2005 2/7

お館にて
−ジャルジェ家侍女物語−




 今日も朝から忙しい。
 朝食作りの手伝いの前に、私は各部屋を回って洗濯物を集めておく。それが済むと台所に入り、野菜を洗ったり、皮をむいたり、息つく暇もない。料理人が調理しやすいように材料を整えるのが私の仕事だ。台所は湯気で溢れ、今日一日の活気を約束する。
「今日はオスカルさまの出立が早いから急いで!」
 裏方を束ねるマロン・グラッセさんの声が響く。
 ジャルジェ家に勤めて間もなく一年になる。ここは宮殿のように大きな屋敷であり、王家を守る軍隊を率いる伯爵のお館であり、ベルサイユで知らぬ者はないくらい有名な家だった。ここには近衛隊の将軍である伯爵と奥さまの他に跡取の近衛連隊長がいた。

 初めて大佐に会った時の事は忘れない。
「ここがオスカルさまのお部屋だよ」 
 旦那さまと奥さまに挨拶をした後、私はマロン・グラッセさんに連れられ一つの部屋の前に立った。
「オスカルさま、アリーヌが参りました」
 マロン・グラッセさんは畏まりながらも、慈愛を込めた声で呼びかけ扉を開けた。空気が風のように流れ、顔にかかった。清らかな芳しい匂い。
「オスカルさまだよ」
 マロン・グラッセさんは限りない満足を込めた表情で私を見た。私は目の前に開かれた部屋の美しさに息を呑んだ。
 白い壁と金の装飾を施した柱。庭に面した窓は高く、濃い緑を映していた。襞をたっぷり取ったカーテンは重厚だが明るい色をしている。磨き込まれた床と美しい模様の織り込まれた敷物。彫刻のある豪華なテーブルに椅子。
 椅子には人が座っていて、その人は音に気づくと立ち上がり、真っ直ぐ私の方にやってきた。
 見事な金髪の背の高い人だった。細身の体、軽やかな足取り、白いシャツに黄金色の髪が広がる。その彼が私の方へ歩いてくる。
「新しく雇い入れました、アリーヌです」
 マロン・グラッセさんは促すように私の背を押したが、その声は遠くに霞んでいた。私は主人である大佐の前で膝を屈める事も忘れ、彼に見入っていた。
「オスカル・フランソワです」
 蒼い瞳が私を見つめ‥瞬いた。
 予感がする。何かが始まろうとする予感が‥!
 彼の形の良い唇が動き、私の名を呼んだ。
「よろしく‥ アリーヌ」
 声は甘く優しげな響きを持っていた。

 夢見心地のまま部屋を出ながら、私は押さえようとしても自然に笑みがこぼれてくるのをとめる事が出来なかった。この世にこんな人がいるなんて… まるで神話の中に放り込まれたようだった。何という幸運だろう! これから毎日この家で働けるのだ。私は頬に手をやった。熱かった。
「オスカルさまはこの家の六番目のお嬢さまなんだよ。どのお嬢さまも、それはそれは素晴らしく美しい方ばかりだけれど、オスカルさまの美しさは格別だ。美しいだけでない。才能豊かで、お強くて、それで近衛連隊長をお務めだ。毎日宮廷に出仕され王妃さまの覚えもめでたい。アントワネットさまはオスカルさまをとても信頼されている。旦那さまがオスカルさまを男としてお育てするとおっしゃった時はどうなることかと思ったけれど、オスカルさまはどんなことでも立派にこなされる」
 階段を降りながらマロン・グラッセさんはそう言った。
 お嬢さま…? 男としてお育てする? 聞き返そうとしたが、出来なかった。

 オスカルさまは女だった。彼女が女でありながら近衛連隊長を務めているという事は誰もが知っている事実であった。あの時マロン・グラッセさんに不用意な質問をしなかった事は私にとって幸運だった。彼女が命よりも大切にしているお嬢さまを男呼ばわりしていたら、私はこの家からあっと言う間に放り出されていただろう。
 私にめくるめく予感を与えた恋は一日で終わりを告げた。


 近衛隊の軍服を着ているオスカルさまは凛々しくて、女と判っていても胸がときめいて仕方がなかった。ベルサイユ中の貴婦人がオスカルさまに恋をしていると聞いた。
 剣を腰にさし出かける準備をしている時、軽々と馬に跨り駈けて行く時、お帰りになり手袋を外される時、その姿は一瞬で人の心を捉える。
 颯爽とした足取り、機敏な動作、低く落ち着いていながらよく通る声。オスカルさまがお帰りになるとすぐにわかる。家中の者が迎えに出る。館は活気に満ちる。


