2005 7/16
文 ラーキーさま

Passion

1. Le Debut 〜はじまり〜



 ふと目覚めると、強い花の香りの中にいた。すっかり馴染んでいたはずのその香りが、なぜか今日は彼の嗅覚をひどく刺激した。隣で背を向けて眠る女の白い肩に、気だるい視線を投げる。
 昼間の明るすぎる陽光は重厚なゴブラン織りの帳で遮られ、まるで宵の口のような薄闇が息苦しい空間の中に広がっていた。女の白い背中には、赤みがかった豊かな金髪が、まるで生き物のようにうねりながら落ちかかっている。
 ―――情事の後の女は、みんな似ているものだな―――彼は考えるともなく、ぼんやりとそんなことを考えた。
 息詰まるようなこの狭くて淫靡な空間に、かすかに汗ばんだ身体を横たえている自分が、ふと滑稽なものに思えてくる。女がゆっくりと顔をこちらに向けた。
 「あらヴィクトール、起きていたの。いつから……」
 「ついさきほど。花の香りが……」
 「起こしてくだされよかったのに。いつの間にか眠ってしまったようね。今から準備して、今夜の夜会に間に合うかしら」
 女が少し気づかわしげに瞳を巡らす。
 「大丈夫ですよ、まだ外は十分明るい」
 「またそんな呑気なことを言って。今日の夜会はね、レストー公爵夫人じきじきの招待なのよ。遅れるわけには行かないわ」

 口ではそんなふうに言いながら、女はさほど急いでいるふうもなかった。柔らかな羽根枕に気だるそうな身体を凭せ掛けたまま、視線を虚空に彷徨わせている。
 「どうかしましたか」
 「ヴィクトール、あなたさっきから何を考えていたの」
 「……あなたの美しい背中に見惚れていましたよ」
 「悪い人ね。そんなうわっつらの言葉を女が喜ぶとでも思って? あなたの本心なんてとっくにお見通しよ」
 「今日はなかなか手厳しい。わたしはいつでも本心を言っているつもりなのですがね」
 そう言いながら、女の艶やかな髪のひと房を手に取り口づける。彼の言葉は嘘ではなかった。白い磁気のように滑らかな女の背中は、思わず吸いつきたくなるほど美しかった。落ちかかる豊かな金髪も見事だった。蘭熟した艶やかな花のようなその色香には、彼よりいくつか年上の女のはかり知れない努力が隠されているのだろう。若いころから美貌で名を馳せた伯爵夫人のそんな努力を、彼は微笑ましいと感じこそすれ、決して皮肉な思いを抱くことはなかった。

 「じゃあもっとはっきり言ってあげるわ。あなた、さっきから一体誰のことを考えていたの?」
 「誰……って。あなたの他に懇意にしている女性などいませんよ。御存知でしょう」
 「さあ、どうだか……」
 そう言いながら、女はつんと横を向いた。美しく整えられた眉にかすかに神経の波が走るのを、彼は見逃さなかった。
 「だからよけいに始末が悪いのよ、あなたは。いくらわたしでも、あなたが頭の中に隠し持っている実体のない相手をどうすることもできないわ。あなたは決して嘘をつかないくせに、骨の髄までとことんの嘘つきね」

 辛辣ながら正鵠を得た女の言葉に、彼はだまって苦笑するしかなかった。今さら女の歓心を買うために、何かを言い繕う気にはなれなかった。それは女に対する侮辱というものだ。
 彼女が言うように、彼は女に嘘をついたことは一度もなかった。だが、口に出された真実よりも、決して口にされない"何か"の方がはるかに重みを持つこともある。女というものは至極敏感に、隠された嘘の匂いを嗅ぎ取るものだなのだ。
 しかしときによっては男も女も、嘘と分かっていながら、うわっつらの真実に酔うことができる。男と女がひとときのアバンチュールを楽しむのに、それ以上の何が要るというのだろう? それは彼が長年の経験の中で実感してきたことだった。それを逆手に取り、見え透いた嘘と真実の上塗りを重ねて、やがて女の方から愛想を尽かすように仕向けてきたのは彼の方ではなかったか? 彼はいさかいや涙や修羅場を好まなかった。誰かを傷つけるくらいなら、自分が泥をかぶった方がよい。それは義侠心からではなく、彼独自の美学から生じた信念だった。

