2008 12/13
文 ラーキーさま

Passion

13. La Resolution 〜決心〜



 「お嬢様、まだお休みでございますか」
 遠慮がちに朝の訪れを告げるばあやの声に、オスカルの意識は深い眠りの底からゆっくりと浮き上がった。ここ最近ずっとそうであるように、夕べも思うように寝付けない夜を過ごした。頭の芯に、まだ鉛のように重い睡魔が張り付いている。それでもその日の朝は、いくぶん気持ちが軽かった。その気分がどこから来るのか、最初は自分でも分からなかった。ぼんやりした頭で考えをめぐらせているうちに、それがアンドレからオションの娘との破談を聞かされたことによるものだと思い至った。それと同時に、いつまでも宙ぶらりんなままで決着の付かない自分の結婚問題が、重苦しい枷のように心にのしかかる。

 彼女が直談判に乗り込んだ父は、何を言ってもジェローデルと直接話をしろとの一点張りで話にならなかった。そんな二人のやりとりを悲しそうな顔をして見ている母の姿が、彼女の余裕のない心にさらに追い討ちをかける。肝心のジェローデルは簡単に諦めてくれる気配などさらさらなく、ただいつまでもお待ち申し上げますと言うだけだった。

 「ゆうべもまたお休み前にブランデーを……。いくらお酒が強いといっても、そのうちお体にさわるのではないかと、ばあやは心配でございます」
 テーブルの上のボトルやグラスを片付けながら、ばあやは最近ではお決まりになった小言を言った。しかしお嬢様の健康を案じる彼女自身の方が、その日はよほど色艶の悪い顔をしていた。
 「ああ……ばあやが心配するから少しは控えようと思ったのだが、夕べもなかなか寝付けなくてね」
 気だるそうに起き上がった彼女は、ばあやの顔を見ると言った。 
 「なんだか今日はやけに顔が腫れぼったいな。どこか具合でも悪いのか、ばあや」
 「いいえ、とんでもない。あたしのような意地悪な年寄りは、殺されたって死にやしません。あたしも夕べはお嬢様の真似をしてお酒を少しばかりいただいたので、そのせいでございましょう」
 そんな憎まれ口を叩きながら、慣れた手つきで朝の準備をしていた彼女は、何でもないところでふと手を滑らせてグラスを取り落とした。グラスはやわらかな敷物の上に落ちたために、鈍い音を立てただけで、かろうじて割れずにすんだ。
 「あらまあ、申し訳ありません」 
 そう言いながらあわててグラスを拾おうとして、今度は分厚い敷物の端で小さくつまずいた。

 「大丈夫か、ばあや。疲れているんじゃないのか?」
 オスカルは心配そうにばあやの顔をのぞきこんだ。皺に囲まれた彼女の顔には、色濃い心労の色があらわれている。
 「人間耄碌するとろくなことはありませんね。まったく歳は取りたくないものございますよ」
 ばあやはそんな軽口で自分の失態を混ぜ返したが、その口調と裏腹に彼女の表情は一向に冴えなかった。その横顔をじっと見ていたオスカルは言った。
 「ばあやの心配の種は……もしかしてアンドレのことか? アンドレは……ジャルジェ家を出て行くつもりなのか?」
 「いいえ、そんなことは」
 ばあやはあわてて答えた。
 「あいつはばあやに何も言わなかったのか」
 「いいえ、あたしには何も……あの子ももう立派な大人ですから……」
 その言葉尻は不安定に揺れてる。だが物思いに沈んだオスカルは気づいていないらしかった。

 しばらくすると、再びオスカルは言った。
 「アンドレは縁談を断ったのだろう?」
 ばあやの目に一瞬当惑の色が浮かぶ。
 「はい……。何が気に入らなかったのだか、あたしたちにはもったいないほどのいい縁談でございましたのに……。人間は夢ばかり追って生きていけるものではありません。それぞれ持って生まれた身分相応の運命に従うのが道筋ですのに、あの子ときたら……」
 彼女は半ば独り言のようにそう言ってため息をつくと、はっと思い直したように言った。
 「いえ、でもそんなことはお嬢様に気に掛けていただくようなことではございません」
 「……だったら、ここを出てどこへ行く? どうせ行く当てなどないのだろう?」
 「ええ、でもお嬢様、あの子のことはもう本当に……」
 「ばあや。アンドレのことは案ずるな。あいつはきっとここを出て行ったりはしない……出て行かせたりしないから」
 何事かを思いめぐらすように、オスカルはゆっくりと言った。
 「お嬢様。お嬢様はお嬢様の将来のご幸福のことだけをお考えくださいまし。それがばあやの幸せでございます」
 だが再び物思いに沈んだオスカルに、ばあやの言葉は届いていないらしかった。