 この館に勤める者として、私は軍服を脱いだオスカルさまを知っていた。白いブラウスにキュロットといういでたちだが、それはオスカルさまの魅力を最も雄弁に語るスタイルかもしれなかった。
 オスカルさまは魅力的だった。私はオスカルさまに会った時からオスカルさまの身の回りのお世話がしたかった。だがそのような希望や目論みはジャルジェ家の侍女達の自治の前に、あえ無くついえるしかなかった。 
 屋敷の中の仕事は持ち場が決まっていた。その中で最も強固な縄張り意識に支配されているものがオスカルさまの身の回りのお世話だった。
 オスカルさまのお世話は古参の侍女達の役目で、他の者はオスカルさまの服にさえ手を触れることは許されなかった。乳母であるマロン・グラッセさんを筆頭に、オスカルさまのお世話が出来る者は限られていた。皆長年ジャルジェ家に勤める侍女達ばかりだった。

 一度だけ私はマロン・グラッセさんに頼まれて、オスカルさまのブラウスを部屋に届けたことがあった。オスカルさまは鏡の前に座られて、侍女に髪を梳かせているところだった。もう一人の侍女が足元の低い椅子に座り、オスカルさまの手を取っていた。爪の手入れをしているのだ。こんな時のオスカルさまは軍服を着ている時とは違っていた。
 真剣な眼差しの侍女。その膝に腕を預けているオスカルさま。こちらに背を向けていたが、時々オスカルさまは横を向いた。横顔が微かに笑っていた。優しい微笑み。顔を上げそれを受ける侍女の顔も輝いていた。オスカルさまの微笑みには周りの者達を幸せにする力があるようだった。私は用も忘れしばらくそこに佇んでいた。
 オスカルさまの髪を梳く侍女の手つきに私は見入った。ブラシが通る度に流れ落ちる金髪は豊かで輝きを増していく。あまりにも美しい光景だった。

 オスカルさまの部屋に入るには、調度や寝具を整える為であっても、古参の侍女達の指導を仰がなければならなかった。オスカルさまは誰にでも気軽に用を言いつけてくれた。だがオスカルさまの部屋は古参の侍女達により聖域に指定され、みだりに足を踏み入れることは許されなかった。
 その聖域に入れる者は、マロン・グラッセさんとオスカルさま付きの侍女達のみ… だが、一人だけ例外がいた。

 ――アンドレ・グランディエ。

 マロン・グラッセさんの孫でオスカルさまの幼馴染。彼はジャルジェ家の召使いであったが、幼い頃よりジェルジェ家で育ち、オスカルさまとは兄弟のような間柄だという。彼がどれほどオスカルさまから信頼されているかはオスカルさまの態度を見ているとわかった。
「アンドレ、アンドレ!」
 オスカルさまは帰ってくるとまず彼を呼ぶ。オスカルさまの話相手は彼だったし、部屋にショコラやワインを運ぶのも彼がすることが多かった。それだけではない。彼は旦那さまやオスカルさまの用事で宮廷にまで出かけていくことがあった。
 今でこそ彼は屋敷にいること多かったが、オスカルさまがアントワネットさま付きの大尉として初めて宮廷に上がった時は、彼もオスカルさまに付いて宮廷に上っていたらしい。一介の召使いが主人の補佐といえ、王太子妃殿下のお側近くにまで上る… 彼はそれほどまでにオスカルさまやジャルジェ家から信頼されていた。 
 アンドレの本来の仕事は馬や厩の手入れらしいが、あらゆる用事が彼に集中していった。オスカルさまの相手から宮廷での勤め、館に出入りする者との折衝、客をもてなし給仕をする事、力仕事、執事の悩み事の相談、マロン・グラッセさんの使いでパリに行くこと、数え上げたらキリがない。あらゆる事を彼はこなした。重要な仕事を任されながら、彼はどんな雑用もやってのけた。
 アンドレは今、私より少し前に厩番の見習いとして入った少年の指導と世話をしている。持ち場が決まっている他の使用人達とは違い、彼はどんな場面にも必要だった。ここでも彼は例外だった。
 そしてもう一つ、彼だけに許された例外がある。それは「オスカル」とオスカルさまを呼び捨てにできること。オスカルさまの御身内を除いては彼だけだった。


「アンドレを呼んでくれないか」
 オスカルさまから用を言いつけられるとしたら大抵こうだった。私は喜び勇んでアンドレの姿を求めて館中を探し回る。オスカルさまから用を言いつけられる事も嬉しかったが、おおっぴらにアンドレを探し回れる事が嬉しかった。
 厩やワイン貯蔵庫や執事の執務室で彼の姿を見つけると、私は声をかけずにしばらく彼を見ていた。
 オスカルさまは女だし、尊い貴族の生まれであるし、私とは身分が違い過ぎていた。どんなに恋焦がれようとも、オスカルさまと私の運命がほんの少しでも重なることは無い。
 もっと現実を見なければ。私は方向転換をすることに決めた。幸い魅力的で実際的な現実が目の前にあった。
 アンドレが私に気づき、私を見る。彼は私を見ると必ず笑いかけてくれた。私は壁にかけた手に汗が滲んでくるのを感じながら彼に言う。
「オスカルさまがお呼びよ」


