2006 9/24
文 ラーキーさま

Passion

10. La Perte 〜喪失〜



 上空ではかすかな遠雷が響き、湿気を含んだ夜の空気が驟雨の到来を告げていた。
 「ひと雨来るかもしれないな……」
 窓際に腰掛けたオスカルは、暗い空を見上げながら独り言のようにつぶやいた。
 彼女とともに帰宅したアンドレは、今日もまたどこかに姿を消した。ここ数日はずっとそんな日が続いていた。オスカル付きの侍女の話では、いつも夜遅くに酒を飲んで帰ってくるという。彼が就寝前の飲み物を持って彼女の部屋を訪れることもなくなった。屋敷の仕事に関して、いつも人一倍厳しく孫に接しているばあやも、最近は何も言わずに彼の不在を認めているようだ。何気なく話題をふったオスカルに、ばあやは無造作に答えた。
 「あれもいい歳ですからね。いろいろと行く所があるんでございましょう。あたしなんぞの口出しすることじゃありません」
 アンドレは馬で出かけたのではないのか……。ひどい雨にならないうちに戻ってくればいいが。それとも本降りになれば、泊まっていけと引き止めてくれる家があるか。微かな心の痛みとともに、シニカルな笑みがオスカルの口元に浮かんだ。

 「さっきからわたしの話を聞いてませんね、オスカル……」
 彼女の優雅な求婚者が、優しい微笑みの中にごく軽い非難をこめて言った。 
 「あ? ああ、すまない……」
 男の声に、オスカルは現実に引き戻された。小じんまりと居心地よくしつらえられた居間の肘掛け椅子に男がゆったりと腰掛け、彼女を見つめている。テーブルの上には飲みかけのカフェがふたつ、所在なげに置かれている。なぜ自分はこんなところにいるのだろう……。いつも宵のひとときをともに過ごしてきたアンドレはいない。そして一年前はただの同僚だった男が自分の求婚者となり、いまこうして差し向かいで座っていることが、オスカルにはひどく不思議で不自然なことに感じられた。
 困った人だとでも言いたげに、男はわずかに首をかしげて小さく微笑んだ。その穏やかに澄んだ灰青色の瞳の中には、彼女への抑えがたい愛情が閃いている。男はもうその表情の中にも仕草の中にも、彼女への想いを隠そうとはしなかった。いつも優雅で冷静なこの男は、こんなふうに自分の感情をむき出しにする人間だったか。長年同僚として共に働いてきたのに、人間の本当の姿など分からないものだな……。そう考えるとなんとなくおかしかった。自分の心でさえ、分からないものを。
 「何がおかしいのです?」
 彼女の唇に浮かんだかすかな笑いを見て男が言った。
 「おまえのその目だ……。その目に今まで何人のご婦人方が騙されてきたことか」
 男は苦笑した。
 「騙されたとは人聞きが悪い。そんな趣味はわたしにはありませんよ。だが過去の申し開きはしません。過去は今のわたしにとって何の意味もありませんから」
 今の自分にとって大切なのはあなただけだと、雄弁なまなざしが語っていた。しかしオスカルは男の無言の求愛を敢えて無視するように、自分自身に言い聞かせるような口調で言った。
 「そうかな……。人間にはそれぞれに背負ってきた断ち切れぬ過去というものがあると思うが」
 男はふと真面目な顔つきになって言った。
 「では、あなたにとって断ち切れぬ過去とは何です?」
 彼女は小さく微笑んだだけで、男の問いに答えようとしなかった。ちょうどそのとき、雨が窓を叩く音が聞こえ、彼女は再び気遣わしげに窓の外に目をやった。夜気の中に充満した湿気は、大粒の水滴となって大地を濡らし始めた。


彼女の瞳に、小さな微笑が浮かんで消えた。わずかに近づいたような気がした……いつも彼の手を軽やかにすり抜けていく気まぐれな女神。だが次の瞬間、彼女の心は再び遠い世界に羽ばたいて行く。その心は一体どこへ向かっているのだろう……? 舞踏会の夜、むせ返る薔薇の香りの中で、ようやく彼女を腕の中に捉えたと思ったのに。あれは薔薇の精が見せた、ただの幻だったのだろうか。
 気遣わしげに窓の外に目をやった彼女の姿にかすかな痛みを感じながら、ジェローデルは静かに席を立った。それを見てオスカルが少し驚いたように言った。
 「今屋敷を出るのか? ひどい雨だぞ」

