2005 11/22
文 ラーキーさま

Passion

5. Le Bonheur 〜幸福〜



 重厚な扉を軽くノックすると、彼は把手に手をかけた。その瞬間、我知らずかすかな緊張が走るのを感じる。静かに中に入ると、部屋の主はデスクの前に座って何かの書き物をしている最中だった。書きかけの手紙に二、三行何かを書き加えて蝋で封印をすると、ジャルジェ将軍はゆっくりと顔を上げ、肘駈け椅子に身をもたせかけた。見る者の心の底まで射るような深くて青い瞳。その眼差しが発する強い光は、愛娘とそっくりだと思う。心の奥底に深い慈悲を秘めたその人柄も。
 
 「わたくしにお話が?」
 「うむ。このところ随分と忙しいようだな。屋敷に戻るのもいつも遅いようだが」
 「はい。ここ数週間何かと事件が続きましたから。それもようやく落ち着いてまいりました」
 「そうか。おまえには負担をかけるが、せいぜい身体をいとうがよい。ところで最近の兵士たちの様子はどうだ? 噂ではいっときあれに悉く反発していた兵士たちも、ずいぶんと大人しくなったと聞いたが……」

 オスカルが衛兵隊に転属して以来、ジャルジェ将軍の耳にもずいぶんと不穏な噂が伝えられていたはずだった。だが将軍はあえて一言も口出ししようとはせず、それはオスカルを自立した大人と認めた上でのジャルジェ将軍らしい態度だと彼は思っていた。だから今、唐突にこんな質問を受けて彼は少し意外な気がしたが、オスカルの苦労を知っているだけに主人の言葉が嬉しくもあった。
 「はい。ブイエ将軍の一件では旦那様にご心配をおかけしましたが、あれ以来、兵士たちは見違えるように大人しくなりました」
 そこまで言って彼は一旦言葉を切った。だが続きを待っているらしいジャルジェ将軍の様子に促され、思い切って付け加えた。
 「反発する兵士たちを、力で押さえつけようとしなかったオスカルの誠意が通じたのだと思います」
 「軍隊では力の行使が決定的に必要になることもある。あまり人間の誠意だけに頼るのはどうかと思うが……まあよい。あれはあれなりに考えてやっておるのだろう。では一日くらいおまえがあれのそばにいなくとも、大丈夫だろうな」
 「え?」
 「わしの古い知り合いがパリの郊外に住んでいる。かつてジャルジェ家に出入りしていた男だが、今では立派に成功して手広く商売をしておってな。香料商人のピエール・オションだ。おまえも知っているだろう。明日、彼にこの手紙を持っていって欲しいのだ」
 そう言いながら将軍は、さきほど封印したばかりの手紙をアンドレの方に差し出した。
 「明日……?」
 「ああ。詳しいことはばあやに聞くがよい。とにかく頼んだぞ」
 そんなことなら、何も自分でなくとも……彼はとっさにそう思ったが、有無を言わさぬ主人の態度に返す言葉を失った。パリ郊外ならなんとか時間をやりくりして、オスカルの仕事に差し障りのないように都合がつけられるだろう。

 「ところで、あれの……様子はどんなだ? あいかわらず結婚の話にひどく反発しているようだが」
 「はい……」
 舞踏会の話が持ち上がって以来、準備に追われて屋敷中が浮足立っていた。だが仕事でほとんど家をあけているオスカルと彼の毎日は、表面上は何も変わらなかった。それまで毎日といっていいほどジャルジェ家に顔を出していたジェローデルは、一時ほど頻繁に姿を見せなくなった。ジャルジェ将軍に正式に認められたオスカルの求婚者は自分だけではないという、立場をわきまえた彼らしい態度だと思う。それでも屋敷の前に止められたジェローデルの馬車を見るたび、ジェローデル家から届けられた見事な花々を見るたび、自信に満ちた男の存在が圧倒的な威圧感をもって彼に迫った。
 オスカルと遠乗りをして以来、結婚の話が二人の話題に上ることは一度もなかった。まるで台風の目の中心にいるような不気味な平穏さの中で、ただ彼の心だけが鉛のように重かった。きたるべき運命に対して、何ひとつ打つ手を持たぬ自分が歯痒かった。そしてオスカルもまた、黙って沈みこむことが多くなった。

