨ましく思っている事には気づかなかった。
「昨日貴女のご主人が綺麗なご婦人と歩いていたわ」教えてくれる友人もいたが大抵フロランスはその前に今日あった話をアルベールから聞いていた。二人の間に秘密は無かった。

 しかし最近のアルベールは違う。
「今日はどちらに行っていらしたのですか?」と聞くとジャルジェ家か宮廷だった。
「ここのところ毎日遅いですわ」
 毎晩同じ事を言うのも気が引ける。それでも言わずにはいられない。
「宮廷に行っていた。宮廷は一度行くとそれなりの付き合いも生まれる」
 宮廷―― あれほど行くことの無かった場所になぜ今頃急に…。せがめばアルベールは宮廷にも連れて行ってくれた。でもそこで彼をそれほど引きつける、或いは行かなければならない事情は見つからなかった。でも何かある。彼をそれほど引きつけるもの…。出世への野望? そんなものではない。そういった野心は彼にはなかった。あればとっくにそんなもの手に入れていただろう。それでは何? 私が見つけられないもの。私が行った時は隠されているもの…? フロランスは背中に嫌な戦慄を感じた。
 そういえばアルベールの書斎に鍵がかかっている事がある。以前は一度もなかった。フロランスが扉を開けようと手をかけるとすぐに開けてくれるが鍵をかかけなければならい事があるのだろうか。それは何?
 何よりもフロランスを悩ませたのが何かを考えているような、何かに心を奪われているようなアルベールの様子だった。以前はフロランスや子供達に関心を持ってくれ仕事も楽しそうだった。友人も多くお客も頻繁だった。それなのに今は…。
 彼はいつもと同じように優しい。子供達にも優しい。でも何かが違う。気持が入っていない。いつも何かを考えている。何を? 遠くをみるような目をしてぼんやりしている時もある。仕事の話もしなくなった。以前はフロランスの分かりやすいように面白く話してくれたものだったが…。お客もめっきり来なくなった。
 何があったの? アルベール。フロランスは背中を這い登ってくる戦慄を振るい落とすように身震いした。アルベールの心を奪っている何かがある。それは何? フロランスは唇が震えるのがわかった。震えを止めるために手で口を抑え親指をきつく噛んだ。


 これほど宮廷に通いつめても分からない。アンドレは冗談を言ったのだ。アルベールはそう思う事にした。だがアンドレがこのようなことで冗談を言うだろうか。オスカルが恋をしているなど…。それにあの時のアンドレの目は本気だった…。
 毎日のように宮廷に通った成果は多くの貴婦人達と顔見知りになり親しくなっただけだった。せっかく得た成果だ、一つだけ試してみよう。アルベールは隣の貴婦人に話しかけた。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ大佐に恋人はいないのですか?」
 フランス宮廷に疎い新参者がありふれた興味を示したよう装ってみたが変に思われたりしなかっただろうか。話しかけられた婦人ははにかんだような笑みを顔一杯に広げ、意味ありげな瞳をまたたかせ、作り上げたかん高い声で言った。
「まあ、それはどちらのご婦人かしら」
 そうくるか。アルベールは少しほっとした。尋ねてもいないのに別の婦人が口を挟む。
「アルベール様、それはありませんわ。もしオスカル様に恋人でもあろうものならそれはもうヴェルサイユ中の噂になりますわ」
 ヴェルサイユでの出来事に知らない事はないといった顔でその婦人は頷いた。
「その通りですわ。アルベール様。もしオスカル様に恋人がいらしたら男の方でも女の方でもそれはもう大騒ぎになりますわ」
 最初の婦人が次の婦人に同意を求めるように頷き扇を広げ笑った。同意を求められた婦人は断定的な口調で言い切った。
「そうですわ、アルベール様。あの方がなんと言われているかご存知ですか? 氷の花と呼ばれているのですよ。オスカル様に恋をする人は沢山いるでしょうがあの方は恋などなさいませんわ」


