2003 9/23
イラスト 市川笙子さま

ロワールの風に




「ヴィクトール! 聞いたか!」
 扉を開ける音も騒々しく、靴音が部屋になだれ込んできた。
「近衛連隊長に、あの女が‥!」
 いきなり部屋に入ってきた無作法な客は、机の前に拳を叩きつけると息を荒げた。
 ここはロワール川沿いにあるジェローデル家の別荘。フランス王室近衛連隊に所属するジェローデル家の次男ヴィクトール・クレマン・ド・ジェローデルは休暇をここで過ごしていた。
「知っているさ」
 机の前の椅子に座り、客の興奮をなだめるようヴィクトールは静かに答えた。
「ヴィクトールさま、アレクサンドルさまとマテューさまがお見えです」
 後から年老いた執事が追いついてきて言った。
「わかっている」
 ヴェクトールの物静かな言葉に執事は安堵したような息を吐き、体格のいい二人の若者に困惑した視線を送った。
「今、お飲物をお持ちします」
 執事が扉を閉めると大柄なアレクサンドルは先ほどの剣幕でまくしたてた。
「王太子妃付き大尉ならまだいい。女にしか出来ない特別な任務だと思えば、大尉も体裁を繕うための必要な肩書きだと思える。だが、何だ! 今度は近衛連隊長ときたもんだ。どうなっているのだ、我が隊は!」
 彼は薄い栗色の髪から湯気でも出しそうな勢いで怒った。
「王后陛下の命令では仕方あるまい」
 ヴィクトールの冷静な声はより彼を刺激したようだ。
「ヴィクトール! お前は悔しくないのか?!」
 アレクサンドルは椅子に歩み寄り、涼しげな表情のヴィクトールを見下ろした。
「命令だ」
 ヴィクトールは静かに彼を見上げた。
「オーストリアからきた年端もいかない王妃がっ!」
 アレクサンドルは拳でもう一度机を叩いた。
「アレクサンドル、ここならよいが、少しわきまえないと近衛連隊長の昇進と同時にお前の首が飛ぶぞ」
 ヴィクトールの嘲笑気味の言葉を意に介さず、アレクサンドルは言った。
「私は嫌だ。女の連隊長などごめんこうむる」
「ヴィクトール、お前はどう思うのだ」
 それまで黙ったいたマテューが口を挟んだ。二人共ヴィクトールの士官学校時代の友人でいずれも近衛隊に所属していた。
「良いではないか。お手並み拝見といこう」
「軍隊は遊びではないのだぞ!」
 ヴィクトールの言葉はアレクサンドルをますます苛立たせる。
「近衛連隊長が務まらないとなれば、いくら王后陛下の命令でも国王陛下がお許しにはならない」
 ヴィクトールは立ち上がるとアレクサンドルの肩に手をかけ、彼の顔を覗き込んだ。
「そうだろう?」
 アレクサンドルは先とは違う幾分安堵の混じった瞳でヴィクトールを見た。その瞳はヴィクトールの次の言葉を待っているようだった。
「ジャルジェ家が辞退を申し入れたとも聞いていない。素振りもなかったそうじゃないか。将軍もたいした自信を持っているようだ。女の近衛連隊長などそう見られるものではない。彼女がどこまでやれるのかしばらく様子を見ても良いのではないか?」
 ヴィクトールの提案はアレクサンドルの興奮を鎮めたようだ。彼は代わりに不安げな瞳でヴィクトールに聞いた。
「もし、あのオスカル・フランソワに連隊長が務まったら?」
「その時はありがたく連隊長にいただく」
「なんだって!」
「有能なら、男でも女でもかわらない」
「冗談じゃないぞ! 軍の士気にかかわる!」
「アレクサンドル」
 彼の正面に向き直ろうとするヴィクトールに顔を背けて、アレクサンドルは言った。
「私はお前が連隊長になるべきだと思っている」
「何を馬鹿な」
「今とは言わない。将来はお前が連隊長だと誰でも思っている。卒業まで首席で通したお前がならなくてどうする」
「そんなもの、何の役にも立たない」
「そうだろうか」
「そうさ。要はどうやって隊をまとめ上げていくか、その力だ」
「それだったらなおさら女に務まる訳がない。皆、反対している」
 アレクサンドルは口の端で笑うと、先ほどから静かに控えているマテューを見た。マテューは首を縦に振った。
「私たちの代と少なくとも四、五代上までは完全に反対だ。トルネ少佐もラコスト中佐も難色を示している。国王陛下に考え直してくれるよう何とか‥」
 アレクサンドルの言葉をマテューが遮った。
「それよりジャルジェ家に圧力をかけて‥」
「マテュー!」
 ヴィクトールが鋭く言った。
「卑怯な真似をするのではない!」
 マテューは顎を上げ、目に力を込めた。
「国王陛下がこの人選を考え直すなど思えない。王后陛下の言うなりだというではないか」
「マテュー、口が過ぎるぞ」
 ヴィクトールのたしなめなど気にも留めない様子で彼は続けた。
「国王陛下は学問ばかりで、執政には興味がないようだ」
「ヴィクトール、お前が頼りになると思っていた」
 アレクサンドルがヴィクトールの肩をつかんで言った。
「お前が私たちのリーダーだ。私はお前があの女の下につくことがたまらなく嫌なのだ! お前が誰よりも早く昇進するべきだ」
 気落ちしたようなアレクサンドルに向き合い、ヴィクトールは小さく笑った。
「私も中尉になった」
 ヴィクトールの冷静でありながら嘲笑を含んだ言い方に、アレクサンドルは不機嫌そうに唇を歪めた。ヴィクトールは続けた。
「頭に血を昇らせても仕方がない。これが寵愛というものだ。前国王がよく教えてくれたではないか。くだらない寵愛というものを。これはアントワネット王后陛下のオスカル・フランソワに対する寵愛だ」
「ヴィクトール‥」
 アレクサンドルはヴィクトールの真意がつかめず顔を曇らせた。
「今日はゆっくりしていけ。この昇進が的確だったか否かは、時が決める」
 ヴィクトールはアレクサンドルの背中をたたいた。アレクサンドルは後ろを振り返りマテューと目を合わせた。
「ヴィクトールせっかくだが‥」
「何だ?」
 アレクサンドルの歯切れの悪い物言いにヴィクトールはマテューを見た。
「アンボワーズに行く」
 アレクサンドルの代わりにマテューが答えた。
「レオナールのところか?」
 ヴィクトールが問うた。
「そうだ」
「何を企みに行くのだ?」
「何も‥ お前がいなければ話にならん」
 アレクサンドルが答えた。
「来てくれヴィクトール。レオナールにお前を連れて行くと言っておいた」
 彼の瞳は懇願していた。
「用はない」
 ヴィクトールは素っ気無く言った。
「ヴィクトール、私たちはお前についていく。わかっているな」
 アレクサンドルは苦しそうな表情でヴィクトールを見つめた。
「だったら、あまり見苦しい事はするな」
 ヴィクトールの言葉にアレクサンドルはため息をついた。
「わかったよ。行こう、マテュー」
 二人の客人は部屋を出て行った。