 台所でいつもの片付け仕事をしていると裏口の扉を叩く音が聞こえた。食料や雑貨など館に必要なものを届けてくれる店屋が出入りする入口だ。私が扉を開けるとふんだんの花が目に飛び込んできた。
「ご注文のお花を届けにまいりました」
 花々の間から女の顔が覗いた。馴染みの花屋の若い女だった。一抱えもある花を左右の腕にそれぞれ抱え、花屋の女は上気した顔をこちらに向けた。
 今日は旦那様のお客がある。そのテーブルを飾るための花だ。いつも花の注文を出すのはマロン・グラッセさんで、受け取るのは大抵アンドレだった。
「お花を見てくださいませんか」
 花屋の女は得意そうに花束の一つをこちらに差し出した。私はそれを受け取ると近くの台に乗せ、もう一つの花束を受け取ろうとした。
「あの‥ いつもの男の方は?」
 花屋が尋ねる。
「さあ」
 私は曖昧に返事をし、もう一つの花束を受け取ろうとした。だが花屋はそれを離そうとはしない。
「いつも花を見てもらうのですが」
 花屋はしっかり花を握り締めたまま、目線を部屋の奥に向けた。
「いつも素晴らしいお花ばかりですもの。見なくてもわかります。これで大丈夫ですわ」
 私は花屋が部屋の奥を見ようと目を泳がせた隙に彼女の腕から花束をむしり取った。
「あの‥」
 花屋はなおも未練がましく部屋の奥を探している。
「いつもご苦労様です」
 私はにこやかに笑うと花屋の鼻先で扉を閉めてやった。

「誰か来たのか?」
 声のする方を振り向くとアンドレがホールに抜ける廊下の奥に立っていた。ほんの数秒違いだった。
「花が届いたのか」
 彼は私の方にやってくると台の上に乗せた花を見遣った。私は思わず彼の横顔を見た。花屋が執拗に食い下がったのも分かる気がする。私は狭い廊下に彼と二人で立っているだけ嬉しかった。
 アンドレの指が花を包んでいる薄紙を外す。とたんにこぼれるように花々があふれ出る。真っ白で大ぶりの百合、愛らしい色の薔薇。青と白の清楚な小さい花達。彼はそれらの茎の部分に手をやり、触ると、もう一つの花束の薄紙をほどいた。こちらには沢山の蘭が入っていた。白、薄紫、添えられた緑の葉、どれもが見事な物だった。
「まあ! アンドレ、素敵な花ね。少し頂いていいかしら」
 高揚した声が聞こえた。
「オスカルさまのお部屋の花を取り替えたいの」
 オスカルさま付きの侍女がやってきて花の台の前に立った。彼女は当然と言った手つきで百合の花を手に取った。アンドレは何も言わず彼女のする事を見ている。オスカルさま付きの侍女はまるで自分のドレスでも見繕うかのようなうっとりした表情で花を選び、選んだ花を腕に乗せていく。
「あら、素敵ね。私にも頂戴。奥さまは蘭がお好きよ」
 もう一人の侍女がやってきて、今度は蘭を取り出していく。まるで匂いに誘われるかのように花の台の周りには侍女達の人垣ができていた。皆、オスカルさまか奥さま付きの侍女ばかりだ。

 にぎやかな声で笑い合っていた女達の一団が引いていくと、そこには小さな花ばかりが残った。
「やれやれ、せっかく旦那様の晩餐に用意した花が…」
 アンドレは台の上に残った花を見遣り、腕を組み小さく笑った。彼は怒っても落胆してもいなかった。むしろ侍女達のはしゃぎぶりを楽しんいるように見えた。
「もう一度注文を出すか。あそこならすぐにやってくれるだろう」
 アンドレは自ら花屋に出向いて行こうとするかのようだった。だが今からでは晩餐に間に合わない。
「大丈夫よ、アンドレ。私が何とかやってみるわ」
 私は残った花達を集めた。私はマロン・グラッセさんから花を上手にいける手腕を買ってもらっている。大ぶりの花が無くなっただけで量としてはまだ充分な物があった。幸い今夜の晩餐は旦那様の軍関係の方ばかりで婦人客の招待はない。部屋中を花で飾る必要もない。私には勝算があった。テーブルの上を愛らしい花々で飾り、帰りに奥様方へお持ちいただけるように小さな花束にでも作りかえたらどうだろう。薔薇もあれば緑も美しいものがこんなにある。旦那さまやマロン・グラッセさんに満足してもらえるように出来る自信が私にはあった。
「では、アリーヌに任せるかな」
 アンドレは腕を組んだまま私を見て笑った。彼の表情はいつもより甘く私には見えた。彼の危機を救うのは私しかいない! 訳も無く気持ちが昂ぶった。

 ジャルジェ家は近衛隊の将軍であるジェルジェ将軍が家長としての権限を振るっているに間違いはないのだが、家の中の意向について最も大きな影響力を持っているのは奥様でありマロン・グラッセさんだった。旦那さまに良いように全て奥様がお決めになり、奥向きのことはマロン・グラッセさんが取り仕切る。
 ジャルジェ家は女系家族だった。表立ってはいないが女に力があった。そこで最も大切にされているのは奥さまであり、オスカルさまだった。旦那さまは厳しくあったが、鷹揚だった。そして愛妻家であり、娘達をこの上もなく可愛がっていた。それを皆は知っていた。だから家の中で女達は自由に振舞うことが出来た。