 どれほど遅くなってもアルベールが一晩家を空ける事はなかった。フロランスは彼が帰ってくるまでどうしても寝付かれなかった。部屋に入ってくる彼の様子を背中越しに窺いながら今日彼は何処で何をしていたのだろうと思う。そんな気持が伝わるのか不意に肩をつかまれ、フロランスが眠っていないと知るとアルベールはフロランスのからだに腕を回してくることも度々だった。彼はフロランスを求め抱いてくれる。以前と変わらぬように、或いは以前より激しく。時に今までなかったほど乱暴に扱われ、そうされる事に淫らな陶酔を感じながらフロランスは彼が完全に変わったのを知った。
 アルベールと寝台を供にしながら夫のからだに触れる見知らぬ指を見る。彼の愛撫を受けながら彼をからだの中に感じながらフロランスは自分を通り越した先を見ているアルベールの表情に気づく。
 寝台の上に投げ出されたフロランスの金髪に顔を埋め目を閉じるアルベール。あなたは誰の事を考えているの? あなたがその腕で他の誰かを抱く事があるの? あなたのからだに誰の手が触れるの?
 フロランスの泣き声に気づきアルベールが目を開ける。
「どうした、フロランス」
 アルベールが抱しめてくれる。彼の腕の中で泣きじゃくりながら、彼の指で涙をぬぐわれても彼に額に、髪に口付けられてもフロランスは泣くのをやめられない。


 今日もアルベールは出かけていった。息子のジェルマンが馬に乗せてほしくてアルベールにねだっていた。彼は父と一緒に馬に乗るのをそれは喜ぶ。妹のコンスタンスといつもアルベールを取り合っている。そんな息子に彼は言った。
「ジェルマン、乗馬の練習はしているのか? いつまでも赤ん坊ではいけない。馬は一人で乗った方がずっと楽しい。さあ、イヴェールのところへ行ってきなさい。イヴェールと仲良くなったのか? イヴェールに忘れられたらもう乗せてもらえないぞ」
 アルベールは不満げな息子を置いて行ってしまった。ジェルマンは昨年の彼の誕生日に贈られたイヴェールを出してもらいに厩へ行った。彼はアルベールが帰って来る前に上達して見てもらうのだと張りきっていた。
 フロランスは暖かい日差しを浴びながら窓辺の椅子に腰を降ろした。

 アルベールに初めて会った時の事をフロランスは忘れられない。新しくデンマーク駐在大使になったセシェル伯爵の子息と令嬢の御披露目会だった。子息は各国を訪問し研鑚を積んで帰ってきたばかりで令嬢は祖国フランスから戻ってきたところだった。
 あの兄妹を見た時の人々の顔といったら…。さすがフランスの貴族は違う。気品と優雅さに溢れて洗練されている。波のようなどよめきが起こった。二人は美しさにおいても抜きん出ていた。皆がため息をつき見惚れた。あの兄妹は大国フランスを代表し、その国を見事に語っていた。アルベールとアンジェリーヌはデンマーク社交界の花形になった。
 皆の注目を集め賞賛を一身に浴びながらもアルベールは気さくで気取ったところが一つもなかった。どんな場所にいても物怖じすることなく落ち着いていて、慌てたり上がったりすることもないようだった。内気なフロランスには彼のおおらかな明るさが眩しくてならなかった。
 アルベールは皆の気が済むまで誰とでも何曲でもダンスを踊ってくれたし、どこの家の招待にも気軽に応じてくれた。皆が彼と親しくなりたがり競って話しかけた。でもそのうちに社交界でも美貌で鳴らすマリアンヌ嬢とベネディクト嬢がアルベールを競いだした。皆はどちらが彼を落とすか注目した。
 アルベールにもっと踊ってもらいたかった。フロランスはマリアンヌ嬢やベネディクト嬢と踊るアルベールを見て気落ちしていた。彼女らとアルベールが踊り始めると他の者は踊るのをやめてしまう。それほど彼のダンスは見事だった。優雅に女性をリードし美しくメヌエットを踊るのは貴族としての教養の一つだった。彼はそれを完璧に身に付けていた。
 一度だけフロランスはアルベールと踊った事がある。次々と令嬢達と踊るアルベールをそっと見ていた時だった。彼が人込みをかき分けるようにやって来てフロランスにダンスを申し込んだのだった。人々の一番後ろにいたフロランスを引っ張り出すようにしてアルベールは踊ってくれた。一曲だけ。一曲のメヌエットはあっというまに終わりフロランスは人々の後ろにまたもぐり込んでしまった。もう一度アルベールと踊りたい。柱の影にかくれ人々の肩越しに彼を見ながらフロランスは涙を落としそうになった。
 そんなフロランスに幸運が舞い込んだ。兄が彼を家に招待したのだ。フロランスには四人の兄がいてアルベールは三番目の兄と同い年だった。アルベールは女からの絶大な人気を誇っていたが男からも好かれ信頼されていた。事実、家に来ると彼は父や兄達と何時間でも話をし彼らはそれは楽しそうだった。フロランスも話に加わらないにしても同席する事ができた。彼らの話は難しくてさっぱり分からなかったがそこにいるだけでフロランスは嬉しかった。時々アルベールがフロランスを見て微笑みかける。それだけで充分だった。彼が家に来る日はフロランスは勿論、母や使用人達までうきうきし家全体が華やいでいた。