 心はどこか別のところにあるというのに、彼女はあたりまえのようにこんな気遣いを見せる。周囲の人間を気遣う優しさは、近衛連隊長だった昔も今も変わっていなかった。だがそれは恋に溺れる男にとって毒とも媚薬ともなり得ることを、彼女は知らない。
 漠然とそんなことを考えながら、彼はごくあたりまえの顔をして答えた。 
 「ご両親のお部屋にご挨拶に伺ってから帰ります。何かお話があるそうで、呼ばれているのです」
 「そうか。おまえも仕事で疲れているだろうに、毎日毎日ご苦労なことだな……。無駄な努力はやめて、いい加減にあきらめたらどうだ。今なら父上もおまえを引きとめはしまい。いい潮時だと思うぞ」
 彼女はまるで赤の他人の不幸に同情するような口調で言った。
 「あなたという人は、そんな残酷なことを事もなげにおっしゃる……。今のわたしには死ねというのと同じことですよ」
 言いながら、彼はいつものようにオスカルの手をとって口付けた。
 「あなたに身も心も捧げている哀れな男に、少しはご慈悲をくださる気になりませんか」
 彼は握り締めた彼女の手を自分の胸に押し当てるようにして言った。青い瞳が彼の目を見返す。
 「言っただろう。わたしに期待をするなと」
 彼はふっと笑みを漏らすと、オスカルの手を解放した。
 「ひとつ伺ってもいいですか」
 「何だ?」
 「あなたはずっと、何かと理由をつけてわたしと顔を合わせるのを避けておられた。それが今になってどういう風の吹き回しです? あなたと晩餐をともにできるのはわたしにとって大きな喜びですがね……いくらわたしが自信家だと言っても、あなたがわたしに都合がよいように心変わりして下さったとは思えませんが」
 「……つまらぬ画策をするのが面倒になっただけだ。あんな騒ぎのあった後だ、父上もじきに諦めるだろう。年寄りには少し薬が効きすぎたかもしれん。……だいいち……」
 「だいいち?」
 「おまえを避け続けたところで、自分自身の心から逃げることはできぬ」
 「どういう意味です? 迷いがあると……?」
 彼はその真意をさぐるようにオスカルの目を見つめた。
 「……そういうことではない。何度もいうが、わたしの気持ちは変わらない。君には申し訳ないが」
 だがその明快な言葉とは裏腹に、彼女の瞳が一瞬不安気に宙を彷徨ったのを彼は見逃さなかった。ふと心をかすめたいやな予感を打ちけすかのように、彼はわざとおどけた口調で言った。
 「ではあなたのその堅固な心を溶かす恋の媚薬を手に入れるために、わたしは何をすればいいのです?」
 「それはおまえの得意分野だろう。だがわたしには媚薬など必要ない。わたしがほしいのは真実だけだ」


 彼は慣れた手つきで裏口のかんぬきを閉めると、わずかにふらつく足元を小さな燭台で注意深く照らしながら、狭い通路を静かに辿った。車止めにはジェローデル家の馬車はすでに見当たらなかった。今夜の晩餐はとっくにお開きになり、あの男もすでに家路についたのだろう。男の圧倒的な存在から逃れるように毎夜パリの町に繰り出しながら、男の残していった痕跡をいちいち確かめずにはいられない自分がひどく惨めであさましい。
 前代未聞の不祥事となった舞踏会のあと、ジャルジェ家ではまるで何事もなかったかのごとくジェローデルを迎えての晩餐が続いた。かつてジェローデルが来ることが分かっている日には、オスカルは何かと理由をつけて職場を離れようとしなかった。彼女が露骨に求婚者の男を避けていることは、誰の目にも明らかだった―――舞踏会の日までは。だが今は違った。急ぎの仕事がないときは、彼女は普段どおり屋敷に戻るようになった。男を交えた晩餐にも、呼ばれれば同席している。
 何が彼女の心に変化をもたらしたのか。どす黒い疑心暗鬼は容赦なく彼を苛んだ。舞踏会の夜に何かあったのか。それとも男が彼女の部屋を訪れたあの夜か。あいつはおまえに何を言った? 何をした? そのことを考えるだけで、彼は叫びだしたくなるような衝動にかられた。
 今では二人きりになる唯一の時間である馬車の中でも、彼女はひどく寡黙だった。もっとも彼女以上に近寄りがたい空気をまとっているのは彼の方かもしれなかったが。時おり交わされる会話は、決まって無味乾燥な仕事の話か、あたりさわりのない世間のうわさ話ばかり。そうしなければ、もし自分の心の奥底に触れる言葉を一言でも発してしまえば、胸の奥に渦巻くどろどろが一気に噴出して、自分自身も彼女をも傷つけてしまいそうだった。今にも爆発しそうなどろどろとした溶岩を胸に抱えながら、彼は沈黙の殻で自らの心を厚く閉ざした。
 晩餐の後片付けが終わっていないのか、いつもなら静かになっているはずの厨房では、まだ人の気配が感じられた。彼は祖母と顔を合わすのを避けるために、厨房の前を通らず、控えの間を通りぬけて自室に戻ることにした。オション家から食事の招待を受けている彼は、今朝もその返答を祖母から促されたばかりだった。
 いまさらオション家へ出向いて行って、いったいどんな顔をして父娘と会えばよいというのか。すべてを忘れ、オション家の人間として人生をやり直すか。自分にそんなことができるのか。
 この縁談を断ったら、もうジャルジェ家にはいられなくなるのだろう。どのみち、あの男が彼女の夫になるかもしれぬジャルジェ家にとどまることなど自分にはできない。―――だが本当にそんなことが? 彼女が他の男の妻となり、他の男に抱かれるなど、本当にそんなことが……? 
 忌まわしい想像に耐え切れず、彼は控えの間に入って扉を閉めると、ずるずるとその場に座り込んで頭を抱えた。

