2006 4/14
文 ラーキーさま

Passion

9. Le Baiser 〜接吻〜



 いつのころからだろう、自分が女だということをはっきりと自覚するようになったのは。幼い頃、自分は男だと何の疑いもなく信じていた。どこまでも男として育てようとする父と、ことあるごとに女であることを思い出させようとする母やばあや。自分とはまったく違った世界に生きる愛らしく可憐な五人の姉たち。姉たちを羨んだことは一度もなかったが、どこかで自分だけが異質の存在であることを感じとっていた。孤独だった。

 アンドレがジャルジェ家に来て、世界が一変した。男でもなく女でもない彼女の特異なありようを、彼は持ち前の素直な気質でごくあたりまえのように受け入れた。男だとか女だとかいう区別などなく、本当の兄弟のように寄り添って生きてきた。男として生きる人生を、不自然だとも不合理だとも寂しいとも思ったことはなかった。……フェルゼンに恋するまでは。

 突然の嵐に飲み込まれるように、抗うこともできず溺れた初めて恋。あの十八の日にフェルゼンの前に女性として存在することが許されていたら、もしかしたら運命は違っていたかもしれない。彼女を見るフェルゼンの目にいつも浮かんでいたのは、変わらぬ友情、親愛、深い信頼の念……。だが本当に欲しいものはそんなものではなかった。ただ一人の女性として彼の前に存在すること。そんなあたりまえのことさえ許されない自分の人生を、はじめて恨めしいと思った。生まれて初めてのドレスを着て彼と踊った。女として長年胸に秘めてきた焦がれるような想い。だがそれを知ったとき、フェルゼンは彼女のもとから去っていった。
 
 ―――最初から女性として見ることしかできなかったのですよ―――
 男の言葉がふと思い浮かぶ。その言葉を聞いたとき、自分でも思いがけない小さな感動に胸をつかれた。あれは何だったのだろう。決して叶わなかった過去の夢を、ふと眼前に見たような気がしたのだろうか。フェルゼンが決して彼女に向けることのなかった、異性としての憧憬に満ちた眼差しを。

 女として生きる人生など、考えてみたこともなかった。そんな人生は自分にはあり得ないと思っていたから。それが今になって、何という運命の皮肉だろう。思いを告げることさえ許されなかったあの辛い恋を、ようやく諦めたばかりだというのに。一生涯男として生きる運命の重みを、断ち切った思いとともに胸に刻み込んだばかりだというのに。
 彼女をあからさまに女性として扱う求婚者と、結婚して一刻も早く子を生めと言う父の言葉に、心が悲鳴を上げた。ジャルジェ家の跡継ぎとして、男として生きるために、これまで捨ててこなければならなかった多くのもの。身を切る思いで諦めた初めての恋。あれは一体何のためだったのか。
 ジャルジェ家の家名のために、まるで操り人形のように彼女の運命を好き勝手に動かそうとする父のやり方に無性に腹が立った。彼女の意志を確かめもせず、父に近づくことで彼女を手中にしようとするあの貴族の男にも。たとえあの男の言うことが真実だったとしても……。


 時計が真夜中を告げる音を刻み、彼女はとりとめのない物思いから現実に引き戻された。目をやるとすでに十二時を回っている。やりかけの仕事を片づけてから帰るというアンドレを残して、舞踏会用のドレスの試着のために、オスカルはその日一人で先に帰宅した。朝の気まずい雰囲気は職場の慌ただしい喧騒の中でたちまちのうちにかき消され、自分の大人げない態度を彼にきちんと侘びる暇もなかった。屋敷に戻ったら遅くてもいいから部屋に来るようにと侍女に伝言を頼んでおいたが、彼はまだ姿をあらわさない。
 まさかこんな時間まで一人で仕事でもあるまい。疲れているだろうに、屋敷にも戻らずどこへ行ったのか。もしかしてオションの屋敷に行ったとでも……? とたんにキリリと胸が痛む。

 誰もが自分のこれまでの人生を否定しようとしている。父は女に戻れといい、かつての部下は、妻としてともに生きて欲しいと言う。屋敷中が馬鹿げた舞踏会の準備で浮き足立ち、一方で母とばあやはジェローデルをすでに正式な婚約者並みの扱いで迎えている。そしてこれまで共に生きてきたアンドレまでもが、自分のそばから離れていこうとするのか。

