2007 5/26
文 ラーキーさま

Passion

12. Le Mensonge 〜嘘



 ジャルジェ家の庭に馬車が入ると、彼女は待ちかねたように馬車を降りて厩舎に向かった。だが探し人の姿は見当たらない。屋敷に向かおうとしたとき、車止めに置かれたジェローデル家の馬車と、御者台からずり落ちそうになって居眠りをしている御者の姿が目に入った。彼女はすぐさま踵を返すと、正面玄関に回らずに、普段召使たちが使用する裏口から屋敷に入った。使用人たちが忙しく立ち働いている厨房の前は通らず、控えの間から通り抜けるつもりだった。だが運悪く途中でばあやに出くわした。

 「まあ、お嬢様。こんなところでいったい何をなさっているのです。確かに馬車が戻ってきたのに、お嬢様が一向に姿を見せられないので、どうなさったものかと」
 「ばあやか。アンドレに用があるのだ。アンドレはどこだ?」
 「まあまあ、帰っていらっしゃるなり何事でございますか。それより、もうすぐ晩餐のご用意が出来ます。さっきからジェローデル様がお待ちになって……」
 「晩餐には同席せん! 昨日もそう言っただろう。それよりアンドレは? 夜勤明けで先に屋敷に戻ったはずだ。それとも今日もまたふらふらと遊び歩いているか」
 ばあやの顔がわずかに曇る。
 「アンドレならさっき戻ったようでございますが、さて、どこに行ったのやら。お嬢様をほうっておいて先に帰ってくるなんて、あの役立たずが、あたしは情けのうございます。お嬢様の身に万が一のことでもあったら……」
 「ああ、そんなことはどうでもいい。疲れているようだから、わたしが先に帰したのだ。どこに行ったのか本当に知らないのか?」
 オスカルが久々に見せる利かぬ気の強い表情。その顔を見て抵抗しても無駄だと諦めたのか、ばあやは小さなため息をつくと、しぶしぶ答えた。
 「アンドレでしたら、ずっと自分の部屋に……。いけませんよ、お嬢様! ジェローデル様との晩餐をすっぽかしておいて召使の部屋に行くだなんて、とんでもない。お嬢様はもう男の召使の部屋になどお立ち入りになってはいけません。少しはお立場をお考えくださいませ。お急ぎのご用件でしたら、わたくしがすぐに呼んでまいりますから」
 「かまわぬ、わたしが行く。言っておくが、ジェローデルに遠慮する必要など金輪際ないからな」
 「お嬢様!」
 ばあやの制止を無視して、彼女はアンドレの部屋に足早に向かった。




 それは思いもかけない人物の突然の訪問だった。
 その日、夜勤明けで疲れ切った様子のアンドレを、彼女は追い立てるように屋敷に帰した。これまで夜勤明けの日でも、特別な用がない限り、アンドレが彼女を一人残して先に屋敷に戻ることはなかった。だがその日の彼は、意外なほどあっさりとオスカルの言葉に従った。かすかな安堵とともに、胸を掠める寂寥感。みぞおちのあたりを重苦しく塞ぐもやもやとした塊。
 今日もアンドレはいつもどおりに仕事をこなし、いつもどおり平静に振舞っていた。だがここ数日の彼の憔悴振りは、長年彼のそばにいる彼女には痛いほどに感じられた。そしてそれが、おそらくはジェローデルの結婚宣言から発しているということも。

 何があろうと、父上がなんと言おうと結婚などしないと。だから安心しろと。面と向かってそう言いたかった。だがそんな傲慢なことをどうして自分が言えるだろう。彼の愛を知りながら、無視し続けてきた。そうして彼をとことんまで苦しめてきた。結婚はしない、だから自分のそばを離れないで欲しいと。いまさらそんなことを。他の女性を娶り、新しい人生を歩み始めるかもしれない彼に、いまさらどうしてそんなことを言えるだろう。ジェローデルの言うとおり、この先一生涯彼を束縛し続ける権利など、自分にあるはずがない。彼の選びとろうとしているものが、たとえ愛のない結婚だとしても……。重苦しく塞がった胸に鋭い痛みが走る。

