2003 2/8

再会 U




 ヴェルサイユ宮殿。偉大なる王ルイ14世が長い年月と莫大な費用をかけて作った世界に類を見ない豪華な宮殿。その威光と壮麗な姿は世界の憧れとなり各地にそれを模した城が建てられた。だがその宮殿は巨大である故にか、贅を尽くした故にかどことなくいびつな感が拭えない。きっと私はこのような煌びやかな世界は似合わないのだろう。ヴェルサイユ宮殿そのものよりはヴォー・ル・ヴィコント城やヴェルサイユ宮を模して作られたという城館の方が美しく感じるのだから。
 ヴェルサイユ宮殿は都市の中に建っていない。人や交通の交差する中心地ではなく森と田園の中に忽然と現れる。そこには人々の息吹や熱気、血の通った暖かさが感じられない。巨大な大理石の塊を隙間なく飾る装飾や、はりめぐらされた運河や水路は人工美の粋を集めた物なのであるが、それらは現実感の薄い作り物の様相を呈しながら威圧してくる。
 ヴェルサイユ宮殿は政治や文化の中心として国民の暮らしに根づいた宮殿ではなく太陽王がその権力と王の偉大さを強調するかのように建てられた城なのだ。庭園のそこかしこにある噴水から溢れている水はどこからくるのか。王が指を上げて命令すれば荒地に花が咲くように森の中に別世界が出現するのだ。それは太陽王のカリスマ性を象徴し国全体だけでなく外国にまでその力を誇示してきた。
 その王も死に彼の残した巨大な宮殿は美しい入れ物になり宮廷文化の爛熟さの一手を担っている。首都パリの様子に無関心なここは別世界だ。



 アルベールは内庭に立ちその容姿を振り仰いだ。初めて訪れるヴェルサイユ宮殿。本来ならとうの昔に宮廷に赴き官位の一つでも持っていなければならないはず。父が営々として築き上げた地位を顧みなかった事について良心の呵責がなかった訳ではない。
 アルベールは国王夫妻の前に歩み出る事が出来た。一度も謁見を許された事もない身に不相応な栄誉だ。それも皆オスカルのお陰だ。オスカルは王后陛下が王太子妃の時から御仕えしている。とても緊密な関係にあったようだ。
「セシェル伯爵にはよくやってもらっている。彼は変わりないか」
 国王陛下がらのもったいないお言葉。
「オスカルにこんな素敵なお友達がいたなど知りませんでした」
 優しげで印象的な声。アルベールは顔を上げた。初めて見るフランス王妃、そして国王陛下。円熟という言葉がふさわしいだろう。誰をもその前にひざまずかせる威厳に満ちている。圧倒的な高貴さを誇りながら慈愛に満ちている。パリや世界各地で聞く様々な噂、それにより一人歩きする像。真実の姿はただ一つなのに。
「セシェル伯、今宵は夜会があります。ぜひそちらにもお出になってね。オスカルあなたからも薦めてください」
 アントワネット王后陛下が呼びかける。お子達に恵まれ王妃としての貫禄充分でありながら初々しさも併せ持つフランス女王。
 ――オスカル
 この名を人はそれぞれの深い想いを込めて呼ぶのだろう。今、目の前に居るフランス王妃がそうだ。限りない郷愁を込めたような声で呼びかけ、誓われた忠誠をその手に握りしめた余裕と満足で微笑む。
「オスカル、オスカル」
 王妃が呼ぶ。オスカルは一歩進み出て王妃の言葉を聞く。近衛連隊長としての仕事があるオスカルをきっとこの王妃は大尉の時と同じようにお側近くにおいているのだろう。王妃の表情を見ていると臣下としてオスカルを見ていない。友人のように或いは姉妹のように呼びかける。