 「やあヴィクトール、最近ではわれわれのことはすっかりお見限りかい?」
 ぼんやりとカフェの片隅に腰掛けていた彼の前に、見慣れた顔が立っていた。
 「シモン」
 どこか遠い世界から戻ってきたばかりの異邦人のように、彼はつぶやいた。
 「おいおい、よしくれよ。そんな超俗的な顔は君らしくないな」
 「そうとも限らないよ。人間は案外世間的な顔とは違う部分に真実の自己を秘めているものだ」
 古い友人の前でそんな軽口を叩きながら、彼は自分の意識がゆっくりと現実の世界に戻ってくるのを感じた。
 「なるほど、そんな理屈が言えるようならまずは大丈夫だ。で、どうなんだい? 例の一件は」
 無遠慮に彼の前に腰掛けた男は、顔なじみの店の男にブランデーをふたつ注文すると、背もたれに深く凭れかかり、足を組んだ。
 「昼間からブランデーかい? わたしは付き合わんよ」
 「お堅いことを言うべからずだ。こんなところで蟄居しているところを見ると、今日はどうせ非番なんだろう?」
  「まあね……そんなところだ」

 昔から貴族の子弟のたまり場で、彼自身長年なじんできたこんなカフェに昼日中からぼんやりと座っていたのでは、まるで自ら望んで周囲の好奇心の餌食になりに来たようなものだと彼は遅まきながら思い至った。だが、そんなことはもはやどうでもいいような気がした。それとも重苦しい心の枷から逃れ、俗世の刺激を求めるために自分はここにやってきたのか。
 シモンと呼ばれたこの男は、彼と同じく貴族の二男坊として気ままな独身生活を送った挙句、最近ようやく結婚したばかりだった。誰に対しても都合のいいことばかり言うために、世間では愛すべきお調子者だと思われている。だがそれはあまりにも感じやすい心を恥じて隠そうとする彼独特の羞恥心から生じたもので、根は実のある、気のいい男であることを、長年の友人である彼はよく知っていた。結婚しても相変わらずの洒落者で、最新の流行をさりげなく取り入れた衣服のセンスは独身時代と少しも変わっていなかった。
 「君の方こそどうなのだ? 生来の遊び人がついに身を固めた感想は」
 「おやおやさっそく逆襲かい? その手には乗らないよ。僕の結婚生活など話して聞かせる特別なことはなにもない」
 「なぜ。君みたいな男が身を固めるには、それ相応の心境の変化があったのじゃないのかね?」
 「は。結婚など、最初から定められた予定調和のひとつさ。しかるべきときが来ればしかるべく身を固めるようわれわれは運命づけられているんだ。そんなことは君とて百も承知だろう? そんなふうにカマをかけるところを見ると、何か心に迷いが生じたかい?」
 男はそう言いながら、彼の顔をしげしげと見た。その瞳にはわずかに同情の色合いが混ざっている。
 「よしてくれたまえ、そんな憐れみの目で見るのは」
 「憐れんでなどいない。それは君のひがみだろう。ある意味、僕は君がうらやましいのだよ。無謀な情熱に身を任せられるその一途さがね。もっともその情熱が成就したときの獲得物は実に大きいわけだ。類まれなる美と才を兼ね備えた細君と―――おそらくベルサイユ中の男たちが、口先では陰口を叩いたり揶揄したりしながら、君をうらやむことだろうよ―――そして伯爵家の地位と財産……」
 むっとした表情を見せた彼に、男はあわてて言った。
 「おっと、気を悪くするなかれ。以前の君なら、笑って聞き流していた類の冗談だぜ」
 「ふん…」
 正鵠を得た男の言葉に、彼は思わず苦笑した。
 「まったく人間変われば変わるものだ……。だが実際、あんな傑出した女性は世間にそうそういるもんじゃない。いろいろな意味でね。なんというか……あれは一種の奇跡だね。そうでなければ神の気まぐれか。その奇跡を手中にしようとするのだから、君は……」 
 「身の程知らずの大馬鹿者かね」
 友人は呆れたように言った。
 「おいおい、君らしくもない。今度は自虐嗜好かい。いやはや、これは相当な重病だな」
 そう言って苦笑しながら、男は運ばれてきたブランデーのグラスを傾けた。彼もつられてブランデーのグラスに手を伸ばした。琥珀色の液体が喉を焼き、ゆっくりと五官に染みわたる。その瞬間、強いブランデーを一気に流し込んだあの夜の彼女の姿が鮮やかに脳裏に浮かび上がった。紅い唇と、潤みを帯びた瞳。彼の胸に凭れかかる細くしなやかな肩。体の奥からこみあげる甘美な熱。……だが次の瞬間、苦い自嘲が胸に広がる。