激しい雨は屋敷全体を包み込むように暗い空から地上へと打ちつけた。オスカルはしばらくの間ぼんやりと窓の外に目をやっていた。数日前の舞踏会の大騒ぎが嘘のように、屋敷は落ち着きを取り戻していた。さぞや父上の逆鱗に触れるだろう、そのときは切り返す言葉の刃で、思うさま不満をぶちまけてやろうと心に決めていた。ところが翌日ただ一言、これ以上少佐の面目をつぶさぬように、ここまで誠意を示してくれた少佐に対して、せめて人間としての最低の礼儀は尽くすようにと言った父の言葉に、彼女は返す言葉を失った。それは半ば諦めの言葉のように彼女には聞こえた。穏やかに語る父の顔は疲れているようにも、ひどく老けたようにも見えた。そのとき、オスカルは初めて父に対してある種の後ろめたさを感じた。
 父にもジェローデルにもひどく腹を立てていた。けれども彼らに手酷い赤恥を掻かせたあとに残ったのは、ただ虚しさだけだった。彼らに意趣返しをしたところで、なんの意味もない。もやもやとした心の霧は一向に晴れず、いったい自分が何を望んでいるのかすらも分からない。
 父もジェローデルもそのうち根負けして、いずれはすべてが元の鞘に納まるだろう。だが自分はそれで本当に満足なのか? 一度掛け違えてしまったボタンは、もう二度と元に戻らないこともある。変わってしまった関係も、人の気持ちも……。舞踏会の翌日、前夜の顛末を得意げに話して聞かせた彼女に、アンドレは気がなさそうに「そうか」と答えただけだった。彼のその冷ややかな顔が、小さなしこりのようにいつまでも彼女の脳裏から離れなかった。
 やがてオスカルは、ふと思い立ったように部屋を出た。

 連日ジェローデルを迎えての晩餐が続いているためか、厨房の周辺ではまだ使用人たちがせわしなく動き回わっている。遠慮がちに厨房の入り口に立ったオスカルは、すぐに年かさの侍女から声をかけられた。
 「まあ、オスカル様。いかがなされました。ジェローデル様は?」
 オスカルはなぜか、いたずらを見咎められた子供のような居心地の悪さを感じた。
 「ジェローデルは父上たちの部屋だ」
 「まあ、そうですの。今からお二人にお飲み物をお持ちしようと思っておりましたのに」
 「ああ、飲み物などいらぬ。わたしはもう自分の部屋へ戻るから。それよりアンドレは……」
 「アンドレ? そういえば見かけませんね。今日もまたどこかに出掛けたのでしょう」
 当たり前のように侍女が言う。オスカルはそれ以上何も聞くことができなくなった。
 「そうか……」
 「アンドレに何か御用でも? 必要なものがおありなら、わたくしがお持ちします」
 「いや、いいんだ」

 昔からアンドレの姿を求めて何度もここに足を運んだことを思い出す。お嬢様が厨房や召使部屋のあたりでうろうろしているのを見た使用人たちは、いつも当然のごとくこう言ったものだった。
 ―――アンドレをお探しですか?
 だがいまではそんなふうにオスカルに声をかける者はいない。彼が彼女の部屋を訪れることもない。わずかの間に、多くのことが急速に変わってしまった。ほんの少し前まで、なんのわだかまりもなく彼の姿を求め、彼の優しさを求め、それを当たり前のように受け取ってきたというのに。……それは罪なことだったのか? 
 そのまま自室に戻る気になれず、オスカルは召使部屋の近くにある控えの間に足を踏み入れた。ふだんあまり使われることのないこの部屋は、子供の頃二人にとってかっこうの隠れ場所だった。この屋敷のどこにいても、何を見ても、そこにはすべてアンドレと過ごした思い出があった。決して断ち切ることのできぬ過去が、何ものにもかえがたい豊かな時間と強い絆があった。だがそれはいつか変わっていかざるを得ないものなのか? 彼が男でわたしが女である以上は……。
―――もうすぐ結婚しますの……―――
 ディアンヌの言葉が唐突に思い浮かぶ。約束された幸福に一点の疑いも抱かず、紅潮した顔を輝かせながら、彼女はそう言った。結婚して妻となり母となることが女としての一番の幸福だと……彼女の笑顔にそう言われた気がした。