 ベルサイユ宮殿、鏡の回廊。日没前の太陽が今日最後の光を届ける。アルベールは高い窓の向こうを見た。広大で計算され尽くした庭園が遥か彼方まで見通せその先に夕日が沈む。まだ沈みきろうとしない太陽から放たれた光は真っ直ぐに張り巡らせた鏡に到達し跳ね返る。ダイヤモンドの粉をまき散らしたような光がそこかしこに渦を作る。その粉はオスカルの髪にもまとわりつく。光の中でオスカルの髪はいっそう輝く。夢のような光景だ。アルベールは小さく笑った。この光景をオスカル自身は見る事が出来ないのだ。なんとも気の毒だ。回廊を行き交う人々が振り返る。いつかアンジェリーヌが言っていた恐いくらいの視線というのがこれか。人は誰も見ずにはいられない。
「アルベール、気をつけろ。ここの貴婦人達は大抵暇だしいつも恋をしている。しかも美しいものが大好きだ。相手が結婚してようがそんな事はおかまいなしだ。いや、その方が都合がいいくらいだ」
 ベルサイユ宮殿がいびつだと言ったが前言を撤回しようと思う。この設計は見事だ。自然を最大限に生かし芸術品を作りだした。そしてこの芸術品はそこに立つ女神をいっそう美しくしてくれる。 
「アルベール、聞いているか?」
 光を浴び鏡を背に立つオスカルは絵のようだ。
「ああ、聞いているよ」
 光の中に立つ女神像。アルベールは眩しくて目を伏せた。


 今度は妻を連れてこようとアルベールは思った。妻のフロランスはデンマークでは国王と懇意の家柄に育った娘だ。フランスに来て何年にもなるのに一度も宮廷に連れてこなかった。故国にいた時のような華やかな世界を体験させていない。妻は内気な性格だが女だしこんな美しい夜会にはきっと出たいだろう。
 アルベールは天井を見上げた。まばゆいシャンデリアの光、貴婦人達のドレスや髪飾り、楽団、どこの宮廷よりも群を抜いて豪華だ。今度は必ず連れてこよう。きっと喜ぶだろう。
「アルベール、お前も無粋なやつだな。何曲か申し込むのが礼儀というものだぞ」
 オスカルの声にアルベールは振り返った。オスカルは顔を真っ直ぐ正面に向けていた。見つめる先には何もない。アルベールは首をゆっくり回しあたりを眺めた。扇の陰から窺うような貴婦人達の目線。男達の値踏みをするような目線。そんな中に自分の真横から見つめる視線にアルベールは気がついた。目が合うと瞳の主は素知らぬふりで目を反らした。目を反らせながらこちらに向けた頬が赤らんでくる。そして我慢できない様子でもう一度ちらりとこちら見た。アルベールはオスカルを見た。こちらも素知らぬ様子で前を見たままだった。アルベールは深い緑と淡い緑の濃淡も美しいローブ・ヴォラントの婦人に歩み寄ると手を差し出した。
「マダム、一曲お相手願えますか」


「オスカル、お前は踊らないのか」
 アルベールはオスカルに問うた。
「私は軍人だ。ダンスはしない。こうしているのも仕事のうちだ」
 オスカルは笑みを浮かべながら言った。その顔に寂しさなどなかった。オスカルが他の女達のように踊りたいと思っていないかと懸念したがそれは杞憂のようだ。
 周囲が一瞬ざわづいたかと思うと王妃のおでましを告げる声が高々と響き渡った。アルベールの横で素早くオスカルが動いた。オスカルはさっと王妃の姿が見える場所に移動し近すぎず遠すぎない距離をとる。王妃の邪魔にならない、しかし何かあれば間に合う距離だ。しかも人々の死角に入る位置でオスカルは王妃を見守る。オスカルの目はもう王妃以外何も入っていない。アルベールはオスカルの視線の集中とそうと感じさせず払う注意の緻密さに驚いた。
 王妃は出席者の一人一人に声をかけながら一歩づつ歩を進める。王妃の視線が一箇所に固定された。アルベールは視線の先を見つめた。そこに居るのは一人の男。アルベールはそれが誰だかわかった。初めて見る顔なのにあまねく知れ渡った情報がそれが誰だか語っている。いや、語っているのは王妃の視線だ。声をかけようかどうか迷うかのように視線は長くそこにとどまり名残惜しそうに他へ移る。
 男の方も王妃の後姿を見つめる。周りのしたり顔の笑いや目配せが二人の間が公然のものだと語っている。オスカルは王妃と男を見つめている。このように危ういほど正直で無防備な王妃を守るオスカルの気苦労は相当なものだ。王妃はたまらないというようにもう一度男を振り返る。男の視線がすかさずそれをとらえる。からみつく視線。オスカルもそちらをじっと見る。オスカルが見ているのは王妃か男か…。王妃は物陰から見つめるオスカルの視線に気づくはずもない。