 自ら望んですべてをぶち壊しにするような、性急で浅はかな行為に出た。だがそうでなかったとして、彼がもっと利口に立ち振舞っていたとして、何かが変わったのだろうか? 彼が愚かな凱歌を上げながら、絶望のどん底に突き落とした男の青ざめた顔が思い浮かぶ。しかし、夕べは……。

 我知らず物思いに沈みこんだ彼を見て、友人はやれやれというように肩をすくめた。
 「正直言って、君がそんなパッションを内に秘めた男だとは、これまでついぞ思い至らなかったな。炭火の燃えカスのような熱意しか持ち合わせていないわれわれなどは、実際哀れなものだ……これは真面目な話だよ」
 わずかに沈んだその口調には、相手を慰撫するような響きが混ざっている。
 「パッションか……。人は自らの情熱のために、どこまで自分を犠牲にできるものかね」
 まるで独り言のように彼はつぶやいた。
 「それはまた……唐突な質問だね」
 ふだんの彼らしからぬこんな質問に、友人はいつも通り軽く混ぜ返すべきか、真面目に答えるべきか一瞬迷ったらしかった。そして後者を選んだ。  
 「だがそれは違うだろう。人は情熱のために自己を犠牲にするのではなくて、情熱によって生かされるのじゃないかね」
 「満たされようのない情熱だ。人生を破滅させるほどの、絶望的な」
 「おいおい、世の中の女は彼女ひとりじゃないぜ。何もそこまで……」
 「わたしのことじゃない」
 「いったい誰の話をしているんだ?」
 「例え話だよ。幼少期から情熱の……人生のすべてであったものが、ある日突然奪われるのだ。抗う手段すらない容赦のないやり方で。君ならどうする?」
 「えらく漠然とした話だな。それは恋愛の話かい? だったら抵抗する。それでも無理なら諦める。それ以外に方法があるか?」
 「君らしい明快な答えだ」 
 「そういう君ならどうするのだ?」
 「わたしなら……さあ、おそらく無様にあがいて、でも結局はあきらめざるを得ないのだろう。だがもうひとつ別の道がある」
 「なんだね」
 彼は自分の考えをまとめるようにゆっくりと言った。 
 「最愛の者を奪われないようにするにはどうすればいいか? 万策尽きた男はある日自問するのだ……諦めることなど到底できない。だが取り戻すこともできない」
 彼の脳裏に、昨晩の光景が浮かび上がった。

 結婚宣言以来、数日振りに黒髪の男と出会った。あの夜以来―――いやそれ以前から、男の姿を見かけることはほとんどなかった。おそらく男は意識して彼を避けていたのだろう。だがその日の男は、まるで無防備に彼の前に姿を現した。ひどく気遣わしげな様子で眉根を寄せ、うつむき加減に歩いてきた男は、彼の存在にまったく気づいていないらしかった。
 「アンドレ・グランディエ」
 とっさに声を掛けられて、男ははっとしたように顔を上げた。数日前に見たときより少し肉が削げたせいだろうか、男の風貌はいっそう精悍さを増している。だがその男らしい風貌のなかに僅かに病的なものが潜んでいることを、彼は見逃さなかった。暗く沈んだ男の瞳に浮かぶ微かな驚き。もっと強い反応を想像していた彼の予期に反して、その表情はすぐに消えた。男は教育の行き届いた良家の使用人らしく、彼に丁寧な会釈をすると、そのまま通り過ぎた。