 ―――もし俺がジャルジェ家から出ていくことになったら、おまえはどうする?―――
 今朝の暗示的な言葉とともに、馬車を降りるアンドレの後ろ姿が鮮やかによみがえった。すると突然、その姿が今朝とはまったく違った意味合いをもって浮かび上がってきた。あれは彼の優しさだと、一人になりたいという彼女の気持ちを汲み取った上での、彼らしい気遣いだと思っていた。だがそうではなくて、彼もまた彼女のそばにいたたまれなかったのだとしたら? 彼の気持ちを知りながら何もなかったようなそぶりをし、いつまでも彼の優しさに甘え続けている彼女の身勝手さに、彼が心底疲れてしまったのだとしたら……?

 わたしを愛していると言った……。十何年もの間、わたしだけを愛し続けてきたと。血を吐くような愛の告白。だが彼女はそんな彼の思いに正面から向き合おうとせず、目を逸らし続けてきた。意識の奥深くに封じ込め、二度と思い出すまいとしたあの夜の記憶……。
 ほとばしる愛の言葉とともに、骨が軋むほどに抱き締められた。彼が渾身の力を込めた腕は、どんなにもがいても振りほどくことができなかった。なすすべもなく寝台に押し倒され……圧しかかる男の体。熱い唇。頭が真っ白になって、無意識のうちに悲鳴を上げていた。自分でも聞いたことのない女の声だった。そして衣服の裂ける音……。彼は男で自分はまぎれもなく女であると、嵐のような抱擁の最中、痛いほどに思い知らされた。

 オスカルは記憶を断ち切るように立ち上がると、水差しからグラスに水を注いで飲んだ。僅かに呼吸が早まっている。

 彼は男で、自分は女……。彼が本当に求めているのは、兄弟でもなく親友でもない、女としての自分だと。それを認めて受け入れてしまえば、男だとか女だとかいう垣根を越えて永遠に変わらないと思っていたアンドレとの関係が、永久に失われるような気がした。すべてを忘れようと、今まで通りの二人であり続けようと、あの日の記憶は意識の奥深くに閉じ込めた。そうやって心のバランスを保ってきた。それがアンドレにとってどれほど残酷なことだったとしても。彼の愛を受け入れる余裕など、当時の彼女には到底なかった。

 アンドレ……おまえは今何を考えている? 本気でジャルジェ家を出ていくつもりなのか。わたしのそばから離れて、新しい人生を歩みはじめようというのか。おまえの愛に応えられないわたしには、おまえを引き止める権利はないのだろう。だが……。

 やがてオスカルの思考はメビウスの輪を辿るように、同じところを何度もぐるぐると回り始めた。たとえ屋敷に戻ってきても、もうこんな時間にアンドレは部屋に来ないだろう。そうは分かっていても、ついぐずぐずとベッドに入るのを引き延ばしにしていた。体に溜まった疲労と睡魔が、出口のない彼女の思考の輪を断ち切るまで。


 浅い眠りの中で、オスカルは混乱した思考そのままに、いくつもの脈絡のない夢を見た。

 「おまえは寂しくはないのか? そんな男のなりをして、女としての幸福も知らず、恋の喜びすら知らないで」
 ―――なぜおまえがそれを言うのだ、フェルゼン? わたしを女として見たこともないおまえが。

 「おまえも自覚しておるのだろう? 女の軍人など、ジャルジェ家にはもはや必要ではないのだ。ジャルジェ家が必要としているのは男の跡継ぎだ」
 ―――なぜ今さらそんなことを言われるのです! ならばなぜ、最初からわたくしを普通の女性としてお育てにならなかったのです? わたくしの今までの人生は何だったというのですか……

 「お父上のおっしゃる通りですよ。あなたはまぎれもない女性なのだから。今からでも遅くはありません。わたしの妻として、あたりまえの女性として、人生を生き直してみませんか……?」
 「オスカル、あなたにはきっと女のこころは理解できないのね。あなたも恋をすれば、きっとわかるようになるわ」
 「あんたは貴族の令嬢らしく、きれいに着飾って、お屋敷で大人しくしていればいいんだ。俺たちは女の命令なんぞ聞くのはまっぴらだね。ここはあんたなんかの来るところじゃない」
 「俺は行くよ……。もうこれ以上おまえの側にはいられない。おまえのお守はもう疲れたんだ。行かせてくれるだろう?」