 ある日、私はマロン・グラッセさんの言いつけでパリへ使いに行った。
「アリーヌ、ちょっとパリまで行ってきてくれないかい」
 マロン・グラッセさんは私に用件を書いた紙を手渡した。
「アンドレを御者に連れておいき」
 その一言は天から降ってきた神の声だった。

 パリへの道中、アンドレの御す馬車に揺られながら、私は地味な色のドレスをめいっぱい座席に広げてみた。彼と二人でパリへ行く。素敵な夢を見ているようだった。窓辺の風景はいつもと違い輝いて見えた。

 パリの店はどこも美しかった。目も眩むような高級な店を何軒も渡り歩いた。どの店でもアンドレの顔を一目見ると店の主人が出てきて、心得ていると言うように品物を差し出す。私は壁や棚に飾られた数々の美しいものを見遣りため息をついた。
 馬車の座席は荷物で一杯になった。どれもオスカルさまや奥さまが使うものばかり。いつも裏口にドサリと届けられる物とは違い、今日の品物はどれもが華奢で綺麗なものばかりだった。私は一つの包みを膝の上に乗せ、あれこれ思い出しながら、ひっそりと笑った。
 アンドレと二人で煌びやかな店の中にいた。それだけで私は満足できた。

 馬車は一軒の店の前で止まった。
 「ダルジャンの店」 小さな店の表に大きな看板がかかっていた。今まで寄ってきた店とは構えが違っていた。
 アンドレが降りてきて馬車の戸を開けた。
「今日は遅くなった。腹が減っただろう。何か食べていこう」