 我知らず物思いに沈んだ彼に頓着せず、将軍は続けた。
 「ジョゼフィーヌのところのフィリップが今年で10才になる」
 「そうですか、もうそんなに……」
 オスカルのすぐ上の姉であるジョゼフィーヌの自慢の息子フィリップは、ジャルジェ家の血筋を色濃く引き継いだ利発で美しい少年だった。
 「フィリップが11才になったら士官学校に入学させるつもりでいた。あの子は父親に似ず活発な気性で軍人に向いている。ジョゼフィーヌも承知の上だ。うまく行けばいずれ養子として迎え、ジャルジェ家の家督を継がせてもよいと考えていた」
 アンドレは自分の耳を疑った。会話の流れが見えない。
 「しかし……ではオスカルの結婚の話は……」
 「ああ、あれに実子ができるのであれば、それに越したことはない。だがあれもあの歳だ」
 ジャルジェ将軍は彼の言葉を遮るように言うと、しばらく黙り込んだ。
 旦那様は外孫のフィリップに家督を継がせることも考えて、前々からその準備を進めていた……。ジャルジェ家の家督など、最初から問題ではなかったというのか。

 「あれは一体誰に似たのか、見境のない無鉄砲に育ちおった……。あの馬鹿めが、近衛隊ならばともかく、衛兵隊などに置いておいては、この先どんな命知らずな真似をするか知れたものではない。……考えあぐねていた時期に、ジェローデル少佐がよい申し出をしてくれた。オスカルにもジャルジェ家にも、これ以上望むべくもないほどの」
 「で、では舞踏会を開くというのは……?」
 「あんなものは茶番に過ぎん。だが、ジャルジェ家の方針の転換を世間に知らしめるにはちょうどよい機会だ。あれも少しはまじめに将来のことを考えるだろう」
 吐き捨てるようにジャルジェ将軍が言った。その時、彼はジャルジェ将軍が微かに酔っていることに気がついた。よく見るとデスクの端の方に、栓を抜いたブランデーの瓶と飲みかけのグラスが置かれている。グラスに手を伸ばして残ったブランデーを飲み干すと、ジャルジェ将軍はアンドレの目をまっすぐに見ながら言った。

 「あれがこの世に生を受けたとき、わしがあれの運命を定めた。ジャルジェ家の跡継ぎを自分自身の手で育てたいというわしの夢のために。女に生まれながら、おそろしく過酷な……。アンドレ、わしを非情な父親だと思うか」
 それはジャルジェ将軍がいままで他人に見せたことのない、慈愛に満ちた父親の顔だった。彼ははっと胸を突かれる思いがした。
 「いいえ、旦那様。決してそんなことは」
 「今さらと世間の人間は笑うかもしれんが、かまわぬ。フランスはこれからますます大変な時代になる。フランス衛兵隊は、まっさきにその矢面に立たされるだろう……。おまえもそのことは、身をもって感じていることだろうな」
 「はい……」
 「アンドレ、おまえだからこんなことを言う。おまえからもオスカルによく言って聞かせてくれ。あれはわしの言うことには聞く耳をもたん。おまえの言うことなら、少しは素直に聞くかもしれん……。ただフィリップのことは誰にも口外するな」
 「はい、旦那様……」

 それ以上彼に何が言えただろう? オスカルの身を案じるジャルジェ将軍の思いが、雪崩のように彼の心に流れ込んできた。胸が苦しかった。多少強引に結婚の話を押し進めてでも、嵐の中から娘を救い出したいという旦那様の、そしておそらく奥様の思いを、一体誰が責められるだろう?                                   
 部屋を辞そうとする彼を呼び止めて、ジャルジェ将軍は言った。
 「あれの身を案ずるあまり、おまえにも長い間負担をかけてきた。これからはおまえ自身の幸福を第一に考えるがよい。ばあやもずいぶんと心配しているぞ」
 「はい……」


 夢遊病者のようにふらふらと自室へ戻ったアンドレは、そのままベッドの脇に敷かれた異国の敷物の上に座り込んだ。おまえの部屋はあまりにも殺風景だからと、十年以上も前にオスカルから贈られたものだった。かつては色鮮やかだった敷物も、今ではわずかに色褪せ、端の方が擦り切れている。
 かつて歳若くして結婚することを泣いて嫌がったジョゼフィーヌのことがふと思い出された。そのジョゼフィーヌもよい伴侶に恵まれ、今では三人の聡明な息子たちの母親となり、穏やかな幸福に包まれて暮らしている。殺伐とした兵舎に気の荒い兵士たち。そして暴動が頻発するパリ……。そんな中で男の自分でさえ疲労困憊するような激務に耐えているオスカルと、同じ貴族の令嬢に生まれながら何という運命の違いだろう。オスカルの運命の過酷さを思うと、今さらながら心が痛んだ。彼女の身を切るような努力を痛ましいと感じることがあっても、彼に出来ることは、彼女の激務のほんの一部を肩代わりしてやることだけなのだ。

