2002 11/18




「剣を売らないか?」
 肩に重みを感じて俺は振り向いた。アランが俺の肩に腕をかけ見ていた。
「剣を?」
「ああ、ちょっといいルートがあってな」
「剣なんか売ったりして…」
 突然持ちかけられた話に俺は口ごもった。
「それならお前はいいよ」
 アランは素っ気なく俺に背を向けた。
「ま、待てよ。どういう事だ?」
 俺の声にアランは振り返った。そして俺の首元をつかむと厳しい目をして言った。
「嫌ならいいんだよ。だけどバレたらお前のせいだからな」
「分かったよアラン、手を離せ」
 アランは突き放すように手を離した。俺は苦しくて少し咳をした。
「でも売るってどうやって」
「ちょっとしたルートを見つけてね。盗品扱っている親父なんだが盗品だけあって出所に関しては口が堅い。ま、信用出来る筋さ」
「大丈夫か」
「お前が金が要るだろうと思って聞いてやっているんだぞ。どうするんだよ」
「わかったよ。俺とお前だけか?」
「ジャンとラサールも売るってよ。あいつらも大変なんだよ。それじゃ貸せよ」
 アランは俺の剣に手をかけた。
「もう持っていくのか?」
「ああ、早い方がいいだろう」
「なあ、アラン、バレたりしないだろうな」
「大丈夫だって。あんな女隊長騙すなんざちょろいもんよ」
「バレたら大変な事になるぞ」
「お前がビクついて余計な事言わなければ大丈夫だよ。お前が一番危ないのだから気をつけろ」
 アランは俺の胸を一突き突くと剣を持って素知らぬ顔で行ってしまった。

 剣を売る――
 それが兵士にとってどんなことか判るつもりだ。国家から支給された剣を売るという事は横領罪か悪くすれば国家への反逆罪でどんな処分に処されるわかったものじゃない。今まで剣を売った奴など聞いたことないからな。しかもこういう事は上官の胸三寸で決まるのが普通だ。
 まあいいか。アランを信用しよう。しかしあれを売ると一体いくら位になるのだろう。アランが少しでも高く売ってくれるといいのだが。
 金が入ったら… 俺はすでにそちらの方に考えがいっていた。剣を売る危険についてはこれ以上考えない事にした。アランのことだから大丈夫だ。バレたらその時はどうにでもなってやろうじゃないの。牢屋が恐くて剣が売れるかってんだ。

 金が入ったらミシェルに靴を買ってやろう。俺の弟。あいつは父も母もいないのに明るくて、本当に明るくて、元気がいい。近所の悪ガキに親無しっ子とからかわれても「俺には最高の兄ちゃんがいるんだからな、俺の兄ちゃんはフランス衛兵なんだぞ、俺も大きくなったらフランス衛兵に入るんだ」などと言っている。フランス衛兵が偉いかどうかは分からないがミシェルが俺を慕ってくれている事は確かだ。
 俺の母はミシェルを産んで間もなく死んだ。俺が十三の時だった。父もそのあと三年ほどで亡くなった。だからあいつは父の顔も母の顔も覚えていない。知らないのだ。俺はそれを思うだけであいつが不憫でならない。父は母が亡くなった後軍隊に入った。兵隊ではない、雑役だ。そして酷使され、体を壊し、医者にも見せて貰えず死んだ。だからじいちゃんは俺が軍隊に入る事には反対だった。ミシェルは今八歳、じいちゃんと二人で暮らしている。
 俺の給料でミシェルに一足の靴さえ買ってやれないのは情けないがパリの物価高はそれを許してはくれなかった。食べていくだけで精一杯だった。皆どうやって暮らしているのだろう。
 ミシェルには絶対靴がいる。あいつはいつも裸足だから足に怪我をする。そして傷が膿むことも度々だった。パリの街路は汚い。汚物と土埃や馬車の車輪が削り取った石畳の粉が混じり合い真っ黒な汚泥となっている。臭い水が絶えず流れる日の差さない狭い路地。そんな所でミシェル達は遊ぶ。貴族の馬車が通り泥をひっかけて行く。彼らは決して馬車から降りようとはしない。真っ白な靴下やドレスの裾を汚すのが嫌なのだ。俺やミシェル達をまるで汚いものでも見るような顔をして通り過ぎる。
 早く靴を買って帰りたい。一時ミシェルはガラスで切った足の傷がひどく傷んで熱を出した事があった。足は腫れ上がり紫色に変色していた。俺達はなけなしの金をはたいて医者を呼んだが医者は熱が下がらないようなら足を切断する事も止むを得ないとしか言わなかった。全くふざけた医者だった。ミシェルの熱は下がらなかった。ミシェルは隣のクリスティーヌが呼んできてくれた医術の心得のある男によって救われた。
 彼はミシェルの膝下と腿を縛り上げるとナイフで傷口を切り裂いた。黄色い膿とどす黒い血がたくさん出た。ミシェルは泣くこともせず熱に潤んだ目で俺を見ただけだった。彼は薬だろうか暗緑色でどろりとしたものを茶色の瓶からへらですくい取ると布に広げ傷に当て丁寧に縛ってくれた。そして茶色の瓶と一緒に強い匂いのする飲み薬もくれた。俺は毎日ミシェルの傷に当てた布を教えられた通りに取り替えた。その後三日ほどでミシェルの熱は下がった。俺は熱が下がり眠り続けるミシェルの側にずっといた。
 医術の心得のある男はミシェルの熱が下がった後も薬をくれた。しばらく飲み続けるようにと言った。そんな彼に俺達は礼をいうだけで僅かな支払いも出来なかった。彼はミシェルが大きくなったら払ってもらうと言って笑った。彼の名前はクロード・レイニ。クリスティーヌの知り合いで長いこと船に乗っていたという不思議な男だった。彼はミシェルは自分で怪我と病気を克服したと言った。生命力のある子だと。本当にクロードには感謝している。