 ―――あなたとて欲しいと思ったことがあるはずだ……女性としての平凡なしあわせを―――
 ジェローデルはいつも彼女の一番敏感なところを的確に突いてくる。そうやって自分の弱さがさらけ出されることに困惑と苛立ちを感じながら、どこかで肩の荷を降ろしたような安堵を感じたことも事実だった。あの夜、思いもかけずジェローデルの言葉に心を打たれ、幻惑するような薔薇の香りと口づけに一瞬すべてを忘れて溺れた。だが冷静になって何度思い返してみても、彼との結婚という選択肢は一度も彼女の頭に浮かばなかった。ならばなぜ、ディアンヌの無邪気な言葉に動揺しなければならないのか。なぜ、こんなふうに胸の中がもやもやとして一向に晴れないのか。なぜ……。
 オスカルはソファのクッションに深く身を沈めながら、寒々とした空気に思わず自分で自分の体を抱いた。とりとめのない物思いにふけりながら、連日の疲労と緊張のために、彼女はいつの間にか眠りに落ちていった。

がやがやと廊下を通り過ぎていく話し声が聞こえ、彼は暗い物思いからふとわれにかえった。気が付くと廊下に面したもう一方の扉が少し開いており、廊下の薄明かりが斜めに差し込んでいるのが目に入った。そのとき、人気がないはずの薄暗い部屋の片隅で何かが動く気配がした。驚いた彼が目を凝らしてじっと見ていると、闇の中でも目立つ金髪が、ソファからむくりと身を起こした。

 「オスカル……!」
 思いがけないオスカルの姿に、アンドレは思わず小さく叫んだ。
 パリの安酒場で酒をあおりながら、彼女の姿をずっと追い求めていた。どこにいても、逃げるように屋敷を出てパリの街をさまよっても、どうしようもなく会いたくて、抱きしめたくて……この腕の中に閉じ込めて、誰にも渡したくない。死ぬほどに愛しいひと。

 「ああ、アンドレか……」
 「何をしている、こんなところで」
 「どうやらうたた寝してしまったらしいな」
 オスカルはそういいながら、物憂げに髪をかきあげた。
 「うたた寝したって……おまえ、こんな寒い部屋で。風邪を引くぞ」
 彼は吸い寄せられるようにソファの方へ歩み寄った。夜も更けた小部屋の中は、寒々と冷え切っている。
 「ふん……大丈夫だ、このくらい」
 そう言いながらも、オスカルは寒そうに上着の襟元を掻き合わせた。ソファに横になっていたせいか、薄闇の中に浮き上がる金髪がわずかに乱れている。蝋燭のほのかな明かりに照らされた美しく物憂げな女の顔が、何か言いたげなまなざしでソファの前に立つ彼を見上げた。
 「もう雨は上がったのか? 濡れずにすんだのだな……」 
 彼女はそう言いながら、確かめるようにアンドレの袖口をつかんだ。そのまま彼の手に軽く触れると言った。
 「冷たい手だな。外はずいぶん冷えるんだろう?」
しっとりと柔らかい指先から伝わる熱が、電流のように彼の心臓を貫いた。昔と変わらない、無邪気に彼を見上げる瞳。手を伸ばせば触れることのできる唇。クラバットの隙間からのぞく白い肌。それらがすべてあの男のものになるというのか……? アンドレはとっさに、制御できない感情が自分のなかに湧き上がってくるのを恐れた。このまますぐに部屋を出て行くか、さもなくば……。

 「子供みたいなことをしていないで、早く部屋に戻って休め」
 吐き捨てるように言って部屋を出ようとした彼を、オスカルの苛立たしげな声が引きとめた。
 「じゃあ、おまえはどうなんだ? 毎晩毎晩飲み歩いて、ろくに休んでないんじゃないのか。おまえがどこで何をしようと勝手だが、少しは心配する方の身にもなってみろ」
 「心配……?」
 振り向きざま、うつろな声で彼が言った。
 「そうだ。わたしだって……ばあやだって……」
 「それはどうも」
 そう言った彼の声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。その口調にオスカルが気色ばんだ。