 アンジェリーヌの方も男達からの様々な申し込みが後を絶たなかった。二番目の兄からアンジェリーヌと年の近いフロランスに彼女と親しくなって何とか渡りをつけてくれと頼まれたが社交の苦手なフロランスには難儀な仕事だった。何度かアンジェリーヌはフランスに帰る事があって縁談かとデンマーク社交界の男達を落胆させたが彼女はいつもと変わらぬ笑顔で戻ってきた。
 アルベールとアンジェリーヌ兄妹は仲が良かった。時々二人で何か話し、笑い合っていたがそんな光景さえ美しく話しかけるのをためらわせるほどだった。

 思い出をたどりながらフロランスは瑞々しいときめきを胸に抱く。アルベールから初めて口づけを受けたあの時の事…。フロランスは目を閉じ思い返す。アルベールと結婚し、妻となり彼の子を宿すようになった今でもあの時の口づけほど鮮烈な思い出はない。
「フロランス、どうしたの?」
 あの時の彼の声、はっきりと覚えている。復活祭を祝う舞踏会だった。フロランスは会場の熱気とマリアンヌ派とベネディクト派に分かれ渦巻いてきた女達の確執に耐えられずバルコニーに出た。最近は舞踏会に出るのも気が重い。アルベールに会いたいが彼を見るのもなんだか辛い。フロランスは風にあたりながら物思いにふけっていた。突然のアルベールの声に驚いて振り返るフロランスに彼は言った。
「ここは寒くない?」
 アルベールはフロランスに近づき何もかけてない肩に手をやりそっと口づけた。あまりに突然の事に声も出ずただ見つめるフロランスに彼は言った。
「フロランス、僕の事好き?」
 フロランスの混乱した頭の中に様々な感情が流れてきたが結局フロランスは何も言えずアルベールに付き添われて部屋に中に戻ってきた。
 一体アルベールはどういう意味で口づけなどしたのだろう。あのような所作は彼にとって普通の事なのだろうか。彼はいつもあのような事をしているのだろうか。私はどう思われているのだろう。フロランスはアルベールの行動の意味が分からず考えあぐねた。アルベールの不躾な態度を怒るべきだった。何よりも男に簡単に唇を許す女だと思われたくない。でも彼の唇の感触を思い出せば押し寄せてくる歓喜や陶酔。その為にはプライドなど失っても良いとさえ思った。
 次の日アルベールに昨夜の事を謝られ愛を告げられた。昨日に続き突然の事にフロランスは何が起こったのか分からなかった。彼が私を愛している? 考えてもみなかった。信じられない。彼にからかわれているのだろうか。何も言えないフロランスにアルベールは言った。
「今すぐでなくてもいい。考えて欲しいのだ。考えて気持がはっきりしたら教えて欲しい」
 わからない。マリアンヌ嬢やベネディクト嬢でなく私を? フロランスは信じられない思いでアルベールを見つめた。