 店は奥行きがあり、思ったより広かった。中央に大きなテーブルが五、六個置いてあり、それぞれに数人の客がいた。店の中は暖かい空気に満ちていて、空腹を思い出させる良い匂いに溢れていた。店の奥に盆を持った女が入っていく。仕切りの向こうにはもう一部屋ありそうで、奥からは甲高い笑い声が漏れていた。
 アンドレは慣れた足取りで入っていくと、真っ直ぐに店の左側に設えた台の方へ歩いて行った。その台はテーブルよりは高さがあり、細長く、店の一角をぐるりと取り囲むように作られていた。台の向こう側に人がいる。彼は囲いの内側でグラスを磨いていたが、アンドレに気がつくと顔中に満面の笑みを浮かべ目の前を指し示した。台の前には鳥のとまり木のような木が渡してあった。太い木で、所々大きな窪みが付いている。多分椅子なのだろう。
「久しぶりだな、アンドレ」
 肉付きの良い赤ら顔をこちらに向け、男は笑った。人の良さそうな笑顔だった。
 アンドレは台の前のとまり木をひとまたぎするとそこに腰を降ろした。男は私に視線を移すともう一度笑い、私にも座るように目で促した。とまり木は高さがあったので私は内側に回り込み台に手をかけそこによじ登った。
「アンドレ、綺麗なお嬢さんだね。恋人かい?」
 男は赤い顔をさらに赤くしてアンドレに問うた。
「まさか」
 アンドレは笑いながら軽くいなす。私は止まり木にアンドレと並んで腰掛け、息遣いも聞こえるほど近くに彼の気配を感じ、満足感で一杯だった。
 その時、後ろから興奮した声が聞こえた。
「まあ、アンドレよ!」
「ジャルジェ家のアンドレよ」
「アンドレだわ! 久しぶりね」
 私は後ろを振り返った。壁際に三人の女が立っていて肩を寄せていた。客ではなさそうだ。一人の女は盆を持っている。多分店の女だろう。彼女らは互いに肩を押し合っていたが、私に気づくとそれをやめ、こちらをじっと見た。
 一瞬の内に空気が張り詰めるのがわかった。女達の目に敵意が漲るのを感じ私は大急ぎで前を向いた。
 私は背中に刺さる視線を感じながら、横目でアンドレの様子をうかがった。彼は台に肘を付き、くつろいだ声で男と話をしていた。
「何にする? ここは煮込み料理が美味いんだ」
 アンドレの声に私の意識は背中から前方に向かった。
「今日は鴨をトロトロに煮込んでみたよ」
 台の中の男は鍋の蓋を取り、かき回してみせた。途端に良い匂いが立ち上る。
「まあ、美味しそう」
「じゃあ、これでいいね」
 男はワインだろうか、鍋の中に何かを振り入れるともう一度かき回し満足気に頷いた。私は背を伸ばし台の内側を覗き込んでみた。台所の全てが小さくとも機能的にまとまっている。整然としながらも温かみのある仕事場だった。
 私は頭を回し店の中を眺めてみた。天井は高く黒々としており、窓はよく磨かれ昼下がりの太陽の光を真正面に受けていた。リボンの付いた可愛らしいカーテンが優しく揺れている。店の調度は全て磨きこまれたような艶のある木でできていて、あちこちに作られた小さな棚には陶器でできた人形や珍しい形の蝋燭受けが飾ってあった。天井から吊り下がるシャンデリアはお屋敷の物とは違っていたが、とても美しいものだった。
 珍しそうに店を見渡す私の前に小さな音を立てて何かが置かれた。男が銀の足の付いた繊細なガラス器をそっと差し出している。縁が少しだけ持ち上がった平たいガラス皿の上にはうっすらと色のついたゼリーが乗っていた。ふるふると揺れるゼリーは皿と同じ平たい形をしていて、中に一枚の薔薇の花びらを封じ込めていた。
 顔を上げる私に男が照れたように言った。
「薔薇のゼリーだよ」
 私は戸惑い隣を見た。アンドレは首を微かに傾け笑っていた。男は勧めるように華奢な銀の足を押し出してくる。
「これは宮廷で出される物と同じ方法で作ったんだ」
 男は真面目くさった様子で重々しく言った。
「私に‥?」
 私は困り、もう一度アンドレを見た。彼は目に柔らかい微笑みうかべ、頷いた。
 私はおずおずとスプーン持ちゼリーをすくい口に入れてみた。甘く良い香りが口の中に広がった。舌の上でまたたく間に溶けたゼリーは薔薇の香りを残しながら喉に下りていく。私は目を閉じ、ため息をついた。こんなに美しく美味しいものがこの世にあるなんて‥ 今まで思いもしなかった。
「どうだね。美味しいかい?」
 問い掛ける天才料理人の声に私は頷いた。私は二口めをすくい口に入れた。なんて甘く美味しいのだろう。薔薇のゼリーは軽やかな妖精のようで、舌だけでなく心までをも満たしていく。
 その時、不意に肩を抱かれ、耳に何かが囁やかれた。 
 彼は食べ物で釣る癖があるから気をつけた方がいい。そういった意味だったと思う。だが囁きの内容よりも、耳に感じた感触に私はその場に崩れ落ちそうになった。
 アンドレの声。注がれた彼の息。それは彼の唇や舌を予感させた。
 戯れの一言だった。その一言から体中に広がっていく圧倒的な快感。私は目を閉じその感覚に身を委ねた。一瞬の感覚からその先を想像し、私は胸の鼓動を早くした。顔が火照る。脈が速い。指先まで脈打っていくようだ。
 私はアンドレの唇を、さらには舌を想像から記憶の域に押し上げようとした。その甘い作業の最中に、突然それを打ち砕く無粋な衝撃が私を襲った。
「飲み物はいかが?」
 体の横に何かが割り込んでくるのを感じた。私は思わず目を開けた。目の前に分厚い胴体のグラスが激しい音と共に置かれた。グラスの中身は波打ち半分以上が台の上にこぼれ出た。グラスは下品な色に塗られた爪が握っていた。
「アンドレ、久しぶりね。どうして今まで来てくれなかったの?」
 媚を含んだ禍々しい声は私の甘美な陶酔を彼方に押しやった。肩先に感じるうっとうしい物体。私は顔を横に向けた。
 すぐ側に女の背中が見えた。肩を露出させた派手な色の服に安香水が臭う。結い上げた髪は後れ毛を幾筋もほつれさせ首にまとわりついている。
 女は私とアンドレに間に割り込んでくると、止まり木の椅子越しにだらしなく台にもたれかかった。女の肘が水溜りの中のグラスを私の方に押してくる。女は私を見ようとはせず体をくねらせ、しなをつくり、アンドレに甘えるような声で話し掛けた。
「みんな待っていたのよ」
 アンドレの肩に置かれた女の手は遠慮なく伸びてゆき彼の黒髪に触れる。
「ここのところ忙しくてね」
 アンドレの声は無礼な仕草に関知する様子もなく爽やかだった。だが女の背が邪魔でアンドレの表情が見えない。それは私を苛つかせる。
「ねえ、今度はいつ来てくれるの?」
 女は台の上に付いていた肘をどかし、両手で肘を抱きながらアンドレの方に屈み込んだ。
「そうだな‥」
 女の背の向こうでアンドレが考えるような声を出した。
「ジャクリーヌ」
 厨房の中にいる男が皿に盛った料理を差し出した。女はそれを受け取るとアンドレの前に置いた。グラスを置いた時とは比べ物にならないくらい優しげな動作だった。男が次の皿を差し出す。女は気づかないかのようにアンドレの方ばかり見ている。
 もう一度男に呼ばれ、女は嫌そうに皿を私の前に置いた。皿を置きながら私を見た女の目。一瞬にして相手を値踏みする鋭い視線だった。私も負けずに睨み返してやった。化粧の濃い、下品でふしだらな印象の女だった。だが美しかった。
「来月、来るよ。皆で」
 アンドレの声に女は甲高い叫び声を上げ、両手を頬にやった。
「嬉しいわ! 待っているわね! 酔いつぶれても大丈夫なように部屋も空けておくわ」
 女は私を振り向くと勝ち誇ったように笑ってみせた。私は知らん顔をしてスプーンを手に取り、煮込まれた鴨肉を口に運んだ。肉は柔らかく溶けるようだった。きっと素晴らしい味わい違いないのだろう。だが私は女が気になって店主自慢の料理を堪能することができなかった。
 女は私が知らない男や女の名前を出し、彼がどうしたの、彼女はこうだの、アンドレに話しかけている。先ほどと同じように台にしなだれかかり、時々アンドレの髪に手をやり、休む間もなくしゃべっている。私はせっかくの鴨料理を女の背中を見ながら食べる羽目になった。アンドレが銀器を使う音が聞こえる。女の声に頷く様子や時々笑い声も聞こえた。この女とアンドレはどの位親しいのだろう。私は少し不安になった。
 食べ終わる頃を見計い店主がカフェを差し出しす。一つは女が受け取り、もう一つは店主が直接私に手渡してくれた。
 食事が終ったというのに女はまだ去ろうとはしない。カフェの香りが女の安香水の臭いで台無しになるのを忌々しく思いながら、私はもう一度女の背中を見た。女はアンドレに話しかけながら始終からだを動かしていた。不自然にも見える落ち着きのない動作。だがそれには意味があった。
 椅子に座るアンドレと、立っている女。アンドレの顔の位置に女の胸がくる。女は胸を突き出してみたかと思うと屈んだような姿勢をとる。両腕を伸ばし、からだの前で交差させ、肩を揺する。それらの動作は全て目的を一つにしていた。
 女は、胸の谷間を、より深くしながら、それをアンドレに見せているのだ!
 怒りで頭の中が熱くなった。私はテーブルの上のグラスを見た。水溜りの中にある無骨なグラス。これを掴み、残った中身を女の背にひっかけてやったらどれほどすっきりするだろう。