 俺だって軍隊になんか入りたくはなかったが仕事がないんじゃ仕方がない。父が死んでから俺はそれこそ色々な仕事をした。俺が働くしかなかった。仕事はあるだけでありがたかった。俺はどんなにきつい仕事をしてもミシェルが赤ん坊の頃の苦労を思えば耐えられた。
 母が死んだら誰もミシェルに乳をやってくれる人がいなかった。母の死を悲しんでいる暇はなかった。俺はミシェルが泣くたびにミシェルを抱いて裏の家へ走った。そこにはやはり赤ん坊を産んだばかりのおかみさんが住んでいてミシェルにも乳をくれた。彼女がいなければミシェルは生きていなかったかもしれない。彼女はミシェルと俺を可哀想に思ってくれたのか嫌な顔もせずに乳をくれた。でもそう毎回ともいかずミシェルはパンをとかしたスープや潰した豆などを食べさせられしょっちゅう腹をこわしていた。だから今は気が楽だ。俺さえ働けばいいのだから。
 それに軍隊はなかなか便利な所でもあった。俺達は自分達で賄いの仕事もしている。専属のコックがいるが俺達は当番制でそれを手伝っている。当番の時は食料調達のまたとないチャンスだった。コックの目を盗んで食料を手に入れる。ちょっとしたコツがあるが上手くやればわからない。俺達の夕飯が減ることになるが背に腹はかえられない。俺達はそれらや自分達の食事から取り分けた物をとっておいて面会日に家族に渡していた。俺はミシェルに会いたかったしじいちゃんの事も心配だったがミシェルも小さいしじいちゃんも年だしでめったに会えなかった。代わりにディアンヌが俺の分を持っていってくれた。アランの妹だ。ディアンヌは面会日にはいつも来ていて俺達の使いもしてくれた。食料をじいちゃんに渡してくれじいちゃんから手紙を預かってきてくれた。
 可愛いなディアンヌは。ディアンヌは俺達にとって憧れであり、妹であり、母親だった。こんな事を言うとアランに怒られるが妹の前でかっこつけているアランが時々子供みたいに見えた。不思議だな、女って。
 女といえば今度の隊長が女ときたもんだ。俺達が新任の挨拶を失敬しただけで兵営にまで乗り込んで来た。そして次の日からは新兵並の訓練が始まった。全く隊長という者はもっと部下を信用して司令官室でゆっくりしていてもらわなければ困る。やりづらいったらありゃしない。しかもこの女隊長に片目の従卒がくっついてきた。こいつは当番兵ではない、専属だ。女隊長の従僕らしい。俺達のように寮に住まないで隊長と一緒に帰る。ふん、いいご身分だよ。


 剣を売った事がバレる前に俺達は示し合わせてあの女隊長を追い出す事に決めていた。俺達が剣を持っていないことを見咎められた時。それが合図だった。その時にやる。下手をすれば俺達全員の身が危なくなるが女の隊長を面白く思っていない者は他にもいた。アランが賛同者をまとめ意見を聞いた。あんな女隊長よりアランの方がよほどリーダーとしての適性がある。俺達はアランを中心にまとまっているんだ。
 その時が来た。剣は無くしたと言い命令を聞かず銃を向けてやった。命がけのクーデターだった。隊長が辞めるか俺達が断罪されるか。幸いフランス衛兵は処分を恐れるあまり子飼いのように従順な兵士ばかりではなかった。
 罷免を要求する俺達に隊長は剣で勝負をしようと言い出した。これで片が付くはずだった。アランが負ける訳がないのだ。でもあいつはアランを串刺しにしやがった。本当に刺し通した訳ではなかったがあれは酷かった。女だと思ってアランが油断したのか。いや違う。俺達の命がかかっているような時にアランがそんなまねする訳がない。アランが本気なら隊長も本気だった。この勝負は鬼気迫るものがあった。見た事もない真剣勝負だった。