 「なんだ、その言い方は。ジャルジェ家の人間がどれだけ心配しようと、もうどうでもいいということか。お、おまえはもうすぐここを出て行くから……」
 オスカルのその言葉に、冷たく燃える何かがかちりと彼の胸の中で動いた。
 「出て行く……? 誰がそんなことをおまえに言った。ジェローデルか?」
 「だって、おまえが自分で……」
 彼の剣幕に彼女がわずかにたじろぐのが分かったが、もはや自分を抑えることができなかった。さらに追い討ちをかけるように、アンドレは彼女にたたみかけた。
 「おまえはその方がいいと思っているのか」
 「違う! 何を言っている。おまえ、酔ってるんじゃないのか」
 「おまえはいずれジェローデルと結婚するから」
 「違うといっているだろう! そういうおまえだって、オションの娘と……。オションの娘はおまえのお気に入りだとばあやが……」

 今までかろうじて閉じ込めてきたはずのどろどろとした塊が、もはや抑えようもなく湧き上がって彼の喉を食い破ろうとしていた。
 「オションの話なぞどうでもいい! おまえの事を聞いてるんだ。ジェローデルと結婚するのか? あいつとの間にいったい何があったんだ? 舞踏会の夜に……何かあったんだろう?」
 決して口にすまいと胸の奥にしまいこんだはずの言葉が、とっさに口をついて出る。彼を見上げる青い瞳が驚愕のために見開かれた。頬にさっと赤みが走るのが、闇の中でも見える気がした。返す言葉を失った彼女は、彼の視線に耐えられず目をそらした。

 ああ……あのときと同じだ。北国の貴公子への焼け付くような嫉妬に身をまかせたあの夜。彼女はあのときも彼の問いかけに答えなかった。沈黙はすなわちウイと同義ではないのか?
彼はほとんど無意識に、彼女の腕をつかんでいた。
 「アンドレ……?」
 わずかに掠れた彼女の声が震えている。
 ―――だめだ……!
 彼がとっさにきびすを返して部屋を出ようとしたときだった。

 「こんなところにいらしたのですか。探しましたよ。お部屋に伺ったらお留守でしたので」
 大きく開け放たれた戸口に、ジェローデルが立っていた。
 「ジェローデル! 帰ったんじゃなかったのか。いつからそこに……」
 「ええ、そのつもりでしたがご両親に引き止められました。ひどい雨でしたからね。明日はちょうど非番の日なので、泊まっていくようにと。馬車を屋敷に返しましたが……どうやら雨はすぐに上がったようですね」
 ジェローデルは彼の存在を完全に無視して穏やかな口調でオスカルに話しかけたが、その瞳は怒りを宿した鋭い光を放っていた。凍りついたように冷ややかな男の顔を、アンドレは身じろぎもせず見つめていた。
 「お部屋に参りましょう。ここはひどく冷える……。こんなところでいったい何をしておられたのです?」
 男は彼の横をすり抜けて部屋に入ると、促すようにオスカルの手を取った。
 「一人で戻る。わたしにかまうな!」
 オスカルは男の手を邪険に振りほどいたが、男は意に介していない様子で言葉を続けた。
 「あなたに大切なお話があるのです」
 「話くらいどこでも聞ける」
 ジェローデルは吟味するようにオスカルの顔を見つめた。しばしの沈黙のあと、男はよどみのないはっきりとした声で言った。
 「さきほどご両親に正式な結婚の許可をいただきました。国王陛下へご報告申し上げる時期については、わたしの一存に任せてくださると」

 その言葉は死刑宣告のように彼の頭の中で鳴り響いた。だがこんな日が来ることを、自分はどこかで覚悟していたのではなかったか……?
 二人の言い争う声が、まるで遠くの喧騒のようにぼんやりと彼の耳をかすめた。

 「何を馬鹿な……! 一体どういうことだ?」
 「申し上げた通りです」
 「わたしは何も聞いていないぞ」
 「ともかく二人でゆっくり話し合いましょう」
 「話すことなど何もない! いくら父上でも勝手にそんなことを……」

 この場で男を叩き殺すか、自分が死ぬかのどちらかだと思った。そうすることができればどれほど幸福だろう……? だが彼は無言できびすを返すと、言い争う二人を残して、夢遊病者のようにふらふらと部屋を出た。背後でオスカルが彼の名を呼んでいたが、もはや彼の耳には何も聞こえなかった。