 ただそれだけのことだった。それだけのことが、彼の心に強烈な違和感を呼び起こした。心のうちに燃え盛る溶岩を抱えながら、良家の使用人の顔を取り繕っていた以前の彼とはあきらかに違う。もっとも憎むべき相手であるはずの彼の存在は、男の視野からいつの間にか消えていた。いったい男の心理にどんな変化が生じたというのか。

 友人は何か言いたげに身を乗り出したが、すぐに思い直したらしく、ふたたび背もたれに凭れかかると根気よく彼の話の続きを待った。
 「おそらく、諦めることなどありえない。彼は……たとえばこんなことを考えないだろうか? これまで誰にも汚されないように大切に守り育ててきた。それを今さら他人の手に渡してしまうくらいなら、いっそ……」
 「いっそ……なんだね?」
 彼は言葉を吟味するように一瞬黙りこむと、言った。
 「……もうずいぶん前のことだ。覚えているかね? 侯爵令嬢と恋仲になった出入りの商人の青年が、彼女に持ちあがった結婚話に絶望して無理心中を図った。令嬢はすんでのところで命を取り留め、青年だけが亡くなった。侯爵家ではただの事故死として、真相を覆い隠そうと躍起になっていたがね」
 「ああ……そんなこともあったかな。それで、何が言いたい? 彼女と恋仲の男がいて、そいつが君の結婚の邪魔をしようとしているとでも?」
 彼は友人の問いを否定も肯定もしなかった。
 「いったい誰の話しをしてるのだ? まさか……」
 友人はふと核心に思い当たったかのように言った。
 「もしかして、昔からいつも彼女に付き従っているあの黒髪の従者のことを言っているのか?」 
 「単なる想像だよ……」
 「世間では昔から二人の仲をとやかく言うものもあったようだが……君だってそんな下賤な噂は信じていまい? しかも心中だなんて、いまどき小説のネタとしても時代遅れの三文事件など、流行らんよ。人間誰しも、いざとなったら身分相応というものをわきまえて正しく行動するものさ。どうかしているのは相手の男ではなくて、君の頭のほうだ」
 「そうかもしれない」
 「よろしい。素直でけっこうだ。よし、これではっきりした。今の君に必要なのは、美しき婚約者どのの尊顔を拝みに行くことではなくて、すべてを忘れて適度な気晴らしと休息を取ることだ」
 「そんなものかな……」
 彼は気がなさそうに生返事をした。
 「どうも煮え切らんな。まったくもって君らしくない。ともあれ、まずは君の頭の中に詰まった下らぬ妄想の種を一掃しなければいかん。今日は一日僕に付き合いたまえ」
 そう言うと、友人はいつもの陽気で調子のいい顔に戻った。そうしてなかなか腰を上げようとしないジェローデルを、強引に他の店へと連れ出した。



 「おい、アンドレ。あっちで隊長殿がお呼びだぜ」
 突然背後から聞こえたその声に、遠くを彷徨っていた彼の意識は現実に引き戻された。振り返ると、不機嫌そうな顔をしたアランが腕を組み、開け放った入り口に仁王立ちになっていた。
 「何の用だ? 書庫に行くとさっきちゃんと言って出たのに。まだこっちの整理が終わってない」
 「そんなこと、知るもんか。てめえらの勝手な用事なんぞ」
 ぶっきらぼうに答えた男は、同時にちらりと上目遣いで彼の様子を伺った。自分の感情を隠すには不器用で正直すぎるこの男が、ここ数日それとなく彼の様子を気にかけていることは彼自身も気がついていた。この単細胞な男にまで心配されるほど、自分は尋常でない様子をしているというわけか……。そんなことをぼんやりと考えながら、自分を客観的に見る余裕がまだ自分の中に残っていることを、彼はひどく不思議に感じた。