「おかえりなさい、あなた。遅かったのですね」
 妻のフロランスはアルベールの帰りをいつも自ら出迎えてくれる。
「宮廷に行っていた。今度はお前も連れて行く」
 アルベールはフロランスにキスをして言った。
「宮廷に?」
 フロランスは戸惑ったようにアルベールの顔を見つめた。無理もない。今まで宮廷になど一度も行ったことがなかったのだから。この件では父と随分衝突した。セシェル家の嫡男が宮廷での顔繋ぎが出来ていないと父は気を揉んだ。お前だけは早くフランスへ帰って宮廷に伺候しなければならない。渡りをつけてもらえるように手配しておく。そんな父の配慮や思惑をことごとく無視してきた。父は各国を歴訪する旅を許してくれたし学問を修める為には何でもやらせてくれた。そんな父の志に報いていない負い目は常にある。宮廷を何故そんなに気嫌いするのかと父は言う。毛嫌いなどしていない。オスカルの事が原因でもない。きっと長く外国にいたのでフランスを外から眺める癖がついてしまったのだ。何となく自由でいたい。甘えだともわかっている。自分にもっと自信がつくまで、何か確固たるものを見つけられるまでは自分の人生を決めてしまいたくなかった。毎日のように繰り返される父とのいさかいに嫌気がさしフロランスと結婚したアルベールはフランスに来た。
 祖国に帰れば父は安心したらしい。それとも諦めたか。でもいつかきっと父の慈愛に報いたいと思っている。
「どうなさったの? 宮廷になど… 驚くではありませんか」
 フロランスは微かに笑った。
「可笑しいか? 私もそろそろ父の言う事を聞こうと思ったのだ」
「貴方が決めたのなら私は何も言いませんわ」
 フロランスは遠い異国に嫁ぐことをためらいもせず、アルベールのやる事に一切口を挟む事もなくついてきた。パリは便利な街だが際限のない贅沢をさせるわけにはいかないし風変わりな夫を持っている事についてフロランスは気恥ずかしい思いをしたかもしれない。
「美しい夜会だった。きっと気に入る」
 アルベールはフロランスを抱き寄せもういちど口づけた。


「私、こんな格好でおかしくないかしら」
 フロランスは先ほどから同じ事を何回も聞く。
「充分綺麗だ」
 アルベールも同じ事を繰り返す。
「ヴェルサイユ宮廷での舞踏会など私どうしたらいいかわかりませんわ」
 戸惑ったような言い方をしながらフロランスは嬉しくて仕方がないようだ。鏡に向かい最後の仕上げに余念がない。フロランスはイヤリングを直し、紅を引き直し、首飾りを付け替える気だ。
「フロランス、早くしないと夜会が終ってしまう」

 馬車から降りるフロランスに手を貸しながらアルベールは宮殿を見た。昼も美しいが夜はもっと美しい。おびただしい窓からこぼれた光が別世界への扉にいざなう。馬車から降りたフロランスは小さな叫び声を上げた。
 広間ではもうダンスが始っていた。
「素敵だわ。さすがフランス宮廷の舞踏会は違うわ。なんて美しいのでしょう」
 フロランスはうっとりとあたりを見回した。
「踊ろうか」
 フロランスの手を取ろうとするアルベールを彼女自身が止めた。
「待って。私胸がドキドキして… もう少しこのままで…」
 フロランスは顔を上気させ瞳を潤ませていた。
 アルベールはゆっくり歩きながらフロランスに宮殿を見せた。
「素敵だわ」
 フロランスはため息をつきながら見事な室内装飾と行き交う人々を見やった。
「アルベール」
 小さく呼びかけているがよく通る声。オスカルだ。アルベールは振り返った。丁度よかった、妻を紹介しよう。
「オスカル、妻のフロランスだ」
 アルベールはフロランスの背中をそっと押した。
 オスカルはフロランスの手を取りそっと口づけた。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです。セシェル伯には幼き頃よりひとかたならぬお世話になっています。お会い出来て光栄です」
「フロランス・ロジーヌ・ド・セシェルです」
 妻の声は震えていた。
「それではセシェル伯、セシェル伯夫人、夜会を楽しまれますよう」
 オスカルは手を胸に当て深々と頭を垂れると微笑みを残して立ち去った。
「フロランス?」
 アルベールは妻を見た。妻は何かに引き寄せられたようにオスカルが行った方を見つめていた。何の心の準備もないままオスカルに会わせたのはいけなかったか。アルベールは考えた。