 「もうすぐ一年になるのかしら。あなたとこんなふうに逢うようになって」
 「ええ。あの頃のことは今でもよく覚えていますよ」
 そう、忘れもしないあの当時のこと。何ものかに縋りつくように女との情事にのめり込んだ。
 「そう……わたしもよ。忘れられやしないわ。これから先もずっと……。でも一年もたてば、人の気持ちも、周囲の風景だって違って見えるものよ」
 女は彼の目をまっすぐに見ながら、はっきりとした声で言った。さきほどから女が見せていた気づかわしげな態度の意味を、彼はようやく理解した。
 『なるほど、そういうことか……』
 それは女の最後通牒だと、彼は受け取った。こんなことでは、彼は決して直感を外さなかった。いずれこんな日が来ることを、とっくに予感していたのではなかったか? これで十分だった。この種の階級の女は、みんなこんな口のきき方をするものだ。他愛のないお喋りの種には事欠かない。だか本当に大事なことはオブラートに包んで、決してあからさまに口には出さない。そして自分自身もまた、女たちと同じ態度を取ってきたことを、彼は十分自覚していた。

 「ガウンを取ってくださる?」
 彼がベッド脇の椅子にかかっていた薄紫色のガウンを手渡してやると、女は優雅な仕種でガウンを纏い、ベッドからするりと抜け出した。襟元に豪奢な刺繍を施した、透けるようなシルクのガウンを纏った女はいつもひどく艶めかしく、彼の情欲を刺激したものだった。だか今は、すっかり冷めきった彼の身体のどこにも新たな火が灯ることはなく、彼自身もまた女との関係が終わったことを感じた。

 「あなたはとてもお利口さんでクールなくせに、必要なときには情熱的にもなれるのね。女を楽しませる術をよく知っているのよ。あなたのそういうところが好きだったわよ、ヴィクトール」
 ―――わたしもですよ。わたしも、あなたが好きだった……そう言いかけてやめた。その言葉に偽りはなかった。それは恋に似た何かではあったけれど、しかし決して深い愛情と呼べるものではないことを彼は知っていたから。

 彼は女の手を取り、情愛をこめて最後の口づけを落とした。
 「あなたはすばらしい女性でしたよ。わたしにはもったいないくらいの……」
 「ふふ、あなたはいつもそんなふうだから。だから決して敵をつくらないのね。男でも女でも」
 彼女は笑っていたが、その瞳にはぬぐいきれない一抹の寂しさが漂っていた。自分はどうだろう、どんな顔をしているのだろう? 寂しさがないと言えば嘘になる。けれども心の中にぽかりと空いたこの空洞は、女が示すどんな濃やかな気遣いや情愛でさえ、決して埋めることができなかったのではなかったか?

 「そんな顔をするものじゃないわ……あなたらしくなくてよ。ねえ、ヴィクトール。世間ではあなたのことを何と言っているか知っていて?」
 彼は答える変わりに、微かに首を傾げて見せた。
 「女嫌い……だそうよ。ふふ、とんだ女嫌いがいたものね。でも案外炯眼かもね。あなたでも誰かに本気になることってあるのかしら。……それともあなたが本気になれないのは、心の中に隠し持っている何かのせい?」
 「まさか」
 そんなふうに意識したことはなかった。目の前の女と「彼女」とを比べたことなど一度もなかった。女は彼に対して十分に情愛深く誠実だった。彼も彼女も、お互いに出来るかぎり忠実であろうとした。たとえそれが仮初の、優しい嘘の上に成り立った関係に過ぎないことを、二人とも理解していたとしても。

 彼は女が隣の化粧室へ静かに消えてゆくのを、ぼんやりと見ていた。窓からもれる遅い午後の光の中を女が通りすぎたとき、赤みを帯びた金色の巻き毛が光の中で照り輝き、かつて彼を捉えて放さなかった鮮やかな金髪の面影が唐突に思い浮かんだ。懐かしさとかすかな痛みに、彼は一瞬軽い眩暈を覚えそうになった。
 隣の部屋では、侍女たちにかしずかれながら、女が今日の夜会のための念入りな化粧をほどこしていることだろう。暇つぶしに女の後について化粧室まで入り込み、女が選んだドレスや宝石に好き勝手な批評を下してふざけあったこともあった。女は煩そうな口振りで応えながらも、その瞳は笑っていた。そんなこともすでに過ぎ去った楽しい思い出とした心に残るだけで、不思議と遠い過去の出来事に感じられた。