 いつもより早く、まだ夜が明けきらない前に目覚めた彼女は、重苦しい夢の残滓を振り払おうと夜露に濡れたバルコニーに出た。夜明け前の刺すような空気が頬に心地好い。そのとき、遠くの薄明の中で人影が動くのが見えたような気がした。じっと目を凝らしていると、その影はゆっくりと屋敷の方に近づいてくる。やがてそれが、気だるそうな足取りでふらふらと屋敷に戻って来たアンドレだということに彼女は気付いた。
 彼は立ち止まって、オスカルの立っているバルコニーを見上げた。彼と目が合った……ような気がした。しかし彼女の姿は彼の目には入らなかったのだろうか? 彼はすぐに目を逸らすと、足早に通用口の方へ消えていった。心の中の小さなかけらが、またひとつ剥がれ落ちたような欠落感にオスカルは襲われた。体が冷えるのにも気付かず、彼女はしばらくの間茫然とバルコニーに立ち尽くしていた。


 慌ただしく仕事に追われる二日が過ぎた。アンドレと落ち着いて話をする時間はなかった。だがたとえそんな時間があったとしても、一体何の話をすればいいというのだろう? 昨夜はあんなに帰りを待ち詫びたアンドレなのに、いざ彼と二人きりで馬車に乗り込むと、何ひとつ気のきいた言葉が浮かんでこなかった。夕べはどこへ行っていた? そんなことも、もう自分には気軽に聞く権利がないような気がした。二人の間に忽然と口を開けた恐ろしいほどの深淵。
 馬車が職場に到着したときは、むしろ安堵を感じた。出口の見えない悩みも葛藤も、何もかもを押し流してしまう慌ただしい時の流れが、オスカルにはかえってありがたいような気がした。そうして舞踏会の夜は訪れた。


 オスカルはかねてからの計画通り、舞踏会用にひそかに作らせておいた豪奢な男物の衣装を身に纏って鏡の前に立った。着替えの時間になって初めてオスカルの計画を聞かされたばあやは、今にも卒倒せんばかりになり、目に涙を浮かべてオスカルを説得しようとうした。しかしオスカルは頑として聞き入れなかった。

 ―――これでいい。これが本来のわたしだ―――

 鏡の中の彼女の顔は、緊張のためかわずかに青ざめていた。ささくれ立った神経を落ち着かせるために、オスカルはばあやが止めるのも聞かず、ブランデーのグラスを一気に煽った。焼けつくような液体が五感に滲みわたり、人間らしい感覚が戻ってくる。
 「そんなに案ずるな、ばあや。父上のお咎めならすべてわたしが受ける」
 すっかり意気消沈して、もはや小言を言う気力もない様子のばあやに、オスカルは言った。
 「そんなことは少しもかまいやしません。ただばあやは、何が本当にいいことなのか分からなくなりました。お嬢様がこんなに嫌がってらっしゃるものを……。でも、これだけは分かって下さいまし。ばあやはお嬢様にお幸せになっていただきたいのです。旦那さまだって、奥様だって……」
 そこまで言うと、ばあやはエプロンの裾で涙をぬぐった。
 「ああ、そんなことで泣くな、ばあや。どうしたというのだ。最近誰もかれもどうかしているぞ。父上も母上もばあやも……アンドレも……。あの男が現れてから、屋敷中がおかしくなってしまったみたいだ。まったく疫病神か、あいつは」
 「ジェローデル様は立派な方でございます! あたしみたいな年寄りにもお優しくて……」
 「ああ、わかった。わかったから泣くな……」