 フロランスがジャルジェ家に行きたいと言う。
「今度あなたが行く時は私も連れて行ってください」
「それはかまわないがどうしたのだ? まさかオスカルに興味が出た訳ではあるまい」
「まあ、なんと言う事をおっしゃるの。あなたのお友達ではありませんか」
 言いながらフロランスの頬が赤い。


 オスカルはフロランスも歓待してくれた。
「アルベールの奥方がこんなに美しい人だとは思いませんでした」
 フロランスを真っ直ぐ見つめオスカルが微笑む。妻は手に持ったフォークを震わせながらぎこちなく微笑み返す。オスカル、頼むからあまり妻を刺激しないでくれ。フロランスが戸惑ったような困ったような瞳をこちらに向ける。
「アルベール、どこで見つけたのだ? こんな可憐なご夫人を」
 オスカルは容赦しない。じっとフロランスを見つめる。フロランスの顔が火をふいたように真っ赤なのに…。
「お父上のセシェル伯はこの結婚を大層喜んだと思うがいかがかな?」
 将軍が問うてくれる。世話になったのは父の方なのに‥。
「はい、私のような不肖の息子には妻を娶れただけで奇跡のようだと喜んでくれました」
 将軍は笑いながら頷いた。
 アンドレが皿を下げ新しいナイフとフォークを置く。給仕をする彼の一つ一つの動作が何かを語る。オスカルの視線がアンドレに移る。アンドレの手を置く位置、気づかい出される品。洗練され、流れるようになめらかな無言の動作の中に以心伝心の言葉が見える。アンドレは無言で語りかける。アンドレの手が触れた。斜め上を見上げると彼と目が合った。
 こんな風に子供達だけに分かる秘密の暗号を持っていた。もうすっかり忘れてしまったが大人達には分からないしのび笑いや目配せ。大人達を出し抜いているようで心が躍った。不思議な事だ、今でも彼らと目だけで会話が出来る。アンドレの瞳にオスカルが応える。そしてそのままそれをこちらに投げ返してくる。思わず応えそうになり無作法にならないかと思いとどまる。アルベールはすまし顔で将軍と夫人を見遣ったが妻も将軍も夫人も気づかないようだ。アルベールの心が手に取るようにわかるのだろう、オスカルが瞳で返事を催促する。


 アルベールはすっかりジャルジェ家に出入り自由となった。最初アンドレにアルベール様と呼ばれた時はぎょっとしたがそれは人前での事。オスカルは勤めがあるしアンドレも忙しかったが時間が取れないことはない。
「後はアンドレがやるからここはいい」
 晩餐の後などオスカルは世話を焼く使用人達を追い立てる。早く三人になりたかった。そうして夜が更けるまで語り合う。
 相変わらずオスカルは博学だ。洞察力も鋭い。政治、文学、音楽、話す事はいくらでもあった。オスカルがアンドレに意見を求める。答えるアンドレにオスカルが切り返す。アンドレが同意を求めながら別の見解を示す。白熱する議論。時の経つのを忘れる。思い出話も尽きる事がない。滞在していた国の事も聞かれる。オスカルもアンドレも興味深そうに聞いてくれる。オスカルの質問に今まで気がつかなかった視点を教えられる。そこから引きずり出される自分の中にあったとは知らなかった着想。彼らと話していると自分の内面が深まっていくのが分かる。