 これでよい。これで十分だ……。だがこの胸の空虚さはどこからくるのだろう?
 心の奥底にあいた埋めようのない隙間には、もうとっくに慣れたと思っていた。なのに今さら何を思い煩うことがあるというのだろう。どこにでもあるような、ありふれた情事のひとつが終わっただけだというのに。

 通いなれた女の別宅を辞し、その足でベルサイユへ向かった。今日は非番の日だったが、隊本部で片づけておかなければならない用件があった。彼もまたレストー公爵夫人の夜会に招待されていたが、今となってはそれもひどく煩わしく感じられる。
 夕刻が近づき冷気を含みはじめた空気は、すでに秋が近いことを感じさせた。その気配までもが、彼の沈みがちな気分をいっそう湿っぽくした。

 がたんと大きな音を立てて、彼の乗っていた馬車が突然止まった。彼はその勢いで、前につんのめりそうになった。窓から顔を出した彼に、馴染みの御者が振り返って言った。
 「あそこで馬車が横転したらしくて、後の馬車が立ち往生してるんでさあ。どうしたんだか……ひっくり返ってるのは、軍用の馬車らしいね。ついこの間もこんなことがありましてね。最近はパリの街はどこも物騒になったからね……」
 そう言われて、御者の指差す方向に目をやると、多くの野次馬に混ざってフランス衛兵隊の軍服を来た兵士たちが後始末のために動き回っていた。近所のおかみさんらしき女たちが数人、一人の兵士を捕まえてしきりに何かを訴えている。その上背のある後ろ姿を見たとき、彼ははっとした。
 兵士はやがて笑顔を見せながらおかみさんたちを適当にかわすと、後ろで立ち往生している馬車に向かって歩いてきた。彼の予想は外れていなかった。それはあの男に違いなかった。この一年、決して忘れることのできなかったかの人の面影とともに、いつも彼の心の片隅から消え去ることがなかったあの黒髪の男に。

 男は立ち往生している馬車の御者に、何事かを指示しているらしかった。彼は男から目を逸らすことができなかった。かつて女主人に付き添って宮廷に出入りしていたころとは、風貌が一変している。衛兵隊の軍服は、もともと上背のある男の体格をさらに際立たせていた。短く切った艶やかな黒髪で、右目を深く覆っている。詳しいいきさつは分からないが、事故で片目を失ったのだと聞いた。いつも女主人に影のように付き従っている男の姿がしばらく見えないことに不審を感じた彼が、一度彼女に男の消息を尋ねたことがあった。そのとき、美しい上官の瞳にいいようのない苦痛の色が走ったのを、彼は今でもはっきりと覚えている。
 「事故で片目をやられてね。今は家で療養しているが……」
 「失明……したのですか? 治る見込みは……」
 彼女は黙って首を振った。
 「わたしのせいなのだ。わたしの我儘のせいで、彼の大切な右目を傷つけてしまった。わたしは取り返しのつかないことを……」
 彼女はそう言うと、辛そうに片手で顔を覆った。泣いているのではないか……一瞬彼はそう思ったが、涙は見えなかった。彼女が職場でこんなふうに剥き出しの感情を見せることは珍しかった。その頬は微かに青ざめていた。
 不幸な事故のあと、男が女主人に付き添って宮廷に姿を見せることはなかった。まもなくして彼女自身もまた唐突に近衛隊を退き、宮廷で彼女の姿を見かけることも稀になった。

 無意識のうちに回想の波間に漂っていた彼は、ふたたび男の方に目を向けた。傷ついた片目を覆う漆黒の髪が、かつては見られなかった翳りを男の表情に与えている。
 『一生涯女のそばに付き添っても、決して報われぬものを。彼女のために片目を失ってもなお、あの男はそれで満足だというのか……身分も地位もない。平民の従僕に過ぎぬ男が、貴族の令嬢にどれだけ献身を捧げても、どうなるものでもあるまいに』

 さきほどから馬車の中に漂っていた強い花の香りが、彼の鼻腔をことさら鋭く刺激した。濃厚な香りはまるで彼を嘲笑するかのように、いつまでも周囲の空気にまとわりついて消えようとしない。
 ―――だが、自分はどうなのだ?
 彼の地位と身分を持ってすれば、家柄も容姿も申し分のない貴族の令嬢を妻に娶ることもできるだろう。いずれはそうしなければならないことを、彼は重々承知していた。だがその日を先伸ばしにし続け、自分自身も周囲をもはぐらかしてきたのは何のためだ? そうやってベルサイユの優美な貴婦人たちの間を軽やかに漂いながら、そしてこれから先も、身を焼くような情熱も執着もなく魂の脱け殻のように生き続けて、自分はそれで満足だというのか? 