 無礼な店の女にめまいがするほど怒りを感じたが、アンドレと一緒に屋敷に戻ると女のことは忘れてしまった。彼女がどれほど自分の谷間に自信があろうが、うるさく彼に付きまとって話し掛けようが、アンドレがあんな女を相手にするはずは無いのだ。それは誰が見たって明らかだ。
 彼に相応しいのは‥ 私はそれを考えるいつも幸せな気分になった。アンドレに相応しいのは、もっと品のある女性。可憐で優しさに満ち、よく気の付く女性。健康で、清らかで、明るい女性。彼はそういう女を選ぶに決まっている。そうに決まっている。



 私は相変わらず台所の下働きだった。でもそんなことは一つも苦にならなかった。コックは明日の仕込みをし、台所を預かる女達は客や旦那さま達が使う食器やグラスを洗う。私は使用人が使った皿を洗う。あらかたの片付けが終ると彼らは年の多い者から、屋敷に長く勤める者から、上っていく。
 客があったり特別な事があると仕事はどうしても多くなる。上から順繰りに回される雑用は当然のように私の所に溜まってくる。
 客があると私は夜半過ぎまで膨大な量の銀器を磨かなければならなかった。私は小さな蝋燭を灯した台所で一人作業をする。孤独な時間。だが私はこの時間が好きだった。何故なら火の元と戸締りを見に来る人が私を手伝ってくれるからだ。
「まだやっているのか」
 真っ暗な台所の壁が微かに明るくなり人影が映る。
「手伝おう」
 彼は持っていた蝋燭立てを積み上げられた銀器の側に置くと、私の向かいに腰を下ろした。
「悪いわ」
 私は沈んだ声で低く呟く。アンドレはリネンを持ち銀器を取る。私の胸に幸せの灯がともる。
 暗い台所の片隅でアンドレと向かい合いながら手を動かす。小さな蝋燭の明かりを受けてアンドレの黒い瞳は昼間とは違って見える。私だけに与えられた特別の時間。このひと時の為ならどんな残り仕事でも引き受けようというものだ。
 彼は慣れた手つきで素早く銀器を磨きながら、私に田舎の事を聞いてくれた。そして彼の育った故郷の話をしてくれた。彼の話を聞いているとあまりにも優しくて、懐かしい香りがして、時々泣きたくなった。