 「この分だけ確認したら、すぐに行くよ。残りの分の整理は、そうだな……明日以降でもいいだろう」
 そう言って立ち上がりながら、彼はふと、もう自分に明日は来ないのだということを思った。
 「それともアラン……続きを頼まれてくれるか?」
 「んなわけねえだろうが。俺だって忙しいんだぜ」
 「だろうな。まあ俺がいなくても……なんとでもなるさ」
 そう言って彼は小さく微笑んだ。相手の男は一瞬、どことなく腑に落ちないような、釈然としない表情を見せたが、すぐに言った。
 「とにかく、俺はちゃんと伝えたからな。あとは勝手にしやがれ。まったく人を使いっぱしりに使いやがってよ」

 悪態を吐きながら去っていく男の後ろ姿が消えると、それまで彼の周囲にわずかに漂っていた人間らしい空気が急速に凍りついた。重く閉ざされた胸に、どす黒い思念が抗いようもなく湧き上がる。

 あの男は今日も晩餐に訪れるのだろう……。きらびやかな衣装に身を包み、自信と優雅さと威厳に満ち溢れた態度で。ジャルジェ家の誰もが男の訪れを歓迎し、もはや引き返すことなどあり得ない道を、男は着実に歩んでいる。容姿と人柄と身分をすべて兼ね備えた、ジャルジェ家にとってもオスカルにとっても、完璧すぎるほどに完璧な求婚者。いまさら彼女がひとり抗ってみたところで、どうなることがあるだろう。彼女の運命を最終的に決めるのは、彼女の意志ではなくジャルジェ将軍の一言だ。いや、すべてはもうとっくに決まってしまったのだろう。だが彼にはそれを知るすべもない。

―――もう後戻りすることはできない。
 司令官室への道を辿りながら、彼は何度となく自分に言い聞かせた言葉を、再び心の中で繰り返した。 

 彼女は今夜、晩餐に同席しないかもしれない。それでもあたり前のように晩餐はとり行われ、あの男はジャルジェ夫妻から家族同然に迎えられる。彼女の部屋に向かうのは、晩餐が終わってから……あの男がジャルジェ家を辞してから、と決めていた。
 苦悶の跡を微塵もとどめない、眠ったように美しい彼女の顔。そして彼女を抱きしめたまま事切れた自分の浅ましい姿。ジャルジェ家の誰もが彼女の悲運を嘆き、自分の非道を糾弾するだろう。どれだけ非難され軽蔑されてもかまわない。人々の憎悪とともに地獄の底に落ち、永遠の煉獄でもがき苦しむことが自分が受けるべき当然の報いだから。
 だが永遠に穢れのない彼女の美しい亡骸を、あの男にだけは見せたくなかった。

 中庭にさしかかったとき、彼の暗い思考を断ち切るように一陣の突風が巻き起こった。木々の梢がざわざわと乾いた音をたてる。無意識のうちに木々の高みを見上げた彼の目に、四角く切り取られた空の深い青が鮮やかに焼き付けられた。この季節にしては、珍しいほどの晴天だった。己が罪を浄化するかような、どこまでも深く澄んだ青。それは強い意志と慈悲を湛えた彼女の瞳のようだと、彼はとっさに思った。出合ったその瞬間から、彼を捉えて離さなかった。おそらくその死の瞬間まで……。

 「何をぼんやりと見ている」
 はっとして振り返った彼の眼に、日の光を受けて輝く黄金の髪が飛び込んできた。天上から突然地上に舞い降りた天使のように、彼女は微笑みながらそこに立っていた。胸が詰まるような思いで彼はかろうじて答える。
 「ああ……空が高いなと思って」
 彼につられて同じように空を見上げた彼女は、眩しいものを見るように目を細めた。
 「本当だな。美しい空だ……。まるで気が付かなかった」
 そして小さく笑うと言った。
 「きっと気持ちに余裕がなかったんだな」

 どこかはにかんだようなその笑顔を、子供の頃から彼にだけ向けられてきた屈託のない笑顔を、永久に自分のもとにとどめておきたいと、彼はその瞬間強く願った。だが次の瞬間。この笑顔を見るのも今日が最後なのだという思いが、唐突に胸を刺し貫いた。心臓から流れ出す、おびただしい鮮血。