 負けたアランを心配して俺は衛生室を見舞った。アランのことだから女に負けたとあっては気落ちしているだろう。でも俺にはアランに言っておきたい事があった。
 もしかしたら俺達は何か思い違いをしているのかもしれない。お優しい女隊長、ふざけた人選だと思っていたがこの隊長は降等処分にあって近衛隊を追い出されたというじゃないか。近衛隊には腕っこきの女隊長がいるというもっぱらの評判だった。もちろん俺達は軍隊に女がいるなどという噂は端から信じていなかった。でもこれがその女隊長ではないのか。本当に居たのだ。こんな綺麗な顔をして一体何をやらかしたのだ。
 俺の心配をアランは衛生室のベッドの上で聞くと声を上げて笑い出した。
「フランソワ、お前は本当にかわいいな。あの隊長が恐くなったか。今回はちょっと油断したが今度はそうはいかないぞ」
「アラン、そんな事じゃないんだ。俺達こんな事やらかして処分もなしなんだぜ。変だと思わないか。何故あの隊長は俺達を処分しないんだ」
 そうだった。反抗に次ぐ反抗をしても一切の処分がなかった。俺達はそれを甘っちょろいと思っていたが違うんじゃないか。何かある。隊長は将軍の娘だし権限としても充分なものを持っている。出来るのにしないとは何かある。何の陰謀だ?
「心配するな、フランソワ」
 アランは俺の肩をたたいた。
「だがお前のお陰でなぜあの隊長が降等処分にされたかわかったぞ」
「本当か? 何故?」
「まあ、見てろ。今度こそ本当に追い出してやる」

 夜勤の日だった。隊長は片目の従卒と律儀に夜勤にまでお付き合いくださった。変わった隊長だよ。従卒が席を外した隙にアランが俺達に耳打ちした。隊長を拉致してやっちまおうと。
「アラン」
 さすがの俺達もそこまで考えたことはなかった。
「馬鹿やろう。何怖気づいているんだよ。やるっていっても本気じゃない。いいか、あの隊長が何故近衛を追い出されたか考えてみろ」
「何故だ?」
「わからないのか? あれだけの美貌だ。軍規が乱れるぜ。大方麗しの近衛隊員とあってはならない事でもあったんだろうよ」
「本当か? アラン」
「他に何が考えられるっていうんだよ」
 アランが俺の頭を叩いた。
「…」
「だから今度も同じ理由でご退散願おうという訳さ。まあ隊長の出方によっては脅しだけでは済まないかもしれんがな」

 食堂の椅子に隊長を縛りつけアランが言う。
「自分が女だという事を体で思い知らせてやる」「衛兵隊から出て行け」
 隊長は微動だにせず俺達など趣味じゃないと言い放った。俺はアランと隊長を見ていて胸が痛くなった。今度こそ後に引けない。隊長も引かない。それからどうなる。どうするアラン。俺は奥歯で苦い気持ちを噛み潰した。俺達は卑怯な手を使っている。嫌だった。俺は嫌だった。女をこんなふうに扱うのはたまらなく嫌だった。
 扉の壊れる音と銃声でこの出来事にはケリがついた。隊長の従卒が乗り込んできて銃をぶっぱなしたのだ。あいつはアランの顔ぎりぎりに弾を撃ちこんできた。もし本当に隊長に何かあったらあいつはためらいも無くアランを撃ち殺していただろう。おっかないやつだ。俺達はどんなに腹に据えかねる事があっても兵営内で銃をぶっぱなすなど絶対に無い。
 銃声を聞きつけてダグー大佐や非番の連中まで起きてきたが今度も処分はなしだった。さすがのアランも変だと思ったのか処分しろと言った。しかし隊長はきっぱりと言いきった。
「処分はせんっ!」


 アランから金を貰った。剣が売れたのだ。
「結構いい値で買ってくれたぜ。また頼むだとよ」
 ジャンもラサールも目を輝かせている。よかった。これでミシェルに靴が買ってやれる。もうすぐ休みも取れる。その時に持っていってやろう。

 俺は靴の包みを抱えると家に急いだ。家に帰るのは久しぶりだ。ミシェルは大きくなっただろうか。家への途中教会の前の道でミシェルを見つけた。ミシェルは棒切れで地面に何か書いていた。俺を見るとミシェルは犬ころのようにとんで来た。
「兄ちゃん、兄ちゃん、帰ってきたんだね、嬉しいな、帰ってきたんだね」
「ああ、ミシェル、元気だったか」
「うん」
 ミシェルが腕にぶら下がってきた。可愛い俺の弟。