 「アンドレ、戻っているのかい。入るよ」
 ノックの音がして、扉の隙間からマロンが小さな姿を現した。
 「なんだい、そんなところに座り込んで。子供みたいに」
 彼は祖母の姿をちらりと見て、力なく微笑むと言った。
 「おばあちゃん、ちょうどよかった。さっき旦那様に手紙をことづかったよ。届け先を教えてくれ。明日の朝早くに出掛けるから」
 「明日は、ゆっくりすればいいんだよ。午後の一時頃にあちら様と会うことになっているんだからね」
 「会うって、誰と」
 「オションさんと、娘さんのフロールさんだよ」
 彼はふと顔を上げて言った。
 「どういうことだい?」
 「旦那様のご紹介でね……オションさんがおまえのことを気に入って、一人娘の婿にと言って下さっているんだよ。あちらは立派なご商売をされている。おまえには身分不相応なほどのいい話じゃないか」
 アンドレは呆れたように言った。
 「ばかな。何度も言うけど、俺にはそんな気はないんだからね。勝手に時間まで決めるなんて、冗談じゃない。明日の仕事はどうするんだ」
 「おまえ……。駄目だよ今さら。旦那様の顔に泥を塗る気かい?」
 「旦那様はそんなことは一言もおっしゃらなかったよ。どうせおばあちゃんが勝手に仕組んだんだろ? まったく年を取るとしつこくなるから困る」
 いつものように軽い冗談でいなすつもりが、祖母はなかなか引き下がろうとしなかった。

 「旦那様にはあたしの口から直接言うからってお願いしたんだよ」
 「どっちでもいいよ。とにかく明日は無理だ」
 「たしかに急なことだけどね。オションさんがあさってから三〜四日留守にされるんで、それまでに一度おまえに会っておきたいってお急ぎなんだ。オションさんは早くに奥さんを亡くされて、男手一つでお嬢さんを育てられた、そりゃあ立派な方でね……」
 「おばあちゃん! 一体……」
 いつになく頑強に食い下がる祖母の態度に驚いて、彼は祖母の顔をまじまじと見た。その顔は心持ち青ざめ、緊張のためか唇がかすかに震えている。

 思いつめたような表情で祖母が言った。
 「おまえ、ジェローデル様にあんなことを仕出かして、本当ならお屋敷から追い出されたって文句は言えないんだよ」
 彼は言葉を失った。
 「それでも旦那様は黙って許して下さったんだよ。お……おまえが人並みに所帯を持って、幸せになれるようにって、あたしたちには身分不相応なほどのいい縁談を……。今までおまえにはよく働いてもらったからって。おまえ、こんなにまでしていただいて、旦那様の御恩に背けるのかい?」
 「ジェローデルが……あいつが旦那様にそれを……?」
 「下司なことをお言いでないよ! ジェローデル様はそんな告げ口をする方じゃない。あの方はおまえのことを一言だってお責めにならなかったんだからね。新入りの女中が偶然見ていて、それが奥様付きの侍女に伝わって、それで……」

 誰がジャルジェ将軍に密告したかなど、もうどうでもよかった。ジャルジェ将軍は、彼にそんなそぶりをかけらほども見せなかった。あれはジャルジェ将軍の自分に対する慈悲心だったというのか。奥様以外はおそらく誰も知らないであろう本心をあえて自分に打ち明けたのも、オスカルに対する自分の気持ちを知った上で、彼女の幸福のために潔く諦めろという意味か。なるほどあの旦那様なら、そんなことも……。これからは自分自身の幸福を第一に考えろという唐突な労いの言葉も、そう考えれば辻褄が合う。