 ―――けれどもそれはこの愛を、彼女の美しさを、永遠に穢れのないままとどめることではないか? 
 目の前の愛しいものへの愛惜と、耳元で響く抗いがたい死の誘惑。

 おそらく彼は無意識のうちに食い入るように彼女を見つめていたのだろう。少し面映そうに彼女が言った。
 「なんだ、わたしの顔に何かついているか?」
 「いや……綺麗だなと思って」
 彼女はわずかに当惑したように視線をそらした。
 彼女への賛辞を、彼女への愛を包み隠さねばならなかった日々はもはや無意味になった。彼女の愛を求めてもがいた日々も、焼け付くような嫉妬も絶望も……ともに分かち合った喜びさえも。明日になれば、すべてが永遠の虚無の中に消え去っていることだろう。
 「おまえの髪……日の光に映えてきらきらと輝いている」
 「アンドレ」
 わずかに視線を逸らしたまま、何かを思い定めたような口調で彼女が言った。
 「わたしたちはいつも一緒だった……子供の頃から。これからも、どこへも行かないだろう?」

 二人でともに生きることができれば、何もいらない。何も望まない。己が彼女を愛するのと同じだけ、彼女に愛し返されたいという願いさえも。
―――だがすべてはもう遅い。
 そう囁きかける声が、再び耳元で聞こえた。

 「ああ……どこへも行かないよ。これからもずっとおまえのそばにいる」
 彼はゆっくりと、落ち着いた声で答えた。彼女は安心したように、再び小さく微笑んだ。



 彼女の生命の輝きを瞬時に終わらせるはずの白い粉末は、あっけないほど簡単に深紅の液体に溶け込んだ。最高の装いに身を包んだ鏡の中の男の顔は、死人のように青ざめて、まるで地獄から這い出てきた亡者のようだ。この世界との訣別をわずかばかりでも美しいものにするために、彼女の最期を少しでも穢さないために、馬鹿馬鹿しいほど念入りに整えた正装は、ただ己の醜さと愚かしさを彼に見せつけるだけだった。それでも彼は長い時間をかけて神に祈りを捧げた。彼女の彼岸での幸福を願って。

 末期の水は、深紅の輝きを放つ馴染みの酒と最初から決めていた。彼が彼女の部屋にワインを運び、そのグラスを彼女が受け取る。それは何百回、何千回と繰り返された平凡な日常のひとこまに過ぎなかった。あの男がジャルジェ家を訪れるまで。
 久しぶりの彼の訪れを、彼女は喜んで迎えるのだろう。そしてかけらほどの疑いをも抱かず、彼の手から毒の杯を受け取るのだろう。彼女が彼に寄せる全幅の信頼。子供の頃から大切に育んできたその信頼を、自分はもっとも残酷なやり方で裏切るのだと……それを知った瞬間の彼女の絶望と悲嘆を思ったとき、彼の心臓は再び血の涙を流した。

 ―――決して苦しませはしない。最後の最後まで力の限り抱きしめて、無限の愛のうちに死ねるのだときっと確信させてやろう。だから俺を許してほしい……。
 愛の陶酔が麻薬のように、一瞬心の痛みを和らげる。だが頭のどこか片隅で覚醒したままの彼の意識が、己の偽善を嘲笑った。

 二度と戻ることのない自分の部屋を、振り返りもせず彼は後にした。すでに晩餐の片付けが終わったらしい厨房のあたりは、しんと静まり返って何の物音も聞こえてこない。周囲の気配を注意深く伺いながら、彼は足早に彼女の部屋に向かった。願わくば祖母とだけは顔を合わせたくなかった。年老いた祖母の顔を見てしまったら、限界まで張りつめた彼の心が壊れてしまうかもしれないから。
 まるで宙を歩いているような浮遊感。彼女の部屋の前に着いたとき、彼は自分がじっとりと嫌な汗をかいていることに気が付いた。

 いつものようにドアをノックして、いつものように彼女の部屋に入る。しかし肘掛椅子に座った彼女は分厚い本を手にしたまま、こちらを振り向こうとしなかった。
 「オスカル……?」
 テーブルの上にワイングラスを置こうと彼女の前に回った彼は、彼女が泣いていることに気づいた。とっさに彼女が手にした本の表題に目をやる。
 「この本……昔、たしかおまえに薦められて読んだことがあったな」
 そう言いながら、彼女は重厚な装丁の『ヌーベル・エロイーズ』を示してみせた。
「昔はちっともいいと思わなかったのに……。なのにどうしてだろう? 胸が締め付けられるようで、さっきから涙が止まらないのだよ」
 そう言ってはにかむように微笑みながら、彼女は頬を拭った。