 すでに通いなれた廊下を、彼はジャルジェ夫妻の部屋へ向かった。彼を迎えての晩餐の後、一同は食後のカフェのため食堂に隣接する小じんまりした居間に席を移した。それは晩餐のあとのいつもの決まりごとだった。だがその日ジャルジェ夫妻は二人を残して早々に自室に引き上げ、オスカルと彼は差し向かいで夜のひと時を過ごすことになった。彼と二人きりで部屋に残されたときも、彼女はごく冷静だった。
 彼女の態度には、もはやかつてのような身構えや反発は感じられない。彼女がどれほど彼に反発しようと、彼女の心を解きほぐす自信はあった。そして今、ようやくこうして二人差し向かいで、落ち着いて話しができるようになった。それなのに、この胸騒ぎはいったいどこからくるのだろう?
 彼に敵意をむき出しにしていたときの彼女は、堅固な鎧に身を固めているようでいて、彼の目にはかえってその危うい脆さばかりが映った。だが今は……。

 そんな物思いを柔らかな物腰の中に閉じ込めて、彼は夫妻の部屋を訪ねた。未来の娘婿に片手を預けながら、夫人は言った。
 「ずいぶん早く訪ねて下さったのね。わたくしたちに気を使わないで、もう少しゆっくりしていらしてもよかったのですよ。あの子もこのところようやく落ち着いてきたようですし……」 

 夫人に勧められるまま彼が席に付くと、将軍がねぎらうような口調で言った。
 「わが娘ながら、あれにはまったく手を焼いておる。家内もわたしも君には感謝しているのだよ。ところで最近宮廷の方はどうだね? 君の周りでもこのところずいぶんと世間がかまびすしくなったことだろうな」
 「何をしようと世間の好奇心はついてまわるもの。気に留めてはおりません」
 「そうか……。君にはずいぶんと迷惑をかけたし、不愉快な思いもさせた。本来ならば君の方から縁談を破談にされても仕方のないところだが」
 何か言おうとしたジェローデルを手で制して、ジャルジェ将軍は続けた。
 「もちろん、君がそう望むのであれば、わたしたちには君を引きとめることはできない。だがもし今でも君があれを思ってくれているというのなら……」
 「わたくしの気持ちに変わりはありません」
 間髪を入れず彼は答えた。ジャルジェ将軍は相手の真意をはかるように、彼の目を見つめた。あの人と同じ、相手を射抜くような深く鋭いまなざし。心に後ろ暗いものを抱えた人間は、きっとこの強い光を正視することができないだろうと思う。

 「ルイーズ、例のものを」
 夫人が引き出しから取り出した小さな包みを、将軍はジェローデルに手渡した。繊細な刺繍をほどこした天鵞絨の布の中には、ジャルジェ家の紋章が刻まれた小刀が大切に包まれていた。
 「これは……?」
 「わたしがルイーズと結婚したときに父親から譲られたものだ。ジャルジェ家の当主に代々引き継がれてきた。これを君に受け取ってほしい」
 「わたくしに……?」
 ジェローデルは驚いて、将軍の顔を見た。
 「これがわたしと家内の気持ちだ。君さえ異存がなければ、ジャルジェ家の一切を君に託したいと思っている。……どうした? 承服できないかね」
 「いいえ……身に余るお言葉です。わたくしの望みはただひとつ、神の御前であの方と永遠の誓いを立てること。ですが……」
 「何だね」
 彼はわずかに躊躇しながら言った。
 「ご令嬢のお気持ちは、どうなされます? あの方の心はまだわたしには向いておりません」

 かすかな困惑の色が父将軍の瞳に浮かんだ……ような気がした。
 「君はあれにもわたしたちにも十分に誠意を示してくれている。あれとて君の誠意がわからぬほどの朴念仁ではあるまい……」
 「あの子はこれまでずっと男として生きてきましたから、今になって女に戻れと言われてもすぐには受け入れられないのですわ……。それはあの子のせいではなくて、わたくしたちの罪です。わたくしたちの過ちをすべてあなたに負わせてしまっているようで……あなたには本当に申し訳なく思っているのですよ。でもオスカルは少しずつあなたに心を開きかけているのではありませんか? わたくしにはそう見えますが……」
 夫人の思いやりに満ちた言葉が、なぜか彼の心を突き刺した。
 「本来ならば、あれの同意など必要はないのだ。これまでもそうやって五人の娘を嫁がせてきた。みな与えられた運命に満足して、幸福に暮らしておる。……だがあれの性格だ。無理強いをしては反発をするばかりだろうし、君もそんなやり方は望んでいまい」
 「ええ」
 「婚約の時期も、国王陛下への報告も、すべて君にまかせよう。君が望むなら明日でもわたしたちは一向にかまわんが」
 「まあ、あなた。そんな性急なことをおっしゃっては少佐もお困りですわ」
 夫人が軽くたしなめるように言った。
 「何も焦ることはありませんよ。オスカルだって、そう急には心を決められないでしょう。二人でゆっくりと話し合ってください。わたしたちはいつまででも気長に待っていられますから」