 オスカルは後味の悪い思いで部屋を後にした。一体何のために、こんな思いをせねばならないのだ。そう考えただけで、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
 広間に近づくにつれ聞こえてくる、招待客たちの来訪を告げる声。ベルサイユの主だった貴族たちはすべて招待されているという。あのオスカル・フランソワがドレス姿で男たちのプロポーズを受ける。それだけでも、暇を持てあました貴族たちの病的な好奇心を煽り立てるのに十分だった。
 異様なほどの熱気に満ちたざわめき。楽士たちが奏でる軽薄な音楽。むせかえる粉白粉と香水の匂い。それらと混じり合う種々の料理の匂い。グラスや銀器のぶつかる音。女たちの甲高い嬌声。男たちの下卑た笑い声……。すべてが虚しく、空々しかった。何もかもが吐き気がするほど忌ま忌ましかった。

 オスカルが広間に姿を現したとき、地鳴りのようなどよめきが広間の四方八方から沸き上がった。そんなことすら、まるで自分が見せ物になったようでオスカルには腹立たしかった。しかしオスカルはそんな素振りを毛ほども見せず、勝ち誇ったようにジャルジェ将軍の前に立って言った。
 「父上のご命令通り、パリで一番の仕立屋に作らせました。生涯最高の装いでございます」
 驚愕と怒りのために返す言葉もない様子の父の顔を見たとき、少しは溜飲が下がったような気がした。ちらりと目をやったジェローデルは無表情で、その感情は読めない。悲しそうな、諦めたような表情で彼女を見つめる母の顔が目に入った。心がかすかに痛んだが、それも振り切った。

 予定では最初にジェローデルとダンスを踊り、続いてその他の求婚者たちと順にダンスを踊る手筈になっていた。予想に反して、彼女に求婚したいという馬鹿者どもが五人も名乗りを上げたということだった。どのみちジャルジェ家の家名が目当ての野心家か、財産狙いの落ちぶれ貴族の子弟たちだろう。彼女はそんな求婚者たちに嘲笑的な視線を投げつけると、美しく着飾った貴婦人たちの一団に近づいた。

 「マドモアゼル、ダンスのお相手を願えますか?」
 まだ初々しいと言えるくらいの、年若い令嬢の一人にオスカルは声を掛けた。髪粉を振った豊かな巻き毛に縁取られたあどけない頬が、みるみる紅潮するのがわかる。周囲の誰もが自分の一挙手一投足を固唾を飲んで見守っているのが、張り詰めた空気を通して伝わってきた。オスカルはあえて時代掛かった大仰な振る舞いで令嬢を広間の中央までエスコートし、細くくびれた腰を引き寄せ、耳元に唇を寄せて他愛のない言葉を囁いた。令嬢の頬はますます赤味を増し、周囲から非難とも感嘆ともともつかぬざわめきが漏れた。

 楽士たちの奏でる優雅な音楽に合わせ、ピカピカに磨き上げられた床を流れるように滑っていく。もし本当の男に生まれていたら、こんなふうに令嬢たちをダンスに誘い、彼女たちとのアバンチュールを楽しみ、やがては美しく気立てのよい貴族の娘と、平凡だが幸福な結婚をしていたのだろう。そうであればどれほど楽だったことか。男の恰好をして、男に負けないほどに剣の腕を磨き、男と同じように振る舞っても、決して男にはなりきれない。かといって女でもない。この世に生を受けたときから、誰もわたしが女であることを望まなかった。周囲の期待に応えるために、女であることを否定して生きてきた。今さら女として生きることなど、できるわけがない。

 鬱屈した怒りの爆発が、まるで酒に酔ったときのような高揚感をオスカルにもたらしていた。オスカルはまるで色事師のような甘い言葉を令嬢たちの耳元で囁き、華奢な肩を抱き寄せ、愛らしい唇に接吻してみせた。オスカル・フランソワは気がふれたとでも、レズビアンだとでも、伯爵家の面汚しだとでもなんとでも言うがいい。これで愚かな求婚者どもは怖じ気づき、すごすごと引き下がるだろう。今さら父の意のままに、跡継ぎを生むための道具になどなりはしない。格式高きジャルジェ家の家名は地に落ち、父上は詰まらぬ考えを起こしたことを、生涯後悔するがいい。