 家への途中何人かの子供達とすれ違った。
「あ、親無しっ子だ」
 その中の一番大きな奴がそう言うのが聞こえた。俺が振り向くと同時にミシェルが言った。
「俺の兄ちゃんだよ。見ろよ、フランス衛兵の軍服だぞ。お前達が束になったって叶う相手じゃないんだよ。あんまりうるさいこと言うと今度大砲持ってきてもらうぞ」
 そんな事を言いながらもミシェルは嬉しそうだった。
「ピストルなら持っているぞ」
 俺は軍服の内側に手を入れた。
「あ、いや、俺らは何も」
 後ずさりするガキに俺は歩み寄った。
「何て言ったか聞こえなかった。もう一度言ってみろ」
 彼らは俺の軍服の胸のあたりを見ながら尚もあとずさった。
「お前か、目障りなガキというのは」
 軍服の内側に手を入れたままボス格の奴に眼をつけてやった。彼らは逃げ出した。
「今度お前らの家ふっとばしにいくからな」
 逃げて行く彼らの背中にミシェルが言った。笑い声で見送ってやった。
「凄いな、兄ちゃん、ピストル見せて」
 目を輝かせてミシェルが言う。奴らが居なくなったのを見届けて俺は手を抜いた。
「今日は持っていなかったんだ」
 驚いたような顔をして、そして笑うミシェルに俺は言った。
「でもピストルよりもっといい物を持ってきてやったぞ。早く帰ろう」

 新しい靴を見せるとミシェルは声もなくそれを見つめそれが自分の物だと分かると驚いたように俺を見上げた。全くおかしなやつだ。お前以外に誰がこの靴を履くというのだ。
「俺の? 兄ちゃん俺に買ってきてくれたの?」
 ミシェルはそれをまるで壊れ物でも扱うように手に取った。
「ああ、そうさ、履いてみろ」
 それでもミシェルは嬉しそうに生まれて初めての靴を履いた。ミシェルの足はあの時の傷が原因で左右の大きさが少し違う。傷ついた右足は今でも膨らんだようになっている。可愛い小さな足だったのに。かわいそうな事をした。もっと早く買ってやればよかった。
「少し大きかったかな」
 大きさを確かめる俺にじいちゃんが言った。
「少し大きいくらいがいい」
「そこに立ってみろ」
 ミシェルは壁の前に立った。
「何だか背が高くなったみたいだよ、兄ちゃん」
「なかなかいいぞ、ミシェル、似合っている」
 ミシェルは恥ずかしそうに笑った。じいちゃんが湯気の立った鍋を運んできた。
「ありがとう、フランソワ。大事にしろよ、ミシェル。誰かに取られたりしないようにな」
 心配症だな、じいちゃんは。
「足に履いている物どうやって取られるんだよ」
 俺は笑った。ミシェルも言った。
「大丈夫さ、じいちゃん。俺はこの辺で一番足が速いんだ。誰かに取られたりなんかするもんか。トロイ奴と一緒にするな」
 久しぶりの家での食事だ。ちゃんと実の入ったスープに豆とパン。俺の為に奮発してくれたのに違いない。
「今日はすごいご馳走だね、じいちゃん」
 ミシェルが言う。やっぱりな。何とかしてミシェルにもじいちゃんにももっと食べさせてやりたい。

 剣を売ったり隊の食料をごまかして手に入れたりしているけれど、俺だってフランス衛兵の一員だ。フランスや大切な人達を守る為なら命がけで戦うさ。その位の覚悟はある。王宮や国王の為に働く気などさらさらないがミシェルやディアンヌの為なら命を懸けてもかまわない。ミシェルが俺を誇りに思ってくれているのだ。それに恥じない働きがしたい。
 ミシェルはもう寝入ってしまった。小さい頃と変わらない可愛い寝顔だ。俺と一緒に寝ると言ってきかなかった。俺はミシェルを抱しめた。小さなやせっぽちの体だった。

 楽しい時はすぐに過ぎる。今日は隊へ帰る日だ。ミシェルは俺を送ると言って靴を履いてきた。昨日の夜から今日の事を考えてかミシェルは元気がなかった。
「今度の休暇にはまた帰ってくるさ」
「うん」
「元気だせ」
「大丈夫だよ」
 ミシェル、お前が辛そうだと俺も辛い。俺達は道を歩きながら無言だった。
「ここまででいいよ」
 俺はミシェルに言った。
「教会の所までおくるよ」
 ミシェルは俺の腕をつかんだ。
「じゃあそうしてくれ」

 教会の屋根が見えた。
「ここで…」
「うん」
 俺はミシェルの肩に手を置くと歩き出した。
「兄ちゃん」
 後ろからミシェルが抱きついてきた。
「兄ちゃん、次の角まで」
 しょうがないな。別れるのが辛くなるだけだぞ。俺はミシェルの肩に手をまわすと抱き寄せた。俺だって行かれなくなるじゃないか。
「兄ちゃん、俺、今教会で字を教えてもらっているんだよ」
 ミシェルは俺の手を両手で掴むと言った。
「字を?」
「うん、そうさ。神父様の兄妹のシスターが教えてくれるんだ。神の家では皆兄弟なんだよ」
 そう言ってミシェルは地面に字を書いてみせた。そうか俺がここに来た時もミシェルは何か書いていた。字の練習をしていたのか。
「今度は数も教えてくれるって。俺覚えるのが早いって褒められるんだよ」
「そうか、えらいな」
「今度兄ちゃんが帰ってくるまでに俺もっともっと書けるようになっておくよ」
 そうだ、ミシェルに石盤を買ってやろう。ミシェルを学校にもやらなければならないのに不甲斐ない兄だ。許してくれ。
「そうだな、かんばれよ」
「兄ちゃん」
 ミシェルは俺に抱きついて泣いた。いつまでもいつまでも泣いていた。