 ―――そんなふうに考えることすら、自分の傲慢ではないか。彼がいまだに自分を愛しているなど……それこそ、滑稽な思い込みに過ぎないのではないか―――

 オスカルの口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。
 一昨日の休日の前夜、オスカルとともに帰宅したアンドレは、その後すぐにどこかへ姿を消した。そしてその夜はとうとう戻ってこなかった。翌日ばあやにアンドレの居所を尋ねると、オション家に招待されているのだという。アンドレはその日も夜遅くまで戻ってこなかった。
 オションの娘は美しく気立ての良い女性で、アンドレのことを心から好いているのだという。娘の愛がいつか彼の心を癒すことも、新しい家庭が彼の支えとなることもあるだろう。彼には誰よりも人に愛され、誰よりも幸福になる資質がある。それなのに彼の優しさに甘え続けて、彼の幸福を妨げてきたのはほかならぬこの自分だから。苦しみと絶望しか与えることのできぬ自分などのそばに居るよりも……。

 オスカルの苦しい物思いを断ち切ったのは、兵士が司令官室に届けた一通の手紙だった。裕福そうな商人から預かったというその手紙の署名を見たとき、彼女ははっとした。
 ―――突然このような手紙を差し上げるご無礼を、昔からの馴染みに免じてどうかお許しいただきたい。数日間商用でパリを離れる前にちょうど近くに立ち寄る用件があったので、この機会にアンドレ・グランディエの件で、彼に内密に話をしたいことがある―――
 そのような旨を記した簡単な文面の最後には、香料商人オションの名が、実務家らしい几帳面な筆跡で書かれていた。彼女はすぐさま、オションを呼ぶように兵士に伝えた。おそらくオションはいくばくかの心づけを兵士に約束していたのだろう。兵士は嬉々として司令官室を後にした。いつもはそばにいるはずのアンドレが今日に限って不在であることが、なにかの運命的な符合のように感じられた。
 
 ほどなくしてさきほどの兵士に伴われたオションが姿を現した。久しぶりに見るオションの善良そうな風貌と、柔らかな物腰は昔と変わっていなかった。かつてのようにオション自身が御用聞きにジャルジェ家に出入りすることはなくなっていたが、彼の店は今でもジャルジェ夫人のお気に入りだった。パリに立派な店を構えるまでになったオションの店は、良心的で品物が良いと貴族たちの間でも評判だった。オスカルも何かの機会に、アンドレとともにオションの店に立ち寄ったことがある。オションの娘に会ったことは、おそらく一度もないと思う。だがこの堅実で誠実な男の娘ならば、きっとまっとうで気立てのよい娘に違いない……。オションに椅子を勧めながら、オスカルはぼんやりとそんなことを考えていた。

 一通りの挨拶を終えたあと、オションは緊張した面持ちで切りだした。
 「手紙にも書きましたように、グランディエさんの件で……。今日はグランディエさんはこちらには?」
 「彼は夕べ夜勤だったので、今日は先に屋敷に戻りました」
 「そうですか。それはちょうどよい時に伺いました。……実はあなたさまにこのようなお話をしてよいものかどうか、お仕事中に訪ねたりしてご無礼にあたらないかどうか、ずいぶん迷ったのですが」
 「アンドレはわたしの乳兄弟で、本当の家族のようなもの。彼のことでしたら、何事も遠慮なくおっしゃってください」
 恐縮している様子のオションを励ますように、オスカルは微笑んだ。そう言いながら、彼女は自分が脇の下にいやな汗をかいていることに気づいた。まるで死刑宣告を受ける直前の囚人のように、これから下される容赦ない判決を聞きたくないというとっさの感情に襲われる。アンドレの結婚が正式に決まったと……。