 アルベールはすっかりジャルジェ家に溶け込み使用人達とも親しくなっていった。アルベールは使用人達が仕事をしている所にまで入り込み仕事をするアンドレの側で話し込んだ。
「アルベール、こんなところまで来ることはないだろう」
 そう言うアンドレを尻目にアルベールは腰を降ろす。
「昨夜は話し足りなかった」
「お前も変わったやつだな」
 あきれたように言いながらもアンドレは嫌がる様子はない。
「昔からこうしてお前の仕事の邪魔をした」
「そうだったな。そしてお前の服を汚したと俺はおばあちゃんに大目玉をもらったものだ」
「悪かったな」
 アンドレが笑う。アンドレ、お前はいつもそうやって人を包み込む心の広さを持っていた。そんなお前に私は負けたのだ。
 アルベールは思い出す。まだ世界が平坦で単純だった頃、小さな王国の暴君は初めて思い通りにいかない事柄に遭遇した。
 オスカルといたくて、オスカルの側にいたくてオスカルを呼ぶ。
「オスカル、オスカル」
 そして自分の見つけた珍しいものをオスカルに見せる。それは蝉や蛇の抜け殻だったり何かを隠すのにぴったりの木の洞(うろ)だったりする。珍しい木の実でも変わったきのこでもなんでも良かった。差し出すそれらの物をオスカルは興味深そうに眺める。手に取り一心に見つめるオスカルの顔を、気づくと見ていた。真剣な眼差し、真っ白な肌に薔薇色の頬、小さく開けた唇、柔らかそうな巻き毛に触れそうなほど近くに寄りその顔を見つめる。この時のオスカルは私のものだった。それなのにどこかでアンドレが「オスカル」と一言呼びかけるとオスカルは風のように走り去ってしまう。
 遊びや冒険の提案をオスカルはすぐに受け入れた。足手まといの妹や気の毒にもそのお守りにされてしまったアンドレを置いて二人で先に行ってしまう事もあった。オスカルが私だけのものだったことはいつも一瞬だけ。アンドレの声は特別なのか。アンドレの呼ぶ声に、あんなに楽しそうに一緒にいたはずのオスカルはもういない。
 そうだ、私は異国の王子に負けたのだ。でもその負けを寂しく思ってもどこかで納得していた。それほどオスカルとアンドレは二つで一つだった。
「あの頃私はお前が羨ましかった」
「俺が? 分からないな。何故?」
 アンドレは笑いながら言う。
「オスカルはお前の言うことばかり聞いていた」
「オスカルは誰のいう事も聞かないさ」
 アンドレは相変わらず笑っている。アルベールはその手元を見つめた。そうじゃない。お前は何故妻をもらわない? 家督を継ぐオスカルだって結婚できない訳はない。それは何故なのだ? 答えは一つではないか。結婚できないのならお互い一人でいるしかない。違うのか?
 アンジェリーヌが言っていた。お前達はあの頃のままだと。その時の光景はありありと目に浮かんだ。あれから十年経つ。そしてお前達はそのまま変わっていない。その奇跡を嬉しく思う。今私は異国の王の前に喜んで兜を脱ぎたい。
「お前たち一緒にならないのか?」
 アルベールの言葉にアンドレが振り返った。二人を隔てているのが身分だとしたらそれはなんとかならないか、二人さえその気なら…。
「何を言い出すのかと思えば、アルベール」
 アンドレはまだ笑っていた。
「真面目に言っているのだ」
 アルベールの真剣な眼差しをアンドレも真っ直ぐ受け止めた。
「オスカルは恋をしている」
 アンドレの言葉は意外すぎてアルベールには意味が飲み込めなかった。次の句に詰まったようなアルベールにアンドレは繋げた。
「オスカルも辛いのさ」
「こ、恋って‥ 誰に!」
 うろたえたような声を上げるアルベールの肩をアンドレがつかんだ。力が入っていた。
「ちょっと口がすべった。オスカルに聞かれでもしたら大変だ。アルベール、この事は内緒だぞ」



 ――オスカルが恋をしている…
 アンドレの一言はアルベールの頭と心を席巻した。思ってもみなかった。恋。一体誰に…? しかも辛い恋をしている…? アンドレでは無く他の誰かに…?
 アルベールは書斎に鍵をかけ机に座った。
 オスカルが恋をしている――その思いはアルベールの心に苦い影を落とした。まるでオスカルの裏切りを見せられたようだった。充分身勝手な思い込みだとは分かっている。分かっていながら怒りさえ湧いてくる自分にアルベールは戸惑った。
 オスカルが恋… それはむしろ当然のことかもしれなかった。オスカルほどの人間に恋人の一人もいない方がおかしい。これは平凡すぎるくらいの話なのだ。それでいながらオスカルの不貞を見せつけられたようなこの不快感は何だ。自分には全く関係のない話でありながら部外者であることに理不尽ささえ感じる。我慢できない。
 アルベールは自分の中の制御できない感覚に翻弄された。あたりまえの話を認めオスカルの恋が成就するのを祈る事はできないのか。自分には妻もいて家庭もある。分別のつく男が二十歳前の青年のような青臭い悩みにうろたえるなどお笑いだ。第一オスカルの相手がアンドレだと思い込むのもどうかしている。二人共独立した大人だ。愛し合っても良いしそれぞれに恋人がいておかしくない。それなのに勝手に偶像をつくりあげその中に安住しようとした。オスカルの相手がアンドレなら許せる。祝福できる。ここまで思い至りアルベールは自分の心の中のもっと深い部分をのぞいた。
 アンドレなら許せる――そう思う事は長い間自分で自分の心を納得させる為に繰り返された作業だった。本当は誰にも渡したくない、オスカル。ふと捕まえたオスカルの手首の細さ。苺の汁の垂れた首筋。二人で同じ場所に隠れた時、耳にかかったオスカルの息。