 アランにまた剣を売らないかともちかけられた時俺はすぐに承知した。新しい剣を支給されてからいく日もたっていない。まずいだろうとは思った。でも俺の頭には石盤があった。
「今度は何と言い訳するのだ」
 俺の質問にアランは笑って答えた。
「また無くしたでいいさ」
 俺は気づくべきだったかもしれない。アランがこう見え透いた事を承知で剣を売ろうとしたこと。金の事もある。でもアランは何かに挑戦したかったのかもしれない。それとも試そうとしたのか。アランがこんなに熱くなるのは珍しかった。いつも上官や貴族や王族に怒りが込み上げる時もアランは覚めた目をして彼らを軽蔑するだけだった。
 アランは何を考えていたのだろう。アランはいつも隊長を見ていた。挑みかかるような目をして。その目は軽蔑などではなかった。もっと深い何かがあった。

「剣をどうした?」
「無くしました」
 アランは堂々と答えた。隊長の怒りや今度こそあり得たかもしれない処分は俺が倒れたことで何処かへいってしまった。
 気分が悪い。目の前が真っ暗になったかと思ったら上も下もわからなくなっていた。俺達は今度も処分がなかった。代わりに全員が健康診断を受けさせられたらしい。俺は衛生室で寝ていたから知らない。俺は衛生室に運ばれてからすぐに気を取り戻した。こんな事はしょっちゅうあったから気にも留めていなかったが俺は軍医の診察を受けた。隊長の命令らしい。貧血で倒れたくらいで軍医の診察とは大層な事だ。俺は隊長命令で今日の訓練と仕事は免除されベットで寝ていた。俺は親父の事を思った。親父もこのくらい大切にされていたら死ぬことはなかったかもしれない。

 今度はアランが俺を見舞ってくれた。
「御大層なことだな。たかが貧血で堂々とサボりとは羨ましいぜ」
「ああ、ゆっくり寝たさ」
「お前のお陰で俺達も健康診断してもらったぜ」
「健康診断?」
「はは、笑っちまう。貴族のお嬢様のやる事は理解できねえ」
「アラン、まさかあれバレたのじゃないか?」
「お前まで心配するな。毎日たらふく食ってる貴族に何が分かる。でもお前が一番ガードが甘いことには変わりないのだから気をつけろ」
「わかった」
「貧血なんてだらしねえぞ。俺なんか訓練ないと体がなまっていけない。暇だからあの従卒からかって遊んでやったよ」
「…」
 片目の従卒、アンドレ・グランディエ。アランは隊長だけでなくアンドレにも執着をみせていた。権力に媚びへつらう腰巾着というのは胸糞が悪いものだが、アンドレはそんな連中とは少し違っているような気がした。
 新隊長と一緒に入隊してきた専属従卒を俺達は警戒していた。明らかに隊長服従のさまは俺達の遣る事成す事筒抜けを意味していた。アランは隊長よりもこの従卒の動向に注意を払うように言った。
 確かにアンドレは食堂で銃をぶっぱなした様に隊長第一だったがそれ以外では俺達のやる事に最初からさしたる関心はないようだった。俺達と特に仲良くしようという素振りも無い代わりに俺達の悪事やサボリを見つけてもそれを隊長や上官に報告する事もなかった。
 俺にはアンドレはそんなに悪いやつだとは思えない。アンドレは平民だし立場は俺達と同じではないか。それを言うとアランは「貴族の家で貴族と同じように育ったやつは貴族と同じだ」と言う。アランも本当は貴族だがこれは言ってはいけない事になっている。確かに俺達みたいに飢えることはないかもしれないがアンドレにはアンドレの悩みもあると思う。回りは自分と違う世界で孤独を感じたりはしないだろうか。日常的に上下のあるところで常に下の位置に置かれるのはどんな気分だろう。
 アランにアンドレの事を言うとアランは髪を逆立てて怒る。アンドレは普段はおとなしく俺達の邪魔をすることもない。怒る理由は見当たらない。貴族の家にいるから貴族と同じか…。アランを必要以上に怒らせたくないから俺は黙る。
 アランは隊長とアンドレが連れ立って歩いている時などずっと目で追って見ていた。それほど警戒することは無いと思うが。
「あいつの名前はヘブライ語で神と剣。二度も無くされたとあってはさぞ頭に来ただろうよ」
 アランは独り言のように言った。
「何だって? アラン」
「何でもない。ゆっくり休め。隊長直々のサボリ命令とはそうないからな」
 アランは何かを考えていた。