 
 二人の出て行った扉を見つめながら、ヴィクトールは首に手をやった。茶を運んできた侍女を下げ、彼は机の前を離れた。女の近衛連隊長。前代未聞の珍事。彼は首のクラバットをゆっくり解きながら、窓辺に向かった。
 年端もいかない女が並み居る上位階級の男達を差し置き、近衛連隊長に昇進する。名もない、身分も低い者が、破格の出世をする。それは今までなかった事ではない。国王や寵姫たちに気に入られれば、それはあり得る話だった。だが彼女はそんな者とは違っていた。彼女は充分な名と身分を持っていた。無いのは実績と前例だけだった。
 ヴィクトールは窓を開け、バルコニーに出た。初夏の風が頬をなでる。眼下にロワールの流れが見える。風はそこから吹き渡ってくる。ヴィクトールは髪を風に預けながら、バルコニーの柵に肘をかけた。
 女の指揮に従う。それは多分ヴィクトールにとって我慢ならない筈だった。
 オスカル・フランソワ。王太子妃付きの大尉。オーストリアから輿入れしてきたマリー・アントワネットの為に特別に用意された地位と任務。彼女がその地位に抜擢された時もひと騒動あった。命令したのは前国王陛下。アントワネット王太子妃殿下と同じ年のオスカル・フランソワにとって、その役は適任かもしれなかった。確かに彼女とアントワネット妃殿下は素晴らしい好一対だった。