 「そう言っていただけて安心いたしました。やはり娘の見立ては間違っていなかったのですな。実はフロールが……わたくしの娘が、是非ともオスカル様のお耳に入れるべきだと申しまして。ジャルジェ様は使用人をたいそう大切になさるご家風で、オスカル様もきっと慈悲深いお方に違いないからと」
 会話の流れが見えなかった。オスカルは曖昧に微笑むと、黙ってオションの話の続きを待った。
 「失礼ながら、オスカル様はグランディエさんの目の件はご存知で?」 
 「目? 彼が事故で失った左目のことですか?」
 「いえ、そうではなくて右の目が」
 「右の目? 右の目がどうしたというのです?」
 彼女の瞳に、瞬時に険しい色が浮かんだ。オションは一瞬戸惑った様子だったが、意を決したように言った。
 「彼の右目が徐々に衰えていくかもしれないと……。事故の衝撃の後遺症で、最悪の場合は右目の視力も失われるかもしれないと。ジャルジェ家の主治医のお医者様にそう言われたそうです」
 「なんですって?」
 オスカルは衝撃のあまり、それ以上口をきくことが出来なかった。オションが慌てて言った。
 「いえ、もちろんそうと決まったわけではないのです。それでもグランディエさんは、お屋敷でのお勤めに支障をきたす前に、いずれジャルジェ家を辞して郷里に帰るつもりだとおっしゃいまして。オスカル様……ご気分でも?」
 「いや、何でもありません。どうぞ続けて……」
 「実はこのことはグランディエさんに堅く口止めされたのです。しかし、彼があまりに思いつめた様子でしたから、わたくしどももたいそう心配になりまして……。オスカル様ならきっとあの方のお力になって下さるのではないかと」
 厳しい表情で黙りこんだままのオスカルの様子を見て、オションが恐縮したように言った。
 「出すぎたことを申し上げました。どうかお許し下さい。本来ならばわたくしなどが口出しするようなことではないのですが。なんと申しますか……短いお付き合いでしたが、グランディエさんはどうもただの他人だとは思えませんで……。今回このようなことで、残念ながら娘との縁談は破談になりましたが」
 オスカルがふと顔を上げてオションを見た。
「娘もわたくしも心からあの方のお幸せを願っております。あのように立派な青年が……本来ならばこれから家庭を持ち、子を成し、一家の主として幸福な人生を歩まれるところでしょうに……お気の毒なことです。ただの杞憂であればよろしいのですが……」
 オションが沈痛な面持ちで言った。その言葉がオスカルの胸に突き刺さった。




金属製の皿の上で、小さな炎がまるで生き物のように揺れていた。炎が勢いよく燃え上がり、やがて消えていくたびに、彼はこれまで大切に育んできたすべてのものがひとつずつ失われていくような気がした。炎は彼の心臓を焼き、その裂け目からあふれ出る鮮血のように古い紙片に纏わりつく。そしてまたひとつの古ぼけた手紙を手に取ると、彼はそれを開いて読んだ。
 ―――親愛なるアンドレ―――若々しい筆跡で綴られたその手紙には、近衛隊に入隊して間もない頃の希望と不安が、飾り気のない言葉で綴られていた。あの当時、毎日顔を合わせていても、二人の間には尽きることなく語られる夢や希望があった。ともにわかちあう不安や戸惑いがあった。大人になるにつれ二人が手紙のやり取りをすることはなくなっていったが、彼はオスカルから受け取った手紙をすべて大切に文箱にしまい込んでいた。中でも特に印象深いその手紙を読みながら、彼は一瞬遠い過去へと連れ戻された。希望と光に満ち溢れた、美しくのほろ苦い青春の日々。何ものにもかえがたいその過去を、あえて断ち切るように手紙を炎にかざそうとして、ふと手を止めた。少し迷ったあと、彼はその手紙を手荷物の中にしまいこんだ。
 やがて彼は、残り少なくなった文箱の底に、一冊の分厚い書物があることに気づいた。それはかつてパリの市民たちが競って手に入れた廉価な装丁のヌーベル・エロイーズだった。何年か前に読んだきり、どこにしまい込んだのか分からなくなっていた。わずかに古びたその本をぱらぱらと繰ると、ページの間から一枚の紙が滑り落ちた。

 ―――おまえに薦められて読んでみたが、わたしにはどうも感傷的すぎる気がしてあまり共感できなかった。パリ市民が感傷的になったのか、それともわたしの感性が不足しているのか?  
 
 冗談まじりにそう書かれたオスカルの走り書き。ジャルジェ家の書庫にも同じ本があったはずだが、彼はわざわざ自分の買った本をオスカルに貸したのだった。記憶から消えかけていたオスカルのその短い感想は、今の二人の関係を暗示しているように感じられた。
 他愛もない恋愛小説だとあの男は言う。彼のように恵まれた身分の人間には、なぜこの本がこれほど多くの人々に愛され共感されてきたのか、永遠に理解できないのだろう。そして貴族の青い血を継承すべく生まれた彼女もまた……。

