2004 5/25
イラスト ラーキーさま
文 マリ子

私 信




 足音をしのばせ階段を上がる。階段幅は狭く手すりがない。壁に手を這わせながら誰かに出くわした時の言い訳を考えた。
 階段を上りきり廊下に目をやる。人影は見当たらない。ゆっくりとした動作を保ち平静を装いながらも胸の鼓動が音をたてるのがわかる。
 子供の頃は何度もここを通った。遊びたくて、悪戯目的で‥。時には人恋しくて、或いは癒されたくて‥ 怒りに任せて戸を叩いたこともある。落ち着きたくて訪れた時もある。
 あの時はこんなに緊張していなかった。大声で名前を呼びながら階段を駆け上がったものだ。
 随分臆病になったものだ。自分の心の変化が可笑しくて笑った。見慣れた廊下がこれほどまでに心をかき立てるものだとは知らなかった。
 部屋の前に立ち躊躇ったが手は扉を押していた。開いた僅かの隙間から身体を滑り込ませる。欲しいと思っていた香りに触れ安堵する。
「呼んだはずだが」
 扉に背を付け非難するような目で彼を見た。
 部屋の主は寝台に腰をおろしたまま顔を上げた。
「今行こうと思っていたところだ。待たせたようだな、悪かった」
 彼は持っていた紙をたたむと後を向きそれを片付け始めた。こちらに向けた背中に流れる黒髪。少し伸びたようだ。私は扉に背中を付けたまま彼を見ていた。
 ショコラが欲しい、寝る前にワインをと、思いつく限りの用事を言いつける。それだけでは足りなくてただ呼びつける。この恋情が自分から出るものだとは俄かに信じられない。ここまできてしまった事にただ戸惑う。
 彼は背中の後に何か隠している。隠しているわけではないが寝台の上に広げた物を片付けるのに手間取っている。こんな一瞬でさえ私は我慢ができない。
 二、三歩歩み寄る。背中に触れたい。
「何を‥ 見ている‥」
 伸びた髪をすくい上げるようにして両手に取った。黒髪の匂いが鼓動をさらに刺激する。両腕を彼の首から胸に回し大好きな髪に顔をうめた。
「オスカル」
 彼は振り返ると身体を捻りながら片腕で私の手を取りもう片方の手を私の脇から背中に回し力を込め引き付けた。彼に抱き取られる格好で私は寝台の上に膝をついた。顔が目の前にあった。私は寝台の上に乗りあがり彼の膝の上にまたがっていた。
「これはお前が初めてくれた手紙だ」
 彼はそう言うと先ほど手に持っていた紙をかざすようにして見せた。
「これも、これもだ」
 彼は散らばった紙を次々取り上げて見せた。
「皆、大好きなアンドレ、で終っている」
「そんなものまだ持っていたのか」
 私は素っ気無く言ったつもりだったが顔が赤くなるのを感じた。手紙のせいじゃない。そんな子供の頃の思い出に恥ずかしくなったりはしない。この格好のせいだ。この膝から降りたい。身体を動かす私を庇うかのように背に回した手に力が入れられる。
 お前の手は優しくありながら強い力を持つ。決して逆らえない。
 唇が重ねられる。柔らかく重ねた唇を離し彼は私の唇を指で撫でた。
「オスカル、お前の心が見えなくなりそうな時、何度もこれを開いて、読んだ」
 目の前の黒い瞳に小さな光が揺らめいた。
「あの頃お前は俺を一番好きだと言ってくれた」
「そうだ」
 素直に頷いた。その通りだった。アンドレは私の世界の全てで私は彼を独り占めしたかった。黒い瞳は常に自分を見ていなければならなかった。
「お前は俺の上に乗っかり誰が一番好きかと問うた事もあった」
 含みを持たせた言い方に顔が熱くなるのを感じた。
「忘れたと言いたいところだが覚えている」
 正直に答えた。あの時自分は泣きそうな思いをこらえアンドレにつかみかかっていった。何がいけなかったのか、何が原因だか思いだせない。だがあの時の追い立てられるような気持ちは今の気持ちと似ているかもしれない。
 唇を撫で続ける指を握りしめた。
「一瞬も我慢できないほどお前が好きだ」
 自分の言葉に高ぶっていくのは不安定な姿勢のせいかそれともここがお前の部屋だからか… 彼の膝を跨ぎそこに腰を落としながら欲している自分を感じる。至近距離で見る瞳はそれを知っているかのようにきらめく。
 黒い瞳。何よりも好きだ。それがうっすら閉じかける。差し出されるものを受けるように口づけた。 同時に襲う耐えられない疼き。それがどこからくるか、知っている。
 唇を貪りたい衝動は私の位置が高いからだろうか。女にもそういう欲求がある。それをお前は私に教えた。
「何が欲しいのだ? オスカル‥ ワインか?」
 突然奔流を遮るように唇を離し彼が問うた。まるで夢を蹴られたときのような心許ない感覚で私は目を開けた。
「ワイン‥?」
「そうだ、用事があったのだろう」
「‥用事は‥」
 夢から覚めたときのようにぼんやりしながら私は目の前のシャツの胸元に視線を落とした。用事なんかない。欲しいのはお前だ。言う事も出来ず自分の中に脈打つ胸の鼓動を聞いた。
「この部屋でも、済むことか?」
 心の中を見透かされような問いは羞恥と快感をかき立てる。目を閉じて返事をした。もう一度唇が重ねられる。
「そうだ」
 重なる息の合間から言った。身体が入れ替えられる。黒髪の中に指を入れながら口づけを受けながら私は寝台に沈んだ。










































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