 絶対絶命だった。俺達の売った剣が目の前にある。ついにこの時が来た。アランどうする。俺はアランを見た。アランは他人事のような顔をしていた。
 隊長は剣を抜くと俺達を見た。
「酒か賭博か。それともただのこずかい欲しさにか」
 剣を売った後ろめたさが一瞬にして吹き飛んだ。
 ――こずかい欲しさ。
 頭に血が昇ってくるのがわかった。
 ――酒、賭博。
 冗談じゃない! 
 頭の中に充満する自分でも正体の分からない熱いもやの中にミシェルの紫色に腫れ上がった足が見えた。飢えで頬がこけ目を落ち窪ませたじいちゃんの顔が映った。隊長はアランにつかみかかって何か言っていた。俺にだって、俺にだって言いたい事がある!
「後悔なんかしていない。おふくろが一週間暖かいスープとパンにありつけた」
「親父を医者にかける事ができた」
 ジャンが、ラサールが言った。
 そうだ後悔なんかない。ミシェルが生まれて初めての靴を履いて石畳の上を嬉しそうに跳ね回るの俺は見た。それだけで満足だ。どうとでもしてくれ。ただこれだけは言っておく! 酒でも賭博でもましてやこずかいが欲しくてやったんじゃない! 大切な家族がいるんだ、俺達には! 俺が守らなければならない家族がいるんだよ!
「牢獄にぶちこまれたって俺は後悔なんかしねえ!」
 頭の中のもやを吐き出してやった。いい気分だ。ずっとバレやしないかと処分を恐れていた自分が滑稽にさえみえた。そして悟った。俺はずっとこの思いを、踏みつけられ虐げられてきた者のやりきれなさを、何も知らない苦労のかけらもない奴らに叩きつけてやりたかったのだ。俺はその対象としてこの隊長を選び突きつけてやった。俺達が牢獄に入ってやる事がこの隊長を苦しめるような気がして俺は自虐的な気持ちと共に嗜虐的な気分を見つけた。何故そんな事を考えついたのかわからない。俺達は処分の沙汰を待った。
 隊長は放心したように俺達を見つめ目をそらせた。
「今‥わがフランスはかつてないほどの財政危機にひんしている‥ 剣ひとふり銃一挺も無駄には出来ないのだ‥ 以後気をつけてくれ‥」
 彼女を苦しめてやりたいという俺の目的は達成されたようだった。彼女は痛々しいほど悲しげな顔をしていた。
「解散」
 背を向けた隊長の声は震え沈んでいた。

 解散――
 俺達にとっては好都合だがどうなっているのだ? これほどはっきりした証拠がありながらまた処分はなしか。俺の高揚した気分は急速に冷めていった。俺達は助かったのか? でも何となく後味が悪い。俺はアランを見た。アランは隊長が行った方向をただ見つめていた。


 銀の盆にのせた食事を司令官室に運ぶ。今週は食事当番だ。温かい湯気が立ち昇り美味そうな匂いがする。俺達が食事にありつけるのはもう少し先だ。腹が減った。この匂いは空の胃袋を情け容赦なく揺り動かす。
「失礼します」
 司令官室の扉を開ける。隊長はダグー大佐と部屋にいた。
 テーブルの上に盆を置く。
「今週の当番兵はおまえか、フランソワ・アルマン。体のほうはもう大丈夫なのか?」
 体のほう? 問われて意味が分からなかった。からだ… あ、この間倒れたことか。
「は、はい」
 間の抜けた返事をしながら俺は自分の鈍感さを自覚せざる得なかった。
 訓練中の錬兵場でなかったからかもしれない。ここは司令官室でちょうど窓から光が差し込んでいたからかもしれない。淡い光が隊長の髪にまとわりつくように踊っている。抜けるような白い肌。かすかに微笑む口元。何故今まで気がつかなかったのか。隊長は聖母のように優しそうで綺麗だった。俺は惚けたように隊長に見入っていた。俺達の隊長ってこんなだったか。俺達があんなにも反抗して嫌っていた隊長はこの人だったのか。
 自分でさえ忘れていた体のことを気遣ってくれる。口調も柔らかくどこか懐かしい響きをもっていた。何処で聞いた? 俺は焦燥と共に思い出そうとしたが分からなかった。それよりもカップを持つ手、机に添わせた指、ああこの人は女だったのだ。とっくに分かっていながらたった今わかったことに俺は戸惑っていた。
「そうか、今度から私の食事は兵士達と同じものを運んでくれ」
 隊長の言葉に俺はまた返事をしそこなった。隊長に見惚れていたわけではない。いや、それもあったが兵士と同じ食事を運んでくれという意味がつかめなかったのだ。
「聞こえたか? フランソワ・アルマン」
「は、はい」
 畳み掛けられて俺は慌てて返事をした。

