2007 4/25
文 ラーキーさま

Passion

11. Le Poison 〜毒〜



 目が覚めたとき、まだ覚醒しきらない彼の網膜に真っ先に飛び込んできたのは、古びた窓枠に小さく切り取られた鉛色の空だった。寒々とした空はどんよりと重苦しい雲に覆われていたが、日はすでに高く昇っている。

―――今何時だ? オスカルの馬の準備は……

 とっさにそう考えて、あわてて起き上がった。そのとたんに体のあちこちに痛みが走り、彼は小さな呻き声をあげた。狭いベッドで、彼の隣に横たわる女の寝乱れた褐色の髪が眼に飛び込んでくる。彼は自分がどこにいるのか理解できず、一瞬の間呆然と女の姿を見つめていた。すると、彼の動きで目を覚ましたらしい女が、ゆっくりとこちらを向いた。
 「アンナ……」
 「あんた、もう起きちゃったの? まだ早いわよ……」
 「アンナ、俺はいったい……。ここは?」
 そこまで言うと、彼は口をつぐんだ。気だるそうに身を起こした女は、下着一枚しか身に纏っておらず、しどけなく肌蹴られた胸元からは豊満な胸が露わにのぞいていた。彼はとっさに視線をそらした。彼自身も上半身は何も身につけていなかった。彼の愚行は、聞かずとも明らかだった。
 「あんた自分が何をしたか、ぜんぜん覚えてないの? まあ、ひどく酔っ払っていたからね」
 女はそう言いながら無造作に胸元をかき合わすと、ベッドからするりと抜け出た。床の上に乱雑に脱ぎ捨てられたローブやペチコートを拾い上げると、男に背を向けてゆっくりと身に着け始めた。彼の上着とクラバットだけは、なぜか椅子の背にきちんと掛けられている。それらを見ているうちに、昨夜の断片的な記憶が少しずつよみがえってきた。

 女の店で酔いつぶれるまでしたたかに飲んだ。いつもはいくら飲んでも酔えない酒が、夕べは疲れ切った体にまるで恵みの雨のように染み渡った。そこからの記憶はひどくあいまいで断片的なものだった。自分の名を呼ぶ女の声。何度も転びながら、誰かの腕にすがって暗い路地を歩いた。体の節々の痛みは、そのときのものか。這うようにして昇った狭い階段。上着を脱がされて、ベッドに倒れ込んだ。だが記憶はそこで途絶えている。

「どうやら、君にひどく迷惑をかけてしまったらしいな……。すまない、アンナ」
 苦い自己嫌悪にとらわれながら、彼は言った。これまでいやというほど味わってきた。燃え盛る溶岩の固まりのような欲望の解放のあと、自分がひどく下卑た男に成り下がったような感覚。愛する女を永遠に手に入れることも諦めることもできないゆえに、幾度となく繰り返した愚かな行為。愛のないただの肉体の結合に、どんな喜びがあるというのか。だが自分の体の下で偽りの嬌声を上げる女の髪に、肌に、白い乳房に、かの人の面影を追い求めずにはいられなかった。永遠に自分のものにならない女は、永遠に他の誰のものにもなりはしないのだと……たとえ夢の中であっても、幻であっても、こうして彼女を抱くのは自分だけなのだと、何の根拠もない確信だけが彼の心の支えだった。あの男がジャルジェ家に現れるまで。
 男の勝ち誇った顔が脳裏によみがえり、みぞおちに鉛の玉を打ち込まれたような苦痛に彼は顔を歪ませた。正式な結婚の許可……国王陛下への報告。彼女が、他の男のものになる。あの貴族の男と結婚して、あの男に抱かれるなど……!
  