 アルベールは椅子に背を預け目を閉じた。このような回顧を何度しただろう。
 父の赴任と共にフランスを離れなければならないと知った時の驚き。ここを離れて遠くへ行くなど考えられなかった。行きたくない。毎晩駄々をこね両親を困らせた。たとえ親と離れてもここにいたかった。何故自分は子供なのだ。親に付き従わなければならない身を呪いたいほどだった。頑固で強硬な反対に業を煮やした父が「それならアンドレのようにジャルジェ家に世話になるか!」と言った時、許しが出たとばかりに家を出て行こうとしたら両親がひどく慌てた。
 幼い抵抗は徒労に終った。子供らしい順応さで異国の地での新しい環境にもすぐ慣れた。友達もでき、祖国のことなど忘れる時もあった。でも時々オスカルならこんな事はしない、オスカルなら何と言うだろう、オスカルならどうするだろうと考えている。あの時ほど楽しい日々はもうなかった。オスカルほどの人間に会う事もなかった。
 普段は忘れているフランスでの遠い日々。それがふとしたはずみに大きく心の中を占めてくる。あれが私の原体験、育て上げた心象風景。

 アルベールは机に肘をつき組んだ両手に額をのせた。心の中の小さな宇宙をいつも持っていた。ポケットの中の宝物のように…。捨ててしまえば良かった。捨ててしまえばこんな想いをすることもなかった…。
 アルベールは二十歳を過ぎた頃世界を巡る旅に出た。イギリスの議会制度を見学しネーデルランドの貿易の発達を目の当たりにし、共和国の空気を吸った。商業の発達が経済を発展させ富を蓄積してゆく様子を知った。ウィーンは勿論ドレスデン、ポツダム、プラハもまわった。そこで美しい宮殿や数々の至宝を見た。だがなんと言ってもイタリアが一番素晴らしかった。ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ、ローマ。イタリアで浴びるように見続けた芸術の中に見たオスカル。巨匠達の或いは無名の画家の描く女神や天使や聖母の中にオスカルを探し、見つけ、飽きる事無く見続け、そして欲情した。まるで乾きを癒すかのように恋をし、イタリアの熱い太陽に焼かれるような情欲の中に身を投じた。その中に漂い恍惚感に痺れながらも心の中に微かなズレをいつも感じていた。
 そんな自分がオスカルに嫉妬している。いや、オスカルが想いを寄せる見知らぬ男に嫉妬しているのだ。誰なんだ一体。
 部屋の扉を動かす音が聞こえた。アルベールは立って扉を開けた。寝間着に着替えガウンを羽織ったフロランスが立っていた。
「お部屋に鍵が」
「ああ、ちょっと調べ物をしていた」
「ここのところずっと遅いのですね」
「遅い時は先にやすんでいなさい」
「お食事も一緒にとれませんわ」
 フロランスは寂しそうな素振りでうつむいた。
「悪いね。でも、もう遅いからやすみなさい」
 フロランスは首を垂れ背中を見せた。髪を解き綺麗に梳き上げ背中にたらしたフロランスの髪。フロランスは夜侍女に髪を梳かせるだけでなく自分で何度も髪を梳く。アルベールの見ている前で何度も何度も。ブラシが通る度その髪は輝いていく。フロランスは綺麗な金髪をそれは大切にしている。
 ためらいがちに部屋を出て行こうとするフロランスをアルベールは後ろから抱しめた。梳き上げられた金髪に顔を埋め両腕をフロランスの前で合わせ手をガウンの内側、寝間着のレースの中に差し入れる。
「あなた」
 振り返ろうとするフロランスの首に唇を這わせレースの中の手を動かした。
「フロランス」
 ラベンダーの香りがアルベールを包む。
「アルベール」
 フロランスは自分の手を寝間着の上からアルベールの手に重ねた。素肌に感じるアルベールの手は冷たかった。
 首から耳に唇を移しアルベールはささやいた。
「先に行っていなさい。後から行く」



再会V に続く




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