 ヴィクトールは王太子夫妻のパリを訪問の時の事を思い出す。割れんばかりの歓喜と興奮。パリの街は人で埋め尽くされ、大きく揺れていた。近衛隊に配属されたヴィクトールにとって、これは初めての大きな仕事だった。
 等間隔を保ち王太子夫妻の馬車列に付き従う近衛隊の隊列とは違い、オスカルの馬は自由にその前後左右を動いていた。彼女はあらゆる所に目を配りながら、馬車の中のアントワネット王太子妃殿下と声を掛け合っていた。何を話していたのかはわからない。だが馬車の窓にかけたアントワネットの白い小さな手が見えた。そして馬車の窓に顔を寄せ、彼女から何かを聞き取ろうとしているオスカル・フランソワ。
 オスカルの金髪が揺れる。僅かに見える横顔が上気し、薔薇色に輝いていた。その顔がこちらに向いた。何かを認めたのか彼女が肩越しに笑う。その笑顔を見て、ヴィクトールは自分に向けられたもののように錯覚した。彼女は輝くような笑みを残し、馬で隊列の先へ行った。
 風のように、光のように、オスカルは動いた。蒼い瞳を輝かせ、眩しい金髪をひるがえし、軽やかに馬を駆っていた。
 ヴィクトールはずっとオスカルを見つめていた。沿道から歓喜の声が上がる。若い王太子夫妻に向けられるものばかりではなかった。それは一際美しい一人の近衛兵に向けられていた。あの時の輝くオスカルの姿はヴィクトールの目にいつまでも焼きついていた。
 
 彼女は忠実に任務を遂行していた。いや、忠実とは語弊があるかもしれない。オスカルの仕事振りは誰も真似できないほど果敢で危うかった。

 昨年の事だった。アントワネット妃殿下の乗った馬が暴走した。
 遠くに聞こえる叫び声。宮殿から遠く離れた庭園にいたヴィクトール達は駆けて行く馬を認めた。馬の背に見慣れぬ明るい色が翻っていた。何が起こっているのか分からなかった。誰かが叫んでいるように聞こえたが、声も遠かった。指揮をしていた中佐も馬の行方を見つめているだけだった。
 そこにそれを追いかける一頭の馬。それはぐんぐんスピードを上げ、先を行く馬に追いつこうとしていた。距離が縮まる。二頭の馬が重なったかと思うと、馬は背を空にして駆けていった。
 その時になって中佐がそちらに向かうよう指示を出した。ヴィクトール達は駆けつけて驚いた。アントワネット妃殿下だった。そして彼女を抱くようにして、オスカルも倒れていた。二人共、気を失っていた。

 アントワネット妃殿下の馬に乗りたいとのわがままからこの事件は起こった。女官達は反対したが、王太子妃に甘い国王と王太子がそれを許した。ほんの遊びだった。少しだけ乗って、手綱を引いてもらえば良かったのだ。それが… 
 不運だったのは馬番だった。ジャルジェ家の厩番。彼が馬の扱いにかけては最も慣れているというので、低い身分ながらアントワネット妃殿下のお側に上がった。それが彼の不幸だった。彼の不注意で馬は暴走した。
 一人の厩番が王族に怪我を負わせた。彼の死罪は免れない。それなのにオスカルは裁判を要求した。さもなくば自分の命を絶ってくれと言った。一人の使用人の為に家名を賭ける。信じられない事だった。
 ヴィクトールは青ざめ国王陛下の前に立っている男がいつも士官学校にオスカルを迎えに来ていた従僕だと気がついた。彼がそれほど大切なのだろうか。オスカルは回りにいた人々にも訴えていた。必死だった。彼女に同調する者がいた。そしてアントワネット妃殿下の懇願で国王陛下は考えを変えた。アンドレは死罪を免れた。オスカルはその言葉を聞くと、そのままそこに倒れ込んだ。
 彼女がなぜあれほど必死に訴えたのかヴィクトールにはわからなかった。一人の使用人の為に裁判など馬鹿げている。裁判にこぎつけたところで負けは確実。家名を傷つけ、笑い者になるだけだ。ジェローデル家ならその場で家の者が成敗しただろう。
 オスカルがなぜあのような行動に出たのか、ヴィクトールにはわからなかった。