 「アンドレ、分かっておくれ。おまえがお嬢様の幸せの邪魔をしちゃいけないんだよ。おまえがお嬢様のためにできることはもう何もないんだからね。お嬢様も今は反発していらっしゃるけれど、ジェローデル様は立派なお方だ。きっとお嬢様を幸せにしてくださるよ」
 ジャルジェ家での自分の役割は、もう本当に終わってしまったということか……そんな思いが絶望とともに頭を駆け巡る。
 「アンドレ、明日オションさんのところへ行ってくれるね?」
 「ああ、だけどオスカルに……」
 「お嬢様は何もかもご承知だよ。おまえがゆっくりできるようにと、明日一日休暇を下さった」
 「オスカルが……?」
 そのとき、彼は心の中で何かが凍り付いたような気がした。

 「何もかもきれいに忘れて、一から出直すんだよ。フロールさんはとても気立てのいい可愛い娘さんだから、きっとおまえの気にいるよ。おまえだったら、どこででも立派にやっていける。今からだってじゅうぶんに幸福になれるよ」
 目に涙を溜めながら、必死で彼を説き伏せようとする祖母の姿が痛々しかった。自分が身分不相応な夢を諦めさえすれば、だれもが幸福になれるというのか。オスカルもジャルジェ夫妻も祖母も……。死んだ気になって、何もかもきれいに忘れることができれば。
 自分の周囲から世界が急速に遠のいていくような絶望感の中で、彼はぼんやりとそんなことを考えていた。


 明け方近くまで、まんじりともせずに夜を過ごした。いつまでオスカルの側にいられるのか。その考えが頭から離れず、胸が押さえつけられるように苦しかった。ジャルジェ家を出て、オスカルの側を離れて、いったい自分にどんな人生があるというのだろう。
 旦那様はジェローデルとの一件を知った上で、彼には身分不相応なほどのいい縁談を用意して下さった。オスカルへの未練を断ち切り、黙ってジャルジェ家を出ていけということか。旦那様らしい慈悲とともに、厳然とした意志の力が感じられる。オションの娘との縁談を断ったとしても、長くジャルジェ家にいることはできないのだろう。いや、縁談を断るときには、おそらくここを出ていかなければならないのだろう……。

 明け方近くになって彼はようやく浅い眠りに落ちたが、いつもの時刻になると自然と目が覚めた。重い頭で朝の身支度をしながら、彼は衛兵隊の制服に着替えるべきかどうか一瞬迷った。午後の一時にオションの家へ行くのであれば、午前中少しの間でもオスカルの仕事を手伝うことができる。せめて連隊本部まで供をするだけでも……自然とそんなことを考えている自分に気付いて、彼はふっと苦笑を洩らした。果たしてオスカルがそれを望んでいるかどうか。彼は迷いを振り切るようにジャルジェ家のお仕着せに着替えると、厩舎に向かった。

 「アンドレ、今日はお休みをいただいたんじゃないのか。もう少しゆっくりしていればよかったのに」
 厩でオスカルの馬の手入れをしていたジャンが、いつも通りの時間に姿を現した彼に言った。
 「いいんだ、手伝わせてくれ。今日は馬車じゃないのか」
 「ああ、一人だから馬で行くとおっしゃってな」
 ジャンはアンドレに馬の手綱を手渡しながら言った。アンドレの先輩にあたる人の良い厩番は、心配そうな、何か言いたげな表情でしばらく彼の様子を見守っていたが、小さく首を振ると言葉をのみ込んだ。

 「用意はできたかな、ジャン」
 懐かしい声が響く。振り返ると、厩の入口に立ち朝日を背に受けているオスカルの姿が彼の目に飛び込んできた。心が一挙に彼女の方になだれ込んでいくのが分かる。
 「アンドレ、いたのか。もっとゆっくりしていればよかったのに」
 そう言いながらちらりとアンドレのお仕着せ姿に目をやったオスカルの瞳に、微かな失望が走った。しかし逆光のために、彼には彼女の表情がよく見えなかった。
 「オスカル、今日はすまない。こんなに忙しい時に」
 「かまわん。一日くらいおまえがいなくても、何とかなる」
 「書類の整理は明日まで置いておいてくれれば、俺がやるよ」
 「ああ、そうだな。もし誰か手があいていれば手伝ってもらうが、無理かもしれない」
 無味乾燥な言葉のやりとり。こんなことが言いたいのではない。だが、自分に何が言えるというのだ? 縁談など受ける気はないのだと。死ぬまでおまえの側にいたいのだと……。

 「おまえも、今日はゆっくりしてくるといい。いつもおまえにはよく働いてもらっているから……」
 最後は消え入るような曖昧な微笑みを残して、彼女は朝の光の中へ消えていった。

    
5. Le Bonheur −Fin −











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