2006 2/6
文 ラーキーさま

Passion

8. L'entracte 〜幕間〜



 その日の朝は最悪だった。午後からどうしても抜けられない会議が控えているというのに、目を覚ました瞬間からオスカルはひどい頭痛に襲われた。それが昨晩飲みすぎたブランデーのせいだと気付くまでには、しばらく時間がかかった。遅い時間に突然姿を現した男の姿がぼんやり脳裏に浮かび上がる。だが彼女はすぐにそのイメージを頭から振るい落とすと、ベッドに横になったまま、回らない頭で今日一日の予定をざっと思い描いた。昨日のアンドレの不在で滞った書類の整理は、午前中にすませなければならない。午後には会議に出て、その後急いで報告書に目を通して、その後は……だが思わぬ突発事件が起こって、いつなん時仕事が中断されるか分からない。彼女はそこまで考えて、心底うんざりした。こんな日ぐらいは何もかもを投げ出して、家でゆっくりと寝ていたい……。

 そんな彼女の葛藤を知ってか知らずか、いつもの時間に彼女を起こしに来たばあやは、先程からやたらと大きな音をたてて朝の支度をしていた。頭の芯まで響くその雑音に、オスカルは小さな溜め息をついた。
 「ばあや。何か言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ」
 ばあやはパンパンとことさら派手にクッションを叩いて形を整えながら言った。
 「まあまあまあ。明後日にはお嬢様にプロボーズなさる殿方を集めての大切な舞踏会があるというのに、いったいどういうことなんでしょうね。お嫁入り前の女性が殿方の前であんなに酔っぱらって寝込んでしまうなんて、ばあやは聞いたことがございません」
 「ああ、そんなに怒るなばあや。頭に響く」
 「怒ってなどいません。呆れているだけです。いくらご婚約者の前だからといって」
 「わたしはジェローデルと婚約などした覚えはないぞ」
 オスカルは即座に言い返した。だいいちジェローデルが婚約者と決まっているのなら、求婚者を集める舞踏会など必要ないではないか。オスカルは心の中でばあやの没論理に反論したが、ばあやはオスカルの抗議を無視して続けた。
 「いくらお呼びしてもお嬢様が目を覚まされないので、見かねたジェローデル様がお嬢様を寝室まで運んでくださったのですよ。本当に何も覚えていらっしゃらないのですか?」
 「覚えていない」
 彼女は憮然として答えた。覚えていれば、寝室にぐらいあの男の手を借りず自分で行く。心の中でそう毒づいたが、我ながら説得力がなかった。

 「今からこんなことでは先が思いやられます。ジェローデル様はきっと呆れていらっしゃいますよ」
 「はん。あれしきのことで愛想を尽かしてくれるのなら、いくらでも酔っぱらってやるぞ。あいつはああ見えて意外と神経がずぶといのだ。こんなことで怖じ気づいたりはせん。ばあや、あいつをこの屋敷から追い出すいい方法はないものかな?」
 「あんな立派なお婿様は、ベルサイユ中のどこを探しても見つかりません」
 「なんだ、ばあやは結婚に反対していたのではないのか」
 オスカルが不満そうに言った。
 「ええ。でもジェローデル様にお会いして考えが変わりました。ジェローデル様は……」
 「なんだ?」
 ふと真面目な面持ちになったばあやに、オスカルがいぶかしげに問い掛けた。
 「いえ、何でもございません。ともかく、今日は早めにお帰りくださいませ。舞踏会用のドレスが出来上がってまいりますからね。本当に、舞踏会に間に合わないのではないかとずいぶん気を揉みましたよ」
 「ああ、わかった、わかった。突発事件が起こらないようにせいぜい神に祈っていてくれ。舞踏会では最高の装いをして、ベルサイユ中をあっと言わせてやらねばならないからな」
 そう言ってオスカルは悪戯っぽくばあやに笑いかけた。しかしばあやは何か考えごとに気を取られているらしく、無言でサイドテーブルの上を片づけていた。


 朝食をすませ、軍服に着替えて部屋を出る頃には、ようやく気分が引き締まり、頭痛もいくぶんおさまっていた。
 「ところで、アンドレはどうしている? 昨日はずいぶんと遅かったようだな。部屋にも顔を出さなかったし……」
 「お嬢様が酔っぱらっていらっしゃる間にちゃんと帰ってまいりましたよ。何でも仕事の打合せをしたいとか申しておりましたが、ジェローデル様がいらっしゃるのに、あんなものがお部屋に伺ってはお邪魔になりますからね」
 ばあやにそう言われて、オスカルははっとした。アンドレはジェローデルが自分の部屋にいたことを知っている……。同じ屋敷に住んでいて考えてみれば当たり前のことなのに、今までうかつにも思い到らなかった。ジェローデルの前で正体もなく酔い潰れたことを知ったら、アンドレはどう感じるのだろう。