 黙って男の様子を伺っていた女は、鼻先でふふんと笑うと言った。
 「だいぶ滅入っているようね。あとになって謝るなんて、男としては最低よ。だったらあんた、夕べの償いに何をしてくれるの?」
 「何でも……君の気が済むように言ってくれ」
 彼はあらぬ方向を見つめたまま、搾り出すような声で言った。
 女はそれには答えず乱雑に取り散らかされた部屋の中を片付け始めたが、ふと思いついたように言った。
 「ねえ、アンドレ。だったら、わたしと一緒に死んでくれる?」
 「え?」
 彼は驚いて女の顔を見た。まるでちょっとした悪戯を持ちかけるように軽い調子で放たれた女の言葉。しかしその口調とは裏腹に、女の眼は笑っていなかった。その瞳の奥にある計り知れない深淵が、彼の心を不吉に波立たせた。
 「ふふ……冗談よ。そんなに深刻にならなくてもいいわ。あんた夕べは酔いつぶれて、途中で寝ちゃったのよ。それより鏡で自分の顔を見て御覧なさいな。今にも地獄に飛び込んでいきそうな思いつめた顔をしているわよ」
 そう言いながら、女は小さな手鏡を、無造作にベッドに投げてよこした。わずかに歪んだ鏡の中に浮かび上がる男の顔は、まるで亡霊のように青ざめて生気がなかった。目の下は青黒い隈に縁取られ、ただ赤く充血した片方の眼だけがギラギラと異様な光を放っている。
 自分はいつからこんな死人のような形相をしていたのだろう? 深く安らかな眠りは、もう何日も彼を訪れていなかった。酒をあおって倒れ込むように貪る短い眠りの後、彼は重い頭を抱えて仕事に出掛けた。白昼にふと意識が遠くなり、幻のような夢を見ることがあった。しかし夜になると、焼け付くような猜疑と嫉妬とどす黒い怒りが彼を苛み、彼から一切の休息を奪い去る。こんなふうになっても、毎朝決まった時間に起き出してオスカルの供をし、万事そつなく仕事をこなしている自分が我ながら不思議だった。いっそ気がふれてしまえば楽になれるものを、人間はどこまで強くなれるものなのか。一体いつまでこんな日々が続くのか。それは地獄の苦しみのようであり……同時に、彼女を永遠に失うまでの短い間、神が彼に与えてくれた最後の恵みのようでもあった。

 女が隣の小部屋で茶の仕度をしている間に、彼は衣服を整え、まわりを見渡した。窓側に彼が腰掛けている粗末なベッドが置かれ、部屋の中央に小さな木のテーブルと椅子が 二脚が置かれている。廊下側の壁には、古びた衣装箪笥。ドアをはさんでその反対側に置かれた棚には、小さな瓶がたくさん並べられている。棚の上の壁に掛けられた額縁の中には、悔い改めたマグダラのマリアと、彼女に祝福を与えるキリストの姿が描かれていた。女に不似合いなこんな宗教画にふと目を止めた彼は、ちょうどその下に、他の瓶の陰になるように置かれている珍しい形の小瓶に興味を引かれた。それは細かな細工を施した赤い小瓶で、こんな粗末な部屋には似つかわしくない、高価な細工物だった。