 その時、彼が無意識のうちに待ち焦がれていた人が、路地の角から姿を現した。彼女は周囲で立ち働く兵士たちに声をかけながら、迷いのない足取りで黒髪の男の方に近づいてくる。彼は閉ざされた馬車の薄暗がりの中から、光の中にいる彼女の方をじっと見つめていた。夕暮れ時の柔らかい陽光を受けて、彼女の金髪は美しく輝いていた。その髪は自ら光を発しているかのように明るく輝き、まるでルネサンスの宗教画に描かれた聖母のようだと彼は思った。久し振りに見る彼女の姿は、思いもかけぬ激しい喜びと痛みを彼の心臓にもたらした。
 こんなふうに何度もこの人の姿に見とれたことがあった。どれほどの憧れをもって、この人を見つめてきたことだろう……。ただ彼女の側にいられるというだけで、幸福だった。そんな毎日が唐突に断ち切られるまで、その幸福に気づきもしなかった。

 彼女は男の前まで来ると、笑顔で男に話し掛けた。柔らかく人の心をくすぐるような低音のハスキーボイス。その声をもう一度聞きたいと思った。彼は全身の注意を二人の方に向けていたが、周囲の喧騒にかき消され、その声は彼のところまでは届かなかった。やがて彼女は男に何事かを伝え終わると、男に背を向けてもと来た方へ引き返していった。彼女の後ろ姿が遠ざかるのを見ながら、彼はいままで心を満たしていた暖かな波が、すっと引いていくような寂しさを感じた。

 忘れられると思っていた。時が過ぎてしまえば、過ぎ去った多くのうたかたのような恋と同様に。けれど彼女に会うことがなくなっても、この思いが消えることはなかった。それどころか心の奥底でくすぶり続けた炎は、日を追うごとに次第に大きくなっていったのではなかったか? そのことに本当はとっくの昔に気付いていたのに、長い間自分の心を誤魔化し続けてきたのではなかったか?
 なぜ彼女はこんなところにいて、せわしなく立ち働かなければいけないのだろう? 日毎に荒れすさんでいくパリの喧騒と埃の中で、荒くれ兵士どもに囲まれて。なぜ自分は彼女と無関係なところにいて、遠くからただ彼女を見ていることしかできないのだろう? そのことが突然、ひどく不自然で不思議なことに思われた。

 忘れられると思っていた。こんな情熱が自分の中にあり得ようとは思ってもいなかったから。彼女をもっと見ていたい。もっと一緒にいたい。彼女に触れてみたい。抱き締めたい……。突然の嵐のように沸き上がった感情に飲み込まれ、彼はしばらく茫然としていた。
 これまで何を躊躇していたというのだろう。長年彼女の側にいながら、自分の思いを告げようとさえしなかった。彼女が自分の側から去っていくと知らされた時でさえ、ただ手をこまねいて彼女を見送ることしたできなかった。彼女の信頼を失うことを恐れていたのか。彼女の拒絶を恐れていたのか……。だが今の自分には、もはや失うものなど何もない。何を恐れることがあるだろう?

 彼は窓のカーテンを閉ざし、馬車の座席に深く身を沈めると目を閉じた。自嘲とも自己満足ともつかぬ微かな笑みが彼の端正な口許に浮かんだ。なぜこんな単純なことに、今まで気付かなかったのだろう? 彼女を愛している。今までどんな女性にも感じ得なかったほどに深く。ならばその想いを正々堂々と彼女に告げるだけのことだ。

 暖かい波のような幸福感が、再び彼の心に押し寄せてきた。未来のことなど分からない。ただ今この瞬間だけは何もかも忘れて、この幸福に身を委ねていようと彼は考えた。


1. Le Debut ―Fin― 











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