―――何故だ? 何故その本を読んでお前が泣く?―――

 彼はざわめき立つ心の波を無理やり押さえつけると言った。
 「ワインを持ってきた」
 「ああ、メルシィ。おまえがワインを持ってきてくれるなんて、本当に久しぶりだ」
 彼女の瞳に浮かぶ、穏やかな喜びの色。その素直な感情の発露が、鋭い刃のように彼の心を突き刺した。
 「それにしても今日は一体どうしたんだ、そんな格好をして」
 ふと気づいたように、彼女が言った。
 「今日は二人の記念日だから……」
 カラカラに渇いた喉の奥からかろうじて声を絞り出すと、彼は苦し紛れの言葉を口にした。こんな下手な言い訳に、一体誰が納得するだろう。
 「記念日……?」
 だが彼女は穏やかに微笑むと、それ以上追求しようとはしなかった。おそらく彼女はその言葉の意味を、彼女なりに受け取ったのだろう。二人がともに歩んだ人生の終わりの日としてではなく、二人の新たな始まりの日として。そんな彼女の心情を考えるだけの余裕は、今の彼にはなかった。彼はただ、彼女がそれ以上何も聞いてこなかったことに安堵の胸をなでおろした。

 「人間は死期が近づくと子供に帰るというけれど……」
 ワインのグラスを指先で弄びながら、彼女は自分が辿るべき運命を知っているかのようにつぶやいた。彼女の手を食い入るように見つめていた彼の心臓は、予期せぬ言葉に跳ね上がった。
 「最近はなぜか昔のことばかり思い出すのだ……夜更けに一人で部屋に座っていると」
 彼女は手にしていたグラスを再びテーブルの上に置くと、足を組みなおして肘掛椅子の背に深くもたれかかった。 
 「まだ士官学校も終えていないのに、国王陛下に任命されて近衛隊に入隊したのがうれしくて……アントワネット様付きの近衛仕官に選ばれたのがうれしくて……命に代えても未来のフランス女王をお守りするのだと自負していた。父上がわたしにかけられた期待を裏切らないために、ずっと振り返らずに走り続けた……。自分の目の前には洋々たる未来が広がっているのだと信じて疑わなかった……」
 遠い日々を振り返るように、懐かしそうな口調で彼女が言った。その瞬間、彼の脳裏にも若い日々の光景が鮮やかに蘇る。だが何気ない彼女の一言が、彼の心を再び容赦のない現実に引き戻した。
 「ふふ……おかしいだろう? なぜ今頃になってこんな昔のことばかり思い出すのだか。まったく、こんな調子ではわたしも先が長くはないぞ」
 彼女の無邪気な言葉が、天の声のように彼の罪を糾弾する。彼女は唇に笑みを浮かべていたが、ふと真面目な顔つきになると言った。
 「あの頃は、まるで自分ひとりの足で立っているつもりで……誰にも頼らず自分の力だけで未来を切り開いていくのだと思っていた。本当はわたし自身の力など、微々たるものでしかなかったのに」
 彼女は答えを求めるかのように、彼の方を見た。しかし彼が難しい顔をして押し黙っているのを見ると、すぐに目をそらした。彼女は気詰まりな沈黙を紛らわすかのように、再びワイングラスに手を伸ばした。
 「昔も今も……いつもおまえがそばにいて、わたしを支えてくれた……。それなのに、わたしはおまえに甘えるばかりで、おまえのために一体何をしてきたというのだろう……?」
 彼女はワイングラスを手の中で傾けながらつぶやくようにそう言うと、再び彼の方を見た。だが彼は彼女が何を言っているのか、もはやよく理解できなかった。彼のすべての感覚は、ただひとつの巨大な目となり、ワイングラスを持つ彼女の手に注がれていた。彼女の瞳に軽い失望の色が浮かんだことも、彼は気が付かなかった。