 やがて宴がたけなわになる頃、彼女が招待しておいたフランス衛兵隊の兵士たちが集団で乗り込んできた。兵士たちの乱入で、舞踏会は収拾のつかない大混乱に陥った。


 オスカルは舞踏会の混乱を見届けると、誰にも見咎められないよう静かに広間を離れた。今なら宴の主役が姿を消しても、誰も気に止めないだろう。怒った客たちの何人かは、すでに帰り支度を始めていた。明日のベルサイユは、前代未聞の不祥事となったジャルジェ家の舞踏会の噂でもちきりになるに違いない。苦虫を噛み潰したような父の顔が思い浮かび、冷めた笑いがひとりでに込み上げてくる。
 オスカル・フランソワの生き方を、今さら好き勝手に捩じ曲げるなど誰にも許さない。あの貴族の男にも、父上にも。アンドレ、見ていたか? これがわたしの答えだ。彼に面と向かってそう言ってやりたかった。だが一緒に帰宅したはずのアンドレは、舞踏会の間じゅう雲隠れでもしたかのように、一度も姿を見せなかった。

 オスカルは火照った頬を冷ますために、夜の庭に降り立った。わずかに湿気を含んだ夜の空気に混ざって、爛熟した薔薇が息苦しいほどの香気を放っている。その香りを胸深く吸い込んで大きく息をついたとき、背後にふと人の気配を感じた。振り返ると、庭に続くテラスの円柱に軽く身をもたせかけてジェローデルが立っている。彼はまるで、ずいぶん前からそこにいて彼女の様子を観察していたかのように、射るような眼差しでじっと彼女を見つめていた。不思議と驚きはなかった。この男だけは、他の求婚者たちのように簡単に引き下がりはしないことが分かっていたから。

 「ジェローデルか……。こんなところで何をしている。乱痴気騒ぎはもう終わりだ。おまえもさっさと家に帰って、少しは自分の恥さらしな立場を冷静に考えてみるがいい」
 オスカルはさきほどからの高揚感の名残をわずかに留めた口調で言った。
 「衛兵隊の兵士たちを呼んだのはあなたですか? おかげで舞踏会はめちゃめちゃだ。今頃あなたのご両親は、怒った招待客たちの対応にきりきり舞いされていますよ」
 「ふん。そんなことを言いにきたのか。説教なら聞く耳を持たぬ」
 オスカルは冷笑を浮かべたが、男は意に介していないらしかった。

 「ふふ。あなたは昔から思い切ったことをする人だったが、さすがに今回は驚きました。だが実にあなたらしい」
 男の目は愉快そうな笑みを浮かべていた。それがなぜかオスカルの神経を逆撫でした。
 「将軍にはお気の毒だが、わたしは舞踏会がぶち壊しになって喜んでいるのです。おかげで恋敵たちは尻尾を巻いて早々に退散しました。これで求婚者はわたし一人になって、あなたは……」
 「うぬぼれるな!」
 咄嗟に声を荒げていた。
 「うぬぼれるな、ジェローデル。おまえはあの阿呆な求婚者どもより幾分利口なようだから、言っておいてやる。いいか。誰も、父上と言えどもわたしの意志を曲げることはできぬ。父上にも申し上げるがいい。わたしは生涯何があっても、誰のためにもドレスは着ぬ」
 「なぜ……そのように肩肘を張る必要があるのです?」
 男の目がふと真面目な色を浮かべて言った。
 「肩肘を張ってなどいない。これが自然だからだ」
 「自然……?」
 「そうだ。わたしはこれまで男として生きてきた。これからもそうだ。わたしは自分の人生を誇りに思っているし、今さら生き方を変えるつもりなどない。これがオスカル・フランソワの生き方だ、よく覚えておくがいい」
 「だがあなたは女性だ」
 「分かり切ったことを言うな!」
 「いいえ、違います。あなたはご自分が女性であることをどこかで認めようとされていない。なぜ女性であることをそれほどまでに否定する必要があるのです?」

 男の言葉は、彼女の心の敏感な部分を鋭く突いていた。アンドレにさえ、そんなふうに面と向かって言われたことはなかった。オスカルは一瞬言葉に詰まったが、すぐに男の方に向き直り、挑戦的な口調で答えた。
 「ああそうだ。だからどうだというのだ。女が女として生きていけるほど、軍隊は甘いところだと思うか?」
 「たしかに。あなたは見事にお父上の期待に応えて、男でも成し遂げられないほどの功績を上げてこられた。わたしは部下として、常々あなたを誇りに思っていましたよ。軍の中にあって、あなたは誰よりも華々しく輝いていた……」
 彼女は男の言葉を聞きながら、苛立たしげに薔薇の花びらをむしり取り、無意識のうちにそれを唇に含んだ。男の顔に小さな笑みが浮かんだ。