 締め付けられるように胸が痛み、息が苦しくなる。その痛みを紛らわすように機械的にページを開き、そこに書かれた文字を目で追った。やや冗長にすぎるその物語は、無意味な記号の集合のように少しも彼の頭に入ってこなかった。しかし物語の後半を当てずっぽうに開いて文字を追ううちに、この本を読んだ当時の胸苦しさとある種の高揚感が蘇ってきた。過剰な感情に溢れたその物語は、次第に彼の心を捉えはじめた。ひりひりと焼け付くような胸の痛みも忌まわしい未来も忘れるほどに、彼は物語の中に引き込まれていった。
 

 どれくらいの時間が経ったのだろう。物語の悲恋が彼の中に呼び起こしたおぼろげな願望が、かげろうのように定まらぬ姿をちらりと現したときだった。彼の思考は突然の物音に断ち切られた。急いで近づいてくる聞きなれた足音。遠慮のないノックの音。それが誰のものであるか、彼にはすぐに分かった。
 「アンドレ、中にいるのだろう? 入るぞ」
 彼の返事を待たずに、性急に開かれる扉。彼はまぶしそうに目を細めて彼女を見た。それまで薄暗い中で細かな文字を追っていたせいだろうか、その姿はひどく歪んで見えた。

 「何を……している?」
 彼の部屋に無遠慮に足を踏み入れた彼女は、取り散らかされた部屋の様子を見ると、硬直したように立ち止まって言った。
 「いらないものを少し処分しておこうと思ってね。荷物を整理していたところだ」
 「まさか……本当にここを出て行くつもりなのか? アンドレ……」
 だが彼はそれには答えず、手に持っていた書物を静かにテーブルの上に置いた。彼の動きにつられるように、彼女の視線が機械的にその本の上に落ちた。
 「何かあったのか。珍しいな、おまえがこんなところに来るなんて」
 その言葉に気を取り直したように、オスカルが言った。
 「今日お前の留守にオションが訪ねてきた」
 「オションが?」
 「オションから聞いた。アンドレ、ラソンヌ先生のところに行ったのか? おまえの右目が見えなくなるかもしれないと……本当に先生はそう言ったのか?」
 そう言われて、彼ははじめて二日前のオションとの会話を思い出した。
 「ずいぶんと情報が早いな。オションも意外と口の軽い男だ」
 「誤魔化すな! わたしの質問に答えろ。どうしてわたしに何も言わなかったのだ? そんな大事なことを……どうして」

 彼女の瞳はわずかに潤みを帯び、その唇は戦慄いている。彼はその口元を見ながら、ふと遠い過去に連れ戻されたかのような錯覚に陥った。あれはいつのことだったか。彼女がひどく激昂して彼に詰め寄ったことがあった。彼にストレートな激情をぶつける彼女の潤んだ瞳。戦慄く唇。彼女の感情を雄弁に物語る勝気で魅惑的な唇……。彼はしばしの間、彼女の震える唇にぼんやりと見とれていた。
 「アンドレ! 黙ってないで答えろ」
 「ああ…。あれは嘘だ」 
 夢の世界から突然引きずり出された人のように彼は言った。
 「嘘?」
 「おれはラソンヌ先生のところになど行っていないし、だいいちおれが傷を負ったのは左目で、右目はどこも傷ついていない」
 「じゃあ……なんだってそんな嘘を……」
 「そう言えばオションも納得するだろうからさ」
 「どういうことだ」
 「誰だって、いずれ盲目になると分かっている男に娘をやりたくはないだろう。オションが目のことを聞いてきたんで、とっさに思いついた。これですべてが丸く収まる。我ながら知能犯だと思うがね」
 そう言いながら、彼は自嘲的な笑みを浮かべた。

 つまらぬ嘘をついてしまったと自分でも思う。何をどう切り出すかなど考える余裕もなく、祖母に言われるままにオション家を訪ねた。これ以上あの善良な父娘を欺き続けることは出来ない。それだけははっきりしていた。だが嬉々として彼を迎えた二人の幸福そうな顔を前にして、本当のことなど言えなかった。他に愛している女がいると。最初から縁談の話を受ける気などさらさらなかったのだと、彼に全幅の信頼を寄せる彼らに、どうしてそんな残酷なことが言えるだろう? とっさに自分でも思いもしなかった嘘が口をついて出た。