 その後国王陛下が崩御した。天然痘で苦しみぬいて末の事だった。一国の王が逝去し、新国王が即位する。時代の境目を見た。うねりのような喧騒が、はっきりとした叫びになり、とどろいた。
「国王逝去! 新国王万歳!!」
 うねりは街中に広がり、人々は新しい国王夫妻の肖像画を飾り、新時代の到来を祝った。骸となったかつての国王に注意を払うものはいない。
 天然痘の病で爛れた死骸は棺に埋葬され、深夜サン・ドニ教会に運ばれる。棺を護るものは僅かの近衛兵と小姓のみ。死すれば、王といえどただの亡骸。彼の死を悼む者はいない。人は己の保身のみをかけて移動する。権力の右から左へ…
 空しいと思う。これほど権力は空しいのか…
 棺を護る列の一員としてヴィクトールは教会まで付き従った。愛欲に溺れ、莫大な金額を寵姫達に使った国王。今際の懺悔の時でさえ、愛妾を追放しなければ司教に取り合ってもらえなかった国王だった。彼の為に涙を流す者はいない。
 ふと横を見たヴィクトールの目にオスカルの横顔が映った。彼女と馬を並べていたのだった。美しい横顔は蒼ざめていた。だが何よりもヴィクトールを驚かせたのは彼女の頬に涙の跡があったことだった。
 オスカルは泣いていた。なぜ? この死が悲しいか? ヴィクトールはわからなかった。国王の死は一つの扉が閉まるのものでしかなかった。時代の終焉であり、舞台の幕引きだった。決して良い国王とは言えなかった。だが、オスカルは涙を流していた。それは誠実に人の死を悼んでいた。
 ヴィクトールは目の奥が熱くなるのを感じた。旧権力の部屋から新権力の部屋へ、人々が移ってゆくのを見た。くだらないと思った。だが国王の死に何も感じない自分はどこか不安だった。オスカルの涙はヴィクトールの胸に瑞々しいものを植え付けた。
 オスカルは顔を僅かにヴィクトールから反らした。彼の目にも滲んでくるものがあった。彼女がなぜあの時使用人の為に必死になったかその時わかったような気がした。

 それだけではなかった。彼女は宮廷を追われ、リュイユの小城へ連れられてゆくデュバリー夫人を途中まで送ったとも聞いた。
 なぜ? デュバリー夫人とアントワネットの確執は有名だった。そしてオスカルはアントワネット側についていた筈だった。オスカルの母親を侍女にと、アントワネットとデュバリー夫人が争った話は有名だ。ヴェルサイユを追放されるデュバリー夫人は罪人だ。そんな彼女にオスカルは何を言ったのか。
 
 ヴィクトールは考えた。オスカル・フランソワには人と違う何かがある。皆は彼女がアントワネット妃殿下に取り入って近衛連隊長の地位を得たと思っている。だがそれは違う。オスカルには多分出世の欲などない。だったら辞退すればよいのにそれもしない。なぜだ。
 
 ヴィクトールはバルコニーで風に吹かれながら胸が高鳴ってくるのを感じた。休暇が明けたら新しい組織で新たな出発が始まる。新隊長にオスカル・フランソワ。そして自分は中尉として指揮系統の直系になる。オスカルが王太子妃付きの大尉として伺候していた時より地位は離れたが、距離は短くなった。それになぜか興奮を覚えた。
 からだの中から熱が上がってくるようだ。ヴィクトールはゆっくりシャツのボタンを外した。風が服の内側に入り、胸をはだける。クラバットが風になびく。彼はそれに手をかけると力を入れ引き抜いた。絹が音をたてる。
 彼女は新たな任務をやり遂げるだろう。ヴィクトールには確信があった。14才のオスカル・フランソワは王太子妃付きの大尉という任務をやり遂げたのだ。


 ヴィクトールは新たな興奮を覚えた。もう一つ思い出す新たな像。士官学校の中庭で偶然会ったオスカル・フランソワ。彼女は突然舞い降りてきた。遅い午後の日差しが降り注ぎ、切り取られたような別世界だった。
 庭中に薔薇が咲き乱れる五月だった。オスカルからは甘い匂いがした。何者にも増して美しかった彼女。あの時のオスカルは私だけのもの… ヴィクトールは外したクラバットを手の中に収めると部屋に入った。
 オスカルは女だ。薔薇や絹には簡単に手が届くのにあの金髪に手は届かない。彼女は敵視のただ中にいる。ヴィクトールは腕を上げ、高い位置で手に持った絹を離してみた。それは一瞬窓から入る風に乗り、翻ったかと思うと、ゆらゆら舞いながら床に落ちていった。床に落ちる寸前でヴィクトールはそれを拾い上げた。
 彼の目にはまだ見ぬオスカルの真紅の近衛服が映っていた。



Fin




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