 「何がおかしい」
 「まったく……あなたはご自分の魅力にまるで気付いていらっしゃらない。そんな仕種がどれほど……。御存知でしたか? 多くの兵士たちが焦がれるような視線であなたの姿を追っていたことを。あなたが馬上で兵士たちの指揮を取るとき、その姿は見るものすべてを虜にするほど美しかった。兵士たちの中にあって、あなたは壮絶なまでに美しくて……同時にひどく痛々しかった」
 オスカルは何か言おうとしたが、ジェローデルは遮るように言葉を続けた。
 「最初はなぜそんなふうに感じるのか分かりませんでした。だがやがて気がつきました。それは華々しい功績の陰で、あなたの心が流す血の涙のためだと……」
 「何を馬鹿なことを言っている」
 切り捨てるようにオスカルが言った。
 「いいえ。あなた自身が一番よく御存知のはずです。あなたはこれからも男として生きるとおっしゃる。それもいいでしょう。だが、だからといってなぜご自分の真実の声に耳を塞ぐ必要があるのです? あなたとて欲しいと思ったことがあるはずだ……女性としての平凡なしあわせを。差し延べられる優しい手を拒み続ける自分に涙を流したこともあったはずだ」
 「いいか、わたしを見くびるな。何度も言うが、わたしは今の生き方に満足している。そんなおセンチな話は……」
 だがジェローデルはオスカルの言葉を最後まで聞かず、彼には似合わない畳み掛けるような口調で言った。
 「では、あなたがあの北国の貴公子に向けていた眼差しは一体何だったというのです?」

 オスカルは一瞬言葉を失った。 ―――なぜ、それを……? 声にならない彼女の思いを、彼は聞き取ったのだろうか。
 「あなたを愛していたから……あなたの心の声がわたしにはたしかに聞こえた。女性として……人間としての自然な感情の発露を、あなたはこれまで血の滲むような思いで押し殺してきたのではないですか? 来る日も来る日も、すべてを自分の胸ひとつにしまいこんで。誰にもその思いを打ち明けず、誰にも涙を見せず……」

 オスカルの心の中で何かがぱちんと弾けたような気がした。頭をよぎる青春の日々。忘れようにも忘れられなかった辛いだけの恋。

 「もっと素直になって……。悲劇のただ中に飛び込んでいく前に立ち止まって……」
 「おまえはそうやってわたしの生き方を否定するのか!」
 それは悲鳴に近い彼女の心の叫びだった。
 「否定など! なぜそう思うのです? それはあなたが自分自身を否定されているからだ。愛は決して否定しない。わたしはあなたのすべてを受け入れられる。あなたの強さも……弱さも。あなたの喜びも、あなたが背負ってきた苦しみも悲しみも。あなたのすべてを」
 男はいつのまにか息がかかるほど間近に立っていたが、オスカルは金縛りにあったように動けなかった。
 「あなたのすべてを……愛しています」
 その瞬間、彼女を見下ろす男の目に閃いた妖しい光が、かすかな当惑をオスカルの中に呼び覚ました。
 「もういい、ジェローデル。もうこれ以上……」
 「黙って、動かないで……! わたしの話を聞いてください」
 ジェローデルは身をかわそうとした彼女の両腕を掴むと、自分の方に引き戻した。
 「あなたのすべてをわたしにあずけてください。胸につかえた苦しみも悲しみも……たった一人で抱え込むことなどない。あなたの自然な感情を押し殺す必要も。わたしがあなたの重荷をすべて引き受ける。未来永劫、あなたと楯となり、あなたを守りましょう……。だから安心して……もっと素直になって……。わたしを信じてください。すべてをわたしにあずけて……オスカル……」
 