 ―――だが思いつきで放たれたその言葉は、いずれ真実となるかもしれない。

 絶望的な未来の予感が、鋭いガラス片のように彼の心をえぐる。彼女の結婚式がとり行われる頃には、自分はもうここにはいないだろう。そしてオションに語ったとおり、この右目が永遠に失われる日が本当に来るかもしれないのだから……。
 底なしの深淵に落ちて行きそうな自分の意識を、彼はかろうじてつなぎ止めた。

 「縁談を……断るために嘘をついたというのか……?」
 「ああ」
 「なぜ……」
 「愛してもいない女と結婚するなんてできない」
 彼ははっきりとした口調で言った。オスカルははたと口をつぐんだ。その瞳にはかすかな当惑の色が揺れている。それは貴族社会の厳然とした掟に服従しようとしている彼女の、自分自身への戸惑いのように彼の目には映った。

 ややあって、気まずい沈黙を打ち破るように彼女が言った。
 「だからといって、そんなすぐにばれるような嘘を……。もう少し他にやり方があるだろう。おまえらしくないぞ」
 「なぜ? ばれないさ」
 「オションはお前が郷里に帰るものと思って……。まさか、アンドレ……本当に故郷に帰るつもりなのか?」
 彼は虚ろな笑みを唇の端に浮かべると言った。
 「いまさら故郷に戻っても、おれを迎えてくれる人間は誰もいないよ」
 「だったら……!」
 そう言いかけて、ふたたびオスカルは口をつぐんだ。
 
 彼女は何か言いたそうな様子でしばらく躊躇していた。何かを訴えかけるような青い瞳。その眼差しが彼の意識を再び過去へと引き戻す。子供の頃からいつだってそうだった。本当に悲しいとき、本当につらいとき、本当に訴えたいことがあるとき、彼女は内面に深く沈みこみ、何も語ろうとしなかった。憂いと不安に閉ざされる瞳。そんなとき、彼はいつでも彼女の思いを汲み取り、彼女の傷を癒すようにそっと手を差し伸べてきた。こみあげるもどかしさと愛おしさ。
 そして今、彼女の瞳にゆれる不安が意味するものを、無言の訴えが意味するものを、彼はその瞬間はっきりと読み取った。
 ―――わたしを置いて出て行くな、と。

 ―――おまえがそう望むなら、おれはどこへも行かない。おまえを悲しませることは決してしない。おれは一生涯をおまえに捧げ、おまえに寄り添って生きるべく生まれてきたのだから―――
 自分を取り巻く過酷な現実が、瞬時に消え去ったかのような錯覚に彼はとらわれた。重苦しい枷が取り払われ、心がすっと軽くなるような安らぎが広がる。

 だが突然の暗転が訪れる。彼の滑稽な思い込みを、独りよがりの愛情を、彼の希望のすべてを打ち砕く容赦のない現実が。
 「お嬢様、こちらにおいでですか? 失礼します」
 扉からマロンが小さな姿を現した。彼女は部屋の中の様子を見て一瞬驚いた様子だったが、すぐに平静を取り戻して言った。
 「晩餐のご用意ができました。ジェローデル様がお待ちです」
 「うるさいな。行かぬと言っているだろう!」
 「そう申し上げましたが、今夜はどうしてもと奥様が」
 「母上が…?」
 「はい、奥様がお嬢様をお呼びするようにと」
 オスカルは小さく舌打ちをすると、わずかに逡巡するようなそぶりを見せたが、すぐに意を決してきびすを返した。心配そうに見守る祖母のわきをすり抜けるように部屋を出て行くとき、ちらりと彼の方を振り返った。しかしその瞳からは、もはやどんな言葉も読み取れなかった。


 薄暗い部屋に一人取り残された彼はベッドの上に仰向きになり、死人のように微動だにしなかった。
 彼女にすべてを捧げ、一生涯彼女に寄り添うべく生まれてきた……それは彼の血の中に刻み込まれた、誰にも変えることの出来ない宿命のはずだった。運命の導きによってこの屋敷を訪れ、オスカルと出会った。愛さずにはいられなかった。それが自分に与えられた運命だから。
 ならば、何のために神は彼女を自分から引き離そうとするのか? いったい何のために? 貴族の血を受け継いでいないという俗世の下らない事実のためだけに? そんな取るに足らない下らないことのために、神は自分から彼女を奪い、この心臓を生きながらに引き裂こうとするのか……。  
 生ぬるい涙が頬をつたって耳元まで流れ落ち、彼は自分が泣いていることに気づいた。流れ落ちるほどに心を切り裂き、身を破滅させる血の涙が。
 