 「なんだか今日は我ながら調子はずれだな。あんなしめっぽい小説を読んだせいかもしれん」
 彼女の言葉には軽い自嘲の響きが混ざっていた。そう言いながら、彼女は手にしていたワインを一気にあおろうとした。彼女の一挙一動を食い入るように見つめていた彼の頭は、その瞬間真っ白になった。
 「飲むな!!」
 その刹那、自分が何をしたのかさえ彼には分からなかった。ただ夢中でそう叫ぶと、飛びつかんばかりにしてワイングラスを叩き落としていた。気が付いたときには、ワイングラスははじけ飛んで粉々に砕け散り、すぐ目の前に呆然とした彼女の瞳があった。
 「アンドレ……?」
 床に飛び散った禍々しいほどに紅い液体と、彼女の顔をゆっくりと見比べると、彼はようやく事態を理解したかのように大きく息をついた。そうして倒れこむように後ろの椅子に腰を下した。
 「アンドレ、どうしたのだ一体……?」
 彼を最初に捉えたのは、深い安堵の念だった。彼女の命が無残に失われなかったことへの。

―――俺は何をしようとしていたのだ……?。

 次第に冷たくなっていく彼女の肉体……永遠に閉じられた瞳……もはや何も語ることのない彼女の唇。自分が何度も思い描いた―――熱烈に憧れさえした地獄絵をまざまざと思い浮かべ、彼はそのおぞましさに身震いした。

―――俺は一体何をしようとしていたのだ……? 自分の苦しみにかまけて、ひどく思い上がって……愛を成就させるためには、死すらも許されるだって? なんという傲慢、なんという自分勝手な……! 

 彼は慙愧の念に打ち震えながら、オスカルを見た。彼女の唇は何か問いたげにわずかに開かれている。驚愕と不安とを浮かべた彼女の瞳は、それでもなお抑えがたい生命の輝きをたたえて輝いていた。その輝きを彼は美しいと思った。

 「アンドレ……?」
 「驚かせて悪かったな……なんでもないんだ。すぐに片付けるから。」
 彼は砕け散ったワイングラスの破片を手早く拾い集めた。鋭い破片が指にささり、かすかな痛みとともに指先から血がにじみ出る。だが今の彼にはその痛みがかえって心地よかった。
 「すぐに代わりのワインを持ってきてやるから」
 彼はそういい残すと、呆然としているオスカルにそれ以上問いかける隙を与えず、足早に部屋を後にした。


―――おまえが俺の目の前にいて、こうして生きている。その奇跡のような幸福以上に何を望むことがあるだろう……? 

 廊下をゆっくりと辿りながら、彼は自分の心が不思議に澄み渡っていくのを感じていた。これまで深い霧がかかったように絶望のフィルターを通してしか見えなかったすべての物事が、次第に鮮明に見えはじめた。
 彼女を手にかけることなど、できるはずがなかった。そんなことは最初から分かりすぎるほど、分かっていた……。ただ彼の理性も感情もすべてを破壊するほどの激しい苦痛から逃れるために……麻薬患者が薬の力でほんの一瞬でも苦い現実を忘れ去ろうとするように、心に取り付いた死の誘惑にいっときの救いを求めようとした。彼女をほかの男の手には決して渡さないと……彼女を自分だけのものにしておくのだと……そう考えて自分の苦しみを紛らわすことに頭が一杯で、彼女自身の人生や幸福を考えようともしなかった。
 彼は愚かで身勝手な幻想にすがろうとした自分の弱さと醜さをあざ笑った。

 彼女の瞳が永遠にその輝きを失う日が来るなど……彼女の唇が何も語らなくなる日が来るなど、俺には何があっても耐えられない。彼女の命を永遠に失うことに比べれば、この世に何を恐れることがあるだろう? 俺の思いが永遠に成就しないとしても、それが何ほどのことだというのだろう? 彼女が他の誰と結婚しようとも、誰を愛そうとも……。 
 その瞬間、彼女と寄り添う貴族の男の姿が思い浮かび、切り裂くような痛みが胸に走った。しかし彼は小さな笑みを浮かべてその痛みをやり過ごすと、すべての迷いを胸の奥深くに封じ込めた。

 おまえの命がある限り……おれは何があっても耐えていける。たとえこの愛が永遠に報われないとしても。―――その思いはひとつのゆるぎない確信のように彼の胸に広がっていった。
 おまえがおまえらしく輝いていられるのならば、おれはどこまでもおまえの盾となり、おまえを守っていくだろう。この命が尽きるまで……。

13. La Resolution ―Fin―













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