 彼女はさきほど封じ込めた昨晩の記憶を改めて辿ってみた。酔ってはいたが、途中まではたしかにちゃんと覚えている。生涯の伴侶として……ジェローデルがそう言った。だがそのあとは。一気に煽ったブランデーの酔いが急速に回ったのだろうか、ぷつりと記憶が途絶えていた。しかし次の瞬間、記憶の底に沈んでいたいくつかの映像が、フラッシュバックのように断片的に脳裏に浮かびあがった。彼女の手からグラスを取り上げ、肩を抱き寄せた男の手……耳元で低く愛を囁く声……オスカルは頬が熱くなるのを感じた。だがそれらは夢の中のできごとのようにぼんやりとしていて、現実にあったことなのかどうかも定かではない。

 「あんな役立たずでも、いないとなると何かとご不便だったでしょう。今日は昨日の分までとっくりとこき使ってやって下さいませ」
 ばあやの言葉で、オスカルは現実世界に引き戻された。
 「あ? ああ、そうだな。ところでどうだったのかな……きのうは」
 「アンドレですか? おかげさまで。相手の方はとてもいい娘さんで、あの子もたいそう気に入ったようでございます」
 言葉の内容とは裏腹に、ばあやの表情には気づかわしげな神経の波が揺れていたが、オスカルは気付かなかった。
 「アンドレが……?」
 胸の奥にすとんと石が落ちたような痛み。
 アンドレは自ら望んでオション家に行くのだと、一昨日の夜ばあやから聞かされた。そのときは半信半疑だったが、孫の将来を案じ、無理を承知で突然の休暇を申し出たばあやの願いを撥ねつけることなどできなかった。

 アンドレに縁談の話が持ち上がったのは、これが初めてではなかった。以前から何度かすすめられた縁談話をアンドレがすべて丁重に断ってきたことを、オスカルは小耳にはさんで知っていた。それが今ごろになって、彼が自ら望んで縁談話を受けるなど……。いや、こんな時だからこそか。兵営内での発砲事件やジェローデルとの一件が、遠い過去の出来事のようにぼんやりと脳裏に浮かぶ。こんな時だからこそ、彼は過去の想いをすべて断ち切って、新しい一歩を踏み出そうとしているというのか。

 ――彼には彼の身分に相応しいもっと別の幸福があるかもしれない――
 ジェローデルの言葉が思い浮かび、胸に突き刺さった。彼の愛に応えることができないのなら……あの男の言う通り、彼が別の女性と築く幸福を祝福してやるべきではないか。

 しかしオスカルの口から出た言葉は、そんな彼女の内心の葛藤とは無関係な、妙に浮ついた調子のものだった。
 「そうか……はは、よかったじゃないか。ばあやももうすぐ念願の曾孫が抱けるかもしれないぞ」
 そう言いながら、ますます胸の中に苦々しさが広がるのを感じた。
 「それよりあたしはお嬢様のお子様をこの腕に抱きとうございます。そうすれば、いつお迎えが来ても後悔はございません」


 アンドレはいつものように馬車の準備をすませて彼女が降りてくるのを待っていた。いつものように目が合って、いつもと同じ朝の挨拶を交わす。彼の口許に浮かぶかすかな微笑み。だが底知れぬ闇をたたえたその瞳は笑っておらず、彼の表情は読み取れなかった。何千回と繰り返された日常の光景の中で、何かがすでに大きく変わってしまっていることを、彼女は痛いほどに感じとっていた。