 今日は朝から騒がしかった。男達がどことなく浮かれている。
「今日はマルコのおごりの日だ」
「酒の飲み方と女の口説き方を教えてやる」
「夜が楽しみだな」
 厩で男達が言い合うのを聞いた。マルコとは私より少し前にジャルジェ家に雇われた少年だった。厩番が担当でアンドレが付きっきりで仕事を教え、世話をしている。
 私が通りかかると男たちは一斉に口をつぐんだ。男たちの浮かれようの意味がわからなかったが、夜になるとそれははっきりと姿を現わした。
 仕事を済ませた男たちが出かける支度をしている。夜遅くにも関わらず次々と男達が裏口に集まりだした。一体彼らはどこにいくのだろう。私は一箇所に男達が集まり、どこからか調達した粗末な馬車に乗り込んでいくのを見ていた。こんな夜に総出でしなければならない用があるのだろうか。奇妙な光景だった。
 その時私は男達の興奮した囁き声の中から一つの言葉を聞き取った。
 「ダルジャンの店」 知っている。アンドレと一緒に食事に行ったあの店だ。彼らはこれからそこに行くのだろうか。そういえば…
『来月、皆を連れて行く』
 確かアンドレはそう言った。そして女が言った。
『酔いつぶれてもいいように部屋を用意しておく』
 不安が胸に広がると同時にあの時感じた怒りが込み上げてきた。私は後ろを振り返った。外出の支度をしたアンドレが目に入った。
 使用人達が暇をもらったり、気晴らしに外出することは今までにもあった。しかし今日のように皆が一斉に出かけることは一度だってなかった。おかしい。
 今日は旦那さまもオスカルさまも屋敷にいらっしゃる。使用人達が揃ってどこかに出かけようとするのをお許しになるのだろうか。私は焦り、辺りを見回した。
 彼らを、アンドレを、引き止めて欲しい。それを出来る人はこの人しかいない。旦那さまより、オスカルさまより厳しいこの人!
 ホールに通じる廊下から彼女がかけてきた。異変を察知したに違いない。良かった。彼女はいつもしっかりしていて、頼もしかった。マロン・グラッセさんはアンドレにかけ寄り、彼の腕を掴むと厳しく言った。
「アンドレ、マルコはまだ子供だ。彼だけはちゃんと連れ帰っておくれよ」
 私は目を疑った。ジャルジェ家に忠誠を誓うマロン・グラッセとは思えない言動だ。一体今夜はどうしたというのだろう!
 マロン・グラッセが駄目なら… 私の目は次の人物を捕らえにかかった。少しの粗相も許さない、厳しいだけが取り得のオスカルさま付きの侍女! だが彼女までが放蕩息子を見遣る母親のような目をして彼らを見送っていた。
 二台の馬車が出ていった。後に残ったのはあきらめ悟ったように笑う女達と、留守番役として残った男と、酒は飲めないし盛り場は嫌いな初老の執事だけだった。

 微かな物音で目が覚めた。馬車の音がする。アンドレが帰ってきたのだろうか。私は蝋燭をつけると急いでガウンを羽織り階段を降りていった。
 二階の廊下に佇んでいるとホールにマルコを背負ったジャコブとアンドレが姿を現した。私はほっとしたが、なぜか悲しくなった。マルコはジャコブの背中でぐったりしている。
「ジャコブ、代わろう」
 アンドレがマルコの方に手を差し出しジャコブに言う。小声だがホールが静まり返っているので良く聞こえた。
「いや、大丈夫です。このまま運びます」
 ジャコブがマルコを背負ったまま階段を上がってくる。帰ってきたのは彼らだけだろうか。私は二階の廊下に立ったまま三人を見ていた。
 アンドレは先に立ちジャコブの足元を照らすように階段を上ってくる。
「アリーヌ!」
 アンドレが私に気がつき声を出した。
「起こしてしまったか。悪かった」
 彼の持つ蝋燭の灯が揺れた。アンドレの後からマルコを背負ったジャコブが登ってきた。彼は私に気づくと驚いたように目をまるくしたが、そのまま使用人の階である三階に上っていった。アンドレも後について階段を登りかけたが、急に振り向いて私に問うた。
「アリーヌ、どうしたそんな顔をして‥ 心配事でもあるのか?」


 朝には男達は屋敷に戻っていた。多少眠そうだったり動作が鈍かったりする者もいたが屋敷には普段と変わらぬ活気が戻っていた。マルコだけは午前中、伏せていたようだが午後からは起き出してきた。
 昨夜の出来事は何だったのだろう。私は不思議な気分で、何事もなく働く男達を見ていた。昨夜の彼らは気の合った者同士が連れ立って行くという様子ではなかった。だからといって義務や使命で出かけたのでもない。
 私はアンドレを探そうと厩を覗きに行ったがそこに彼はいなかった。数人の男達に混じってマルコが古い干草を掻き出しているのが見えた。彼は気分が悪かったはずだが、すっかり元気になったようで、少年らしい瞳を輝かせ男達と愉快そうにしゃべりあっていた。その姿は以前よりも屋敷の中に溶け込んでいた。気のせいか一回り逞しくなり、男ぶりも上ったようだ。彼からはジェルジェ家の一員としての自覚と誇りが滲み出ていた。