 「その瓶には触らないで!」
 小瓶を手に取ろうとした彼は、女の激しい口調に驚いて振り返った。
 「ああ、悪かった……。何か大事な思い出の品なのかい」
 女は黙って茶器をテーブルの上に置くと言った。
 「もし死にたくなったら、そのときはいつでもあんたに分けてあげるわ」
 「え?」
 「それとも、わたしと一緒に死んでくれる気になった?」
 「どういうことだ。これは……」
 そう言いながら、彼は心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じた。
「あんたには話したわね。ばかな優男がこれを飲んで死んだ……とびきり上等の毒薬よ」
 その言葉に、彼はすうっと冷たいものが背中に触れるような気がした。
 「毒薬……? どうしてそんなものがこんなところに」
 「言わなかったかしら? わたしの父は薬の商いをしていたのよ。他にもいい薬がたくさんあるわよ。麻薬だって、毒だってあるわ。でもこれが一番綺麗に、苦しまずに死ねるの」
 そう言って女は赤い小瓶を手に取ると、軽く振ってみせた。
 「父は一時はずいぶんと羽振りがよくてね。貴族のお屋敷にも出入りしていたわ。あんた、貴族のお屋敷に勤めてるんでしょ? 貴族の世界なんて、華やかに見えてもずいぶんと汚いものね。財産だとか、策略だとか、不義の後始末だとか……父は表向きはまっとうな薬屋を営んでいたけれど、そんなもののために裏ではずいぶんたくさんの毒薬を貴族たちに売ったはずよ……。
 「ふふ。馬鹿な亭主は人の財産をとことん呑みつくしたくせに、これらの薬を売れば大した金になるってことに気がつかなかったのね。父親のものでわたしの手元に残ったのは、ここにある薬だけよ。貴族でなくとも、これを欲しがる人間はいくらでもいるわ……」
 口元に微かな笑みを浮かべながら、日の光にかざすように赤い小瓶を透かして見た女の瞳には、暗い炎が閃いていた。
 「たとえば、横暴で大酒飲みの亭主を殺したがってる女房だとか」
 意味ありげな女の言葉の先に見え隠れする恐ろしい憶測に、彼は思わず身震いした。まさか、彼女が自分の夫を……? だがそうだとしても、誰が彼女を責められるだろう? 彼自身もまた心の底では、あの貴族の男の死を願っているのではないのか?

 彼はその赤い小瓶から目を離すことができなかった。まるで叶わぬ恋の誘惑のように、危険で絶望的な緋色。
 「あんた、これが欲しいの? 何だったら、あんたの恋敵を毒殺でもする? うまくやったら、ばれないわよ。あんた、その男に恋人を取られそうなんでしょ?」
 彼は驚いたように目を上げて女を見た。
 「なんだって、そんなことを。夕べ俺が何か言ったか?」
 「オスカル……」
 「え?」
 「オスカル、愛しているって。結婚なんかしないでくれって……あんた、わたしに何度もそう言って、泣いてすがったわ。変な名前ね、男みたい。それともあんた、男色なの? まさかね……」
 彼はわずかに青ざめ、言葉を失った。
 「あんた、そのオスカルさんとやらを抱いているつもりでわたしを抱いてたんでしょ。意気地なしね、なんでその女を抱かないの」
 夢の中でオスカルを抱いた。この部屋に連れてこられた記憶すら定かでないのに、あまりにも鮮やかに脳裏に刻み付けられたその肢体。酔いつぶれて寝込んだあとの、ただの夢だと思っていた。他の誰にも渡しはしないと、結婚などしないでくれと懇願しながら、彼女を思うがままに貪った。どこまでが現実で、どこまでが夢だったのか……。

 「そんなに好きなら、かっさらってしまえばいいのよ。なんでそうしないの」
 女の口調がわずかに激しているのが、混乱した彼の頭でも感じ取れた。
 「アンナ、君には本当に悪かったと思っている。何とでも、君の気が済むようにしてくれ。だがお願いだ、その話はもうやめてくれないか……」
 呻くように彼が言った。しかし女は妖しく輝く瞳に、誰に対してとも知れぬ怒りを浮かべながら言った。
 「やめないわ。歯がゆいのよ、あんたみたいな男を見ていると。あんたほどの男が毎晩場末の酒場で飲んだくれて、身代わりの女を抱いて失恋の慰めにしようなんて、いったいどうしちゃったの? しっかりしなさいよ。あんたが本気になったら、どんな女だってなびくわよ。いったい何を怖がってるの? 世間体? それとも命が惜しいの?」