 部屋を辞すとき、夫人は彼の手を両手でそっと包んで言った。
 「あなたとあの子に神のご加護を……。あの子にはずいぶんと過酷な人生を課してきました。でも今からでも遅くはありません。女として生まれてきた喜びをあの子に味わわせてやりたいと……それだけが愚かな母の願いです。あなたがあの子を愛してくださって、わたしたちは本当に救われました。どうかあの子をよろしくね……」
 夫人はそう言いながら、涙ぐんだ。わが子への愛と苦渋に満ちた夫人の言葉が、彼の心からいつまでも離れなかった。 

 ジャルジェ夫妻の言葉を深く心に刻みながら、彼は彼女の姿を求めて屋敷をさまよった。たとえ彼女の心が彼のもとになくとも、この想いを止めることはできない。さきほど別れたばかりなのに、今はただ彼女に会いたかった。彼女に会ってもう一度自分の想いを伝えたかった。たとえ拒絶されたとしても……今すぐに彼女の愛を得ることはできなくとも、長い年月をかけてゆっくりと育む愛情があってもよいのではないか? それもまたひとつの幸福のあり方ではないのか。
 愛のない結婚を乞うなど……自分はどこまでプライドを捨てられるのだろう? だがそれでもかまわないと思った。下らぬプライドも自尊心も名声も地に落ちてしまえ。あの人と引き換えにできる価値などこの世のどこにも存在しない。
 熱に浮かされたような彼のその思いは、しかし一瞬の間に無残に踏みにじられた。

 屋敷のはずれの小部屋から聞こえてくる、男女の言い争う声。それは紛れもなく彼女とあの男の声だった。扉はわずかに開いており、薄暗い部屋の中で二人が向かい合わせに立っているのが見えた。彼は瞬時に全身の血が凍りつくのを感じた。

―――ジェローデルと結婚するのか? 

 男が詰問する。なぜ……何の権利があって、この男はこんなことを聞くのだ? 

―――あいつとの間にいったい何があったんだ? 舞踏会の夜に……何かあったんだろう?
 
 彼女は言葉を失い凍りついた。なぜ彼女は男の問いにこんなにも狼狽するのだ? 何を恐れているというのだ?

 男が一歩前に踏み出し、彼女の腕をつかんで引き寄せた。彼はとっさに懐の中の小刀を握りしめた。
 「アンドレ……?」
 消え入るような彼女の声。だが彼女は男の手を振りほどこうとはしない。

 なぜ彼女はあれほどかたくなに自分の愛を拒むのか……。決して認めたくなかったそのわけを、否定しようもなく眼前につきつけられたような気がした。男に対する激しい憎悪が沸きあがり、全身の血が沸騰する。
 ―――この男さえいなければ、わたしたちは幸福になれるかもしれないものを……!
 伯爵家の跡継ぎとして幸福と栄光の中に生きるべき彼女を、何の権利があって自らの絶望的な情念の地獄に引きずり込もうとするのだ?

 男が突然、突き放すように彼女を押し戻した。彼女に背を向け、足早に部屋を出ようとした男は、扉の前に立ちはだかる彼の姿を見てぴたりと足を止めた。だがジェローデルは男に一瞥さえくれようとしなかった。まるで男など存在しないかのように、自分でも驚くほど落ち着いた声で彼女に話しかけた。
 「こんなところにいらしたのですか。探しましたよ。お部屋に伺ったらお留守でしたので」
 「ジェローデル! 帰ったんじゃなかったのか。いつからそこに……」
 驚きと非難の入り混じった声で彼女が言う。
 「ええ、そのつもりでしたがご両親に引き止められました。ひどい雨でしたからね。明日はちょうど非番の日なので、泊まっていくようにと。馬車を屋敷に返しましたが……どうやら雨はすぐに上がったようですね」
 自分でもあきれるほどに無意味な言葉の羅列がすらすらと口をついて出る。彼女の瞳が遠くをさまようのが分かった。
 「お部屋に参りましょう。ここはひどく冷える……。こんなところでいったい何をしておられたのです?」
 彼は男の横をすり抜けて部屋に入ると、促すようにオスカルの手を取った。その手は熱を帯びて、緊張のためかわずかに汗ばんでいる。
 「一人で戻る。わたしにかまうな!」
 邪険に振り払われる手。
 ―――なぜ……あの男の手を振りほどこうとさえしなかったのに、あなたはわたしを拒むのです?
 「あなたに大切なお話があるのです」
 「話くらいどこでも聞ける」