 ―――もうたくさんだ……すべてを終わりにしよう。
 心の声がふと漏らした言葉に、彼ははっとして耳を傾けた。

 ―――そうだ……すべてを終わりにしよう。運命の槌が振り下ろされる前に、俺自身のこの手で。
 彼は闇の中で、自らの手を透かすようにかざして見つめた。

 人生のすべてを、この血の最後の一滴まで彼女に捧げても、それでもこの世では決して結ばれない運命だというのなら、この愛が俗世の泥にまみれて汚れてしまう前に。貴族社会の取るに足らぬ掟に縛られ、彼女が他の男のものになってしまう前に、この愛を解き放とう。死によってしか結ばれぬ宿命であるのなら、死によってこの愛を成就しよう。たとえそれが神に背き、人の道に背くことであったとしても……。

 闇の中で微笑みかける悪魔の囁きに、彼は一瞬陶然となった。それは断末魔の苦痛を和らげる麻薬のように彼を痺れさせ、彼の心を苦しみから解放した。




 「アンドレ、いるのかい? 入るよ」
 ノックの音とともに遠慮がちな祖母の声が聞こえ、扉が開かれた。小さくなった蝋燭の火がちろちろと燃え残るだけの暗い部屋に、明かりが差し込む。闇の中で石像のようにじっと座り込んでいた彼は、ゆっくりと祖母の方を振り向いた。散らかっていた部屋はすでにきれいに片付けられ、部屋の片隅には小さな荷物がひとつ置かれている。部屋の様子を見渡した祖母は言った。
 「アンドレ……おまえ、さっきからいったい何をしていたんだい? 部屋をひっくり返して、荷物をまとめたりして。まさかここを出て行くつもりじゃないだろうね……?」
 問いかける祖母の瞳は不安に慄いている。
 「おばあちゃん、ごめん……。もうおれはここにはいられないよ」
 「ここにいられないって、おまえ、そんなに急に……いったいどういうことだい?」
 
 ―――愛する者を手をかけよと彼の中の悪魔が囁く。この醜悪な悪魔が自分の喉を食い破って暴れだす前に、彼女からこの身を引き剥がさねばならない。

 「……縁談を断ったんだ」
 「縁談を? どうして……」
 「愛してもいない女と結婚するなんて、俺には出来ないよ。おばあちゃん、分かってくれ……」
 悲しみと諦めの色が祖母の瞳に浮かんだ。彼女は小さなため息を吐くと言った。
 「そう……やっぱり駄目だったのかい……。いいお嬢さんだったのに、本当に仕方がない子だね……」
 そう言いながら彼女は愛する孫の頭を子供のように抱きしめた。
 「おまえがそんなに嫌なら、縁談のことはもういいんだよ。だけどおまえ、何もそんなに急にここを出て行くことはないじゃないか。おまえが辛いのはわかるけれど」 
 「おばあちゃん、おれは未来のご主人様に狼藉を働いた男だよ。……本当はもっと早くに縁談をことわるべきだったのに、ここを出て行く決心がつかなかったんだ。でももう気持ちに整理がついたから」
 そう言って彼は寂しげに微笑んだ。祖母の目に当惑の色が広がる。
 「おまえ……じゃあ、ジェローデル様にあんなことをしでかしたから、それでここを出て行くつもりなのかい」
 「旦那様はおれの狼藉を黙って見逃してくださったんだろう? なのにおれは旦那様がせっかく用意してくださった縁談を反故にしたんだ。いつまでもここにいるわけにはいかない」