 アルベールは兄達と狩りに出かけた。相変わらず彼は家に来る。そしてフロランスに挨拶だけして兄達の所へ行ってしまう。フロランスは兄とアルベールの馬が駆けて行った方をずっと見ていた。そして長い時間をかけ彼らが帰ってくるまでそこにいた。
 兄達が帰って来ると賑やかになる。今日はアルベールも一緒に晩餐の席につくはずだ。帰ってきたアルベールはフロランスに気づくと微笑んだ。いつもこうやって彼は微笑んでくれる。フロランスは兄達に続いて家の中に入ろうとするアルベールに言った。
「ア、アルベール様」
 彼が立ち止まり振り返った。フロランスは何と言うべきか先ほどまで考えていた言葉を失ってしまった。でも言わなくては… 言わなくてはいけない…。
「わ、私もお慕いしています。アルベール様を誰よりも大切に思っています」
 フロランスは下を向き腰をかがめて言った。これがフロランスの精一杯だった。彼と向き合って彼の目を見つめて言いたかったがそのような事とても出来ない。
 アルベールの手を肩に感じて顔を上げると彼が頷くのが見えた。ただそれだけだった。その日はもう彼と言葉を交わす事はなかった。
 緊張と興奮で夢見心地だったがアルベールに愛されている実感はなかった。なぜ彼は何も言わなかったのだろう。一抹の不安を抱えながらフロランスは眠りについた。

 次の日からフロランスはアルベールの恋人としての道を歩む事となった。まず彼は舞踏会でのダンスは一番最初にフロランスと踊るようになった。そして最後のダンスも必ずフロランスとだった。人々の間に分け入ってきたアルベールにダンスを申し込まれ最初のメヌエットを踊った時、フロランスは嬉しさよりも緊張でからだが動かなかった。
 彼に誘われ観劇や音楽会に行った。どこに行っても彼は優しくフロランスを大切な貴婦人として扱ってくれた。フロランスの前にだされるアルベールの手。そっと添わせた手を軽く握られる時、彼の腕につかまって歩く時、兄達にいつも子供扱いされていたフロランスにとってそれは雲の上を歩いているようだった。
 彼の友人の家にも招かれた。アルベールの恋人として紹介されたフロランスは彼の友人達から多くの敬意を示され大切な客人として扱われた。

 彼はより頻繁に家に来るようになった。相変わらず彼の相手は兄達だったがフロランスはアルベールと遠乗りに出かけたくて乗馬を練習した。フロランスは馬が恐かった。だがどうしても彼と遠乗りに行きたかった。兄達に散々からかわれたが構わなかった。ようやくマスターした乗馬だったが兄達や彼と出かけられるほどにはならなかった。そんなフロランスにアルベールは付き合ってくれた。フロランスのペースに合わせながら彼は馬を走らせる。草木が萌え盛る美しい季節だった。多くの沼地や湖をめぐり彼を追いかけながら或いは並んで走らせる乗馬はとても楽しかった。いつしかアルベールの相手はフロランスになっていった。そんなフロランスを兄達は優しく見守ってくれた。
 彼に抱しめられ口づけもされた。薄明るい光の注ぐ二人だけの森の中、あるいはカーテンで隠された馬車の中、それは最初の時のようなそっと触れる口づけではなく熱く、くり返されフロランスの慎みを奪っていった。