 周囲の雑音がいつのまにかすうっと消えていた。男の手が、まるで壊れ物を扱うようにそっと彼女を抱き寄せた。男の胸に身をもたせながら、彼女は心に溜まっていたどろどろをすべて吐き出したような不思議な脱力感を感じていた。自分のもっとも弱い部分を理解されているという安堵。この胸ならば。この胸にすべてを委ねるのならば……。
 背中に回された腕の力がわずかに強まったが、それも心地好かった。男の片手がゆっくりと彼女の頬に触れ、髪の中に入り込む。その手はひやりと冷たく、指先はかすかに震えていた。
 「わかりますか……? 心臓がこんなに高鳴って……今にも破裂しそうだ……」
 そう言いながら、ジェローデルはオスカルの頭をそっと自分の胸に押しつけた。早鐘のように打っている心臓の鼓動が直接耳に伝わってきた。
 「あなたを愛しています。わたしを信じて……オスカル……」
 耳元で囁かれた低い声が、麻薬のように彼女の全身を痺れさせた。何もかも、この腕にあずけてしまうことができれば……!

 男の唇が近づき彼女の唇に触れた。しかしその瞬間、脱力したように男の腕に身を任せていたオスカルは、はじかれたように男の体を押し戻した。何かが違う。漠然とした、だが強烈な違和感。男の目に戸惑いが揺れた。
 「なぜです? あなたは……」
 言いながら、男は彼女を抱く腕に瞬時に力をこめた。
 「はなせ……」
 「はなしません……!」
 身をよじって男の手を振りほどこうとするオスカルの唇を、ジェローデルはすばやく塞いだ。さきほどの壊れ物を扱うような態度とは打って変わった強引な抱擁。ジェローデルはいともたやすくオスカルの唇を割ると、彼女の中に大胆に忍び込んだ。唇を通して男の情熱が直接流れ込んでくる。いつも優雅なこの貴族の男も、熱い血の通った生身の男であることを思い知らされるような接吻だった。
 ―――こんなふうに抱き締められて……唇を塞がれた……あのときも。
 ジェローデルの腕の中でもがきながら、とっさにオスカルの頭に浮かんだのはそんな考えだった。アンドレの顔が思い浮かび、熱っぽくしっとりとした唇の感触がまざまざと脳裏に蘇る。その瞬間、心臓の血が逆流するような甘い疼きがオスカルの全身を貫いた。胸の鼓動が早まり、息が苦しくなる。耐えきれず男の体を強く押し返すと、男は今度はあっさり力を緩めた。
 肩で息をつきながら、オスカルは一瞬茫然としていた。
 ―――なぜだ? なぜ今ごろになって思い出す……?

 「怒っているのですか?」
 放心したように立ち竦んでいるオスカルに、ジェローデルが不安気に聞いた。オスカルはジェローデルから目をそらしたまま、わざと感情を押し殺したような低い声で言った。
 「いや……。わたしの方もどうかしていた。今夜のことは忘れてくれ」
 「あなたなら……」
 ジェローデルはオスカルの顔を覗き込みながら、一語一語を強調するように言った。
 「あなたなら、忘れられますか? 愛する人との口づけを……」
 その一言がオスカルの耳に焼きついた。愛する人との口づけだから? 忘れられないというのか……。

 すっかり黙り込んで心ここにあらずといったオスカルの様子を見て、男はこれが引き時だと考えたのだろう。
 「そろそろあちらに戻りませんか。広間の騒ぎも一段落ついたころでしょう」
 「いや。父上には適当にとりなしておいてくれ。おまえ、得意だろう」
 立ち去りぎわにくるりと振り向いて、オスカルが言った。
 「わたしに期待をするな。おまえの気持ちに応えることはできない」
 「あなたを諦められるものなら、とっくに諦めていた。今さらこの気持ちをどうすることもできません。わたしに申し上げられることはそれだけです。すべてあなた次第です……」

 さきほどの激情が嘘のように穏やかに凪いだ男の顔を、オスカルは一瞬探るように見た。男の言葉は真実に違いないのだろう。なぜ誰もが死に物狂いで愛を求めながら、癒されることのない孤独を背負って生きていかねばならないのか。ジェローデルも、わたしも……アンドレも……。

 オスカルは再び踵を返すと、静かに佇む男の視線を振り切るように、足早に夜の中に消えていった。

9. Le Baiser− Fin−











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