 こんなふうに言うつもりではなった。だが彼は黒髪の男に対する凱歌を心の中でひそかに上げながら、はっきりとした口調で言った。
 「さきほどご両親に正式な結婚の許可をいただきました。国王陛下へご報告申し上げる時期については、わたしの一存に任せてくださると」
 放たれた言葉は、二度と元には戻らない。彼は冷ややかな勝ち鬨を上げると同時に、激しい後悔にとらわれた。こんなふうに言うつもりではなかった。もっと時間をかけて、彼女の心を解きほぐして。彼女の心の奥底にふれるように大切に告げるつもりだった。あなたを愛していると。今は自分を愛せなくとも、ともに生きてほしいと……。

 「何を馬鹿な……! 一体どういうことだ?」
 「申し上げた通りです」
 「わたしは何も聞いていないぞ」
 「ともかく二人でゆっくり話し合いましょう」
 「話すことなど何もない! いくら父上でも勝手にそんなことを……」

 そのとき、硬直したように立ちすくんでいた男がふらりと部屋を出て行った。とっさに彼女が叫んだ。
 「アンドレ! 待て、どこへ行く」
 彼は男のあとを追おうとしたオスカルの腕をつかんで部屋に引き戻した。
 「はなせっ!」
 彼女が激昂して叫ぶ。
 「はなせと言っている。聞こえないのか!」
 彼の手を振りほどこうともがく彼女を、彼は抱きすくめた。
 「なぜあの男を追うのです? 追ってどうするのです? あの男に何を言うつもりですか!」
 彼女はなおも彼の腕の中でもがいている。
 「どうしても行くというのなら、ここでわたしを刺し殺してからお行きなさい! それであなたも彼も幸福になれるというのなら……!」
 ジェローデルの激しい言葉に、彼女の動きがふと止まった。
 「あなたに殺されるのなら、本望だ……さあ、これで」
 彼は抱きしめた腕の力を緩めると、懐から小刀を取り出した。目の前に差し出された小刀を見て、彼女の瞳に驚きの色が広がる。
 「このナイフは……」
 「ええ……ジャルジェ家に代々伝わるこの宝刀で、あの男を刺し殺すつもりでいました。もしあの男があなたに何かしたら」
 オスカルが驚いたように彼の目を見た。

 「おまえ……わざとあんなことを言ったな、アンドレの前で……」
 彼女の瞳に怒りの炎が燃え上がる。
 「卑怯者とでも何とでも、罵りたければ罵りなさい。だが、あなたはどうするおつもりですか。かすかな希望の糸でいつまでも彼を縛り付けて……それが彼のためになるとでも?」
 青い瞳に困惑の色が広がり、彼女は言葉を失った。
 「さっきのあの男の目を見ましたか。狂気にとらわれた人間の目だ。死をも地獄をも厭わない。だが彼の狂気にどんな未来があるというのです?」
 ついさきほどまで強い意志の光を放っていた彼女の瞳は、輝きを失って不安気に揺れた。
 「彼を解放しておやりなさい……。たとえあなたがわたしとの結婚を拒んだとしても、どのみち彼は一生苦しみ続けるだけだ」
 彼女は何か言おうとしたが言葉にはならず、その唇が苦痛のためにわずかに震えた。
 「オスカル……! なんの未来も幸福もない関係になぜそれほど固執するのです? いつまで現実から目をそらし続けるのですか? わたしたちは幸福になれるのですよ……。あなたのご両親にも、周囲のだれからも祝福されて、わたしたちは幸福になれるのに」
 彼女はうつむいたまま、何も答えない。
 「今すぐにわたしを愛してくれとは言いません。ただわたしのそばにいてくれるだけでいい……あなたを愛しています。わたしにはあなたを幸福にする自信がある。だからオスカル……わたしを見て……」

 うつむいた彼女の頬から涙がつたい落ちた。
 「なぜ……オスカル?」
 彼はたまらず彼女を抱きしめ、涙でぬれた頬に口付けた。
 「やめろ、ジェローデル! はなせ……」
 彼女が苦しそうに身をよじったが、かまわなかった。彼女の抵抗を腕の中に封じ込めると、強引に唇をふさいだ。しかし彼女は唇を堅く閉ざし、決して彼の愛を受け入れようとしなかった。

 「オスカル……オスカル」
 生身の彼女を確かに腕の中に抱きしめながら、彼は何かが確実に自分の手からこぼれ落ちていくのを感じていた。

10. La Perte ―Fin―












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