 夢のように日々は過ぎていった。だが楽しい事ばかりではなかった。フロランスはマリアンヌ嬢やベネディクト嬢に知らん顔されるようになった。挨拶しても何も言わない。彼女達ばかりでなく他の女達もフロランスに冷淡になった。彼女達はフロランスに聞こえるようにフロランスのドレスや髪飾りや持ち物をあげつらったりあざ笑ったりした。
 庭に出ていたフロランスが部屋に入ろうとすると鍵が閉まっている。ガラスの向こうでは気づかない振りをした女達が笑い合っている。ドレスに飲み物をかけられた事もあった。
 女達に無視され社交界から浮き上がっているなどアルベールには勿論両親や兄達にも言えなかった。彼女達は巧妙で男達の前ではこのような事はしない。数人の友人がフロランスを守るように付いていてくれたがフロランスが何よりも嫌だったのはマリアンヌ嬢達がフロランスの友人まで無視しようとした事だった。フロランスは自ら友人達と距離を取るようにした。
 自分のせいでアルベールまで悪く言われた。趣味の悪い最低の男。それも悔しかった。
 塞ぎ込むフロランスをアルベールは心配してくれた。だが彼に言う事は出来なかった。彼を諦めれば良いのだろうか。だがそれも出来なかった。
 フロランスの持ち物が壊されるようになった。扇が破かれ、化粧ポーチが投げ捨てられ、ドレスの後が切り裂かれた。もうフロランスは恐くて社交界に出られなかった。
 とうとう馬車に死んだ鳥が投げ込まれていた。それを見つけたのはアルベールだった。鳥を見て叫び声も上げないフロランスをアルベールはじっと見つめていた。
 それから程なくしてアルベールはフロランスの父と母にフロランスとの結婚を申し込んだ。一人娘を遠いフランスに嫁がせるのは両親にとって辛い話だったが彼らはアルベールならと結婚を許してくれた。
 結婚式の準備期間もなく慌しく式は執り行なわれた。体裁の悪い話だと双方の両親が難色を示したがアルベールが大学に行くのでどうしてもと無理を押し通した。アルベールの妻になったフロランスは涙が止まらなかった。彼を心から愛していた。その日はフランスに嫁いでいたアンジェリーヌも来てくれた。アルベールとフロランスはすぐフランスに発った。アルベールとアンジェリーヌ、デンマーク社交界は二人の花形を一度に失った。


 イヴェールに乗って庭を駆け回るジェルマンの声がフロランスを思い出の中から引き戻した。無邪気な彼の顔を眺めながらフロランスの心に灰色の雲が広がっていく。
 間違いはない。アルベールの心を奪っている誰かがいる。彼の関心を集めているのは物や宮廷での地位などではない。確信がある。女だ。これほど短期間に彼の心をさらってしまった女がいる。フロランスは今まであえて見ようとしなかったその存在をはっきり認識した。頭から血の気が引いていく。
 彼の心をこれほどまでに奪ってしまう女は一体どんな人? フロランスは居ても立ってもいられず椅子から立ち上がった。たちまち目まいがし椅子の背に捕まりそのまま床にしゃがみ込んだ。フロランスは床を見つめた。これは一時的なものではきっとない。今までの彼の行動からして軽い遊びの色恋沙汰など興味はないはずだ。だとしたら彼は本気だろう。フロランスは胃の中のものが逆流するのを感じた。

 気分が悪い。フロランスは午後中ソファの上で横になっていた。食事も喉を通らない。子供達だけで食事をさせるよう乳母に言いつけてフロランスは部屋で横になった。
「フロランス、私だ」
 アルベールの声にフロランスは起き上がった。今日も彼は遅い。
「具合が悪いのか?」
 見つめるアルベールをフロランスはじっと見た。彼は私の知っているアルベールなのだろうか。
「どこが悪いのだ?」 
 彼はフロランスを助け起こすように背中に手をまわした。
「どこも悪くありませんわ」
「食事を取らなかったそうじゃないか」
「アルベール」
 暗がりの中でフロランスは彼を見つめた。
「私、赤ちゃんができたのよ」
 アルベールが息を詰めるのがわかった。戸惑っている。彼は思ってもみなかった事柄を突きつけられて困惑しているようだ。
「どうしたの? アルベール。ジェルマンやコンスタンスの時のように喜んでくれないの?」
 フロランスはアルベールの腕に手をかけた。最初の妊娠を告げた時、彼はそれは喜んだ。力一杯抱しめてくれ気恥ずかしいほどだった。次にコンスタンスができたと告げた時もキスの雨を降らせてくれた。フロランスは彼の子を身篭り彼の子を産む事に無上の喜びと誇りを感じていた。
「…嬉しいよ、フロランス。からだを大切にしてくれ」
 アルベールはフロランスを抱き寄せた。ジェルマンやコンスタンスの時とは違っていた。彼にいけない事でもしたかのようにフロランスは感じた。三人目だから? 男の子もいるし子供はもういらないの? それとも… 抱かれて彼の胸に顔をつけながらフロランスはそこに嗅いだことの無い匂いがないか確かめずにはいらいれなかった。



再会W に続く




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