 兵士と同じ食事を運んでくれ。また変わった注文だ。何を考えているのかわからない。やはり隊長はいつもの隊長だった。さっき見たのは午後の幻か。いや、違う。きっと俺は隊長があんな美しさを持っている事を認めたくはなかったのだ。わかっていたことなのに…。それを認めてしまうとなんだか悲しいから…。だから無理に気づかない振りをしていたのだ。
 それより簡単そうにみえるこの注文、意外とやっかいだぞ。コックは俺が言ったくらいじゃ多分信用しない。将校用の食事は特別食になっている。食事の格を上げろという注文はあったが兵士と同じものを運べという注文は終ぞなかった。将校の中にはコックの作る特別食が気に入らなくて他から取り寄せたり自分の所のコックに材料込みで作らせたりする者もいた。
 兵士と同じ食事を取っていたら今度は隊長が貧血になってしまう。多分口には合わないと思う。俺は可笑しくて少し笑った。隊長が兵士と同じ物を食べる。可笑しいことだが何となく嬉しかった。


 ブイエ将軍がフランス衛兵を視察に来るらしい。俺達は閲兵式の準備に追われていた。将軍の閲兵式など考えただけでうんざりしてくる。
「おい、フランソワ」
 アランが呼んだ。アランの他にジャンやピエール、ラサール、いつもの第一班がいた。
「今度の閲兵式、将軍と隊長からかってやろうぜ」
「アラン、やめろ」
 俺は止めた。将軍は止めたほうがいい。将軍は隊長とは違う。どうして隊長は処分をしないのか分からないがあまり調子に乗らない方がいい。
「大丈夫さ。怒られるのは俺達じゃない。監督不行届きの隊長さ。隊長が俺達を押さえられないとなればフランス衛兵を下りてもらう事になるかも知れない」
「だけど」
「そんな俺達の思い通りにいくかな」
 ラサールも心配そうだ。
「何も派手な事をしようってんじゃない。ちょっとからかうだけさ」

 将軍の閲兵式だ。俺達は整列して将軍を待った。
 ブイエ将軍が来た。隊長、ダグー大佐を従え将軍の副官達を従え貫禄充分だ。馬も凄い。手入された見事な毛並み。馬に疎い俺にだって分かる。選び抜かれた駿馬だ。俺はアランを見た。どうかおとなしくしていてくれ。今日は止めた方がいい。いつもと雰囲気が違うぞ。さすが将軍だ、威圧する空気が重い。
「捧げー銃!」
 捧げ銃の命が下ってもアランは知らん顔をしていた。俺はジャンを見てピエールを見て同じようにアランに従った。
「アラン・ド・ソワソン、第一班、捧げ銃が聞こえなかったか?!」
 隊長が慌てた声をだした。アランは隊長の方を見ると今気がついたというように銃を持ち直そうとした。
「あらよっ」
 投げやりでいいかげんな手つきで銃を取り落とした。俺も同じように慌てたように銃を持ち直し同じように地面に投げ捨てた。良い事だとは思わなかったがアラン一人にこんな事をさせる訳にはいかない。俺達は皆一緒だ。ジャンもピエールもラサールも同じ様にした。
 地面に落ちた銃は派手な音をたてた。その音にあろうことか選び抜かれた駿馬がいななきを上げて暴れだした。将軍は馬から振り落とされた。
 まずい。まずい事になったじゃないか、アラン。何が派手な事はしないだ。地面に転がった将軍は恐いぞ。アランは笑っていた。俺は驚いたが同時に感心した。さすがうちの班長は凄いや、将軍など恐くはないようだ。俺は地面に転がっている将軍を見て気持ちが良かった。自然に笑みが漏れてくる。権力が無様に這いつくばっている姿はなかなか見ものだった。
「ジャルジェ准将!」
 将軍の怒りはアランの予想通り隊長に向けられた。
「申し訳ありません。私の手落ちでございます」
 隊長は俺達に代わって将軍に謝った。「女に軍隊が務まるわけはない。ジャルジェ将軍の親ばかもほどほどにしてもらいたい」ブイエ将軍の言葉には女である隊長への批判とはっきりとした侮蔑がこもっていた。
「父は父、私は私でございます」
 隊長がきっぱり将軍に向かって言うのを聞いて何故か胸のすく思いがした。
 俺達は将軍から一週間の営倉入りを命じられた。俺は在るべき所にやっと納まった感じがした。別に不服はない。だが隊長は将軍を止めた。
「兵士達には私から厳重な注意をします。どうかそれはお待ちください」
 何なんだ隊長は、どういうつもりだ。俺達は営倉にでも何でも入ってやる。その方が気分いいくらいだ。
 将軍は俺達の態度にますます腹を立て隊長が止めるのもきかず帰ってしまった。閲兵式は取り止めになった。無礼なフランス衛兵に怒り狂ったブイエ将軍は国王陛下に言いつけ隊長は罷免されるのだろうか。
 俺がぼんやり考えていたら突然頬を張る音が聞こえ次の瞬間右頬に痺れるような衝撃を感じた。目の前に火花が散り血の匂いがした。隊長に張られたのだ。隊長はジャン、ラサール、ピエールと次々に張り倒していった。
「なぜわからないのか!!」
 隊長が怒鳴った。俺は口の中に広がる血の味や熱を持って痺れる頬を忘れた。隊長の目に涙が見えたからだ。
「お前達を処分するのなど簡単なことだ。私にはそれだけの権力がある。だが力でお前達を押さえつける事になんの意味がある。お前たちの心まで服従させる事はできないのだ。心は自由だからだ! 皆一人一人がどんな人間でも、人間である限り誰の奴隷にもならない誰の所有物にもならない心の自由を持っている。だから、だからこそお前達を決して権力で押さえつけまいと、処分はするまいと… それが何故わからんのか!」
 隊長は涙を流しながら俺達に何かをわからせようとしていた。
 俺の頭に閃くものがあった。これと同じ事が以前にもあった。あれは… いつだったか。遠い過去が蘇える。
 俺がミシェルと同じ位かもっと小さかったかもしれない。俺が大切にしていた宝物それが母さんに見つかった。ガラス職人の友達の家から少しづつ集めてきた色つきのガラスだった。最初は本当に小さなガラスくずだった。彼は、友達の父は色つきのガラスで様々な細工ものを作っていた。ガラス板を切り取りまるで貼り絵のように一枚の絵を作り出す。その見事な腕に俺は毎日飽きもせず通いつめ様々な色のガラスが織り成す光の乱舞に酔いしれたものだ。
 ガラスくずに混じって大きな色つきの板ガラスが何枚も出てきた。母はどうしたものかと問い詰めた。俺は母の切羽詰ったような問いかけが煩わしく貧乏に嫌気がさしていたこともあり母にくってかかった。
 裕福な子供もいて何一つ持っていない子供もいるのはどうしてだ。何故俺は何もかも我慢させられなければならないのだ。
 母が何と言ったか覚えていない。ただ母が涙を流していた事と「何故わからないの?」と頬をたたかれた事ときつく抱しめられた事だけ覚えている。俺は納得した。その時母の言葉が理解でき理屈が分かったのか記憶は定かではないが母が俺を愛している、他の何ものでもなく俺を心配しているという事は皮膚を通して伝わった。俺も泣いた。母の愛に答えなければならないと胸に刻んだ。あの時抱しめられた母の匂い、忘れていた。
「殴ってすまなかった。もう私には‥私には此処にいる必要などないようだ。諸君の望み通り衛兵隊を辞めよう。新しい隊長が赴任するまでダグー大佐を隊長代理に任命する。よく指揮に従ってくれ」
 隊長が背を向けた。行ってしまう。母さんと同じようにいなくなってしまう。
「隊長、辞めないでください、隊長」
 咄嗟に口をついて出た。アランが何か言ったが聞こえなかった。
 俺だけではなかった。ジャンもピエールもラサールも俺と同じように言った。
「そうです、行かないでください」
「隊長、お願いです! 衛兵隊を辞めないでください。お願いです」
「隊長!」
 隊長は泣いていた。顔をおおい膝をつき声を出すこともはばからず泣いていた。