―――そうだ……何を恐れることがあるだろう……? 彼女がいなければ、もはやどんな人生も未来も幸福もありはしないというのに。

 「奪ってしまえばいいのよ。女だってそれを待ち望んでいるかもしれないわ。それができないんだったら、きっぱり諦めることね。もしどっちもできないんだったら……」
 「だったら……?」
 雄弁だった女が、ふと黙り込んだ。その答えを待って女の顔を見つめる。女の瞳から光が消え、その端正な顔が冷たい無表情に覆われた。やがて女は吐き捨てるように言った。
 「生きてる価値なんてないわ。自分でけりをつけなさいよ」
 その言葉は、すとんと彼の胸の底に落ちた。

 「じゃあアンナ、俺が欲しいといったら本当にその薬を分けてくれるかい」
 女は彼の真意を確かめるように、まじまじとその顔を見た。やがてふと真面目な顔つきになると言った。
 「やめときなさいよ。やっぱりあんたにはこんな物騒な薬は似合わないわ」
 「ただのお守りだよ……。いつでも死ねると思えば、生きる勇気もわいてくるさ」
 そう言って彼は力なく微笑んだ。彼女は黙って男の顔を見ていたが、やがて小さなため息をひとつ吐くと、立ち上がって隣の部屋に行った。そしてすぐに小さな紙片と薬匙を持って戻ってきた。用心深く瓶のふたを取ると、中から白い粉末をひと匙すくい出す。彼女の手元を食い入るように見つめる男の顔をちらりと見ると、匙に盛った粉末を紙の上にあけた。そして慣れた手付きで紙を折りたたむと、彼に手渡した。
 「ありがとう、アンナ。薬の代金はちゃんと払うよ。高価な薬なんだろう?」
 そう言って財布を取り出そうとしたアンドレの手を、彼女は黙って押しとどめた。
 

 女の部屋を出るとき、彼は遠慮がちに尋ねた。 
 「アンナ、ひとつ聞いてもいいかな」
 「何?」
 わずかに躊躇しながら、彼は言った。
 「君は……恋人の後を追おうとしたことはないのか? でなきゃ、なんでこんなものをいつまでも手元に持ってる?」
 女はふふんと笑うと、答えた。
 「くずみたいな亭主と一緒に暮らしてたとき、死んだ方がましだって何度も思ったわ……。でも、一人でなんか、死んでやらないわ。あの人はきっとわたしが後を追うのを期待してたのよ。一緒に死ぬ勇気もなかったくせに。自分だって他の女と結婚したくせに、他の男と結婚したわたしにあてつけるように死んだのよ。だから、一人でなんか、死んでやらない。死ぬときはあんたみたいにとびきりいい男と一緒よ。そうしてあの世であの人を驚かせてやるの……。そうじゃなければ、泥の中を這い回ってでも生きて生きて生き抜いてやるわ。それがわたしを残して逝ったあの人への復讐よ……」

 冷たく言い放たれた言葉の中に、彼はいまだ癒されぬ女の悲痛な愛の叫びを聞いた。女を奪い去る勇気も諦める勇気もなく、絶望の果てに自らの人生に決着をつけた男と、愛に殉ずる覚悟と勇気を持ちながら、復讐のために生き続けている女と。

―――このまま、こんな風に生き続けることはできない。いずれは自分自身の手で、決着をつける日がくるのだろう。
  
 彼はポケットの中に忍ばせた小さな薬包を指先で確かめると、我知らずそんなふうに考えた。そうしてその言葉の意味する恐ろしい結末に我ながら身震いした。同時に、どんな地獄の苦しみもこの小さな薬包の中身ひとつで終わらせることができるのだと……永遠に叶わぬ愛も、身を焼くような嫉妬も憎しみも、すべてを永遠の虚無の中に葬り去ることができるのだと……そんな安堵がわずかに心を軽くするのを感じた。

 彼は表通りで辻馬車を拾うと、昨日からの祖母との約束通り、オション家に向かって馬車を走らせた。


11. Le Poison ―Fin―












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