 二人きりで馬車に乗り込み彼の正面に座ったとき、ひどく気詰まりな空気が二人の間に流れた。先に口を開いたのはアンドレの方だった。
 「昨日は急にすまなかったな。予定が狂って大変だったろう?」
 「いや……昨日は運よく何も事件が起こらなかったから助かった。おまえもいないことだし、残りは今日片づけることにしてさっさと引き上げてきたんだ」
 「そうか」
 アンドレに尋ねられるままに昨日一日の仕事のあらましを話して聞かせる。だが心の中には一向に晴れない霧が漂っているようで、話に身が入らなかった。一通りの話をし終えると、沈黙が降りた。すると重苦しい塊がふたたび胸の奥にむくむくと沸き上がってくる。彼に対する漠然としたうしろめたさ。それと相反する苛立ち……。そんな矛盾した感情が混沌と混ざり合って、彼女は言いようのない息苦しさを覚えた。一方、アンドレは彼女の葛藤に気付くふうもなく、ぼんやりと窓の外に流れる風景に目を向けていた。耐えがたい空気の重さを破るように、彼女はつとめて明るく言った。
 「今日は朝から忙しくなるぞ。昨日出来なかった書類の整理を今日の午前中にすませてしまわねばならん。午後から会議があるからな」
 「ああ、何とかなるだろう。会議までには間に合わすよ」
 こともなげに彼が言った。再び沈黙が降りた。

 しばらくして彼が言った。
 「だいぶつらそうだな」
 「え?」
 顔を上げると、アンドレが彼女の方をじっと見つめていた。
 「二日酔いなんだろう? ひどく飲んだのか」
 「ああ……。おまえの帰りを待っていて……気付いたときには飲み過ぎていたんだ。おまえに確認しておきたいことがあってな」
 彼の口許に微かな微笑みが浮かんだ。
 「おまえはいつも、飲み出すと止まらなくなるからな」
 「ふふ……」

 「オスカル」
 心の奥底にまで染み渡るような深い声で、アンドレが言った。
 「うん?」
 「もしおれがジャルジェ家を出ることになったら……どうする?」
 予想もしなかったその言葉は、鋭い刃のように彼女の胸を刺した。
 アンドレがジャルジェ家を出る……? ジェローデルとの結婚話が持ち上がったときも、彼を縛りつけるべきではないとジェローデルに言われたときも……今朝のばあやの話を聞いたときでさえ、そんな考えは彼女の頭にかけらほども浮かばなかった。アンドレがジャルジェ家を出て行く……。混乱した頭で、とっさに返す言葉を深く吟味する余裕は彼女にはなかった。

 「お、おまえがそうしたいのなら……好きにすればいい。わたしは別にかまわん」
 オションの家へでもどこへでも行けばいい。だがそれは口に出して言えなかった。彼女は彼の視線を逃れるように、そっぽを向いて窓の外に目を向けた。彼の瞳に病的な暗い影が走ったことも、彼がわずかに青ざめたことも、彼女の目には入らなかった。
 「そしておまえはジェローデルと結婚するのか……」
 「わたしは結婚などしないと言っているだろう!」
 言いようのない苛立ちと怒りがこみ上げてきた。何に対して、誰に対しての怒りなのかわからない。自分の今までの人生に対して……父の強引なやり方に対して……いつも優雅で自信に満ちた貴族の男に対して。いや、何よりも自分を置き去りに出て行こうとしている目の前の男に対して。昨晩の酒が抜けきらない心もとない精神状態で、その苛立ちは容易に涙に変わりうる性質のものだった。だがこの涙を彼にだけは見せてはいけない。とっさに彼女の頭に浮かんだのはそんな思いだった。

 「馬車を止めてくれ」
 「え?」
 「ここから歩いていく。少し頭が痛いんだ」
 「何を言っている。まだだいぶ距離があるぞ」
 「かまわん。止めてくれ」
 いつもなら彼女の気まぐれを根気よくなだめるはずの彼が、今日はそれ以上反論しようとはしなかった。ふつりと押し黙ると、窓の外を見つめたまま硬直したように動かない彼女の姿を、その真意を推し量るようにじっと見ていた。やがて馬車の窓から顔を出し、馬車を止めるように大声で御者に呼び掛けた。ゆっくりと馬車が止まると、彼は静かに言った。
 「俺が歩いていくよ。おまえは馬車の中で少しでも眠るといい」

 彼の顔を見ることができなかった。扉が閉まり、がらがらと音を立てて馬車が再び動き始めると、こらえていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。しかしそれはもはや彼に対する怒りや苛立ちの涙ではなかった。連日の激務で疲れ切っているはずの彼を、馬車から追い出すような真似をした自分自身への慙愧の涙だった。
 彼女は急いで頬を拭うと、彼を呼び戻そうと窓から顔を出した。だがちょうどそのとき馬車は曲がり角にさしかかり、すでに小さくなった彼の姿は、たちまち木立の陰に隠れて見えなくなった。


8. L'entracte −Fin −











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