 しわに囲まれた祖母の目にみるみる涙が溢れ、彼女は彼のひざに突っ伏して泣き出した。
 「おばあちゃん、どうしたの急に」
 「許しておくれ……おまえがそんなふうに思いつめてたなんて……。おまえを苦しめるつもりはなかったんだよ……ただあたしはおまえに幸せになってもらいたくて……」
 すすり泣きの合間に漏れ出る言葉。彼は祖母の小さな背中を優しく撫でながら言った。
 「おばあちゃん、それじゃあ分からないよ……落ち着いて、ちゃんと話して」
 「旦那様はおまえとジェローデル様のことは何もご存じないんだよ……。旦那様がすべてご承知だなんて、あれは嘘なんだよ」
 「嘘…?」
 「あの縁談はオションさんが直接あたしのところに話を持ってきて……あたしが旦那様にお願いして返事の手紙を書いていただいたんだ……。旦那様のご紹介なんかじゃない。ああでも言わないと、おまえはきっとまた縁談を断ってしまうから……」
 涙ながらに語る祖母の言葉は、不思議と何の驚きも彼の中に呼び起こさなかった。
 「おばあちゃん、もういいよ。どのみち同じことだから。どのみちおれは……」
 祖母は涙にぬれた皺だらけの顔を上げると言った。
 「アンドレ、わかっておくれ。いつまでも昔のようにお嬢様のおそばにいられるわけじゃない。おまえがいくらお嬢様をお慕いしたところで、世の中にはどうしようもないこともあるんだよ……」
 「そんなこと分かってるよ、おばあちゃん……」

 ―――この世の中でどうしようもないことを、人の道に背いてでも捻じ曲げようと望んだ。自分の中に芽生えたこの抗いがたい欲望が、再び理性を飲みつくそうと頭をもたげる前に。取り返しようもなく彼女を傷つけてしまう前に。

 「もしおまえがここを出て行きたいんなら、それでもいい。おまえが幸せにさえなってくれれば、あたしはそれでいいんだ。だけど、こんなに急に……どこへも行くあてなんかないんだろう?」
 「だけど、おれはもうオスカルのそばにいない方がいいんだよ……」
 搾り出すように言った彼の言葉を、祖母はまったく違った意味に受け取った。
 「辛いのかい……? だけど、いいかい、自暴自棄を起こすんじゃないよ。もし本当にここを出て行くんなら、あたしが旦那様にお願いして新しい奉公先を紹介していただくから。おまえならどんなお屋敷に行っても重宝されるよ……。紹介状もなしにここを飛び出しても、こんなご時世にまともな仕事なんて見つかるものかね。それにお嬢様だって、おまえが今急にいなくなったらきっとお困りになるよ……。おまえも辛いだろうけれど、最後のご奉公だと思ってしばらく辛抱しておくれ……いいね?」
 「わかったよ、おばあちゃん……」
 「今日はゆっくり休んで、明日もう一度ゆっくり考えるといいよ。おまえ、このところまともに眠ってないんだろう? あとで温めたワインをもってきてあげるから、それを飲んで今日はぐっすりお休み……」
 「ああそうするよ。ありがとう、おばあちゃん……」



 彼はふたたび闇の中に取り残された。
 そのとき彼の心を満たしていたのは、自己嫌悪でも絶望でもなく不思議な安堵だった。これで明日もまたオスカルのそばにいることができる……。だが自分は彼女からこの身を引き離そうと決意したはずではなかったか。矛盾だらけの相反する感情。混乱した思考。
 彼女と離れて生きるなど、最初からできるわけがなかった。ここを飛び出しても、永遠に彼女の面影を振り払うことなど出来はしないだろう……。ならば、彼女の面影を抱いたまま、どこか行きずりの町で野たれ死ぬか。彼女を失うことに比べれば、死ぬことなど問題ではない。だが―――。彼は闇の中で目を見開いた。
 彼のいなくなったこの屋敷で、彼女を抱く男の手。ただ貴族に生まれついたというだけのことで、彼女のすべてを手に入れることのできる満ち足りた男の手。彼女はどんなふうに男の愛を受け入れるというのか……。焼くような嫉妬が、再び彼の心に業火を燃え上がらせる。

 死ぬまで自分のものにならない女を、誰の手にも渡さないために。最後に彼女を思うさま抱きしめて、その最期の息吹を飲み込んで。ただそれだけのために。

 力なく横たわる肢体、青ざめた顔、口元からあふれ出る鮮血。これまで何度も頭をよぎったアンナの恋人の姿が、自分自身の姿と重なり、そしてオスカルの姿と重なった。何か言いたげにかすかに動く唇。彼を魅了し続け、そして彼を拒絶し続けた唇。その唇を強く吸い、彼女の命の最期の息吹を飲み干す。決して自分のものにはならぬ女を抱きしめたまま、自分も息絶えることが出来たなら……! それもひとつの愛の成就ではないか……。

 彼はそのとき、目前にまざまざと地獄絵を見た。


12. Le Mensonge ―Fin―











inserted by FC2 system