「ダルジャンの店」での事を誰かに聞くこともできず日は流れた。アンドレは屋敷にいる昼間の多くの時間をマルコに割いていた。


 私はいつものように台所で一人片付けものをしていた。ここ何日か奥向きは非常に暇だった。オスカルさまがお仕事で何日も宮廷に詰めていらっしゃるからだ。旦那さまも時々宮廷にお泊りになる。当然お客はない。皆は早く仕事が終り部屋に引き上げられるのを喜んでいるが、私は忙しい方が好きだ。オスカルさまがいて、旦那さまがいて、アンドレを呼ぶオスカルさまの声が聞こえて… 
 最近はアンドレと顔を合わせる事もない。彼はオスカルさまの用事で宮廷に行くことが多かったし、屋敷にいる時はマルコに付いていた。
 私ももう一人前だった。お屋敷の右も左もわからなかった時とは違う。手際が悪くて仕事が終らないことも無くなった。私はジャルジェ家での日々を思い返していた。
 由緒ある伯爵家で働かせてもらえることになった時の喜び、初めてオスカルさまにお会いした時の驚き、先輩侍女の厳しい叱責に涙したこともあった。奥様の優しさに触れ、マロン・グラッセさんの知恵に感心した。
 アンドレとワイン貯蔵庫で親しく話をした。マロン・グラッセさんを抜かせば最初に話し掛けてくれたのは彼だった。彼の姿を探して厩や地下室を覗きに行った。アンドレは温室で珍しい植物を教えてくれ、晩餐のテーブルを整えながらワインやシャンパンの事を教えてくれた。
 彼の仕事を手伝い、彼が私を手伝ってくれた。オスカルさまに憧れ、アンドレを好きになった。お屋敷での毎日は私の中に掛け替えの無いものを落としていく。
「アンドレ…」
 小さく口の中で呟き、過ぎてきた日々を振り返るように、私は振り返った。振り返って私は飛び上がった! アンドレが戸口に立っていたからだ。彼は入り口の壁に寄りかかり、腕を組み、こちらを見ていた。これはアンドレが何かを待っている時の姿勢だった。彼はいつからそこに立っていたのだろう。呟く声を聞かれはしなかっただろうか。
「アリーヌ」
 アンドレは壁から身体を起こすと腕を解き、私の方にやってきた。
 彼の様子はいつものように気さくだったが、どこか違って見えた。アンドレは用事で来たのでは無い。彼は何か話があって来た。私は直感でそれを感じ取った。
「少しいいかな」
 彼は私から目を離すと素早く私の後ろに目をやった。私の仕事が終ったのを確認しているのだ。やっぱり… 彼は何か大事なことを告げに来たのだ。
 彼は躊躇うような素振りを見せていたが、手に持っていたものを私の前に差し出した。
「これをアリーヌに…」
 小さな白い箱だった。私は手を前掛けで拭きながらそこに手を伸ばしかけ、とめた。彼の手に乗っている物があまりにも美しかったからだ。私は意味がわからずにアンドレを見た。彼は笑っていた。
「‥私に?」
「そう、アリーヌに」
 彼は同じ事を言うとさらに手を差し出した。私は箱を受け取った。箱は真っ白で光沢があった。蓋の部分には金色で文字と花の冠を被った羽のある妖精の絵が描かれていた。
 何て綺麗… 私は手にした箱をうっとりと見つめた。こんな美しい物を手にするのは初めてだった。箱の中には白いケースが入っていて、それを開けて私はさらに驚いた。
 蓋にあったのと同じ妖精が大きな花束を抱えている。花の束は妖精の身の丈ほどもあり妖精は花の茎を両手で抱くように抱えていた。花も妖精も銀で出来ていた。その見事な細工は息を呑むほど繊細だった。
 私はそれを取り出してみた。花の中心が輝いている。そこには宝石がいくつも嵌め込まれていた。妖精の小さな冠も輝く粒で飾られている。裏には服に留められるようにピンが付いていた。
「アンドレ…」
 私の声はかすれていた。これを私に…? 私は混乱した。アンドレは頷くと私に顔を近づけ愛らしい妖精を見た。
「綺麗だ」
 アンドレは微笑んだ。私は妖精を薄い絹のクッションを敷いたケースに戻した。
「今日はアリーヌがこの屋敷にきて一年になる。その記念だ」
 彼の微笑みはこれ以上ないほどに優しかった。
「記念…?」
 装身具や宝石には縁のない私でさえ、これが素晴らしく高価なものであることは分かった。それを私に…?
「オスカルからだ」
 彼は言った。
「本当はオスカルから渡さなければならないのだが、今オスカルはスペイン国王の訪問で宮廷を離れられない。だから俺が言付かってきた」
 彼の笑みはどこまでも優しかった。アンドレは私の肩に手をかけると私をそこにあった椅子に座らせ自分も隣の椅子に座った。
「ジャルジェ家では一年勤めてくれた者にオスカルから感謝の意味を込めて贈り物をしている。女には身に付ける物。この家に勤める女達は皆持っている。そして男には‥ 皆が一晩中飲んで食べられるだけの金と時間だ。マルコを連れて帰った夜に廊下で会ったね。あの夜がそうだ」
 そう言って彼は笑った。
 台所に灯した蝋燭は幾つか燃え尽き、辺りは暗くなっていた。その僅かな明かりに照らされたアンドレの瞳が優しかった。
「これも、オスカルからだ」
 アンドレは私を抱き寄せると私の額の髪をかき分けそこにそっと唇を付けた。
「これからもよろしく… アリーヌ」



Fin








































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