 俺達は半ば自主的に営倉に入った。営倉の冷たい石の段に座り俺は考えた。何故あんなこと思い出したのか。母さんと隊長、年だって違うし全然似ていないのに。俺は隊長に母の面影を見た事が恥ずかしくてならなかった。でも俺の頭の中だけのことだから誰かに悟られたりはしないはず。俺は頭を上げ回りをみわたした。アランは面白くなさそうに石壁に寄りかかりジャンとピエールとラサールはかたまって何か話していた。
 一体何だってまた母さんと隊長…。俺は一人で考えているだけでも恥ずかしく頭を抱えた。共通のものがあるとしたらそれは女であるということ。俺達は女というだけで隊長の本当の姿を見ようとはしなかった。女か… 女ってどんなものなんだろう。俺達男の性さえ生みだす女って…。
 母や隊長だけではないディアンヌも女だ。女か… 女っていいものなのかな。いいものなんだろうな。俺はアランを見た。アランは女を知っているか? 知っているだろうな。
 きっと女って優しくて暖かいんだろうな。そして懐かしい。何故か涙が出てきた。誰かに見つからないように俺は急いでそれを拭った。
 アランがこらちを見て含み笑いをした。見られたか? 俺は不満そうな顔をしてみせた。きっと俺が営倉にぶち込まれた事を後悔して泣いていると思っているだろう。それも悔しいが隊長に母を重ねて泣いた事がばれるよりはいいか。俺はふてくされた態度でアランを睨みつけた。アランは笑っていた。悔しい。アランの余裕が何故か悔しかった。
 俺はアランから顔をそむけると営倉の高い窓から差し込む光を見つめた。それは窓から真っ直ぐに降りてきて石畳の上を小さく明るく照らしていた。その小さな明かりの中に母や隊長やディアンヌやミシェルに乳をくれたおばさんやクリスティーヌや教会であった女の人や花売りの娘など色々な女の姿が映った。
 恥ずかしながら俺はまだ女を知らない。金だってないしこんな兵舎暮らしで女と知り合える機会などないもんな。でもいつか俺にも可愛い女とめぐり会える、そんな日が来るかもしれない。俺は光の中にまだ見たこともない少女の姿を探した。




Fin





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